日記一覧

三浦つとむの「学問言葉」改革案

 休みの日に書類を整理していたら、三浦つとむ(当時のペンネームは高木場務〔たかぎばつとむ〕)の昔の雑誌に掲載された珍しい文章のコピーが出てきたので紹介しておきます。『思想の科学』1948年11月号に掲載されたもので、「きいてわかる学問言葉を作る会」という討論会に三浦は「紙上参加」というかたちで、文章を寄せています。ここで三浦つとむはまず、日本の学問言葉の混乱した状況について、その原因を共同討議や討論がしっかりなされずに来たことや、進歩派を含めた日本の学者の封建性に由来するものであることを指摘します。以下、それに続く部分です(改行は読みやすいように多少変えてあります)。


《 ところで、学問言葉がわたしたちの話し言葉からかけはなれた、むずかしい漢語であるという現状、多くの人たちが学問の世界に入りたくても、このわかりにくい学問(言葉)がさまたげになっている現状をどう打ちやぶるかという問題になると、日本語全体の改革ということと関係づけて考えて見なければならないと思います。外国の学問言葉は日常の話し言葉からできているし、日本でもそうあるべきだという意見があります。科学者のなかでこれを実践している人も知っています。牧野富太郎先生の仕事など、わたしたちの模範とすべきだと思います。だが、これには限界があります。重要なことであり実行しなければなりませんが、限界を無視することはできないでしょう。外国とちがって、日本の学問言葉は漢字の体系の上につくられたものが多いのです。言葉の体系からでなく文字の体系からつくられているというところに、日本語の特殊性と、それからくる制約を考えなければなりません。


 今の日本語から漢字を追放するという問題があらわれています。遅かれ早かれ、これは実行されるでしょうし、将来の日本語は、必ずや学問用語も話し言葉の体系の上につくられるでしょう。こういう日本語の改革を考えに入れて、漢字の体系を意識的に追放するという立場に立って学術用語を考えてみると、いまの日本の話し言葉から学問言葉をつくるという仕事の限界は、外国とちがってずいぶん狭いものです。日本語全体、学問言葉全体という観点に立って改革を考えるとき、部分的には現在「きいてわかる」学問言葉を「きいてわからない」学問言葉にあらためる必要さえ出てくるでしょう。ボイラの「雨戸」を「ダンパ」にあらためるなどはわかりにくくする例でしょう。 liberalism, idealism, facism が自由「主義」、観念「論」、又は唯心「論」、ファシ「ズム」などといろいろ呼ばれている。 worker と labourer が同じく「労働者」と呼ばれている。 voltage が「電燈」で voltmeter が「電圧」計で、 millivoltmeter がミリ「ボルト」計と書かれる。 talkie と sound picture はいずれを採用したらよいか。略語や符号はどうきめるか。


 ——問題は、個々の言葉を切りはなして検討したり、漢字で書いたのを片カナにしたりするだけでは片づかないように思われます。現在、学術研究会議の「学術文献調査研究特別委員会」で学問言葉の選定をやっている。学界の代表が集って打合せ会を開いている。その模様を見ても、学問言葉の改革を日本語全体の改革と考え合せて、全体的な体系的な検討をするという点ではまだ考慮の足りないところがあるようです。


 「きいてわかる」学問言葉をつくるということは必要であり重要です。だが、現在「きいてわかる」ものをつくることだけを考えてはならないでしょう。現在「きいてわからない」学問言葉が、やがては「きいてわかる」言葉に転化し、学問言葉から話し言葉にはいってくることを忘れてはならないでしょう。さすれば、現在日常の話し言葉と全くかけはなれた専門的な学問言葉を正しく科学的に改革しつくりあげることが、現在の日本に於て特に重視されなければなりますまい。学問言葉と日常の話し言葉との交流を考え、学問言葉が現在も将来も日本語全体の大きな部分を占めることを考え、学問言葉の体系・構成が日本語全体のそれに大きな関係をもつことを考え、日本語の改革の仕事にたずさわる人たちが学問言葉の改革にもっと深い関心をもってもらいたいと思います。現在の話し言葉から学問言葉を改革するという仕事も、その学問言葉を媒介として更に話し言葉を改革することにもなり、また将来の話し言葉となるべき学問言葉を科学的につくりあげることは、日本語全体を科学的に改革するための大きな推進力を用意することを意味します。この話し言葉から学問言葉への働きかけ、つながりをつくる仕事と、学問言葉から話し言葉をつくり出すための仕事との併行・交流にあたらしい日本語運動の重要な分野を認識し、学問の仕事にたずさわる各専門家、言語学者、ジャーナリストなどが真剣に地味にねばりづよくこの仕事ととりくみ、協力して活動していくことが望ましいと思います》(三浦つとむ「きいてわかる学問言葉を作る会」への「紙上参加」への投稿文より。【『思想の科学』1948年11月】所収。傍線は原文。太字は引用者)(※なおここでの三浦の肩書は、「民科芸術部員、言語学研究」となっています)


 現在であればカタカナ語の問題も俎上に挙げなければならないでしょうが、三浦のひらがなを多用した独特の論文記述のありかたの原点を見たような気がします。いまだに傾聴に値する改革案だと思います。ドラマ「らんまん」のモデルとなった牧野富太郎氏への言及もあり、時代を感じさせるしワクワクさせられますね。「ああ、偉大な独学者がもうひとりの偉大な独学者に言及してる!」となりますね(笑)



 

(2024年1月29日 脱稿)

2024年01月29日

「悪い顔」の正体

老婆の「悪い顔」

 

 ここではごく短く、「社会とのつながりにおける個人」というものを日本人や欧米人はどのように意識しているか、ということについて、あるYouTuberがスペインで経験したエピソードにからめて考えてみたいと思っています。


 YouTuberのK氏はあるYouTube動画の中で、2023年9月にスペインへ旅行に行った際の話として、次のような体験を紹介しています。彼はサン・セバスティアン大聖堂の出口でひとりの物乞いの女性に100ユーロを恵んだらしいのですが、そのときK氏は「ありがとうございます!」と感謝されるかと予想していたらしいのですが、老婆は素早くその100ユーロ紙幣をこそっとポケットに仕舞いこんでてしまったとのこと(おそらく、お金をいれてもらう紙コップの中にそんな大金があったら誰も恵んでくれようとしなくなるものと思われるため)。で、K氏によると、そのときの老婆の顔の表情がいかにも「しめしめ」というような「悪い顔」をしていたとのこと。K氏は予想がはずれただけに、この「悪い顔」が相当印象に残ったようすでした。最初は私もこの話を何気なく聞き流していたのですが、三浦つとむの家庭論や社会的人間観についての論考を読んでいるときに、ふと気づくことがあったのでそれについて簡単に書き記しておこうと思います。

 


三浦つとむの社会的人間観

 三浦つとむは、「日本の家庭」という論文(『生きる・学ぶ』季節社、1982年)のなかで、日本と欧米、それぞれの社会における社会的人間観というものの特質について具体的に論じています。

 三浦つとむはまず、洋の東西を問わず、人間の本質を「社会とのつながりにおける個人」という観点からとらえ、次のように述べています。

《…マルクス主義の人間観は、個人主義に対立して、社会的なつながりにおける個人を説く点に特徴がある。アメリカ人的な、私は誰からも何一つ恩義を受けていないという思想にきびしく対立して、自分の力だけで育った人間などは存在しないと主張する。ベネディクトや川島(武宜)をももちろんふくめて、われわれが現に毎日家庭で使用し消費している生活資料も、ほかならぬ他の人間の労働の産物ではないか、現に毎日われわれは他の人間のために生活資料を生産したり運搬したりしているではないか、われわれは生産において自分の労働を対象化し、交換によって他の人間の労働を受けとり、消費によって自分自身に対象化し、かくして肉体的にも精神的にも相互につくり合って生きているではないか、と主張する。諸個人は、いわば相互贈与の巨大な網状組織の中に位置づけられ、労働を交換しながら生活し生長していくという人間観である》(三浦つとむ「日本の家庭」【『生きる・学ぶ』所収】太字は原文)

 これを「マルクス主義的人間観」という偏見でもって一刀両断にするのはたやすいことですが、そういうひとでも、さすがに人間が「肉体的にも精神的にも相互につくり合って生きている」ということを全否定することはできないと思います。なぜならそれは私たちの日々の生活の実感がそう感じさせているからです。私たちが毎日食べている食料や毎日着ている衣服は、たくさんの人が関わってつくられ、そして移動して運ばれてきているものです。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』では、コペル君が粉ミルク缶が外国の原産地から自宅に届くまでの複雑な過程に思いをはせることで、「人間分子の関係、網目の法則」を発見するところが描かれていますが、コペル君のおじさんはその「人間分子の関係、網目の法則」を「生産関係」だと表現します。上記の三浦のマルクス主義的な人間観は、この近代的な「生産関係」をも含んだ社会的なつながりの中で人間の本質を規定したものだといえるでしょう。

 


日本人の社会的人間観

 一方、日本人大衆の伝統的な社会的人間観について、三浦は次のように述べています。


《…ベネディクトの指摘した日本人の社会的人間観は、同じこと(さきほどの「相互贈与の巨大な網状組織」)を受け身のかたちで素朴にとらえたもの、といえよう。
 昔から日本人が食料として来た米や魚など、「山の幸、海の幸」は、一面では農民や漁民の労働の結晶として、他面では自然のめぐみとして、社会的な面と自然的な面との統一である。人間が自然にささえられ他人にささえられて生きていることはいうまでもない。まだ生産力がきわめて低く、自然の「おかげ」の面を強く意識していた昔の日本人は、人間が相互につくり合う相互贈与の能動的な関係を、人間が相互に負債を負う相互債務の関係で、自然と同じように受け身のかたちで世間の「おかげ」としてとらえたのであろう》(前掲書、太字は引用者)

 『菊と刀』を書いたルーズ・ベネディクトが日本社会に親兄弟や祖先をも包含する相互債務の巨大な網状組織が存在することを指摘したことは有名ですが、三浦はそれは「相互贈与の巨大な網状組織」を、資本制生産関係の発展していない日本で日本人が自然の「おかげ」として素朴に受け身的に把握した結果のものであるといいます。さらに三浦は、日本人大衆は「受け身」とはいえ、こうした「網状組織」をもっている分だけ、「自分は誰からも何一つ恩義を受けていないと日ごろ思っているアメリカ人」やベネディクトや川島武宜らよりは正しい理解に近いと指摘します。


欧米人の社会的人間観の拠ってきたるところについて


 では、なぜ欧米人には「自分は誰からも何一つ恩義を受けていないと日ごろ思っている」ひとが多いのでしょうか? 三浦はそれについてふたつの側面から説明しています。


《…けれども日本と欧米とでは、物質的生活の側面でもイデオロギーの面でも、条件がちがっている。物質的生活の面では、生産力が低くかつ停滞的であるばかりか、小さな島国で鎖国状態がつづき各藩が封鎖的な経済をいとなんでいた日本と、大陸での民族の大移動や大洋を越えての植民地の獲得や他民族からの侵略や遠征や陸上海上の大規模な交易などが行われ、産業革命以後生産力の急激な発展と世界交通を実現し得た欧米とでは、大衆の意識にも当然ちがいがあらわれてくる。生産力の発展、分業の発達、交通形態のひろがりと深まりは、個人が直接むすびつきその経験の中に入ってくる網状組織の部分を相対的に小さなものにし、間接にむすびついていてたぐることのできない部分をますます膨大なものにしていく。もはや「世間のおかげ」を具体的にとらえることができなくなったばかりか、個人と個人との交通の中間に貨幣が存在するために、これが「金のおかげ」と考えられることにもなっていく。貨幣を財産としてかかえている人間も、その貨幣を食べて生活しているのではなく、これと他の人間の生産した米を交換し生活資料を手に入れて生活しているにもかかわらず、他人の世話にならずに自分の力だけで生きているのだと信じるようになる》(同、p181。太字は引用者)

 この資本主義の発展にともなう生産力や交通形態の発展が人びとの網状組織のありかたを変えていく現象は、戦後の日本にも顕著になっている面があると思いますが、欧米ではずいぶん早い段階からそうなっているということのようです。別のいいかたをするならば、物質的生活の発展によりいわゆる「世間のおかげ」を感じにくくなっている、ということですね。


「悪い顔」の本当の意味

 もうひとつは宗教です。


《…彼ら(アメリカ人)は、天にまします神からつねに恩恵を受けているものと信じている。たとえば、リンカンがスプリングフィールドで弁護士をしていたころに、その手紙の中につぎのように書いている。「神は一羽の雀の地に落ちるのさえ気に留め、われわれの頭の毛まで数えておられます。」これは日本人大衆の神についての考えかたと異質のものである。また、ウェブスターの『あしながおじさん』には、百ドルの小切手を恵まれた貧しい家の母親が「おなさけ深い神様、ありがとうございます!」とさけぶ場面がある。この小切手を届けて来た女主人公は、「神様なんかじゃないのよ、スミスさんよ。」というのだが、母親は「でもその方にこういうお考えをお持たせになったのは神様でございますよ。」といいはる。「そうじゃないのよ、私がスミスさんにおねがいしたのよ。」と女主人公は訂正するが、母親はあくまでも神様だと信じている。このように、人間が現実につくり出している網状組織を、ありのままに忠実にとらえようとはしないで、現実から目をそらし、因果関係を観念的にバラバラに切りはなして神へとむすびつけようとする傾向が、大衆の中にしっかりと根を下しているのである。「巨大な網状組織」は認めても、それは人間相互のものではなく、神によって媒介され動かされているものと信じられているのである。日本人の社会的人間観は、神の存在と干渉を認めても、このような大きな役割を認めてはいない》(同、P182~183。太字は引用者)

