電脳文字対話一覧

電脳文字対話 27(『タイタニック』とカタストロフィ)

彼:ずいぶん久しぶりじゃないか。


私:いやあ、悪かったね。実はこれまで使っていたGooブログにログイン出来なくなってしまっていたんだよ。それで更新ができなくてね。今回、このホームページを新たに立ち上げることにしたから、また過去作なんかもいろいろと再アップしていこうと思っているところさ。


彼:今日は何の話だい?

私:映画『タイタニック』の話をしようかと…


彼:どうしたんだい? 君と『タイタニック』なんて、また意外な取り合わせじゃないか。


私:いや、2カ月ほどまえにテレビで2週にわたって再放送されて録画していたものを最近観て、いろいろと感じたり考えたりしたことがあったから、喋っておこうと思ってね。


彼:まあ、もうみんな観てるとは思うけど、一応言っておこうよ、ネタバレありだよね?


私:もちろん、ありさ(笑)


彼:やっぱりな。ちなみに、『タイタニック』という映画を理解するにあたって参考した動画とかもあるんじゃないの?


私:そうそう、岡田(斗司夫)さんのYouTube動画「2121/05/02 土曜プレミアム『タイタニック』徹底解説 前編 美しい映像で描かれるエグい現実」および「2021/05/09 同 後編 ローズという女 ジェームズ・キャメロンという男」を参考にさせてもらったんだけど、タイタニックの模型を使って船の構造や区分けされた階級社会のリアルな状況、映画に出てきたいろいろな小物のことなどをくわしく説明していて、面白かったよ。


彼:で、君は何が言いたいんだい?


私:いろいろあってね。ひとつは多種多様な人間ドラマがあれだけリアルに描かれることになった背景について。岡田斗司夫さんによると、もともとタイタニック号は1985年に発見されたあと、すでに誰の所有物でもなくなり財産権もなくなっていたので、盗難なんかもはびこり、このままでは船自体がなくなってしまうという状況にあった。そのことに危惧を抱いたジェームス・キャメロン監督が1994年に着想をえて、タイタニック号を舞台にした映画を作ろうと企画した、というわけさ。


彼:なるほど。


私:で、そうはいっても、映画にするとどう考えても予算が80億円以上はかかるし(実際には、約260億円かかっている)、おまけにシリーズ化もできない。なぜならタイタニックは沈んでしまうから。これを映画でやっても儲かるのかどうか、疑問に思う部分がキャメロン監督にはあったらしい(以下の内容は、岡田斗司夫のYouTube動画「2121/05/09 土曜プレミアム『タイタニック』徹底解説 後編 ローズという女 ジェームズ・キャメロンという男」に拠ります)。


 そこで、キャメロン監督はETのような規模の小さいけれども人びとの心に残るような作品を作りたいと思ったらしい。これは『タイタニック』の映画化が決定する前の調査の段階の話だけれども、彼は1930年のジョージア州を舞台にした、ろうあ者の女の子を主人公にした物語を映画化しようとし、自ら脚本を書いて、友人の映画監督デル・トロに見せた。


 デル・トロは、「おいおい、ちょっと待ってくれよキャメロン。ジョージア州の話なのに、なんでこれ舞台がタイタニックなの? おまえは規模の小さい話が作りたかったんじゃないのか?」
 デル・トロが笑いながらそう突っ込むと、キャメロンは真剣な顔をして語り出したらしい。1994年当時、潜水艇で沈没したタイタニック号を調査に行ったキャメロンは、10時間かけて潜って、ロシア人のスタッフに協力してもらって、カメラで撮影しまくった。いろいろなシーンを想定して、いろいろな場所をいろいろな角度から撮影しまくったらしい。
 で、その撮影した日の夜、キャメロンはなぜか夜中に目が覚めて、体が震えて止まらなかったらしい。しかも涙がポロポロポロポロ出て来る。その話を聞いたデル・トロがわけを聞くと、キャメロンは次のように言う。

「いや、タイタニックは本当に存在したんだよ。一緒に潜ったロシア人たちは、あの窓の中から人が見てる気がするって言っていた。俺は最初そんなの気にしなかったんだ。迷信深いな、ガラスだから光が反射してそんなふうに見えたりもしたんだろうって思ったんだ。だけど、今になってみると、ロシア人たちの気持ちが分かるんだ。
 あそこに、勇敢な人も卑怯な人も、みんな居たんだよ。タイタニックが沈む時には、勇敢な振舞いをした立派な人もいっぱい居たし、卑怯な振舞いをした嫌な奴もいっぱい居た。でも、その人たちは、全部まだあそこにいるんだ(実際、1513人ものひとが亡くなっている)。
 で、俺らは何をしていたんだ。彼らのお墓の上で良いものが撮れたとか、このショットはこっちから撮ればよかったとか、大騒ぎしていたんだ。人の墓の上で俺たちは大騒ぎしていたんだよ。」


