電脳文字対話 28(パパはつらいよ)
私:アタァー!!
彼:どうしたどうした? 頭でも打ったか? 文字だけじゃ伝わらないかもしれないから言っておくけど、いわゆる「怪鳥音」だよね?
私:いや、ちょっと前にブルース・リーの『燃えよドラゴン』のリバイバル上映をやっていたんで、観に行ってきたんだよ。
彼:どうだった?
私:なんだかんだいって、ブルース・リーの映画を映画館で観たのは初めてじゃないかな? もちろん迫力満点で素晴らしかったよ。しかも4Kリマスター版ということで、映像の解像度など全体的にクオリティの高いものを観ることができたわけで、満足の内容だったよ。今回あらためて思ったのは、ブルース・リーの凄いところは、アジア人の肉体の敏捷性を世界中に知らしめたところにあるんじゃないかなということ。
とくに際立っていたのは、やっぱり妹の敵(かたき)を討つシーンかな。
彼:あのオハラとの勝負のシーンね。
私:そう。あのシーンの初めにお互い構えあった姿勢から二度もリーが目にもとまらぬ速さでオハラの顔にパンチを入れるシーンもそうだし、大人数を相手に闘うシーンも含めて全体的にブルース・リーの格闘シーンはその敏捷性の凄まじさがとくに印象に残った。
オハラを倒して最後に上に乗っかり、目を見開き悲しそうな顔で表情筋をプルプル震わせる、あのシーンはやはり最高だったよ。知らぬあいだにぼくも表情筋をプルプル震わせていたぐらいさ。
彼:あんたがやる必要はない(笑) まあ、妹の仇を討つシーンだからね、それは感情が入るだろうよ。
私:ところで、ぼくはたまに思うことがあるんだけど、もしも三島由紀夫がブルース・リーの映画を観ていたら、おそらく大ファンになっていただろうと。
彼:は? ブルース・リーの映画の中には、日本人が悪役として出て来るものも何本かあるけど、そうかな? 何を根拠にそう思うんだい?
私:いろんな意味で西欧コンプレックスをもっていた三島は、まず(アジア人であるにもかかわらず)ブルース・リーの彫刻のように美しいその肉体に憧れるはずだし、しかもその肉体は力強くて敏捷性もあり、実践的にも無敵なんだよ、三島由紀夫が憧れないはずはずはない(実際にリーは映画の中だけでなく、喧嘩も相当強かったという証言がある)。
おまけに、顔も男前だし、哲学者としての側面ももっているし、しかも何といっても美しくて強いまま数本の主演映画を残して夭逝しているので、ほぼ三島の男としての願望をすべて叶えた存在であることはまちがいない。こんな神的な存在の前では、国籍なんて関係ないだろう。
彼:…不思議だ、いわれてみればそんな気がしてきたな。『からっ風野郎』の主演俳優と世界のヒーロー、ブルース・リーとのあいだには埋めることのできない溝があるってことか…。
私:そんなに卑下する必要はない、三島は文学の世界では、(若干形容矛盾するかもしれないが)英雄並みの存在なんだから。
彼:たしかにそうだな。
私:映画館を出るとき、まわりを見渡したらやはり中高年が多かったけど、武道やってるらしい若者もけっこういたね。やはり若者のあいだでもブルース・リーの存在は特別なんだろうなと思ったよ。で、そのときぼくにはなぜか、みんな帰路につきながら表情筋をプルプルさせてるように見えたんだよ、不思議なことに。
彼:プルプル見えたのは、思い過ごしだろう、ヤクザ映画を観たあとのルーティン的なやつ(振舞い)じゃあるまいし(笑)
私:三島由紀夫つながりでいうならば、最近、文芸批評家の中村光夫の本を再読しているんだけど、そのなかで、三島由紀夫が晩年の永井荷風のことを「青年のミイラ」みたいだと形容したというエピソードが紹介されていて、印象に残ったんだ(『近代の文学と文学者(下)』朝日新聞社、1980年)。永井荷風は、お金もあり文学者としての潔癖さを保ちつづけるための好条件が揃っていたのだろうけども、外国から帰った後も日本の世間から学ぶということをほとんどしなかったらしい。そのため、そのまま中身も変わらず年老いてしまった感があり、そういったところから「青年のミイラ」説が出てきたようだ。
中村光夫は、荷風の、漱石や鴎外とのちがいについて、次のように述べている。