 ここで冒頭のK氏が見た老婆の「悪い顔」の話に戻るのですが、K氏はその老婆の顔を見て、裏に犯罪組織があるのかもしれないと推論を述べておられましたが、私は以上のような三浦の論述を再読し、おそらく老婆も100ユーロ恵まれたことをK氏のような「人間のおかげ」ではなく、「神様のおかげ」と考えているのではないだろうか、と思い直したのでした。K氏が帰ったあと、老婆は天に向かって感謝の祈りを捧げていなかったと誰がいえるでしょう。

 以上のようなふたつの理由から、欧米人は「相互贈与の巨大な網状組織」を感じにくくなっている、というのが三浦の解釈です。こうした議論を踏まえたうえで、「日本の近代」をめぐるさらなる議論に踏み込んでいきたいと考えているのですが、といっても、ここではそこまで本格的な論文としてではなく、とりあえず山本七平がとりあげた日本特有の「空気」というものについて論じる前段階の雑文程度にしておこうと考えているのですが、日本特有の「空気」の謎を解く鍵はここらへんにあるのではないかと何となく予想しているのが今の段階です。どうやら自分がこの「日記のようなもの」を備忘録的なものとして利用しようとしていることが次第にはっきりしてきたようです。

 



(2024年1月31日)






2024年01月29日

「内発性の大事さ、楽しさに気づいた瞬間」について

 YouTube動画「日本を包む「ぼんやりとした不安」の正体とは?」(【むすび大学チャンネル】)の中で、川嶋政輝氏が高校生の時に自らが内発的になれた瞬間のエピソードについて語っています。なんでも、「大学受験塾ミスターステップアップ」に行ったときに、塾のパンフレットに「人はそもそも何のために努力するのか、考えたことがありますか? このことについて深い気づきがないと、いくら勉強しても勉強のコツはつかめない。内発的にこれが学びたいという気づきがないと、本当の学問に行き着かない」ということが書かれていたとのこと。川嶋氏によると、このときが自分の中に初めて内発的なものが出てきた瞬間だったとのことらしいです。

 おそらく川嶋氏は、若くして物事を理詰めで考えられる非常に優秀な方だったのだと思います。「体タイプ」の私が内発性についての気づきを得た瞬間は、もっと即物的で体感的なものでした。それは、大学を卒業してアメリカで語学留学をしていたときのことです。当時(22歳)私は週に2回くらいアメリカ人に日本語を教えるアルバイトをしていたのですが、その彼が大学で日本文学を専攻しており、当時島崎藤村のことを調べていて、いつも熱心に私にその内容について熱く語ってくれていたのですが、その姿や楽しそうな表情を見て、私は「ああ、やられた!」と衝撃を受けたことを覚えています。「やられた」という感覚は、いいかえると、学問とは本来楽しいものであるということをちゃんと教えてくれなかった学校教育から「(して)やられ(てい)た」という感覚です。その感覚は、時間の経過とともに、次第に「今まで自分は勉強の楽しさに気づいていなかっただけなんだ」という落ち着いた見解に収束していきました。また、その彼がことあるごとに「きみはこれについてどう思う?」とまだ何者でもない私に対して、真剣に意見を求めてきたこともある意味衝撃でした。これが「自由と平等」の国、アメリカというものか、と実感した経験でもありました。


 



(2024年2月6日)





2024年01月29日

われわれはどう生きるか

 

徳川封建制における家族観の推移

 前回、「悪い顔の正体」で私は、三浦つとむの社会的人間観について、大ざっぱに解説してみました。具体的には、社会的なつながりにおける個人というものをとりあげたところの、人間は相互につくり合っているという本来あるべき社会的人間観、それを「世間のおかげ」としてとらえた日本人の伝統的な社会的人間観、さらには「自分は誰からも何ひとつ恩義を受けていないと日ごろ思っている」欧米の個人主義的で資本主義的、かつキリスト教的な社会的人間観についてでした。

 今回は、江戸期および明治維新以降の日本における家族観の推移について、同じく三浦つとむの「日本の家庭」(『生きる・学ぶ』)という論文に依拠しつつ見ていきたいと思います。

 

 もともと江戸時代から日本人大衆は、封建的イデオロギーとは別に、生活から来る実感を大切にする現実主義的・経済取引的な面があり、相互贈与の巨大な網状組織の中にあって、個々のバランスシートをとりあげて、差引負債になっているときにこれを義理とか恩とか意識していました。徳川封建制の崩壊期にいたって、一時期、無条件絶対服従の儒教的イデオロギーが説かれたけれども、大衆には生活からくる実感があり、恩に基礎づけられた家族観や社会的人間観は消滅しませんでした。

《日本の孝は恩を条件とする孝で、儒教の無条件絶対服従の孝とはちがうといっても、その恩の内容がもはや一方的な贈与にもとづく一方的な感謝と服従に変化してしまっている(徳川封建制末期はすでに泰平の御代が長く続いた状態であり、家臣が長らく主君のために報ずるという機会が消失しており、バランスシートにおける家臣の側の負債が大きくなっていた――引用者)なら、事実上同じことであり、二十四孝その他がイデオローグによって大いに説かれたとしても不思議ではない。だが、封建的イデオロギーとは別に、大衆には生活から来る実感があり、恩を相互債務と見る社会的人間観は決して消滅していなかった。血縁のために親を扶養させられて寝る目も寝ずに働いたり、親の残した借財を相続させられて苦しんだりする人間は、親の養育による恩を認めながらも、それを一方的な負債だとは思えない。無条件絶対服従の孝を説かれても、生活から来る実感がそれに反発する。また親の側でも、子に苦労をかけていることを感謝したり詫びたりして、家父長としての絶対的な服従を必ずしも要求しない。落語の『二十四孝』で、熊さんが横丁のイデオローグであるご隠居さんのお説教を聞かされ、鯉をとるために裸で池の氷の上に寝れば、鯉をとるどころか氷がとけるのと一いっしょに落っこちるだろうといい、それは孝行の徳に天が感じて落ちなかったのだというご隠居の説明を冷笑するところに、大衆の持つ健康な面を感じることができよう。

 大衆の社会的人間観の上に立つ恩の意識は相互債務の意識であり相対的であって、この相対的な把握は、極端な場合には子が親を殺すことさえ肯定する結果になる。孤独で生活の道を知らぬ娘が腹黒い夫婦の養女として育てられ、この親の手で遊郭に売られたばかりでなく、その後も小遣いをよこせ飲み代をつくれそれが孝行だと犠牲を強要されているような場合は、親や養育のために払った犠牲と娘が親のために払った犠牲とのバランスシートも親のほうが大きな負債になっているものと見て、娘の愛人が娘を救うためにこの腹黒い夫婦を殺し娘と家庭を持ったとしても、大衆はこれを不道徳だとは意識しない。このようなケースは、講談の世話物にもしばしばあらわれている(「ねずみ小僧 次郎吉」など)》(三浦つとむ「日本の家庭」、太字は引用者)

 このように、日本人大衆の恩の意識は相対的なものであり、親に世話になったという側面においては封建的イデオロギーを受けいれる素地を提供しつつも、同時に、バランスシートを大切にして親からの一方的な負債ではないという側面において儒教の無条件絶対服従の要求を拒否する素地をもふくんでいました。日本人大衆は、孝を無条件絶対服従として説く古典儒教のイデオロギーを冷笑するくらいの健全なバランス感覚を保持していたわけです。無条件絶対服従の儒教イデオロギーが流通している国といえば、現在の韓国などがあてはまるといえるかもしれません(韓国の敬語も、日本語のような相対敬語ではなく、絶対敬語です)。

 

明治維新以降の家族観の推移

 明治になると、絶対主義天皇制のイデオロギーが説かれ、家庭における孝と国民としての忠とが天皇性イデオロギーによって体系的に結びつけられることになります。

《…絶対主義の体制が家制度のかたちで家族に浸透し、子の親に対する無条件絶対服従が説かれたが、それとともに天皇制の持つ宗教的性格、すなわち天皇をめぐる神話も家族イデオロギーに浸透して、家庭生活を規定することとなった。そこでは、われわれ日本人の祖先はすべて神であった、と説かれていた。これは、ある人々は何々天皇の後胤であるとして、またある人々は天孫の降臨に際して天孫に従って天上から降った神々の子孫であるとして、説かれていた。このように神話を媒介として国民の「家」が天皇家にむすびつけられ、父母をうやまい先祖をうやまい神をうやまい天皇をうやまうというむすびつきで、孝と忠とが一本化されたのである》(同上)

 これらのイデオロギー教育は、具体的には「軍人勅諭」(1882年)や「教育勅語」(1890年)、あるいは「教育勅語」を具体化した「修身」の教科書などで行われました。また、「親の恩」からの擬制としての「皇恩」というものが設定され、親の養育と同じような現実的な根拠として、仁徳天皇の税を免じたエピソードや、元軍来襲に際し伊勢神宮に祈ったら神風が吹いて敵軍が海に沈んだというエピソードなどが喧伝されました。

 

現人神としての天皇と他の神々との関係

《天皇は現人神すなわち生き神であったが、これまた日本的な神であった。重層信仰の一環を形成して他の神仏と共存し、現実の網状組織を観念的にバラバラに解釈することなく、網状組織を天皇との相互債務で解釈した統一ある家庭観・社会観を説いていた。戦争のときは一命をささげて奉仕せよと要求し、また国民が安楽に生活できるのは天皇のおかげであると説きはしたものの、日常生活のいろいろな分野においては他の神仏との相互債務を認めていた。ただ、キリスト教や新興宗教の「神」が、天皇よりも偉大であると説かれることのないように、きびしく目を光らせ弾圧を怠らなかっただけである》(同p205~206)

 このように、天皇制イデオロギーにあっては、そのイデオロギーが冒されないかぎりにおいては、監視はしつつも他の神仏との共存を認めていました。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ比翼スヘシ」(教育勅語)とされはしたものの、そこではまだ、現実の人間と人間、あるいは人間と神とのつながりをバラバラに解釈することなく、網状組織を天皇との相互関係(債務)で解釈した統一のある家庭観・社会観を説いていました。

 

戦後の日本人の家族観・社会的人間観はどうなったか?

1945年8月、日本は敗戦を迎えます。

《天皇制政府がもっとも力をいれていた小学校教育では、連合軍の命令で、これまでの読本の大部分を墨でぬりつぶして使うことになり、天皇制宗教教育の根幹をなしていた修身および国史は廃止になった。これに代って与えられたのは、アメリカ流の経験主義的教育方法と、民主主義という新しい概念であった。民主主義ということばは国民の間でたちまち流行語になったが、それは具体的な思想として理解されたのではなくて、いままでの古いものを否定することであるかのように解釈された。したがって、過去の規律・慣習・束縛を一切認めないのが民主主義だということになり、自分のやりたいことをやらせないのが封建的だとされて、これを勇敢に実行した青年たちはアプレゲールとよばれた》(高木宏夫『日本の新興宗教』)

 敗戦によって、それなりに統一のある家庭観・社会観を与えていた天皇制イデオロギーは打ち砕かれてしまいましたが、それに代わるアメリカ的な「民主教育」は、大変評判の悪いものでした。それはそうでしょう、「相互債務の網状組織という考えを否定し、諸個人を切りはなして、私は誰からも何一つ恩義を受けていないという立場に立たせるには、それを現象的に肯定でき実感できるような現実の条件が必要である。親子が、夫婦が、たがいに経済的に依存することなく、贈与することなしに個人の生活を維持できる」(三浦前掲論文)必要がありますが、当時の日本はまだまだそのレベルに達してはいませんでした。長年、伝統的に「世間のおかげ」を意識して暮らしてきた人たちが、そう簡単に「民主主義者」になれるはずがありません。
 

 また、アメリカ的な、個人主義的な家庭観・社会観の成立の背景には、キリスト教的な考えかたも大きく影響していたものと思われますが、日本にそのような超越的な神の考えかたはなかったので、戦後、新興宗教が隆盛を誇ったのには、こうした背景も関係しているものと思われます。統一教会などは疑似キリスト教的な宗教であったといえるでしょう。

 日本の親たちは、戦後の学校で孝行や恩ということを教えてくれないので、学校へ文句を言いに行く者も少なからずいたとのことですが、日本の革新陣営は、こうした親たちを大衆思想運動を展開し取りこもうとはしませんでした。一方、創価学会や立正佼成会、天理教や大本教など新興宗教の陣営は、思いきった大衆思想運動を展開し、人びとに具体的な生活規律を教授して多くの信者を獲得するのに成功していきました。


《貧しい家庭の親たちが、学校でぜひ孝行を教えてくれと要求するのはなぜか? 進歩的評論家はつぎのように解釈する。親たちが子どもの人格を無視し、家族労働で子どもを酷使したり子どもの得たわずかの賃金をとりあげたりする、奴隷的あるいは封建的な親子関係ができているところに、民主教育が近代的な人間の形成を目ざし子どもの人格を認めるので、親子間の対立が激化する。これは親の権威を失わせるばかりか、経営や生活の脅威でもあるから、子どもの反抗を押えるために孝行教育を要求するという。では親子関係はどうあるべきかといえば、それは人間的なものに純化されるべきで、奴隷的な支配と服従でもなければ封建的な恩による支配と服従でもなく、人道精神の上に立つ愛情でなければならぬという。要するにもっと「物わかりのいい親」になってくれということである》(三浦前掲論文。太字は引用者)

 日本人の宗教観では、「人道精神の上に立つ愛情」を理解することはかなり難しいことであったようです。

 