 つまり、タイタニック号の上に、実際に勇敢な人も、卑怯な人も、いろんな人がいたんだ、彼らは実在したんだ、というところをしっかり撮らなければならない、ということを、キャメロンは実際に潜ってみて強く自覚した、というわけだ。タイタニックの上で実際に繰り広げられた「人間活劇」を、リアルに描き切ろうと、キャメロンはここで決断したわけだ。ャメロンのこの自覚から、超大作映画『タイタニック』というのは、現実的に完成に向けて力強く動き始めたというわけだ。この映画の「核」の部分は、キャメロン監督のこの自覚、決断にあるということ、このことを知ることができたのが、ぼくにとって今回岡田斗司夫さんの動画を見た最大の収穫だった(ここのところは、映画の中で、タイタニックに眠るダイヤをめぐり右往左往していた人たちが、最後に自分たちが結局お墓の上で大騒ぎしていたことの滑稽さに気づくシーンに投影されている)。


彼:なるほど、SF好きの冒険家であるキャメロンは、もともと船のテクニカルな部分に興味があり、海に潜った時はそういう撮影ばかりしていたが、実際に潜った日の夜から、まるでそこで亡くなった人たちの霊に導かれるように、そこで散っていったたくさんの命に想いを馳せるようになり、タイタニックの上で繰り広げられた「人間活劇」を、階級社会の差別構造や実際にいた決死の楽団員の様子なども含めて、リアルに描こうと決心した、というわけか。そんな「人間活劇」の主要なひとつが、ローズとジャックの恋愛だったというわけだね。


私:船の席に見られる階級社会的構造については、ちょっと前に神田伯山がラジオで日本の地方のフェリーにそういう(2等・1等・特等というように)構造があからさまにまだ残っていることに乗じて、面白い話を展開していたことが印象に残っているんだが、まあいいや。


彼:あの特等の伯山さんが2等にいた弟子の青之丞さんいじってたやつだね(笑)。


私:そうそう(笑)。ごめん、話がそれた。で、ローズとジャックの恋愛は、最初の出会いがローズの自殺未遂シーンであったということが象徴しているように、男性の立場からいうならば騎士道的なものだったといえるだろうね。


彼:ローズの立場からいうならば、嫌いな男と結婚させられそうになっている私を救いにきた王子様との恋愛ということになるんじゃないの?


私:かもしれないけど、ちょっと待って。最近、三島由紀夫の「新恋愛講座」を再読して、やはりこの二人の恋愛は騎士道精神にあふれたものだったと思ったんだよ。三島によると、騎士道的恋愛は純愛である。それは動物的欲望からまったく離れたものである。マリア信仰も少し入っている。三島は次のように述べている。


《……騎士というものは、何も求めることのない誠実さと忠実さとをもって、自分の仕える貴婦人に尽さなければならない。そして、それには絶対の奉仕、まるで神に対するごとく、絶対の奉仕で、男たるものは、自分のまことを尽し命を捧げて恋愛する。ですから、騎士道時代の、騎士の自分の主人たる貴婦人に対する気持は、ほとんど、マリアに対するのと同じ気持があったと思います。そして、やはりキリスト教的に欲望を離れ、しかも最高の美――美という言葉は、キリスト教ではきらうのですが、美しいものにまことを捧げるという結果が出てきたのであります。これが今でも、ヨーロッパの恋愛にはどこかひそんでいるので、女性に対するあこがれが、マリアに対するあこがれに帰着する、そしてマリアに対するあこがれは、自分の欲望を押えつけて、最大のまことを捧げ、時には命を捨てることもあえてするような恋愛であります》(三島由紀夫「新恋愛講座」【『三島由紀夫評論全集 第四巻』より】)


 ジャックは、肉欲からローズに迫っているのではない。自殺をしようとまで追い詰められていたローズの精神的疲弊を心から心配しているのである。望まない結婚と社交界の退屈から彼女を救ってあげようとしているのである。そのことは、自死の衝動に駆られていたローズをジャックが助けた場面や、その後、ジャックがローズに対し、ローズの今の環境が彼女の心を苦しめているのではないかと心配している、と伝えるシーンで知ることができる。