《 こういう荷風の江戸時代への回帰は、考えてみれば、彼が精神的に日本の国籍を失ったということで、少なくとも同時代の日本には何らの同情を感ぜず、意識の上のコスモポリット(世界人)として自分と社会とのつながりをすべて束縛と感じていたことと無関係ではないでしょう。彼の江戸時代の事物に対する憧れ、ないしは好奇心は、西洋人が浮世絵その他日本の固有な事物に対して感じる興味と共通のものであったかもしれません。『紅茶の後』などで、浮世絵を論じている彼の文章は大変バタ臭いものです。
彼と並んで、明治文学者のうち文明批評をその文学の根底においたといわれる、森鴎外や夏目漱石は国籍喪失者ではなかったといえます。彼らの同時代に対する評価がどれほど激しく否定的なものであろうとも、彼らは日本とのつながりを、その意識からなくすことはなかった。彼らを苦しめ、文学に駆り立てたのは、その連帯感であったと言えます。彼らは国民としての意識を離れることはなく、その意味で丁髷(ちょんまげ)を頭に載せていた、というふうに批評することができます。
荷風はその丁髷を切ってしまった世代に属すると言えるのです》(中村光夫『近代の文学と文学者(下)』太字は引用者)
ぼくはこの部分を読んで、「丁髷(ちょんまげ)を頭に載せる」って素晴らしい比喩表現だなと思った。たしかに荷風と鴎外や漱石ではそういう違いがあるかもしれないと思ったんだ。
ここで少し話は脱線するけども、以前ラジオで神田伯山が弟子の若乃丞さんから「(講談の世界って)武士じゃないっすね」と言われたことをネタにして騒いでいたんだけれども、ぼくは伯山先生は「丁髷を頭にしっかり載せている」武士だと思っているから、この若乃丞さんの表現は少し意外に思ったんだよね。伯山先生は、ラジオのパーソナリティを務めていることももちろんそうだけど、しょっちゅうコンサートや芝居や美術館、防災館のようなところへ行って、いろんな人と関わり、伝統芸能の世界にいながらもこの現代日本社会と積極的に関わろうとしてるひとだから、すなわち現代の日本社会とのつながりを大切にしているひとだから、明らかに「丁髷を切ってしまっ」てはいないと思うんだよね。そこのところは若乃丞さんも評価してあげてほしいところだと思うんだけど…
彼:なるほど、言いたいことは分かった、でも、おまえさんがそんなに語っちゃあ、伯山先生に色がついちまう、もういいだろう、そのへんにしときな。
私:へい、そうですね、私に関わると「色がつく」、スンズレイしました(笑) でも、ぼく自身も、「頭に丁髷を載せた」ひとりではありたいとつねに願っているけど、なかなか難しいね。
彼:「頭に丁髷を載せた」状態というのが心の状態をいうのであれば、俺もそうありたいと思っているけどね。
私:ここでまた『燃えよドラゴン』の話に戻るけど、最後に独裁者ハンに囚われ牢獄に入れられていた黒い道着のひとたちがブルース・リーたちによって解放され、ハンの手下の白い道着の武道家たちと戦い、最終的に勝利をおさめるんだけれども、このシーンは、この映画がつくられた1970年代以降のアジア諸国の発展を見るようでもあり、見ていて爽快だったね。
彼:敵のハンもアジア人じゃないのかい(笑) まあいいや、言いたいことは分かる。いま流行りのDSみたいなもんだろ。
私:時枝誠記編の文英堂国語辞典に「野暮」という見出しがあってだね、「世間や人情に通じていないようす。気がきかないようす」とあるね。
彼:そういう返しのほうが野暮だろ(笑)
彼:ところで、きみは最近、高校生の娘さんに勉強を教えていると聞いたが…
私:そうだよ。本屋とカフェが一緒になってるところで、たまにね。質問があれば聞くというやりかたで教えてるんだけど、英語や国語ならどんとこい、と思っていたぼくに対し、数学の質問ばかりで冷や汗の連続だよ。
彼:ははは。
私:ずいぶんと古い笑い返しだな(笑) ところで数学を教えていてあらためて気づいたんだけど、「公式」というものは便利だなと。そして、そういえば文法論の領域における公式ってなんだろう? あったとしても形式主義的なものばかりだから、内容重視の立場からする公式って誰も作ってないんじゃない? ってね。
彼:それはきみのやるべき、というか、やりたい仕事なんじゃないのかい?