三浦つとむの結論

 私たち日本人が長い間意識して来た「恩」というものを、またそれを含んだ家族観、人間観というものを、現代の私たちはどのように捉えるべきでしょうか? 以下は三浦つとむの結論ですが、理解しやすいように長文を挙げておきます。じっくり読んでいただきたいと思います。キーワードは、「視野を広げて考える」ということです。


《「その完成されたすがたはどんなに複雑であろうと、その中心は単純だという」(チェスタートン)事物の特徴は、恩と恩がえしについてもいえることである。だからこそ、昔の日本人がそれを直感的につかみ得たのである。それは個人が贈与のバランスシートを持つことであり、これを社会的にどう埋め合すかということである。教師や医者から恩を受けた場合、われわれは彼らに感謝と尊敬をささげながら、それによって得られた能力やとりとめた生命を有意義に使おうとするのが常である。ここに、恩がえしということの本質がある。親から受けた恩は、親に感謝と尊敬をささげながら、自分の子どもに恩をほどこすことによって恩をかえすのであり、世間の恩・働く人たちの恩に対しては、それに感謝と尊敬をささげながら、自らもまた働くことによって恩をかえせばよいのである。恩をかえすとは、その恩を受けた個人に対して報いることだという、せまいワクの中に発想をとじこめるかぎり、正しい解決は得られない。ヨーロッパ的に表現するなら、「一人は万人のために、万人は一人のために」働くという、非敵対的矛盾の両面を正しく調和させ維持するとともに、万人の労働によって自分がささえられながらもその労働に感謝と尊敬をささげることをせず、労働者の幸福のために努力するどころか反対に労働者を軽蔑し不幸におとしいれるような、忘恩の徒を社会から一掃することこそ、われわれの道徳なのである。困難は、現在の体制がこの非敵対的矛盾をどう歪めているか、具体的な網状組織をたぐっていきながらつかみとることであり、過大評価にも過小評価にもおちいることなしに自分の家族の負っている債務を、恩のありかたを自覚することである。

 それゆえ、進歩的な人たちが支配階級のイデオロギーに変形されたところの恩を攻撃するばかりでなく、恩という意識そのものまでまちがいだと破りすててしまうのは、浴槽から湯といっしょに赤ん坊まで流してしまうにひとしい。恩を破りすてるなら、親に対する子の尊敬は、親の能力や人格に対する尊敬以上のものではなくなってしまう。あるいは親からの贈与に対しては「純粋な内面的な」感謝をするだけで、自らも自分の子どもに贈与するべきだという「外的義務」は否定されてしまう。「友愛家族」論になってしまう。親に対する尊敬は、家族の内部だけではなく、すでに長い年月にわたって社会をささえるところの労働に従事し、万人のために大きな奉仕を行って人間としての責任を果し、そのことを通じて親自身もまた人格的に成長したという、網状組織全体の中でなされるものでなければならない。これがなければ、親に対する尊敬を持ったとしても、やはり同じように労働に従事し万人のためにまた自分のために生活資料を生産してくれた、同じ階級の人たちに対する感謝と尊敬は生れて来ないのである。

 大衆が伝統的に持っている「世間のおかげ」という恩の意識が、右のような論理構造を正しく理解することによって「親の恩」と正しく統一されるならば、恩の意識は生活の生産関係を理解するための重要なポイントとなりうるのである。問題は、この恩の意識が、恩を感じる必要のない人たちのところへまでも、誇大に拡張される点にある。「世間のおかげ」が、経済的な政治的な支配階級にも恩があるのだというかたちに延長される点にある。そしてここに教育の重要性があり、労働者教育と学校教育と家庭教育との区別および連関をまさに恩の問題を中心として再検討しなければならぬ理由がある》(三浦つとむ「日本の家庭」【『生きる・学ぶ』所収】。太字は原文、傍線は引用者)

 この論文を読んでからというもの、私は自分の両親からうけた恩について、彼らに感謝と尊敬をささげながら、自分の子どもに恩をほどこすことによって恩を返しているのだ、という意識を持つようになりました。また「世間の恩」「働く人たちの恩」については、それに感謝と尊敬をささげながら、自らも働くことによって恩を返すのだという、そういう意識をもつようにしています(もちろん働くことのできないひとは胸を張って社会保障を受けるべきであり、万人が働かなければならないわけではありません)。そうすると、そのへんを歩いている全然知らないひとをも含めて、万人に感謝と尊敬をささげることが出来ているような、そんな不思議な気がしてくるのです。――以上、何かと分断の引き起こされることの多い昨今ですが、人びとがお互いに感謝と尊敬をささげあう意識をもって生きていけることを願って、小論を終わりたいと思います。

 




(2024年2月17日)





2024年02月17日

災い転じて福となす

 

 先日、二十歳の息子がバイクに乗っていた時、ヘルメットの中に蜂が入ってきて首を刺された。その日、息子はみなとみらいで私と娘(つまり妹)と食事をすることになっていた。私は娘と一緒にショッピングモールのMARK ISにいたが、息子からのLINEに蜂に刺されて「激痛!」と書かれていたので、「病院行くか?」と返信するも、しばらくすると「到着した」と返事がきた。大丈夫かと思い息子ののどを見てみると、ちょっと赤くなっているだけで大きく腫れてはおらず、針も見えなかった。とりあえず食事をすることにした。

 食事の間、スマホで調べてみると、すぐに症状が出なくても発疹や吐き気などショック症状が出てしまうことがあるとのこと。私は心配になって、食後、ドラッグストアへ行って蜂についてくわしいらしい薬剤師の方に相談してみた。まずはポイズンリムーバー(毒吸引器)という器具を使って毒抜きをして、患部をよく洗うのが望ましいとのこと。私はひとまず塗り薬を買い、MARK ISの中で娘と手分けして山や登山用の品物を売っている店を探しに行った。動きの機敏な娘がすぐに探し出してくれた。そこでポイズンリムーバーを買い、息子の患部の毒抜きをし、トイレで水洗いさせた。

 そのときは息子も「痛みはだいぶ引いた」と言っていて、そこでやっと少し安堵した。思わぬアクシデントだったが、久しぶりに親子三人、一緒に何かを成し遂げた気分、特別な体験を味わった気分になった。まさに「災い転じて福となす」といったところか。

 それにしても、都会の高層ビル群の中でポイズンリムーバーを探して右往左往することになるとは。私たちがどんなに進歩しようとも、自然の脅威を免れることなど到底できはしないと、あらためて思わされた体験であった。



(2024年7月12日)





2024年07月12日

『近世科学史』(原種行著、1940年、山雅房発行)の三浦つとむによる書評

 

 戦前に発行されていた『科学ペン』という雑誌の1941年3月発行分に、三浦つとむは「高木場務」名義で上記の本についての書評を書いています。

 冒頭、《たいへん立派な書物で、読んで驚きました――とつい口を滑らしたところ書評をどうぞと御依頼を受けて恐縮した。平素科学者の悪口ばかり言つてゐる人間だから何を書くか一興だという了見かも知れない。しかしわたしの駄文では、定評ある本欄の権威を傷け、著者並に読者諸氏の苦笑を買ふくらゐが落ちであらう》と軽快な語り口から始まり、元来科学史系の書物としてもっとも重要なのは、科学の発展をその内的な連関において理解し辿っていくことであるが、大概は既成の知識を切りばりしたようなものが多いのが現実であると述べ、以下の文章が展開されます。

《わたしは本書の著者については全然知るところが無く、他の著作も拝見してゐない。わたしが本書に注意を惹かれたわけは、著者も序文で云はれてゐるやうに、その著るしい特色をなす次の三つの点にある。

「科学の発展をその歴史的、社会的諸条件の下に理解したこと」
「現代科学と現代に於ける『科学の哲学』との関連に注意したこと」
「科学心の生々とした発動を幾分なりとも闡明せんとしたこと」

 一国の科学が一大政治家の指導精神によつて突如として大躍進を遂げたとか、或はエヂソンは母親の愛情によつて大発明家となり母親の心掛け一つで何千人でも大科学者はうまれ出るものであるといつたふうの「科学的」訓話は困る。科学の歴史をただその理論の発展の面からのみ眺め、学者の「すぐれた考へつき」を記述してゐたのでは充分ではない。科学の恩恵を説く者は科学への恩恵をも忘れてはならぬ。その科学をうみ出した環境、歴史的、社会的諸条件とのあひだの交互的な関係をしらべ、連鎖をたぐつて行かねばならぬ。さうした科学者の環境はその発見のための基礎的な地盤となり、更にまた理論発展の限界をもかたちづくつてゐたことを理解しなければならぬ。戦闘行為の指揮者必らずしも正しい戦史の執筆者たり得ぬと同様、専門的な知識の所有者であり博士号持つて居るからと云つてその著作必ずしも信頼し得るとは限らない。小倉博士やホグベンのすぐれた通俗数学書は周知の如くいづれも此の点に注意が払はれ、本書もまた著者の極めて周到な準備と深い教養をうかがふことが出来る。

 然し乍ら本書の最大の特色は第二の点すなはち現代科学と、「科学の哲学」との関連について著者の示した批判である。最近の目覚ましい理論物理学の発達、踵をついであらはれる偉大なる発見は、古い自然観を急速に崩壊させ、多くの大科学者を理論的混乱に引きずりこんだ。或者は最悪の哲学に救ひを求めさへした。プランクはバアクレー主義とたたかひながら、法則のアプリオリを主張して自ら混乱に陥り、アインスタインが折々純然たる相対論に陥つて詭弁学者に思ひもかけぬ理論的根拠を与へるなど、数へ立てれば限りない。大学者を尊敬するのあまりその言動悉くを無批判的に受け容れる傾向は、特に哲学的教養に欠くるところ多い我国の科学者に著しく、新カント主義の科学観やポアンカレの信奉者がすくなくないことを考へ合せるならば、公然隠然あらゆる科学の領域で常に出会ふさういふ病気への解毒剤として、本書を世の科学者諸氏に熟読していただきたく希望する。又量子力学及びその哲学的見解にあたらしく興味を持たれる方々は、湯川、仁科両博士又は田辺教授の大著に先立ち、先づ本書を読むが適当と信じてゐる。通俗科学書として「物理学は如何に創られたか」は定評ある名著であり「百万人の数学」またモニュメンタルな存在であるが、前者はドイツ風後者はイギリス風と対蹠的に偏狭な思惟方法の残つてゐる点にいささか不満を持つ。本書にはそれがなく、日本人の手になる科学書として世界に誇つてよいのではないかとさへ思はれる。

 次に不満を述べるが、その原因は殆んどすべて出版上の制約にある。文章は簡潔明快、第三の点(「科学心の生々とした発動を幾分なりとも闡明せんとしたこと」――引用者)につき著者も云ふやうに不充分ではあるにせよ、この科学史の外廓を述べるにさへ充分とは思はれぬ紙数でこれだけの内容を盛り得た点まことに敬服に値するが、何としても要点だけは具体的に書かれたせめて二倍の厚さのものが欲しい。また公式の量が多いと一般の人々にちよつと取りつき難い感じがするので、良書普及の観点からすくなくして欲しいやうにも思ふ。紙数の関係でやむを得ぬとは云へ、必然性と因果性、相対論批判、四次元などの問題についていますこし詳細にとりあつかひ且つ新カント派の批判を挿入して欲しかつた。尚、さほど重要なところでないにせよ誤植が相当目についたのは良書だけに惜しい。増刷のときは是非あらためられるやう希望する。

 本書はいはゆる通俗科学書の読者層にはすこし堅いかも知れぬが、特に物理学に興味持たれる高校以上の学生諸氏には絶好のものであらう。文章に無駄はなく、六号で組んだ註解文の末端まで熟読頑味すべき性質の書物であり、読み捨てられる趣味の書でも単純な参考書でもなく、読んで味へば正しく教養として身につき生きて働く知識を得られる。真に科学書と呼ばれるに値するすぐれた書物である。皇紀二千六百年に際し、かゝる書物が世におくられ、尊敬すべき理論科学者の存在を知り得たことを、わたしはたいへん嬉しく思つてゐる(菊判二〇三頁、定価一円八十銭、山雅書房発行)》(『科学ペン』1941年3月発行、科学ペン社)(太字は原文では傍点)

 ———ずいぶんと懇切丁寧な書評ですが、さすが三浦つとむ、あやしげな「科学哲学」には注意せよ、「大科学者」を尊敬しすぎるな、という注意喚起とともに、本質論重視の姿勢がうかがわれます。一番驚いたのは、あの三浦つとむが「皇紀二千六百年」と述べていたことです。こういう事実について、戦前の「国家神道」の根強い支配のあらわれとみるか、GHQの支配の及んでいない時代の健全な状態の証拠としてみるか、あるいは両者を統合し止揚したより高い視点からものを考えられるかどうか、分かれるところですね。




(2024年7月15日)

2024年07月15日

煮詰まる

 私は以前、論文「『なので』と〈形式名詞〉論」で、三浦つとむの〈形式名詞〉論についてくわしく論じたことがあります。そのとき、私は通説で〈準体助詞〉とされている〈形式名詞〉「の」の本質的な特徴について、三浦の説を参照にして論じていました。

 そのときには直接触れませんでしたが、実は三浦つとむが〈形式名詞〉論中において指摘していたきわめて重要なとらえかたについて、ここで触れておこうと思います。三浦は、以下のような例文を提示して、順を追って〈形式名詞〉についての説明を述べていきます。

《 いま、〈普通名詞〉を使って表現するならば、

 青いリンゴはすっぱく、赤いリンゴはあまい。  (a)
 私が干渉した行為は、よくなかった。      (b)