彼:なるほど。


私:この旧時代の騎士道的恋愛がなぜこれほどまで世界中で受け入れられたかというと、やはり船の沈没というカタストロフィのお陰だとぼくは思う。ローズはもともと、好きでもない人と結婚させられるということと社交界の退屈という精神上の危機を抱えていたんだけど、ここにもう一つ沈没に伴う生命の危機という第二の危機が加わって、そこへさらには拳銃を持った婚約者に追いかけられるというハチャメチャな危機が重層的に折り重なり、心身に迫る絶望的な状況が加速してゆく。


 けれどもジャックは、渾身の力を振り絞って騎士道精神を発揮して、ローズを救うことに成功する。このときジャックは、ローズを肉体的に救うことに成功すると同時に、自らがローズの最愛の人となることによって、ローズを精神的に救うことにも成功したのである。ジャック自身は死んでしまうが、このことによってローズは逆に自らはジャックの言づてどおりに、自由奔放に、子どもをたくさん作って、いろんなことに挑戦して強く生きていくことを誓うのであった、というわけだ。


彼:身分の違いや沈没カタストロフィ、婚約者の発狂というもろもろの障碍が騎士道的恋愛をより美しく魅力的なものに見せているわけだね。


私:そう。でも、そういう今となっては稀な騎士道的恋愛を、これだけエンタメ要素満載の大ヒット映画に仕上げたキャメロン監督の手腕には感服するほかないね。


彼:まったくだ。


私:ところで、この映画は人間ドラマや恋愛的側面も面白く、感動もするけれども、一方で、コロナ騒動を経験したぼくらにとっては、迫りくる危機的状況に対する対処の仕方についても、参考になる場面がいくつかあった。たとえば、アンドリューズが郵便室の浸水状況を確認し、タイタニック号が沈没することを確信したにもかかわらず、これをパニック防止の観点から船長など一部の人にのみ伝え、そして一部の上流階級の人たちから安全のためボートに乗るように促しているのを見て、一般の人たちはやはり危機察知に関して常にアンテナをはり、政治家や役人などの不審な動きを敏感に感じとるようにしなければ初動が遅れてしまうなと思ったし、ローズが、盗難の疑いで地下に閉じこめられたジャックを探しにいくときに、「エレベーターは閉鎖されました」という船員に対し、「こうなったらマナーなんかクソくらえだわ」と言い放ち、力ずくでエレベーターを下へ降ろさせるシーンなど、危機を察知したあとの優先順位を間違えないことの大切さや、人の命を救うときに必要とされる「力技」の重要性などについて、あらためて認識することができたと思う。


彼:危機的状況に対する対処の仕方か…。いまの俺たちの直面してる危機的状況はまたちょっと種類がちがうんじゃないかい?


私:たしかに、「タイタニック号が沈没する!」といくら言っても、「へっ? 何言ってんの? そんなはずないじゃん!」という返事が返ってくることが多いからね。いまぼくらが直面している危機は、それが「巧妙に準備し構築されたカタストロフィ」であるという点にあるのかもしれない。つまり、可視化が難しい側面もあると思うんだ。


彼:たとえば?


私:ワクチン騒動なんかはそうだよね。コロナ感染後のもろもろの体調不良や「コロナ後遺症」といわれるもののなかには、ワクチンの影響を否定できないものも含まれているはずだと思うんだけれども、医者や調査する側から因果関係を否定されると、なかなかワクチン原因説は認められない、という事態がいま現実に起きていると思うんだけれども、どうだろう?


彼:なかには接種後13分で症状が出ているのに因果関係認めれらずという例もあったようだね。


私:そう。予防接種健康被害救済制度の認定件数は増えてきてはいるけれども、まだまだ圧倒的に少ないという状況だ。あと、あるYouTuberの人の話では、イタリアではもうワクチンの有効性を疑っている人が多くて、4回目以降打つ人はほとんどいないが、日本では6回目になっても相当数が打っている、大丈夫か、と疑問を呈していたね。


彼:俺なんかも君と違って協調性があるから、3回目まで打っちゃったじゃないか。今のところ大丈夫だけどね。


私:ワクチンに関しては、今から約11カ月前に欧州で衝撃的な事実が判明したのだけど、君は知っているかい?