私:そうだね。もちろん、時枝誠記や三浦つとむ、山田孝雄などによって文法上の公式のようなものはある程度はつくられているけどもね。やっぱり、これから日本語を学ぶ人びとに役立つものが望ましいよね。
そういえば、このあいだ娘に勉強を教えるときに気になることがあってね。
彼:なんだいなんだい。
私:その日もいつものように、カフェと本屋が一緒になっている店へ行ったんだ。娘と二人でまずカフェのレジへ行って、コーヒーなどを注文していたときのことさ。そこの店員さんはいつもだいたい笑顔で心地よい対応をしてくれるんだけど、その日の店員さんはちょっと不機嫌そうな様子だったんだよ。
彼:ほう。
私:はじめは「まあ、なかにはそういう人もいるよな」と考えて気にしていなかったんだけど、支払いのときにその店員さんのぼくらを見る目を見て、気づいたんだよ。
「ああ、パパ活を疑われてるな」と。
彼:なるほど(笑)
私:そうか、いまどきは学校帰りの制服姿の娘に外で勉強を教える父親はあまりいないのか、と(私は、平日の昼間、暇なときもある)。
彼:昔からあまりいないだろ。
私:そう思った瞬間、ぼくはちょっと前に見たテレビドラマ『下剋上球児』の中のある場面を思い出していた。『下剋上球児』というのは、ついこのあいだまでTBS系列で放送していたテレビドラマで、問題を抱える熱血教師が野球部監督となり、弱小高を甲子園出場まで導く過程を描いたものだ。主演は、南雲監督役を演じる鈴木亮平さん。
このドラマの第五話に、こんなエピソードがある。南雲が新米教師のころ、「パパ活」をしていたある女子生徒の生徒指導を任されることになった。(本来は校外での指導は不可だが)熱血教師だった南雲は、放課後にその女子生徒の後をついて行き、カラオケ店など「パパ活」の現場に入って行って、男性に向かって「あなたお父さんですか? ちがいますよね。私はこの子の担任です」と言って、片っ端から「パパ活」をぶち壊しまくる、ということをするのであった。その甲斐あってか、その少女はしばらくして「パパ活」をやめ、健全なバイトを始めて南雲に感謝の言葉を伝えることに…。
彼:美談だな。
私:そう。それで、自分もそうした「パパ活」を疑われているのかと思うと、嫌な気持になったんだよね。そうかといって、聞かれてもいないのに、店員さんに向かって「私はこの子の父親です」というのも不自然だしね…。
彼:じゃあ、ドラえもんにタイムマシンを出してもらったと仮定して、一度そのレジのシーンへ立ち戻ってみよう。俺がいいタイミングで南雲先生役をやってやるから。
※→タイムマシンでその日その時刻へ戻る。なぜか場所もカフェのレジになっている(しかしなんでもありの対話になってきたな…)。
私:(店員に対して)「ダークモカチップフラペチーノ」をトールでお願いします。…
※南雲先生(彼)、現れる!
彼:はあ、はあ(走ってきたので息を切らしている)。あなた、この子のお父さんですか? ちがいますよね?
私:いいえ、ちがいません! 私はこの子の父親です!!
彼:ははあ~! なるほど親子だったのですね、恐れ入りました! 許してちょんまげ! 失礼します~。
※現在に戻る。
私:せめて名乗ってから失礼してくれよ(笑)
ああ、でも、すっきりしたよ、ありがとう。
彼:あともう一つ案があるんだけど。甲子園の開会式で選手が入場するときのプラカード、あれを二つ用意して、ひとつに「父親」と書き、もうひとつに「娘」と書いて、店の入り口から二人でそれぞれのプラカードを持って入店するっていうのはどうだい?
私:そりゃたんなる嫌味だろう。もういいよ!
彼:お後がよろしいようで…。
私:今日は「おちゃらけモード」ということでした。 m(__)m
(2023年12月21日)