というところを、初出以後はもっと抽象的に、〈形式名詞〉を使って

 青いものはすっぱく、赤いものはあまい。    (c)
 私が干渉したことは、よくなかった。      (d)

と表現することも多いし、さらには「もの」と「こと」との段階をも超えてもっと抽象的にとらえて

 青いはすっぱく、赤いはあまい。      (e)
 私が干渉したは、よくなかった。       (f) 》(三浦『日本語の文法』〔1975年〕p72。傍線は原文では傍点)


 三浦は、(a)の「リンゴ」、(b)の「行為」は、それぞれ抽象度が高くなるにつれて、「もの」「こと」になりうるし、さらに抽象度を高くして「の」にもなりうるという事実について説明しています。そして、「の」には、〈格助詞〉のほかに〈形式名詞〉として二つの使われかたが存在するのであり、それは(e)系の実体概念を表現しているものと、(f)系の属性の実体的なとらえなおしを表現しているものとの二種類である、というのが三浦の〈形式名詞〉論の論旨でした。

 実は、この〈形式名詞〉論のなかで三浦はあまり目立たないけれども重要な指摘をしています。


《 (a)の「リンゴ」も(b)の「行為」も、それ自体はたしかに〈普通名詞〉であるが、これらの対象は異質であり、認識のありかたもちがっている。過程的構造を見ると、「リンゴ」の対象はそれ自体静止した手でにぎることのできる実体であって、そこから直接に把握された実体概念を表現した〈名詞〉である。けれども「行為」の対象はそれ自体実体ではなく、ダイナミックな人間の属性であり、しかもこの属性を直接に把握した概念は、「干渉し」とすでに〈動詞〉で表現ずみなのである。「行為」はそのすでに表現されている属性を、いま一度もっと普遍的なありかたでこんどは実体的にとらえなおし、固定化してとらえて表現しているために、「干渉し」とは異質な語となっていて〈名詞〉である。それゆえ、この「行為」には「リンゴ」のようにそれ自体に独自の対象があるわけではなく、「干渉し」の対象から媒介的に把握された実体概念を表現しているにすぎない》(『日本語の文法』p79)(傍線は原文では傍点、太字は引用者)

《 「私の行為を反省する」というときの「行為」は、(b)の「行為」とはちがってそれ自体独自の対象を持っていて、その対象である属性を直接に実体的にとらえて表現した〈名詞〉である。ところが、このとらえかたはかなり抽象のレベルが高いために、(b)の「私の干渉した行為」のような、属性をまず直接に把握して表現したのちに、もっと普遍的に実体的にとらえなおして〈名詞〉として表現するのに使われる。「私の干渉した」という具体的な認識と、「行為」という抽象的な認識とが、ここで入子型に立体的に組合わされて一つの句が形成され、さらにこれに〈助詞〉の「は」や「を」が加えられて展開されていくことになる。この種の〈名詞〉は、抽象のレベルが高くなればなるほど、こうした実体的なとらえなおしに使われることが多くなる》(同p79~80)(傍線は原文では傍点)


 「私が干渉した行為」の「行為」は、一般的には、〈普通名詞〉とされています。三浦はここで、いわゆる〈普通名詞〉でも「行為」のように抽象のレベルが高いものは、「こと」や「の」と同じように独自の実体的な対象をもたず、属性の実体的なとらえなおしに使われることがあると述べているのです。

 このとらえかたによると、「私が干渉した行為」のほかにも、たとえば「彼が放った言葉」や「彼女の陥った状態」における「言葉」や「状態」なども、属性の実体的なとらえなおしとして使われているということができるでしょう。

 これらの表現と、泉大輔氏が研究対象とされた「早くしろオーラ」「困ったな状態」「どっちなんだよ問題」「当たって砕けろ作戦」など「文包摂」の逸脱的な表現群とは、明らかに何かが違うように思われます。私も最初は、「オーラ」「状態」「問題」「作戦」などのいわゆる〈普通名詞〉が実体的なとらえなおしとして使われているのではないかと考えたのですが、よく考えてみると、どうも何かが違うようです。この「違い」について、いま一度本質的に考え直しているところです。だいぶ煮詰まってはきました。






(2024年7月22日)

2024年07月22日

記号と言語における〈場の表現〉について

◎〈場の表現〉とは、《ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている》(三浦つとむ『言語学と記号学』p9。傍線は原文では傍点)もののことをさす。
つまり、《それらを他の場所でなはなくその場所に置くということ自体が一つの認識を示すことであり、一つの表現になっている》(同上)もののことをいう。
※具体例としては、交通標識や地図内の記号、墓標など。映画『幸福の黄色いハンカチ』のハンカチも、ほかの誰でもないある特定の人が一人暮らしであなたを待っているという暗号を含んでおり、これも一種の〈場の表現〉といえるでしょう。


◎小川文昭氏の〈場の表現〉についての説。記号表現における「認識の個別性」の表現は、通常は潜在的なものにとどまっている。《そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います。

 結論としては、言語と記号との区別は、記号規範においては、潜在的であるにすぎない・認識の個別性の表現が、言語規範においては、詞辞の表現構造として顕在的なものとなっているということではないかと思います》(小川文昭「場の表現の意義」 第6回LACE研究会 2001年8月)


◎(小川氏の説のまとめとしての川島の言葉)《言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号それ自体としては客体的表現しか表現することができない。記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには「場の表現」と融合しなければならない》(川島正平「言語と記号の差異について 2」2002.3.13。太字は引用者)

◎《記号は言語のように必ず継時的に読まれなければならないわけではなく、ぱっと見てすぐに理解できるものが多いので、てっとり早くある特定の事物や事柄の性質が何であるかを受け手にひと目で理解させるためにきわめて便利な表現だから、その表現が個別の対象と密着したかたちで表現されることが比較的多いの》である(川島正平「言語と記号の差異について 2」)。


◎《さらに、わたくしが考えたのは、滝村隆一の真似ですが、〈表現―即―「場の表現」〉と〈表現―内―「場の表現」〉の区別です。

 交通標識の「場の表現」のようなものは〈表現―即―「場の表現」〉ですが、わたくしが、文の中の語順は、語から見れば「場の表現」であるといったのは、〈表現―内―「場の表現」〉です

 また、数式や記号でも、分数のように、横線の上下に数字を書くのは〈表現―内―「場の表現」〉を含んだ表現であり、化学のベンゼン基の構造式も、六角形に記号を結びつけて書きますから、ここにも〈表現―内―「場の表現」〉があると思います》(川島正平「言語と記号の差異について 3」内の小川文昭氏の投稿文より。太字は引用者)






(2024年8月1日)

2024年08月01日

可愛がられていた中村光夫

 文芸評論家の巌谷大四氏は著書の中で、1941年の夏、はじめて中村光夫に会ったときに見た光景について、次のように印象深く語っています。

《 私はその前の年(1940年———引用者)の四月、早大を卒業して、文芸家協会の書記を勤めていた。その時の書記長が今日出海氏で、時々私を呑みに連れて行ってくれた。

 その日は、はじめに銀座出雲町の小料理店「はせ川」に行き、二軒目に「うしお」(という銀座のスタンド・バー ———引用者)へ行った。どちらも、今さんの関係していた「文學界」のグループの行きつけの店であった。

 そこで私は、生れてはじめてのすさまじい光景を見てしまったのである。

 ドアを開けたとたんにすごい罵声が聞こえて来た。何しろ、五、六人しか入れないスタンド・バーの、そのカウンターの上に一人の男があぐらをかいて、目玉をくりくりさせながらわめいていたのだ。それが、かの有名な青山二郎で、そのうしろ、つまりカウンターの中に立っているのが小林秀雄であった。その二人が、目の前に座っている中村光夫を、こてんぱァにやっつけているのである。そして、中村光夫は、うなだれて涙を流しているのだ。そのすさまじさにびっくり仰天した。そんなのを見たことのない私は、気が弱いから、それだけでふるえ上ってしまった。そして、今さんだけを押し込んで、するりと外へぬけ出して、逃げ帰ってしまった。

 翌日、今さんに会ったら、
「お前、なんで消えちまったんだ。あれからが、面白かったのに、馬鹿な奴だ。あんなのは、しょっ中だ。つまり、小林と青山は、ああやって中村を可愛がってたんだ。小林ってのは、自分の認めている奴を、ああやってしごくんだよ。青山は尻馬にのってるんだ。ああいうのをじっくり見ておかなくちゃだめだよ。あいつは、認めようと思う奴だけをやっつけるんだ。無視している奴は、全然相手にしないんだよ。よくおぼえておけ。編集者になるつもりなら、修行のうちだよ。あんなのびっくりしてちゃだめだ」とじっくり言われた。まず編集者失格であった》(巌谷大四『かまくら文壇史:近代文学を極めた文士群像』かまくら春秋社、1990年。太字は引用者)

 1941年といえば中村光夫はすでに文芸批評家としてそこそこ名の知られた存在であり、しかも30歳になっていたはずですが、それでもまだ小林秀雄との間にこんなに厳しい師弟関係があったのだということに驚かされます。「こてんぱァにやっつけている」の意味は、おそらく文学上のことで、中村が書いた内容が薄いとか理解が足りないとかいったことで小林が説教をしているということだと思うのですが、いくら師匠とはいえ、「尻馬にのっている」人の罵声とともにこんなにこてんぱんにやられるのは、今の時代ではなかなか理解されがたい現象といえる思いますが、まあこの時代はこういう時代だったのでしょう。

 それでも中村光夫はこの年から9年後(1950年)に『風俗小説論』を書いて、師匠とはまったく異なる文体である、みずからの「です・ます」体の批評スタイルを確立させることになるのですから、こうした壮年期における「可愛がり」の体験が何がしか役に立っている可能性も、いくらかはあるのかもしれません。あるいは、中村光夫は本当に肝の据わった人でしたから、「可愛がられ」ながらも、「あなたはそう言うけれども、いつか俺はあなたとは違う、俺のスタイルを確立するんだ!」と心の中で思っていたのかもしれません。今となっては、「古きよき師弟関係」といえるかもしれませんが、現代ではなかなかみられない光景かもしれませんね(中村光夫のエピソードでよく出てくる中原中也とのビール瓶のエピソードよりも、私はこの師匠による「可愛がり」のエピソードの方が強烈に印象に残っています。もちろん、読んだ印象ですが)。


 





(2024年8月1日)

2024年08月05日

「映画の本質に関する論綱」より


 三浦つとむの戦前の仕事の一つに芸術論、映画論がありますが、今日紹介する「映画の本質に関する論綱」(『文化映画研究』1940年10月号)もその一つであり、ごく一部を紹介します。

       ◇    

《 芸術とは、人間の意識の形象的形式に表現せられた客観的実在の総称である。映画の作家は対象をキャメラの眼もて観察し、その像を通じて自己の意識を観者に伝へる。存在するすべての映画は芸術である。

(美は主観的な意識であり、映画は客観的な実在にキャメラを向ける、その対象は美に非ずして実在である。更にまた美を芸術の本質となすときに於ては芸術と否とは主観に於てのみ区別し得るに過ぎぬ。一国を負ふ宰相も土人の幼児も人間たるに変りなく、存在の分類は客観的であり、その優劣の関するところではない。芸術たるや否やと芸術として優れたるや否やは別の問題であるにも拘らず、芸術と芸術の優劣が混同されてゐる。芸術たるや否やの区別は、客観的・形象的実在に於てなさるべきである)

       ◇     

 映画を他の芸術と区別するものはその形式に於てである。而して、映画自身の内的な分類にあつては、その基礎たる作者の意識に於けるものを、根本的な分類となすべきである。この作者の意識する世界像が、感覚をとほして対象から直接に与へられたものであるか、或は作者の空想に於いて、嘗て作者が外界から与へられた世界像を組立てたものであるかによつて、事実の映画と仮構の映画とを区別し得る。

(客観的な対象から感覚器官をとほして作者の頭脳に世界像が与へられる。これを文字を創作して表現するときは文學であり、画面を創作して表現するときは絵画、写真、映画などとなる。存在する文字はすべてその作者の意識を伝へる実在であつて、吾人は文字を伝へられるに非ずして文字の創作法――書き方を伝へられるものである。これは言葉が「出し方」を教へられ、発声者の意識を伝へるものであるのと全く同じことである。この存在する文字を相互に比較し形式の相似のみを直ちに同一内容のものと考へ、異つた作者の意識から生ずるといふ差異及び作者なくして存在し得ぬといふ不可分関係を無視し、「独立」の存在者と考へるときは、人間の存在以前の、人間以外の存在者の吾人に与へた創作物てふ神秘主義に真直ぐに転落するであらう。映画は視覚的・聴覚的に実在と近似した像をフイルムを通じて観者に伝へる。この現実的な世界は、作者の意識に関せず、それ以前に事実存在するものである場合と、意識的にスタヂオ内につくられた仮構の場合とが存在するものであるが、この対象を以て直ちに映画を区別すべきものではない。何故ならば、仮構の世界は、先づ作者の頭に構成され、又は文學を以て次第に、相伝へて作者の頭に移植された――原作者からシナリオ又は創作小説などの形式を経て近似的なイメエヂが送られて来た場合――ものを基礎とし、その空想的存在からその現実化としてスタヂオの舞台が生み出されるものであり、事実の世界とても、キャメラを操作する作者は視覚的な分析により同時に自己の脳中にイメエヂを総合的に構成しつゝ、それに従属してキヤメラが操作され、作者は自己の頭に反映した対象の世界の近似的な像を基礎として、これを出来る限り観者に正しく伝へるためにフイルムを編集するからである。編集と撮影の分業に於ては、編集者はラッシュに目をとほして脳中に総合的な像をつくり出し、それに従つて編集を行ふ。上述の如く、世界像は何よりも先づ作者の脳中につくられ、映画の基礎となる。ポール・ルータのストオリイ・フイルムと然らざるものの区別は、この対象からストウリイが頭脳に与へられたか、それともストウリイが頭脳で創作され恣意的に展開されかたの区別を指すものであつて、基礎的な分類である)》(以上、抜粋)(三浦つとむ〔当時はペンネームは高木場務〕「映画の本質に関する論綱」【『文化映画研究』1940年10月号所収】)

 

 内容としては三浦つとむの芸術論、映画論の原点を知ることが出来るものとなっています。「吾人」は山田孝雄の専売特許のように思っていましたが、若い頃の三浦つとむも使っていたのですね。言語規範の移り変わりの大きな転換期の一つとして、やはり1945年の敗戦というものがあるような気がします。







(2024年8月10日)

2024年08月10日

属性を具体的と抽象的と二重に立体的にとりあげる

〇“「書か」せる”について

《〈動詞〉に右のような〈接尾語〉を加えたものは、具体的と抽象的と運動・変化を二重に立体的にとりあげているわけですから、この二重性を特別に意識しなければならない場合も、時に起ってきます。かたちの上では同じ

 急いで書かせる。

を、発音のときは

 急いで書か――せる。(a)

 急いで――書かせる。(b)

と区別することがあります。これは内容がちがうのです。(a)は、普通以上に早く書くようにさせることで、ペンを持つ手そのものがはやく動かせられるのです。(b)は書かせることをはやくはじめるので、ペンを持つ手そのものは普通に動いているのです》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』〔講談社学術文庫版〕164頁)


 ――同じように、具体的と抽象的と実体を二重に立体的にとりあげている場合もあるのではないだろうか? もちろん〈形式名詞〉を使った例はそうであるが、それ以外にもあるのではないだろうか?






