〈複合語〉とは何か?

「語」とは何か?


《一定の意味をもち、文をくみたてる上で、最小の単位となるもの》(『学研 現代新国語辞典』学習研究社、1994年)

 これが「語」についてよく知られている一般的な規定です。一方、文法学の大家、山田孝雄は次のように述べています。

「語とは、言語を思想の発表に用いられる材料として見たものである」(山田孝雄『日本文法学概論』20頁。引用者による要約)。
《単語とは語として分解の極に達したる単位にして、ある観念を表明して談話文章の構造の直接の材料たるものなり》(山田孝雄『改訂版日本文法講義』9頁)

 ここまでは、一般的によく知られている語論だと思いますが、次に紹介する時枝誠記は、独特の考えかたを公表しています。

《語は思想内容の一回過程によつて成立する言語表現である》(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』70頁)。

「一回過程」とは、言語を表現(あるいは理解)過程そのものと見る時枝の言語本質論に基づく考えかたで、具体的には次のような考えかたです。

《例へば、一輪の椿の花をとつて、これを〔ハナ〕といふ音声を以て表現するならば、これは、〔ハ〕といふ音声で花の或る部分を表はし、〔ナ〕といふ音声で花の他の部分を表はしたのではなく、〔ハナ〕といふ音声の結合を以て花を表はしたのであるから、これを一回過程の表現といふのである。即ちこのやうな表現過程を一語といふのである。もしこの場合、同じ花を指して〔ツバキノハナ〕といふならば、それは、〔ツバキ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回過程をとつた表現であるから、これを一語であるとすることは出来ないのである。この場合、表現される事物は前の場合と全く同じであるから、一語か否かの決定には、表現される事物の単複は、全く関係しないといふことがわかるのである。またこの場合、表現の媒材となる音声の単複といふことも、この語の単複とは関係がない。〔ツバキ〕は三音節から成つてゐるが、語としては一語である》(同上、70~71頁)

 つまり、音節や対象の多寡には関係なく、表現の過程において、あるまとまりをもった思想を外部へ表現する一回過程をへたものを一語とみなす、ということです。

 三浦つとむは、時枝と同じようなことを次のように述べています。

《言語で単語といわれるのは、その話し手の一概念が表現されている部分です》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』、75頁。太字は原文)

 三浦は「対象→認識→表現」という過程をへて物質的な音声や文字に一般的に表現されたものが言語であると規定していましたが、そういう見地から、単語とは「話し手の一概念が表現されている部分」であるといいます。三浦はもともと言語研究を始めた当初から、音声や文字はその感性的なかたちの面ではなく、人工の種類としての側面で表現しているととらえていたので、つまり抽象的・一般的な概念の表現が言語であるという考えかたなので、上記のような規定になることもよく分かります。



「複合語」とは何か?

 では、〈複合語〉についての各人の規定はどうなっているのでしょうか?

《本来独立して用いられる二つ以上の単語があわさって、一つの単語となったもの》(『学研 現代新国語辞典』学習研究社、1994年)

 これが一般的な〈複合語〉についての規定です。形式に偏り気味の規定です。

 

 一方、山田孝雄は〈合成語〉という用語を用いて、次のように規定しています。

《合成語とはその意義と形に於いて明かに二以上の単語の集合と見ゆるものにして、しかも他の補助成分(たとへば助詞、接続副詞等の如き)の助をからず、直ちに相合して文法上一の語として取扱はるゝものをいふ》(『日本文法学概論』593~594頁)

 これだけを見ると、先の一般的な〈複合語〉規定とあまり変わらないものに見えますが、山田は〈合成語〉には〈畳語〉と〈熟語〉があるといい、さらに〈熟語〉とは次のようなものであると規定します。

《熟語とは異なる語の集合して一となり、原の語の個々の意義をあらはすにあらずして、相合して成れる新しき一の観念をあらはせる合成語をいふ》(同608頁。太字は引用者)

 「新しき一の観念をあらはせる合成語」とは、具体的には次のようなもののことをさし、またそれも二種類に分類できると述べています。


《…この故にここに

  山桜  桜山

といふ語ありとせむに、これが「山」と「桜」との個々の意を以て使用せられたるものならば、そは二単語の集まりにして熟語と称すべからず。これが「山中に自生する桜」「桜の多き山」の義をあらはすに於いて、はじめて熟語と称せらるべきものなり。