彼:なんだい? まったく分からん。


私:2022年10月、欧州議会に参考人として招致されたファイザーの幹部、ジャニーン・スモール氏は、ワクチンの予防効果について聞かれて、「いえ、我が社のこのワクチンは、販売前に感染予防効果のテストなどはしていません」と答えた。

 で、すでに45億回分のワクチンを購入していた欧州の議員のひとりが「大切な人を守るためにと言われて国民に勧めてきたのに、感染予防効果が不明? いったいなんのために巨額の税金を費したのでしょうか?」と問いただすと、スモール氏は、
「あのときは、科学のスピードで動くことが何よりも大事でしたから」と答えたそうだ(堤未果著『堤未果のショック・ドクトリン』【2023年、幻冬舎】より)。


彼:恐ろしい話だ。「科学のスピードで動くこと」のために俺は死にたくないよ。


私:より恐ろしいのは、日本の主流メディアがこのことを一切報道しなかったことだね。


彼:たしかに、そんな重要な事実について俺はまったく知らなかったよ。


私:さらに恐ろしいことは、いまだに公には、あくまでも「公」には、「ワクチンを打つことは善」とされていることだ(政府、役所、医療機関などはそういうスタンスだ)。いまぼくらの目の前にある「危機」がいつ終わるのか、まったく分かっていないことだ。タイタニック号の沈没の危機は、沈没したあとでは消えているし、第二次大戦の危機は戦争が終了したあとでは基本的には終わっている。けれども、2021年2月頃に始まったワクチンによる危機は、徐々にその危機に気づいている人が増えてきているとはいいつつも、いまだに「公」には続いているんだ。1945年8月15日を境に人びとは「戦争は終わった」とは言えたけれども、いまぼくらは「ワクチン接種は終わった」とは言えない。


彼:たしかに、うちの親戚にも2回目や3回目を最後に打たないと決めた人は多いけど、打たないことについて喋るときは声をひそめて喋る人が多いな。


私:そう。ぼくらはワクチンの悪い側面について喋るとき、いわゆる「ヒソヒソ話」になっていることが多い。戦時中は「非国民」と言われることを恐れて「ヒソヒソ話」が行われていたけれども、いまは「陰謀論者」「反ワク」などと言われることを恐れて「ヒソヒソ話」が行なわれているんだ。
 次に1944年に行われていた「ヒソヒソ話」について一つ紹介しよう。これは三島由紀夫の「わが思春期」という回顧録の一部分なんだけれども、三島はその当時学生で、友人に面会するため軍のある部隊へ行った際、その待たされているわずかな時間に、「青い顔をした、ハムレット的な容貌をした」ある一人の学生と戦争の行方について、ちょっとした議論をしているんだ。


《……彼は実に深刻な表情で、
「もう戦争はだめだ。われわれはもう死ぬほかはない」と言いました。おそらく彼は胸の病気か何かで、兵隊にとられないでいたのでしょうが、やはり友だちのところへ面会に来ていたものと見えます。
「とにかくもうおしまいですよ。もうガタが来てますよ。戦争は永いことはないですね。大きな声じゃ言えませんが……」
「つまり負けるってことですか?」
と私はダメを押しました。


 学生はひときわ青い顔で、シッと言って、あたりを見まわしましたが、幸いあたりに憲兵の影はありませんでした。
「そうですよ」
「まあ、多分、……僕もそう思うな」
「それならですよ。それなら、積極的に日本を敗戦へ、一日も早く引っぱって行ったほうがお国のためだと思いませんか。それで、徒死(むだじに)をする何万、何十万、いや何百万という人が救えるのだとしたら……」
「そうですね。……しかし僕は、どっちみち個人の意志じゃどうもならんと思うな」とそのころから私は懐疑派でした。
「勝つほうへ引っぱってくのも、敗けるほうへ引っぱってくのも、どっちもむつかしいんじゃないかな」
 少し話すと、われわれはぞんざいな言葉遣いになって、学生らしくしゃべりました。しかし、あんなに声をひそめてしゃべらなければならなかった議論は、今の若い人たちには想像ができないでしょう。私たちはこそこそと、自分たちの運命がもう結末に近づいていること、何もかもむだごとで、何の努力のかいもないこと、そして、どんな平和主義も、どんな人類愛もむだごとであること、そんなことを語り合いました。彼は言うのでした。


「われわれのようにある時代に生まれ合わせた人間は、別に誰の罪でもないんだが、ネズミのように生まれて、ネズミのように死んでいく運命をしょっているんだ。ネズミも、ときどきは馬だの虎だののように生きてみたいと思うことがあるが、そういう夢を持てば、それがまた軍閥に利用されて、戦争意欲にかり立てられるにすぎない。虎や馬のような気持に一瞬間でもなりたいと思っている若者たちの夢を、彼らがうまく利用して、虎のつもりのネズミたちを突撃へと、戦死へと引っ張り込むのだ」三島由紀夫「わが思春期」(1957年)》