(2024年8月17日)

2024年08月17日

米津玄師が人とのコラボを始める過程について

 先日、シンガーソングライターの米津玄師が地上波のテレビのトーク番組に初出演(TBSテレビ『日曜日の初耳学』【米津玄師×林修】2024/8/25)ということで、ココイチが好きだという意外な側面が明らかになりSNS界隈ではいろいろと盛り上がっていたみたいですが、その番組の中で、米津玄師がボカロを卒業して表舞台に立つことを決意した経緯について自ら語っていました。いわく、ボカロの世界は受け皿が広くて心地よいものがある一方で、そこに居続けるということもそれはそれでまた狭い世界でもあり、自己完結ができるということの半面また窮屈な側面もあるということで、小さいころから、名前や顔を出して音楽活動をしている人たちに憧れていた自分のことを思い出し、2012年についに実名・顔出しでアルバム『diorama』を発表するに至ったということです。

 番組では、その結果、菅田将暉とのコラボ曲「灰色と青」やいまや国民的ソングとなった「Lemon」などが生み出されることになったとなっていましたが、以前私がエッセイ(「生きることの意義について」)で紹介したように、実は実名・顔出ししたのち、「そこから「灰色と青」(2017)や「Lemon」(2018)が生れるまでには、もう一段階、紆余曲折がありました。

 米津玄師は、実は2012年に満を持して発表したアルバム『diorama』の世間での受け入れられかたに違和感を覚えています。以下、特別ラジオ「米津玄師■と、Lemon」の内容を私が要約したものです。

《このアルバム(『diorama』)は自分の中では、完璧なJポップで普遍的なもの。幅広い世代に受け入れてもらえるものと信じていたのに、現実はそうではなかった。そこにズレがあった。このズレが何なのかについて、必死に考えた。このズレと向き合う必要を感じた。じゃあ、どうすれば多くの人に伝わる音楽を作ることができるのか?

 机の上にいろんなものを並べた。普遍的なものとは何か。人と人との間にある共感とかルールとは何か。そしてそれはどこから生れてくるものなのか。

 1年くらいずっと考えた。そして1年間の中でいろんな答えが見つかって、その中のひとつが、

 

『人と一緒にやっていく!』

 

『人と一緒に美しいものを作っていく!』

 

で、自分以外の誰かとの間に見つかる共通した部分、ルールとかそういったものを大事にしていく。そういうことがあるから、人に伝わるものになる。自分なんてしょうもないんすよ、基本的に。生れてきた瞬間から、人間は社会的な生き物であって、まあいろんな倫理観だとか、道徳だとか、そのコミュニティにおいてのいろんな所作を教えられながら生きてくるわけじゃないですか。そのいろんな積み重ねの上に自分がいるわけであって、そこで自分の肉体の中にあるものだけを見つめて行ったところで結局それは見つめて行けば行くほど外へ向いて行くしかないんですよね。まあ、(2012年から2013年にかけては)仲間を作るっていう1年になったと思うんですけど、それによっていろんな美しくもしょうもない友だちがいっぱいできまして、まあ、それによって今の自分が成り立っているなあっと思いますね》(特別ラジオ「米津玄師■と、Lemon」より)


 「自分なんてしょうもないんすよ」と言いますが、実は米津玄師自身も「自分は大切だ」と思っているはずで、そのうえで、「でもそれだけでは多くの人に伝わる普遍的なものは作ることが難しい」という認識があって、そこから考えに考え抜いた結果、多くの人と関わっていこう、広く社会と関わっていこう、他人や社会と関わって生ずる化学反応に、その変化に身をゆだねていこう、という前向きな意識に変わっていった、という過程が存在するわけです。その結果生まれたのが菅田将暉とのコラボ「灰色と青」であり、大ヒット曲「Lemon」であり、紅白初出場であった、ということになります。個人的には、上のたくさんできた「友だち」を形容する「美しくもしょうもない」という言葉に米津玄師の友だちに対する愛情を感じます。美しい表現だなあと思います。

 ———以上、米津玄師が実名・顔出しでアルバム『diorama』(2012)を発表したのちに感じた壁と、それを克服していく過程について書いてみました。

 






(2024年8月27日)

2024年08月27日

〈複合語〉とは何か?

「語」とは何か?


《一定の意味をもち、文をくみたてる上で、最小の単位となるもの》(『学研 現代新国語辞典』学習研究社、1994年)

 これが「語」についてよく知られている一般的な規定です。一方、文法学の大家、山田孝雄は次のように述べています。

「語とは、言語を思想の発表に用いられる材料として見たものである」(山田孝雄『日本文法学概論』20頁。引用者による要約)。
《単語とは語として分解の極に達したる単位にして、ある観念を表明して談話文章の構造の直接の材料たるものなり》(山田孝雄『改訂版日本文法講義』9頁)

 ここまでは、一般的によく知られている語論だと思いますが、次に紹介する時枝誠記は、独特の考えかたを公表しています。

《語は思想内容の一回過程によつて成立する言語表現である》(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』70頁)。

「一回過程」とは、言語を表現(あるいは理解)過程そのものと見る時枝の言語本質論に基づく考えかたで、具体的には次のような考えかたです。

《例へば、一輪の椿の花をとつて、これを〔ハナ〕といふ音声を以て表現するならば、これは、〔ハ〕といふ音声で花の或る部分を表はし、〔ナ〕といふ音声で花の他の部分を表はしたのではなく、〔ハナ〕といふ音声の結合を以て花を表はしたのであるから、これを一回過程の表現といふのである。即ちこのやうな表現過程を一語といふのである。もしこの場合、同じ花を指して〔ツバキノハナ〕といふならば、それは、〔ツバキ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回過程をとつた表現であるから、これを一語であるとすることは出来ないのである。この場合、表現される事物は前の場合と全く同じであるから、一語か否かの決定には、表現される事物の単複は、全く関係しないといふことがわかるのである。またこの場合、表現の媒材となる音声の単複といふことも、この語の単複とは関係がない。〔ツバキ〕は三音節から成つてゐるが、語としては一語である》(同上、70~71頁)

 つまり、音節や対象の多寡には関係なく、表現の過程において、あるまとまりをもった思想を外部へ表現する一回過程をへたものを一語とみなす、ということです。

 三浦つとむは、時枝と同じようなことを次のように述べています。

《言語で単語といわれるのは、その話し手の一概念が表現されている部分です》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』、75頁。太字は原文)

 三浦は「対象→認識→表現」という過程をへて物質的な音声や文字に一般的に表現されたものが言語であると規定していましたが、そういう見地から、単語とは「話し手の一概念が表現されている部分」であるといいます。三浦はもともと言語研究を始めた当初から、音声や文字はその感性的なかたちの面ではなく、人工の種類としての側面で表現しているととらえていたので、つまり抽象的・一般的な概念の表現が言語であるという考えかたなので、上記のような規定になることもよく分かります。



「複合語」とは何か?

 では、〈複合語〉についての各人の規定はどうなっているのでしょうか?

《本来独立して用いられる二つ以上の単語があわさって、一つの単語となったもの》(『学研 現代新国語辞典』学習研究社、1994年)

 これが一般的な〈複合語〉についての規定です。形式に偏り気味の規定です。

 

 一方、山田孝雄は〈合成語〉という用語を用いて、次のように規定しています。

《合成語とはその意義と形に於いて明かに二以上の単語の集合と見ゆるものにして、しかも他の補助成分(たとへば助詞、接続副詞等の如き)の助をからず、直ちに相合して文法上一の語として取扱はるゝものをいふ》(『日本文法学概論』593~594頁)

 これだけを見ると、先の一般的な〈複合語〉規定とあまり変わらないものに見えますが、山田は〈合成語〉には〈畳語〉と〈熟語〉があるといい、さらに〈熟語〉とは次のようなものであると規定します。

《熟語とは異なる語の集合して一となり、原の語の個々の意義をあらはすにあらずして、相合して成れる新しき一の観念をあらはせる合成語をいふ》(同608頁。太字は引用者)

 「新しき一の観念をあらはせる合成語」とは、具体的には次のようなもののことをさし、またそれも二種類に分類できると述べています。


《…この故にここに

  山桜  桜山

といふ語ありとせむに、これが「山」と「桜」との個々の意を以て使用せられたるものならば、そは二単語の集まりにして熟語と称すべからず。これが「山中に自生する桜」「桜の多き山」の義をあらはすに於いて、はじめて熟語と称せらるべきものなり。

 上に例示せる「山桜」「桜山」の二語は熟語たることは同じといへど、その組成分子たる各単語の相互の関係に至りては大に差あり。即ち「山桜」に於いてはその観念の主たるものは下にある語にして上にある語はその意義を限定する関係にあるものなり。この種類に属するものは「桜山」「山桜」「花桜」「桜花」等なり。これらは「桜山」といへば桜のある山をさし、「山桜」といへば、山にある桜若しくは桜の一種をさし「花桜」といへば花さける桜にして「桜花」といへば、桜の木の花をさすが如し。かくの如き性質の複合方法を主従複合といふ。即ち一方が主にして一方がそれの従属たるものにして、この種の熟語にありてはいつも下なる語が主にして上なるが、それの従属として修飾限定の用をなすなり。今又ここに「野山」といふ語ありとせんに、この場合にはこの二語相合してはじめて新に他の意をあらはせるものにしてその観念の主たる単語を指示すること能はず。この類のものは即ち「野山」が自然的なる荒涼たる地と同じ意となる。「山水」が風景といふと同じ意になれるものもこれなり。かくの如きを同格複合といふ。「春秋」にて年の意をあらはし「草木」にて植物の意をあらはし「西東」にて方角の意をあらはし「忠孝」にて主たる道徳の義をあらはすが如き皆これなり》(同608~609頁)


 このように山田は、〈合成語〉の一つである〈熟語〉とは、個々の要素(語)がそれぞれに意味を表すのではなく、全体で一つの観念を表現しているものであると規定します。また、それは個々の要素の結びつきのありかたから、〈主従複合〉と〈同格複合〉とに分かれると述べています。



 時枝は〈複合語〉について、次のように述べています。

《…なほ次のやうな場合をどのやうに説明すべきかといふ問題が起こると思ふのである。十字科〔十字花科。アブラナ科の旧称〕に属して「あぶらな」と云はれてゐる植物をとつて、これを〔ナノハナ〕と云つた場合、この構造は、前の「つばきのはな」と同一でないことが分る。「つばきのはな」は、一個の花が何に属するものであるかの説明であるのに対して、「なのはな」は、花そのものを云ひ表はすところの一回過程の表現であることが分る。ところが、この「なのはな」は、「花」を〔ハナ〕と云ふ場合の一回過程とは幾分の相違が認められる。それは、「なのはな」が一回過程の表現でありながら、その中になほ観念の分析と、それに対応する〔ナ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回の過程を包含してゐることである。即ちそれは三語を含むところの一語であつて、これを図解すれば次のやうになる。

 


(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』【岩波文庫版、2020年】72頁)

 

 ABCはそれぞれ語によつて表現される事物或は思想を意味し、abcがそれに対応する音声を意味するならば、イの場合は、Aといふ思想が音声aによつて表現される一回過程の語の場合を示し、ロの場合は、同じAが、表現の過程に於いて、B及びCといふ思想に分裂し、その分裂した思想に対応する音声bcによつて最初のAを表現しようとするのである。

 一般にこのやうな構造を持つた語を複合語或は合成語と呼んでゐる。複合語或は合成語は、その表現過程に於いて複雑な経過をとつたものであるにしても、その結果に於いては一回過程の一語と全く同じである。その点、説明的意図を含むところの「つばきのはな」はこれを複合語或は合成語とは云ふことが出来ないのである。一の図形を「三角形」と云つた場合、これを複合語であると云ふことが出来るが、同じ図形を「三辺によつて囲まれた図形」と云つた場合、これを複合語とは云ふことは出来ない》(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』70~73頁。太字は引用者)


