「映画の本質に関する論綱」より
三浦つとむの戦前の仕事の一つに芸術論、映画論がありますが、今日紹介する「映画の本質に関する論綱」(『文化映画研究』1940年10月号)もその一つであり、ごく一部を紹介します。
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《 芸術とは、人間の意識の形象的形式に表現せられた客観的実在の総称である。映画の作家は対象をキャメラの眼もて観察し、その像を通じて自己の意識を観者に伝へる。存在するすべての映画は芸術である。
(美は主観的な意識であり、映画は客観的な実在にキャメラを向ける、その対象は美に非ずして実在である。更にまた美を芸術の本質となすときに於ては芸術と否とは主観に於てのみ区別し得るに過ぎぬ。一国を負ふ宰相も土人の幼児も人間たるに変りなく、存在の分類は客観的であり、その優劣の関するところではない。芸術たるや否やと芸術として優れたるや否やは別の問題であるにも拘らず、芸術と芸術の優劣が混同されてゐる。芸術たるや否やの区別は、客観的・形象的実在に於てなさるべきである)
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映画を他の芸術と区別するものはその形式に於てである。而して、映画自身の内的な分類にあつては、その基礎たる作者の意識に於けるものを、根本的な分類となすべきである。この作者の意識する世界像が、感覚をとほして対象から直接に与へられたものであるか、或は作者の空想に於いて、嘗て作者が外界から与へられた世界像を組立てたものであるかによつて、事実の映画と仮構の映画とを区別し得る。
(客観的な対象から感覚器官をとほして作者の頭脳に世界像が与へられる。これを文字を創作して表現するときは文學であり、画面を創作して表現するときは絵画、写真、映画などとなる。存在する文字はすべてその作者の意識を伝へる実在であつて、吾人は文字を伝へられるに非ずして文字の創作法――書き方を伝へられるものである。これは言葉が「出し方」を教へられ、発声者の意識を伝へるものであるのと全く同じことである。この存在する文字を相互に比較し形式の相似のみを直ちに同一内容のものと考へ、異つた作者の意識から生ずるといふ差異及び作者なくして存在し得ぬといふ不可分関係を無視し、「独立」の存在者と考へるときは、人間の存在以前の、人間以外の存在者の吾人に与へた創作物てふ神秘主義に真直ぐに転落するであらう。映画は視覚的・聴覚的に実在と近似した像をフイルムを通じて観者に伝へる。この現実的な世界は、作者の意識に関せず、それ以前に事実存在するものである場合と、意識的にスタヂオ内につくられた仮構の場合とが存在するものであるが、この対象を以て直ちに映画を区別すべきものではない。何故ならば、仮構の世界は、先づ作者の頭に構成され、又は文學を以て次第に、相伝へて作者の頭に移植された――原作者からシナリオ又は創作小説などの形式を経て近似的なイメエヂが送られて来た場合――ものを基礎とし、その空想的存在からその現実化としてスタヂオの舞台が生み出されるものであり、事実の世界とても、キャメラを操作する作者は視覚的な分析により同時に自己の脳中にイメエヂを総合的に構成しつゝ、それに従属してキヤメラが操作され、作者は自己の頭に反映した対象の世界の近似的な像を基礎として、これを出来る限り観者に正しく伝へるためにフイルムを編集するからである。編集と撮影の分業に於ては、編集者はラッシュに目をとほして脳中に総合的な像をつくり出し、それに従つて編集を行ふ。上述の如く、世界像は何よりも先づ作者の脳中につくられ、映画の基礎となる。ポール・ルータのストオリイ・フイルムと然らざるものの区別は、この対象からストウリイが頭脳に与へられたか、それともストウリイが頭脳で創作され恣意的に展開されかたの区別を指すものであつて、基礎的な分類である)》(以上、抜粋)(三浦つとむ〔当時はペンネームは高木場務〕「映画の本質に関する論綱」【『文化映画研究』1940年10月号所収】)
内容としては三浦つとむの芸術論、映画論の原点を知ることが出来るものとなっています。「吾人」は山田孝雄の専売特許のように思っていましたが、若い頃の三浦つとむも使っていたのですね。言語規範の移り変わりの大きな転換期の一つとして、やはり1945年の敗戦というものがあるような気がします。
(2024年8月10日)