 私は、本当に仲の良い友人とは、最近はいつものように、「あの人が倒れたのは、やはりアレのせいかな?」などと「ヒソヒソ話」をしているよ。戦時中と同じ状況がすでに到来してしまっているといえるだろう。


彼:あれか、このあいだ議論したけど、爆笑問題太田の炎上騒ぎの原因なんかも怪しいとか言ってたよな…


私:2021年10月のTBS選挙特番での太田光の炎上騒動ね。あれは、たしかに異様な光景だった。太田光はこの番組でれいわ新選組の山本太郎代表と対談している。そこで、バブル期に地価が暴落したように日本の国債も破綻するのではないかという太田の疑念に対し、山本太郎が日本政府の借金について、国債と変動相場制の仕組みと絡めて分りやすく説明していたのだが、そのさなか、憮然とした態度で横から茶々を入れ、あからさまに話の腰を折り、山本太郎を露骨に怒らせた。私は太田光らしくないな、と思った。太田光は「太田総理」のときも、たとえ相手が誰であろうとここまで幼稚な怒らせ方をする人物ではなかった。このとき私は、あの太田光が、なぜ人の話を聞かず、こんな言動をとるようになってしまったのだろう、と不思議に思った。


彼:それがワクチンによる「ブレインフォグ」によるものじゃないか、というのが君の見解だろう。


私:そう、あくまで推測だけどね。時期的にそんな感じだったし、そうでもないと説明がつかないことだったからね。ブレインフォグに関しては、ある作家も、自分の書いた原稿に問題があって編集者から質問された際、そこに書かれていたのは、自分の書いた覚えのない内容だったことを正直に告白しているひともいたね。本人はワクチンの影響を露ほども疑っていない様子だけど、私は疑っている。


彼:そういうことを言うと、「反ワク」扱いされるよ。


私:ぼくは家族の前でも職場でも最初から非接種を公言しているからね、問題ないよ。ただ、太田光は、最近はもう大丈夫みたいだね。漫才だって完全に復活したみたいだし。たいがい、哲学の話はすぐに退屈になってしまいがちだけれど、ちょっと前に深夜ラジオで太田がベルクソンについて延々と喋っていて、これが面白くて、ワクチンの影響をほとんどないなと思ったぐらいだよ。


彼:ワクチンに対して懐疑的な人たちが気をつけるべきことって何かあるかい?


私:そうだね、ワクチンに懐疑的な人たちのなかで、特別に影響力をもついわゆる「インフルエンサー」とよばれる人たちの一部に、過激な行動に走る人たちがいるけれども、そういうのは分断工作によるものかもしれないと、一旦冷静になることが必要かもしれないね。


彼:例のあのインフルエンサーが逮捕された事案ね。


私:よく知ってるじゃないか。このワクチンの接種誘導を行なっている元の元のほうの勢力を仮に「闇の勢力」とするならば、「闇の勢力」はいろんなところに「工作員」を送りこんで、「反ワク」の人たちが「危険な分子」「陰謀論者」であることを際立たせ、印象付けようとしているみたいだから、気をつけなければならない。彼らにしてみると、そうでもしないと、みんな打たなくなってしまうから困るんだよね。ようするに、分断工作に注意すること。


彼:君がそんなにワクチンに懐疑的な理由を教えてくれないかい?


私:ひとことでいうなら直感だね。ちょっと考えてみてもらいたんだけど、ある商人がこれから新しい商品を売ろうというときに、「さあさあさあ、これが話題の新商品、××でございますよ。どうぞどうぞお早めにお買い求めください。ただしこの商品に関して当社は免責、何かあったら日本政府を訴えるようにしてください」と言っていたら、君は買う気になるかい? 


彼:買うわけないだろ!


私:それから細かくいうなら、厚労省が緊急承認した書類は黒塗りだらけ。接種を奨める側が接種のメリットばかり強調し、デメリットをしっかり伝えてくれないこと。接種後の副反応・体調不良の多さ、その内容の苛烈さ。そしてこれは少し時間がたってからのことだけれども、各国における超過死亡の異常な推移。そして接種後体調不良や免疫不全と思われる症状で病院へ行き、ワクチンによるものではないかと訴えても、邪険にあしらわれることが多々あるときくことも。あと、今ざっと街を歩いてみただけでも、救急車が異常に出動していること、足の悪いひとが極端に増えたこと、など普段何気なく見ていることも、あれが原因じゃないかと思うと、腑に落ちる部分があるんだ。ただ、基本的には、ぼくは自分の直感に従っているだけさ。


彼:もうだいぶ長くなっちゃったから、そろそろ終わりにしよう。その他の危機については、また別の機会に取り上げることにしよう。最後に、何か言っておきたいことはあるかい?