 このように時枝は、複数の語をその内に含んではいるけれども、結果的に一回過程にて一つの思想を表現しているものを〈複合語〉として規定しました。この時枝誠記の規定によると、「早くしろオーラ」「困ったな状態」など、いわゆる逸脱的な造語法に属するさまざまな「文包摂名詞」も〈複合語〉としてとらえることが可能となります。「早くしろオーラ」も「困ったな状態」も、前項と後項では違った概念を表現しているようにも見えますが、全体としては、図の「ロ」の場合と同じように、一つの概念を表現しているともいえるからです。この「文包摂名詞」については、もっと細かな分析が必要なのですが、ここでは以上のように、「文包摂名詞」が〈複合語〉的な枠組みに当てはまる表現法の一つであることを指摘しておくことに留めておきます。


 三浦つとむは、〈複合語〉に関連して、次のように述べています。

《 私・の・本。
  梅・に・うぐいす。

 これらは三つの単語から構成されています。われわれは、これらを切りはなして扱い、それぞれの社会的な約束を辞書で説明しています。しかし多くの人びとが切りはなして扱うとか、辞書で別々に説明してあるとかいうことは、必ずしも基準にはなりません。これまでは二つの概念として表現し、単語を結合したいわゆる複合語として扱っていたのが、ある話し手の認識においては一つの概念として扱われることになり、ひいてはこれがあたらしく社会的な約束となることもあります。

 「白墨」が日本に入ってきたとき、これは字を書くためのものであるという機能の面で、古くからある「墨」の一種と考え、墨との区別をその色彩の点に求めて「白」という概念を添え、このような複合語をこしらえたと思われます。けれども墨と白墨との決定的な差別は、色彩の点にあるのではありません。一方は水にといて筆で書き、他方は個体のままで黒板に書くという点にあるのです。そのために、話し手の意識から「白」という概念がうすれていって、「白墨」全体が黒板に文字を書く用具そのものについての一概念の表現に変ってしまいました。その結果、色彩を意識するときは、あらためて「白い白墨」「赤い白墨」と表現することになり、見かけは奇妙でもこれが合理的なものとして今では一般に使われています。これに反して「墨」に対する「朱墨(しゅずみ)」は、水にといて筆で書くという点では墨と同質であり、色彩だけが決定的な差別なので、今もって複合語としての性格を失っていません。このように、単語と複合語の区別は話し手の認識を無視しては決定し得ないものであって、これはまた対象の構造によってその変化が規定されているのです。

 言語学者には、語のかたちや語が独立して使われるか、それともつねに他の語に伴うかたちで使われるかといった、形式のありかたから語を分類する傾向があります。けれども、この語の形式は内容によってささえられているのであって、たとえ形式は同じでも意義を異にする別の種類の語があるならば、形式を同じくする二種類の異なった語があると見なければなりません。「彼は急に笑いだした」というときは〈動詞〉でも、「部屋中に笑いの渦がひろがった」というときは〈名詞〉です。この区別も、行動をそのまま行動としてとらえたか、それとも行動を固定して実体的にとらえたかという、話し手の認識いかんに基づいています。つねに他の語に伴うかたちで使われても、〈助詞〉や〈助動詞〉は〈名詞〉や〈動詞〉とまったく異質の意義を持つ語ですから、これらも一語と見なければなりません。かつては二つの概念を複合して表現していたのに、現在では一つの概念の表現に変っているとすれば、複合語から単語に変化したものとして扱うのも、内容の変化による語の分類の変化です》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』【講談社学術文庫版、1976年】75~77頁)

 「チョーク」は、日本に入ってきたときは、「墨」と同じように字を書くという機能の面から同じ種類のものとして捉えられ、「白い墨」すなわち「白墨」と名づけられました。以後、色の意識が薄れていって、「赤いチョーク」と同じように「赤い白墨」などという表現も実際に行われた時もあったみたいですが、三浦は同じ「白墨」でも「白い墨」という意識が強く残ったまま表現されているときは〈複合語〉であり、「チョーク」と同じように黒板に字を書く用具という意識が前面に出て表現されたときは〈単語〉であると認識していたようです。三浦的立場からすると、「朱墨」のようなものが〈複合語〉であり、「なのはな」のような語は全体で一つの概念を表現しているので〈単語〉ということになり、この伝でいくと、山田孝雄のいう〈熟語〉も一つの観念を表しているので〈単語〉ということになりそうです。

 〈複合語〉に関しては、時枝誠記のいうように、表現過程において複数の語(らしきもの)や概念が含まれてはいるけれども、一つのまとまりをもった思想が一回過程において表現されたものを〈複合語〉と規定する、というのがもっとも理に適っているもののように思えます。なぜなら、先に少し触れたように、時枝のこうした考えかたはいわゆる「文包摂名詞」の問題にも適用できるように思えるからですが、ただ一方で、「文包摂名詞」の前項と後項がそれぞれ別の概念を表現していると捉えた場合、時枝の〈複合語〉概念に「文包摂名詞」は合致しないように思われてきます。その場合、〈複合語〉とは「朱墨」のようにそれぞれが別の概念を表現していると捉える三浦つとむのような考えかたをすると、「文包摂概念」もその内に含めることができそうです。――現代のいわゆる逸脱的な造語法である「文包摂名詞」を〈複合語〉とどのような関係において捉えるかという、この問題は、もっと深く、仔細に考えていく必要がありそうです。

 

 

 

(2024年9月7日)

2024年09月07日

三浦言語理論における「対象」とは何か?

 三浦つとむの言語理論でよく使われる「対象→認識→表現」という図式における「対象」について、三浦は次のように述べています。これは『日本語はどういう言語か』の旧版(季節社版)に掲載されている文章です。「思考言語」と「対象」との関係がおぼろげながらも見えてくる方も多いのではないでしょうか。時枝誠記のいう「素材」(事物、表象、概念)とも違う説明となっています。

《 誤解が起らないように、ここで認識構造の図解のしかたについて一言申しそえます。
 想像の世界に対象を設定するとき、ハッキリした感性的なかたちを伴うこともあり、また伴わないこともあります。

  昨日デパートで見たドレスがほしい。
  金が百万円くらいほしい。
  東洋の平和がつづいてほしい。

 「ドレス」はハッキリした感性的なかたちを伴っていますが、「平和」は抽象的な理念です。これらの言語表現の対象は、たとえ「ドレス」のような特定の感性的な事物であっても、その感性的な面をとりあげるのでなくて、種類としての普遍的な超感性的な面をとりあげていることは、さきに第一部でも説明しました。ですから、認識構造の図解で、対象を特定の感性的なかたちで描いてあっても、この感性的なかたち自体が対象になっているという意味ではありません。言語表現の対象は超感性的ですから、それをそのまま図に描くことはできないのです。

 多くの言語学者は「言語で考える」といいます。ソヴエトの心理学者も、頭の中に「思考言語」があると説明しています。なるほどわたしたちが考えるときは文字や音声を思いうかべますし、時にはこれがひとりごととして口に出ることもあります。これらは観念的な文字や音声です。現実の言語と関係はありますが、言語ではありません。文字や音声は、それぞれの対象と結びついて記憶されます。この場合文字や音声を思いうかべることは、とりもなおさずそれらに結びついている対象を想像の世界として想定することです。しかしこの対象は前にのべたように超感性的ですから、目に見えない想像の世界が想定されているということを見落してしまって、頭の中に文字や音声を思いうかべることそれ自体が思考であるかのようなまちがった解釈を下しがちなのです》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』【季節社、1971年】145~146頁。太字は原文)

 講談社学術文庫版でこの部分がなぜ削除されているのかは不明です。対象はすべて特殊的であるとともに普遍的であり、頭の中に「思考言語」として音声や文字を思い浮かべるとき、私たちは対象の普遍的な面すなわち超感性的な面をとりあげていることになるわけです(『日本語はどういう言語か』学術文庫版の67頁の図解を見ながら読むと理解しやすいと思います)。


 

 

(2024年9月15日)

2024年09月15日

「ので」と「です・ます」体

 以前、私は論文「『なので』と〈形式名詞〉論」の中で、国語学者永野賢氏の「『から』と『ので』論」について、三浦つとむの文法論の立場から触れたことがあります。そのとき三浦が批判の対象としていた永野氏の説は、話し手の主観で前件と後件を結びつけるのは「から」であり、「ので」は判断の表現ではなく因果関係の表現であるというものでした。三浦は、「ので」の「の」は〈格助詞〉ではなく属性の実体的なとらえなおしに使われる〈形式名詞〉であり、かつ「で」は判断辞「だ」の連用形であるとして、「ので」こそ話し手の主観で前件・後件を結びつけるものであり、「から」の方が因果関係の表現である、という説を展開していました。

 実は永野氏は、当時の同じ論文(「『ので』と『から』とはどう違うか」【『国語と国文学』1952年2月号】)の中で、話し手の主観で前件と後件を結びつけるのに「から」ではなく「ので」が用いられる例外として、次のような用例を挙げていました。

《〇今回「有名商社親睦野球連盟」が結成され、その第一回大会を行いますので御覧の程お願い致します
〇本誌の愛読者カードを整理したいと存じますので綴込みハガキに所要事項御記入の上、何とぞ御返送ください
〇帰ってくることになりましたのでこの部屋を空けて下さいませんか
〇遺失物のお知らせ  一品名 万年筆 一発見の場所 当局窓口 右の通り拾得しましたのでお心当りの方は当局窓口又は四谷警察署に御申出下さい。(警察)
〇混雑の折は約三十分はかゝりますのでお呼びするまで控席にてお待ち下さいませ。(病院)》
〇二階の女が、盛に亭主に向って、わめき立てゝいるんだけど、うるさくて仕方ないので、止めさせて、くれませんか
〇二月二十八日迄次の通り電力制限が実施されることになりましたのでお知らせ致します。(電力会社)》(永野賢「『ので』と『から』とはどう違うか」太字は原文では傍線、傍線は原文では傍点)

 永野氏は、「ので」のこのような例外的な用法が多いことの理由として、主観的な押しつけ表現である「から」を使うと《たゝみかけるような印象を相手に与えるのに対して、客観的表現である「ので」を使うと、自分を殺して主観を押しつけない、淡々と述べている、という印象を与える。すなわち、「から」だと、強すぎてかどが立つところを、「ので」を使うと、丁寧な、やわらかい表現になり、下にくる丁寧体の表現とよく照応するわけである》(同上。傍線は原文では傍点)と述べています。

 つまり永野氏の説だと「ので」は主観を含まないから丁寧体の表現とうまく照応するということになりますが、これに対して三浦つとむは、永野氏の説は原因と結果が逆になっていると主張します。すなわち、丁寧体だからそれと「照応する」「ので」が使われているのではなく、実は「ので」を使うから丁寧体が使われているのだというわけです。

《…論より証拠、文から〈敬語〉を除いてみるがよい。病院が「約三十分はかかるので呼ぶまで控席にて待て。」と書けば、患者は頭にくるにちがいない。部屋空け渡し要求も警察も電力会社も同じである。この「ので」を使った、内容的に強すぎてかどの立つ押しつけを、〈敬語〉特に相手を直接に尊敬する〈敬辞〉で飾って、「丁寧な、やわらかい表現」に仕上げ、いわば慇懃無礼の文体を創造したのではないか。「聞いておりませんから」よりも「聞いておりませんので」を好んで使うのも、聞いていないことに話し手として責任がないならば、理由の意識よりも理由それ自体を強く押し出すことによって、当然ではないかという毅然とした態度を〈敬語〉で飾って慇懃に表示できるからである。これらも〈敬語〉を除いてみると

聞いていない、わかりかねる。
聞いていないので、わかりかねる。

になる。「ので」を使うと、やわらかいどころか、いわゆる剣もホロロで木で鼻をくくったような冷酷な返事になってしまう。まだ「から」のほうが、これが理由だといっているだけましだという感じがする》(三浦つとむ『日本語の文法』〔旧版〕126~127頁。太字は原文では傍線。傍線は原文では傍点)

 ここで三浦が《「ので」を使った、内容的に強すぎてかどの立つ押しつけを、〈敬語〉特に相手を直接に尊敬する〈敬辞〉で飾って、「丁寧な、やわらかい表現」に仕上げ、いわば慇懃無礼の文体を創造したのではないか》と述べているのを読んで、なぜか私の脳裏に中村光夫の文体のことが思い浮かびました。周知のとおり文芸批評家の中村光夫は、「ので」を多用した「です・ます」体の文体で有名な人ですが、たしかに彼の批評文は非情な、厳密な論理的な性格を帯びており、それを「です・ます」体のオブラートで包んでいるような印象があります。かつて三島由紀夫は『文章読本』(中公文庫、1973年)の中で、中村光夫の文体について《中村光夫氏の文章は、小林(秀雄)氏のようにある意味での日本語への屈服を捨て、日本人の思考の型をことさらに排除しながら、実に厳密な論理的な文体を作りました。氏が有名な「です口調」を使いだしたのは、私には普通口語文のともすると陥りがちな日本的感性から身をそらし、現代の口語文の一種の有機性に背反し、無機的な文体を作ろうとした結果だと思われます。氏の長篇評論は、快い論理的展開にみち、日本語はかつてないほど論理的正確さを帯びさせられ…》(『文章読本』)と述べています。三浦によると、「ので」のような日本語を使って論理的正確さを追求した文体を作ると、当然内容が強すぎてかどが立ってしまい、「剣もホロロで木で鼻をくくったような冷酷な」表現になってしまいがちですが、それを中和してくれるのが「です・ます」体であるというわけです。三浦の「当然ではないかという毅然とした態度を〈敬語〉で飾って慇懃に表示できる」「慇懃無礼な文体」という表現と、三島の「日本的感性から身をそらし」た「無機的な文体」という表現は、きわめて似通っていて符節が合っています。批評家・中村光夫は論理的正確さを重視した文体を模索する中で、39歳のときに代表作『風俗小説論』を書くことで、自らの批評スタイルの大きな要として「です・ます」体批評を意図的に確立したともいえるかもしれません。中村の批評文の場合、「ので」をはさんで前件(前句)で述べた具体的な内容を後件(後句)でさらに抽象化して結論へと展開していくパターンが多くみられます。
 以下、中村光夫の批評文です。