私:まず、この「巧妙に準備し構築されたカタストロフィ」は決して終わったものではなく、それが現在進行中のものであることをしっかり認識すること、それから分断工作に乗っからないで冷静に対応すること、徐々に気づいている人は増えてきているので、最後まであきらめないで信念を堅く持ちつづけるようにすること、などかな。
 さて、眠くなってきたし、…米津玄師の『POP SONG』のMVでも観てから寝るかな。


彼:「巧妙に準備し構築されたカタストロフィ」をかいくぐる米津さん…ってか⁈



(2023年9月7日)

2023年09月07日

電脳文字対話 28(パパはつらいよ)


私:アタァー!!

彼:どうしたどうした? 頭でも打ったか? 文字だけじゃ伝わらないかもしれないから言っておくけど、いわゆる「怪鳥音」だよね?

私:いや、ちょっと前にブルース・リーの『燃えよドラゴン』のリバイバル上映をやっていたんで、観に行ってきたんだよ。

彼:どうだった?

私:なんだかんだいって、ブルース・リーの映画を映画館で観たのは初めてじゃないかな? もちろん迫力満点で素晴らしかったよ。しかも4Kリマスター版ということで、映像の解像度など全体的にクオリティの高いものを観ることができたわけで、満足の内容だったよ。今回あらためて思ったのは、ブルース・リーの凄いところは、アジア人の肉体の敏捷性を世界中に知らしめたところにあるんじゃないかなということ。

 とくに際立っていたのは、やっぱり妹の敵(かたき)を討つシーンかな。

彼:あのオハラとの勝負のシーンね。

私:そう。あのシーンの初めにお互い構えあった姿勢から二度もリーが目にもとまらぬ速さでオハラの顔にパンチを入れるシーンもそうだし、大人数を相手に闘うシーンも含めて全体的にブルース・リーの格闘シーンはその敏捷性の凄まじさがとくに印象に残った。

 オハラを倒して最後に上に乗っかり、目を見開き悲しそうな顔で表情筋をプルプル震わせる、あのシーンはやはり最高だったよ。知らぬあいだにぼくも表情筋をプルプル震わせていたぐらいさ。

彼:あんたがやる必要はない(笑) まあ、妹の仇を討つシーンだからね、それは感情が入るだろうよ。

私:ところで、ぼくはたまに思うことがあるんだけど、もしも三島由紀夫がブルース・リーの映画を観ていたら、おそらく大ファンになっていただろうと。

彼:は? ブルース・リーの映画の中には、日本人が悪役として出て来るものも何本かあるけど、そうかな? 何を根拠にそう思うんだい?

私:いろんな意味で西欧コンプレックスをもっていた三島は、まず(アジア人であるにもかかわらず)ブルース・リーの彫刻のように美しいその肉体に憧れるはずだし、しかもその肉体は力強くて敏捷性もあり、実践的にも無敵なんだよ、三島由紀夫が憧れないはずはずはない(実際にリーは映画の中だけでなく、喧嘩も相当強かったという証言がある)。

 おまけに、顔も男前だし、哲学者としての側面ももっているし、しかも何といっても美しくて強いまま数本の主演映画を残して夭逝しているので、ほぼ三島の男としての願望をすべて叶えた存在であることはまちがいない。こんな神的な存在の前では、国籍なんて関係ないだろう。

彼:…不思議だ、いわれてみればそんな気がしてきたな。『からっ風野郎』の主演俳優と世界のヒーロー、ブルース・リーとのあいだには埋めることのできない溝があるってことか…。

私:そんなに卑下する必要はない、三島は文学の世界では、(若干形容矛盾するかもしれないが)英雄並みの存在なんだから。

彼:たしかにそうだな。

私:映画館を出るとき、まわりを見渡したらやはり中高年が多かったけど、武道やってるらしい若者もけっこういたね。やはり若者のあいだでもブルース・リーの存在は特別なんだろうなと思ったよ。で、そのときぼくにはなぜか、みんな帰路につきながら表情筋をプルプルさせてるように見えたんだよ、不思議なことに。

彼:プルプル見えたのは、思い過ごしだろう、ヤクザ映画を観たあとのルーティン的なやつ(振舞い)じゃあるまいし(笑)