《「神童」「異端者」「悪魔」と、少年期から青年期へ彼の自己について持つ意識の内容は変つても、その自意識の構造はまつたく同じであつたので、ここに彼の精神のもつとも個性的な相貌があると考へられます。

 あらゆる意味での異常な事物に対する熾烈な嗜好と、他からぬきんでる強い欲望から来る、自己を例外の存在と考へずにはゐられぬ性向は、近代のロマン派以来文学者に通例の傾向で、あへて異とするにたりませんが、谷崎の場合特殊なのは、彼がさうした生来の傾向を満足さす概念をいつも容易すぎるほど容易に見出し得たことで、ここに彼の目醒しい早熟な成功の原因があると同時に、この子供らしい自己欺瞞からの脱却が青年期を終つた彼に、芸術家として再生の課題になつた所以です》(中村光夫『谷崎潤一郎論』【日本図書センター、1984年、近代作家研究叢書39】初刊行は1952年。太字は引用者、以下同じ)



《花袋が自己の生活を「自然」のあらはれと見たとき、それに文学表現をあたへるに足る「意味」を見出したやうに、谷崎も自己を「悪魔」と信ずることで、その青春の官能の奔流を実生活の抵抗に打勝つて、表現する意力を支へたのです。両者はともに彼等の自我の文学的客体化の要求から生れた観念であり、彼等が芸術家として新しい進路をひらくに、思想の代用品たる役目を果したのです。

 しかし彼等はこの観念にむかつて歩む彼等の自画像を、作品のなかに描いただけであり、その観念自体を作品によつて証明する必要は感じなかつたので、もともと彼等の文学はその思想を生かし検証する場所でなく、むしろその思想を実生活と調和させる手段であり、彼等の作品はその調和の過程の報告であつたのです。

 したがつて、谷崎の「悪魔」も花袋の「自然」と同様にその制作に前提され、作品がその枠のなかでつくられる観念である点で、まさしく私小説的性格を持つてゐます》(同上)



《もともと(小栗)風葉は露伴の影響を強くうけながら、硯友社の傘下に身を投じて、或る時期には紅葉の後継者と目されるなど、片岡良一の云ふやうに、「その出発の抑々(そもそも)から、彼自身の主張や立場を敢へて有たうとするのでなく、他からの借物によつてまづ身を装はうとした人」であり、したがつて紅葉の死後、硯友社の没落が決定的になつてくるにつれて、当代一流の小説的手腕を持ちながら、新文学台頭の勢ひには人一倍頭を悩ませ、かつこれに鋭敏に適応しようとした人です。いはば彼は青年時代に紅葉と露伴のあひだを巧みに泳いで、その作家的地歩を築いたやうに、外国文学の影響がやうやく圧倒的になつた日露戦後の新時代と、硯友社の文芸技法との混合を企てたので、「青春」は作者に同情して云へばこの傷ましい努力の記念碑と見られます。つまり「金色夜叉」から「蒲団」まで、わづか数年のあひだに推移してしまつた、当時の文壇の過渡的の性格を、消極的ではあるが、もつとも忠実に反映した作品なので、それが易々として得た華々しい成功と、まもなく陥つた不当なほど悲惨な忘却との謎を解く鍵もここにあると思はれます》(中村光夫『風俗小説論』【河出書房、1950年】)



《以下、「蒲団」のどのような側面が同時代人の関心と模倣を呼び、それがどういふ結果に終つたかを分析して見ませう。

 まづ第一に問題になるのは花袋の最大の独創であつた、外国小説または戯曲の人物にみづからなりきつて、(またはなつたつもりで)その作品のモチイフを生きて見、同時にさうした演戯をする作者の姿をそのまま小説の主人公とする方法です。

 小説の方法としてどのやうな欠陥を孕んでゐたかを別とすれば、ともかくこれが西欧の近代文学をアダプトする方法として、極めて手軽であると同時に確実なやり方であつたのは事実なので、しかもそれは外国小説を筋立や文章の外面のみしか理解せず、したがつてそれしか模倣しなかつた硯友社時代に較べれば、たしかに内面化した進歩であつたのです。

 何故ならかういふ演戯をするには、少なくも外国小説の主人公とともにその作品の「気分」または「問題」を生きて見ることが、不可欠の前提であつたので、このやうな作業は江戸伝来の戯作趣味や封建道徳に染つた旧時代人には不可能であつたのです。

 したがつてかういふ観念的陶酔に身を委ね得ることは、それだけで新時代の代表者たる資格であるとともに、さらに好都合なことには、或る外国作品の観念に陶酔する主人公の姿を日本の環境に描きだすことが、そのまま作者の思想を、肉体と生活を通じて我国に移植することと見られたので、極端な云ひ方をすれば、ポオの小説にかぶれた主人公を描けば、それがそのままポオの思想の我国の環境へのアダプテーションになり、トルストイの小説の「影響」をうけた主人公を描いても同様であつたのです。

 作家は自己の個性の好むところにしたがつて、といふよりその個性の演戯にもつとも適当な外国小説を選んで、これを舞台とすれば、その個性の表現と同時に新しい外国思想の肉化も達成されたので、この意味で私小説の方法は外国文学移植のためにも、まことに手軽で便利な装置であつたわけです。西欧思想の奔流のなかで、いかにしてその影響を消化するかにもがいてゐた当時の文壇が、この便利の前には、外国文学を所有するよりむしろ所有されることを前提とするこの方法の浅薄さなど顧る余裕がなかつたのは当然の成行でした》(同上)


———どれもきわめて理知的・論理的で説得力のある文章ですが、中村の少々強引と思われるような論理的なまとめも、「です・ます」体がうまい具合に緩和させているように感じられます。中村光夫は、彼の敬愛する二葉亭四迷と同じように、自らも評論の分野ではありますが、新たな近代的な文体の創造者としての一面も持っているように思われます。

 

 

 


(2024年9月11日)

2024年09月07日

日本語の〈動詞〉〈形容詞〉はどう違うか?

日本語の〈動詞〉〈形容詞〉はどう違うか?


 日本の学校文法では、「動詞は事物の動作・作用などを表し、形容詞は事物の状態・性質などを表す」などと説明しており、日本語の〈動詞〉と〈形容詞〉の違いについて明確な説明を与えているとはいえない状態です。一方、1936年に山田孝雄はこの問題についてすでに次のように述べていました。

 《(動詞と形容詞の区別について)吾人の求むる分釈の原理は結局その客観たる属性を吾人の主観に於いて如何様に取扱ふかといふことに存すといふべき(中略)…その属性が時間的に変遷すべき発作性のものとしてあらはされたる場合には動詞となり、又その属性が超時間に固定し、又は存続すべき性質のものとしてあらはされたる場合には形容詞となるといふことを得るなり》(『日本文法学概論』196~197頁)

 つまり、表現主体が属性を動作性・作用性を持つものとして、動的にとらえて表現したものが〈動詞〉となり、表現主体が属性を状態性を持つものや性質的なものとして、静的にとらえて表現したものが〈形容詞〉となるというわけです。三浦つとむはこの山田の説を継承して、《〈動詞〉は属性を運動し発展し変化するものとしてとらえて表現する。〈形容詞〉は属性を静止し固定し変化しないものとしてとらえて表現する》(『日本語はどういう言語か』159頁)と分かりやすく説明しています。私もこの山田孝雄や三浦つとむの説を採用する立場です。


〈静詞〉とは何か?

 学校文法では「重厚だ」「便利だ」などの表現を一語として、すなわち〈形容動詞〉として認めていますが、三浦つとむ(もちろん時枝誠記も)はこれらの表現を二語と見て〈形容動詞〉説を否定しています。三浦は、これらの表現の成り立ちから丁寧に説明して一語説を否定します

《そこ(歴史的に、〈動詞〉に比べて〈形容詞〉の発達が不十分だったところ)へ漢語が入ってきたのです。日本人は輸入された書物にある外国語の表現を、なんと読むか、日本語にどうとりいれるかの問題にぶつかったのでした。漢語には「綺麗」「堅固」「従順」「残酷」「誠実」「厳重」など、事物のこみいった属性を端的に表現するものがたくさんあります。「うつくしい」「かたい」「おとなしい」「むごい」など、形容詞の中で漢語に近い内容を表現するものもありますが、〈形容詞〉では表現できないものもすくなくありません。それで〈形容詞〉の不足を補うものとして、これらの漢語を音で読んで日本語にとりいれることになりました。これらは静止し固定し変化しない属性として対象をとらえているのですから、〈助詞〉の「に」と〈助動詞〉の「あり」とが熟合して生れた「なり」をむすびつけて

  これは本なり。
  彼を訪問せんとするなり。
  天候険悪なり。
  警備きわめて厳重なり。

 のように、〈名詞〉〈動詞〉の場合と同じような使いかたをすることになりました》(『日本語はどういう言語か』170~171頁)

 こうして、この種の表現が多く使われるようになったのですが、三浦は《漢語につけられたのは、それまでに使われていたままの日本語です。漢語の活用をこしらえたのでもなんでもありません》(同、太字は原文)と言い、「語尾」とされる「なり」や「だ」は普通の〈助動詞〉であると主張します。そうなると、残された〈形容動詞〉の語幹部分、すなわち「険悪なり」の「険悪」や、「厳重なり」の「厳重」などを品詞としてどう扱うかという問題が浮上してきます。

《 〈形容動詞〉を解消して二語にすると、「静か」「おだやか」「さわやか」「ほがらか」「つまびらか」など、〈形容動詞〉の語幹とよばれているものをどう分類するか、が問題になります。松下大三郎氏は〈形容性無活用語〉とよびましたが、性格的に見て正当な扱いかただと思われます。静止し固定し変らない属性として対象をとらえる語には、活用のあるものも活用のないものもあって、その中の活用のあるものを〈形容詞〉とよぶことにしているのですから、これと活用のない〈形容詞〉的な内容の語とを一括して、〈静詞〉とよぶこともできるでしょう》(同、175頁。太字は原文)

 〈形容詞〉を含む静的属性概念を表現する語をまとめて〈静詞〉とよぶことは、内容的に考えてもきわめて妥当な感じがします。「暗鬱」「安心」「意外」「有耶無耶」「艶麗」「億劫」「魁偉」「豁然」「奇矯」「屈強」「厳格」「幸運」「雑駁」「自然」「崇高」「清潔」「荘厳」「達者」「長大」「鈍重」「難解」「熱烈」「能弁」「漠然」「風雅」「平和」「脈脈」「無機質」「明瞭」「野卑」「幽玄」「幼稚」「冷静」など、実にたくさんの漢語が〈静詞〉に分類されることになるし、また、カタカナの外来語である「アカデミック」「インターナショナル」「カジュアル」「サスティナブル」「チャーミング」「ニュートラル」「ハッピー」「マイルド」「リズミカル」なども〈静詞〉に分類されることになります。その一方で、「大きい」「楽しい」「美しい」などの旧来の〈形容詞〉は、活用のある〈静詞〉ということになります。


 


(2024年9月16日)

2024年09月16日

動的属性概念を表現する語について

動的属性概念を表現する語について



 すでに見てきたように、日本語の〈動詞〉は属性を運動し発展し変化するものとしてとらえて表現する語ですが、当然のことながら、形式より内容を重視した観点から調べてみると、この種の語にも「安心」「成功」「満足」「スタート」「エンジョイ」「リストラ」など活用を持たないものが数多く存在します。学校文法では、これらを〈動詞〉「する」と一緒にして「安心する」「成功する」「満足する」「スタートする」「エンジョイする」「リストラする」などをそれぞれ動詞として扱い、「サ変動詞」あるいは「サ変複合動詞」と呼んでいます。この考えかたでは、「安心」「成功」「満足」「スタート」「エンジョイ」「リストラ」などは「サ変動詞」の語幹ということになります(一部、〈名詞〉として説明しているものもあります)。

 一方、三浦つとむはこれらの語について、次のように述べています。


《  犯人が逃走する
   友人を信用する
   試合に勝利てうれしい。
   おそいので失礼ます。


 漢字を二字組み合わせた熟語には、〈動詞〉に相当する行動や状態を意味することばがたくさんあります。これらは〈動詞〉とちがって活用がないので、そのあとにほかのことばを加えるのに不便ですし、これらの語で文が終ってもそれを明らかにすることができません。そこでこの具体的な意味の熟語を、〈抽象動詞〉(学校文法でいうところの〈補助動詞〉――引用者)の「する」でもう一度とらえなおして、この語の活用を利用する使いかたが生れました》(三浦つとむ『こころとことば』124頁。傍線は原文では圏点)

 《 「労働」「勉強」「打倒」などのような漢語は、日本語の〈動詞〉と共通した対象の運動的・発展的な把握を表現する語なのだが、これを日本語として使おうとしても〈動詞〉とちがって活用がない。他の外国語にしても同じである。そこで、それらの語の対象をいま一度抽象的にとらえなおして〈形式動詞〉「する」を加え、「労働する」「勉強する」「打倒する」のように、あるいは「アルバイトする」「スピーチする」「スケッチする」のように表現している》(三浦つとむ『日本語の文法』198頁。傍線は原文では傍点)

 このように、三浦は学校文法とちがって、「労働」「勉強」「打倒」「アルバイト」「スピーチ」「スケッチ」などの語を、それ自身単体として、「日本語の〈動詞〉と共通した対象の運動的・発展的な把握を表現する語」として、たんなる〈名詞〉とは異なる動的な属性表現の語として認めています〔注〕。三浦の言うように、これらの語は実はそれ自身立派な属性表現の語ですが、現実には活用がないと使いにくいので、〈形式動詞〉の「する」で具体的な属性を抽象的にとらえなおすとともに、その活用を使っているというわけです。三浦自身はアカデミックな学者ではありませんでしたので、また後年、語の分類を網羅的にするような学術書を書く機会もなかったため、この「労働」「勉強」「打倒」などの語をなんと呼ぶかについては特に言及しませんでした。これらの語については、山浦玄嗣氏は「動体詞」(『ケセン語大辞典上巻』66~67頁)、上田博和氏は「無活用動詞」(「無活用動詞論」、『言語過程説の探求 第一巻』所収)と命名しています。


上田博和氏の「無活用動詞」論


 上田博和氏は、三浦つとむが『日本語はどういう言語か』(旧版134~135頁)の中で〈静詞〉について述べている箇所を真似して、動的属性概念を表現する語について、次のように述べています。


運動し変化する属性において対象をとらへるときの語は、動詞だけではありません。漢語そのほかたくさんあります。そのたくさんのうちで、特別に四段その他の活用をする語だけが動詞とよばれてゐるにすぎないのです。活用するといふことは、この種の語の持つ特殊性として考へるべきものなのです。

 わたしとしては、動詞サ変動詞の語幹といはれてゐるものを一まとめにし、運動し変化する属性をとらへるといふ意味でこれを静詞に対して改めて「動詞」と名づけたらどうかと考へてゐます。次のようになります。
  
     活用動詞(動詞)
    ↗
  動詞
    ↘
     無活用動詞

 運動し変化する属性として対象をとらへる語には、活用のあるものも活用のないものもあつて、その中の活用のあるものを動詞とよんでゐるが、これを「活用動詞」とよび換へて、これと活用のない〈動詞〉的な内容の語即ち無活用動詞」とを一括して、新たに動詞〉とよぶこともできるでせう》(上田博和「無活用動詞論」【『言語過程説の探求 第一巻』明石書店、2004年。98頁】太字は原文)

 〈静詞〉に対しての〈動詞〉という語の再定義を促すとともに、これまで名無しの権兵衛だった広範な一連の語群に対して、一般妥当と思われる命名をしており、すばらしい案だと思います。


   ~     ~     ~
〔注〕上田博和氏は、「無活用動詞論」の中で、三浦が「労働」「成功」「放任」などの語を〈動詞〉として認定しておらず、むしろ〈名詞〉として認定していると主張しています。

《 漢語は活用しないから〈形容詞〉ではないが、漢語「綺麗」と和語「美しい」とは活用の有無といふ相違を超えて、静的属性概念の表現といふ点で共通である。これに着目して〈静詞〉といふ新たな品詞を創造したのが、〈形容詞〉的な内容の漢語に対する三浦の方法である。ところが、〈動詞〉的な内容の漢語に対しては(漢語「労働」と和語「働く」とは、活用の有無といふ相違を超えて、動的属性概念の表現といふ点で共通であるのに)三浦はこの方法を採用しなかった。三浦は「漢語には動詞的な内容を持つものがいろいろある」と述べて、例へば「労働する」「成功する」「放任する」などの「労働」「成功」「放任」を〈動詞〉的な内容の漢語と認めるが、これを動詞としては認定してゐない。さうして、むしろ〈名詞〉と認定してゐる。

  〔名詞を使って「全員起立!」とか命名している(中略)。〕【三浦つとむ『言語過程説の展開』勁草書房、1983年。509頁】》


 上田氏は三浦が「労働」「成功」「放任」などの語を〈動詞〉として認定していないというけれども、先に引用した『こころとことば』や『日本語の文法』の内容から明らかであるように、三浦はこれらの漢語が「日本語の〈動詞〉と共通した対象の運動的・発展的な把握を表現する語」であることを認めています。ただ、〈静詞〉論のときのようにこれらの漢語や外来語について命名を提案するということをしていないだけです。上に上田氏は《名詞を使って「全員起立!」とか命名している》という三浦の短い文章を引用していますが、かりに三浦が「命令形」の認識構造が話題の場面で「起立」を〈名詞〉扱いしたとしても、それをもって三浦が「起立」に動的属性概念を表現する場合があることを否定したということはできないと、私は思っております。






(2024年9月18日)

2024年09月18日

中村光夫による小林秀雄への最後の言葉

 中村光夫は1986年に『知人多逝』(筑摩書房)という本を出しています。題名は江戸から明治にかけて思想家・ジャーナリストとして生きた栗本鋤雲(くりもとじょうん)の書いた文章に拠ります。このなかで、師である小林秀雄について中村が書いた最後の文章を紹介しておきます。


《 この三月一日に小林秀雄氏が亡くなられました。別に思いがけないことではなく、氏が科学的に見れば、「助からない」のは、数ヶ月前から、わかっていましたが、それでも氏の「生きている」事実の大きさは、期限付になって、始めて味わえることでした。

 この意味で小林氏の死は、氏の著作に親しんだ者には、一種の不意打といってもよかったので、それが人々を驚ろかすのを止めたとき、氏の思想の内容は始めて人々の血肉となる筈です。

 氏の批評家としての守備範囲はそれほど広いものではなく、現代の事象とも、幅広くかかわったわけではありませんが、その代り、情熱をこめて掘り下げた対象にむかっては、真髄を把まずにはいなかったので、たえず新しいものに興味をもって立ちむかった氏の批評態度は、間口をひろげる代りに、鋭い切先で、対象の本質を攻め、深く掘り下げることで、大きな鳥観図をつくりだしたといえましょう。

 里見弴氏の陰芸陽芸の説をかりれば氏の晩年の仕事は、陰芸に徹したものですが、それだけに陽にむかって発しようとする力も見られたので、「宣長」を完成したあとにもそれぞれモノグラフィーの発端と読むべき仕事が、ちょうど火山の大噴火のあと新しい火口が煙をあげるようにいくつか見られました。正宗白鳥、フロイト、その他相互にまだつながりの見られぬいくつかのテーマが、同時に違った方向に火を噴くのは、氏の仕事ぶりでもかつて見られなかった壮観だったので、氏の精神はかつてない活動時期に這入ったように、思われました。

 死んだ人間はみな羨しいほど輪郭がはっきりしている、と氏は云っていましたが、生きるとは形のきまらぬ可能性を自分のなかに探ることだったのでしょうか》(小林秀雄氏・文芸評論・昭58〔1983〕・3歿)(中村光夫『知人多逝』【筑摩書房、1986年】より)

 例によって中村の文体のせいでずいぶん冷静に感情を抑えて書かれているように見えますが、おそらく泣きながら書いたのではないかと私は勝手に思っています。





(2025年3月1日)

2025年03月01日

走ることの効用

 中村光夫は昭和49年(1974年)の日記に、「駈け足の効用」と題して、次のように書いています(中村は63歳でした)。

《 この夏から、毎朝、家の近くを十分ほどランニングしています。トレーニング・パンツに運動靴をはき、格好だけは一人前ですが、年のせいか、歩くのと駈けるのとの間ぐらいなスピードです。

 それでも谷間の道を往復してもどってくると、帰りが登り坂のせいもあって、今ごろの陽気でもスエーターを脱ぎたくなります。走っている間より、すんでから身体がぽかぽかするのはいい気持ちで、起きぬけの憂鬱など自然けしとんでしまいます。

 六十をすぎてから、何故こんなことを始めたかというと、かなり身体の衰えを痛感したからです。脚と腰が弱くなり、立ち居振る舞いがのろくさく、不確かになり、思いがけないときよろけたりする、これも老化の避けられない現象かもしれないが、適当な刺激をあたえることで、さきに延ばすことはできないものか。そんな考えで始めた駈け足ですが、思いがけない拾いものは、この単純な肉体運動の精神的効果でした。

 年寄りの寝起きは悲しい、などといまさら云うと嗤われそうですが、実際、こんなに嫌なものとは、予想できないことでした。ことに前の晩ねむりすぎて早く眼が醒めてしまったときなど、死んだ友達や家族を妙に生々しく思いだしたり、自分の死にざまを考えたり、ろくなことはありません。こうした暗い気持ちは放っておけば朝飯のあとまでつづくのですが、それが十分の駈け足できっぱり消え、張りのある気持ちになれるのは不思議なくらいです》(中村光夫『知人多逝』より。太字は引用者)

 中村は60歳を過ぎてから、鎌倉の扇ガ谷の坂道を毎朝走っていたみたいですが、走ることによる精神へのプラスの影響について率直に語っています。この手の考えかたは、今だとアンデス・ハンセン著『運動脳』(サンマーク出版、2022年)が有名ですが、実際私も30分ランニングを隔日でおこなっていますが、たしかにあまりくよくよ考えることがなくなったように思います。今朝は走っていると、そこらじゅうの車のフロントガラスが雪を被っていて、昨夜雪が降ったのだなと知ることができました。天候や季節や街を肌で感じることができる、それもランニングの魅力的な効用のひとつだと思います。





(2025年3月9日)

2025年03月09日

映画『Love Letter』について

 雨の中、映画を観てきました。『Love Letter』(1995年)の4Kリマスター版です。(ネタバレあります)

 以前、たしかテレビかDVDで観たことがあったと思うのですが、すごく良い映画だなと感銘を受けたのを覚えています。それからだいぶ時間が経ち、少し前に主演の中山美穂さんが亡くなられていることもあり、また映画館で観てみたいという気持ちもあって、観てきました。あらためて映画館で観て、普通のファクトと奇跡的なファクトとが幻想的なストーリーをうまく支えていて岩井俊二監督の力量を感じました。音楽や照明の使いかたもセンス抜群。今回見て、思った以上に、藤井樹(いつき)の中学時代のエピソードがしっかり描かれていて、前回とちがって今回は複雑なストーリーを全部理解することができました。

 女性の藤井樹は渡辺博子に対して手紙を何回も送り、博子の亡くなった婚約者(男性の藤井樹)の中学時代のエピソードを伝えるのですが、その中に、男性の藤井樹が本を借りる際、図書委員である女性の藤井樹に「藤井樹」と書かれたたくさんの図書カードを渡す場面があります。映画の最後のほうで、博子は、カードに書かれたその「藤井樹」という名前は、自分のことではなく、男性の藤井樹が女性の藤井樹のことを想って書いたものではないかと、自分の予想を女性の藤井樹に伝えます。「言語表現あるある」で、映画の観客はここで図書カードの「藤井樹」という表現の対象が、実は柏原崇(男性の藤井樹)ではなく、酒井美紀(女性の藤井樹)だったのか、と対象を変換して脳裏に思い描きます(すなわち、酒井美紀の顔を思い浮かべます)。その直後に最後の場面が来ます。大人の女性の藤井樹(中山美穂)の家に、前に知り合った中学校の図書委員の女の子たちが一冊の本を持ってやってきます。女性の藤井樹がその本を受けとり、中の図書カード見てみると、そこには「藤井樹」とだけ書かれています。そして彼女が女の子たちにうながされてカードの裏を見てみると、そこには中学時代の女性の藤井樹(酒井美紀)の似顔絵が描かれており、そこで彼女は初めて男性の藤井樹の自分に対する恋心に気づき、照れながら涙ぐみます。で、エンドロール。ここで観客は、さきほど博子の言葉によって脳裏に描いた酒井美紀の顔が、いま見た図書カードの酒井美紀の似顔絵と二重写しになって、また、博子の予想が的中していたこと知って、感動の大団円を迎えるわけです。――最後の音楽も、豊川悦司など俳優陣の演技も素晴らしかったです。

 素晴らしい休日を過ごせました。ありがとうございました。




(2025年4月13日)

2025年04月13日

大橋穣二氏の「事象部」と「判断部」

 時枝誠記は自らの詞辞論を背景にして、文における接続関係を独自に意味的に考察した。「私」(詞)+「は」(辞)のような連結の関係を「加算法的」であるとし、「怪しま」(詞)+「る」(詞)のような連結の関係を「乗算的」であるとした(「文の解釈上より見た助詞助動詞」【1937年3月】)。

 その後、詞(客体的表現)に辞(主体的表現)が連結して加わった関係を「添加関係」とよび、詞(客体的表現)同士が連結して、「下の語」が「上の語」を統合してまとまった内容を形成している関係を「統合関係」とよび、それらを「入子型統合形式」によって図解化した(「語の形式的接続と意味的接続」【1937年8月】)。


 今回、大橋(穣二)氏は、独自に接続関係の意味的な考察を行い、観念的自己分裂という観点も含めて、文を意味的に解析して図解化した。それに伴い必然的に分類されたのが、「事象部」と「判断部」である(『英文構造マンダラ』)。私たちは図解の「事象部」と「判断部」の関係を丹念にひもといていくことによって、時枝や三浦の「入子型構造形式」以上に、語の接続関係と意味的関係とを同時に、分かりやすく、しかも総合的に理解することができるであろう。





(2025年4月22日)

2025年04月22日