私:三島由紀夫つながりでいうならば、最近、文芸批評家の中村光夫の本を再読しているんだけど、そのなかで、三島由紀夫が晩年の永井荷風のことを「青年のミイラ」みたいだと形容したというエピソードが紹介されていて、印象に残ったんだ(『近代の文学と文学者(下)』朝日新聞社、1980年)。永井荷風は、お金もあり文学者としての潔癖さを保ちつづけるための好条件が揃っていたのだろうけども、外国から帰った後も日本の世間から学ぶということをほとんどしなかったらしい。そのため、そのまま中身も変わらず年老いてしまった感があり、そういったところから「青年のミイラ」説が出てきたようだ。

 中村光夫は、荷風の、漱石や鴎外とのちがいについて、次のように述べている。

《 こういう荷風の江戸時代への回帰は、考えてみれば、彼が精神的に日本の国籍を失ったということで、少なくとも同時代の日本には何らの同情を感ぜず、意識の上のコスモポリット(世界人)として自分と社会とのつながりをすべて束縛と感じていたことと無関係ではないでしょう。彼の江戸時代の事物に対する憧れ、ないしは好奇心は、西洋人が浮世絵その他日本の固有な事物に対して感じる興味と共通のものであったかもしれません。『紅茶の後』などで、浮世絵を論じている彼の文章は大変バタ臭いものです。

 彼と並んで、明治文学者のうち文明批評をその文学の根底においたといわれる、森鴎外や夏目漱石は国籍喪失者ではなかったといえます。彼らの同時代に対する評価がどれほど激しく否定的なものであろうとも、彼らは日本とのつながりを、その意識からなくすことはなかった。彼らを苦しめ、文学に駆り立てたのは、その連帯感であったと言えます。彼らは国民としての意識を離れることはなく、その意味で丁髷(ちょんまげ)を頭に載せていた、というふうに批評することができます。

 荷風はその丁髷を切ってしまった世代に属すると言えるのです》(中村光夫『近代の文学と文学者(下)』太字は引用者)

 ぼくはこの部分を読んで、「丁髷(ちょんまげ)を頭に載せる」って素晴らしい比喩表現だなと思った。たしかに荷風と鴎外や漱石ではそういう違いがあるかもしれないと思ったんだ。

 ここで少し話は脱線するけども、以前ラジオで神田伯山が弟子の若乃丞さんから「(講談の世界って)武士じゃないっすね」と言われたことをネタにして騒いでいたんだけれども、ぼくは伯山先生は「丁髷を頭にしっかり載せている」武士だと思っているから、この若乃丞さんの表現は少し意外に思ったんだよね。伯山先生は、ラジオのパーソナリティを務めていることももちろんそうだけど、しょっちゅうコンサートや芝居や美術館、防災館のようなところへ行って、いろんな人と関わり、伝統芸能の世界にいながらもこの現代日本社会と積極的に関わろうとしてるひとだから、すなわち現代の日本社会とのつながりを大切にしているひとだから、明らかに「丁髷を切ってしまっ」てはいないと思うんだよね。そこのところは若乃丞さんも評価してあげてほしいところだと思うんだけど…

彼:なるほど、言いたいことは分かった、でも、おまえさんがそんなに語っちゃあ、伯山先生に色がついちまう、もういいだろう、そのへんにしときな。

私:へい、そうですね、私に関わると「色がつく」、スンズレイしました(笑) でも、ぼく自身も、「頭に丁髷を載せた」ひとりではありたいとつねに願っているけど、なかなか難しいね。

彼:「頭に丁髷を載せた」状態というのが心の状態をいうのであれば、俺もそうありたいと思っているけどね。

私:ここでまた『燃えよドラゴン』の話に戻るけど、最後に独裁者ハンに囚われ牢獄に入れられていた黒い道着のひとたちがブルース・リーたちによって解放され、ハンの手下の白い道着の武道家たちと戦い、最終的に勝利をおさめるんだけれども、このシーンは、この映画がつくられた1970年代以降のアジア諸国の発展を見るようでもあり、見ていて爽快だったね。

彼:敵のハンもアジア人じゃないのかい(笑) まあいいや、言いたいことは分かる。いま流行りのDSみたいなもんだろ。

私:時枝誠記編の文英堂国語辞典に「野暮」という見出しがあってだね、「世間や人情に通じていないようす。気がきかないようす」とあるね。

彼:そういう返しのほうが野暮だろ(笑)

彼:ところで、きみは最近、高校生の娘さんに勉強を教えていると聞いたが…

私:そうだよ。本屋とカフェが一緒になってるところで、たまにね。質問があれば聞くというやりかたで教えてるんだけど、英語や国語ならどんとこい、と思っていたぼくに対し、数学の質問ばかりで冷や汗の連続だよ。

彼:ははは。

私:ずいぶんと古い笑い返しだな(笑) ところで数学を教えていてあらためて気づいたんだけど、「公式」というものは便利だなと。そして、そういえば文法論の領域における公式ってなんだろう? あったとしても形式主義的なものばかりだから、内容重視の立場からする公式って誰も作ってないんじゃない? ってね。

彼:それはきみのやるべき、というか、やりたい仕事なんじゃないのかい?

私:そうだね。もちろん、時枝誠記や三浦つとむ、山田孝雄などによって文法上の公式のようなものはある程度はつくられているけどもね。やっぱり、これから日本語を学ぶ人びとに役立つものが望ましいよね。

 そういえば、このあいだ娘に勉強を教えるときに気になることがあってね。

彼:なんだいなんだい。

私:その日もいつものように、カフェと本屋が一緒になっている店へ行ったんだ。娘と二人でまずカフェのレジへ行って、コーヒーなどを注文していたときのことさ。そこの店員さんはいつもだいたい笑顔で心地よい対応をしてくれるんだけど、その日の店員さんはちょっと不機嫌そうな様子だったんだよ。

彼:ほう。

私:はじめは「まあ、なかにはそういう人もいるよな」と考えて気にしていなかったんだけど、支払いのときにその店員さんのぼくらを見る目を見て、気づいたんだよ。
「ああ、パパ活を疑われてるな」と。

彼:なるほど(笑)

私:そうか、いまどきは学校帰りの制服姿の娘に外で勉強を教える父親はあまりいないのか、と(私は、平日の昼間、暇なときもある)。

彼:昔からあまりいないだろ。

私:そう思った瞬間、ぼくはちょっと前に見たテレビドラマ『下剋上球児』の中のある場面を思い出していた。『下剋上球児』というのは、ついこのあいだまでTBS系列で放送していたテレビドラマで、問題を抱える熱血教師が野球部監督となり、弱小高を甲子園出場まで導く過程を描いたものだ。主演は、南雲監督役を演じる鈴木亮平さん。

 このドラマの第五話に、こんなエピソードがある。南雲が新米教師のころ、「パパ活」をしていたある女子生徒の生徒指導を任されることになった。(本来は校外での指導は不可だが)熱血教師だった南雲は、放課後にその女子生徒の後をついて行き、カラオケ店など「パパ活」の現場に入って行って、男性に向かって「あなたお父さんですか? ちがいますよね。私はこの子の担任です」と言って、片っ端から「パパ活」をぶち壊しまくる、ということをするのであった。その甲斐あってか、その少女はしばらくして「パパ活」をやめ、健全なバイトを始めて南雲に感謝の言葉を伝えることに…。

彼:美談だな。

私:そう。それで、自分もそうした「パパ活」を疑われているのかと思うと、嫌な気持になったんだよね。そうかといって、聞かれてもいないのに、店員さんに向かって「私はこの子の父親です」というのも不自然だしね…。

彼:じゃあ、ドラえもんにタイムマシンを出してもらったと仮定して、一度そのレジのシーンへ立ち戻ってみよう。俺がいいタイミングで南雲先生役をやってやるから。

※→タイムマシンでその日その時刻へ戻る。なぜか場所もカフェのレジになっている(しかしなんでもありの対話になってきたな…)。

私:(店員に対して)「ダークモカチップフラペチーノ」をトールでお願いします。…

※南雲先生(彼)、現れる!

彼:はあ、はあ(走ってきたので息を切らしている)。あなた、この子のお父さんですか? ちがいますよね?

私:いいえ、ちがいません! 私はこの子の父親です!!

彼:ははあ~! なるほど親子だったのですね、恐れ入りました! 許してちょんまげ! 失礼します~。

※現在に戻る。


私:せめて名乗ってから失礼してくれよ(笑)
  ああ、でも、すっきりしたよ、ありがとう。

彼:あともう一つ案があるんだけど。甲子園の開会式で選手が入場するときのプラカード、あれを二つ用意して、ひとつに「父親」と書き、もうひとつに「娘」と書いて、店の入り口から二人でそれぞれのプラカードを持って入店するっていうのはどうだい?

私:そりゃたんなる嫌味だろう。もういいよ!

彼:お後がよろしいようで…。

私:今日は「おちゃらけモード」ということでした。 m(__)m

 


(2023年12月21日)

2023年12月21日