 上に例示せる「山桜」「桜山」の二語は熟語たることは同じといへど、その組成分子たる各単語の相互の関係に至りては大に差あり。即ち「山桜」に於いてはその観念の主たるものは下にある語にして上にある語はその意義を限定する関係にあるものなり。この種類に属するものは「桜山」「山桜」「花桜」「桜花」等なり。これらは「桜山」といへば桜のある山をさし、「山桜」といへば、山にある桜若しくは桜の一種をさし「花桜」といへば花さける桜にして「桜花」といへば、桜の木の花をさすが如し。かくの如き性質の複合方法を主従複合といふ。即ち一方が主にして一方がそれの従属たるものにして、この種の熟語にありてはいつも下なる語が主にして上なるが、それの従属として修飾限定の用をなすなり。今又ここに「野山」といふ語ありとせんに、この場合にはこの二語相合してはじめて新に他の意をあらはせるものにしてその観念の主たる単語を指示すること能はず。この類のものは即ち「野山」が自然的なる荒涼たる地と同じ意となる。「山水」が風景といふと同じ意になれるものもこれなり。かくの如きを同格複合といふ。「春秋」にて年の意をあらはし「草木」にて植物の意をあらはし「西東」にて方角の意をあらはし「忠孝」にて主たる道徳の義をあらはすが如き皆これなり》(同608~609頁)


 このように山田は、〈合成語〉の一つである〈熟語〉とは、個々の要素(語)がそれぞれに意味を表すのではなく、全体で一つの観念を表現しているものであると規定します。また、それは個々の要素の結びつきのありかたから、〈主従複合〉と〈同格複合〉とに分かれると述べています。



 時枝は〈複合語〉について、次のように述べています。

《…なほ次のやうな場合をどのやうに説明すべきかといふ問題が起こると思ふのである。十字科〔十字花科。アブラナ科の旧称〕に属して「あぶらな」と云はれてゐる植物をとつて、これを〔ナノハナ〕と云つた場合、この構造は、前の「つばきのはな」と同一でないことが分る。「つばきのはな」は、一個の花が何に属するものであるかの説明であるのに対して、「なのはな」は、花そのものを云ひ表はすところの一回過程の表現であることが分る。ところが、この「なのはな」は、「花」を〔ハナ〕と云ふ場合の一回過程とは幾分の相違が認められる。それは、「なのはな」が一回過程の表現でありながら、その中になほ観念の分析と、それに対応する〔ナ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回の過程を包含してゐることである。即ちそれは三語を含むところの一語であつて、これを図解すれば次のやうになる。

 


(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』【岩波文庫版、2020年】72頁)

 

 ABCはそれぞれ語によつて表現される事物或は思想を意味し、abcがそれに対応する音声を意味するならば、イの場合は、Aといふ思想が音声aによつて表現される一回過程の語の場合を示し、ロの場合は、同じAが、表現の過程に於いて、B及びCといふ思想に分裂し、その分裂した思想に対応する音声bcによつて最初のAを表現しようとするのである。

 一般にこのやうな構造を持つた語を複合語或は合成語と呼んでゐる。複合語或は合成語は、その表現過程に於いて複雑な経過をとつたものであるにしても、その結果に於いては一回過程の一語と全く同じである。その点、説明的意図を含むところの「つばきのはな」はこれを複合語或は合成語とは云ふことが出来ないのである。一の図形を「三角形」と云つた場合、これを複合語であると云ふことが出来るが、同じ図形を「三辺によつて囲まれた図形」と云つた場合、これを複合語とは云ふことは出来ない》(時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』70~73頁。太字は引用者)


 このように時枝は、複数の語をその内に含んではいるけれども、結果的に一回過程にて一つの思想を表現しているものを〈複合語〉として規定しました。この時枝誠記の規定によると、「早くしろオーラ」「困ったな状態」など、いわゆる逸脱的な造語法に属するさまざまな「文包摂名詞」も〈複合語〉としてとらえることが可能となります。「早くしろオーラ」も「困ったな状態」も、前項と後項では違った概念を表現しているようにも見えますが、全体としては、図の「ロ」の場合と同じように、一つの概念を表現しているともいえるからです。この「文包摂名詞」については、もっと細かな分析が必要なのですが、ここでは以上のように、「文包摂名詞」が〈複合語〉的な枠組みに当てはまる表現法の一つであることを指摘しておくことに留めておきます。


 三浦つとむは、〈複合語〉に関連して、次のように述べています。

《 私・の・本。
  梅・に・うぐいす。

 これらは三つの単語から構成されています。われわれは、これらを切りはなして扱い、それぞれの社会的な約束を辞書で説明しています。しかし多くの人びとが切りはなして扱うとか、辞書で別々に説明してあるとかいうことは、必ずしも基準にはなりません。これまでは二つの概念として表現し、単語を結合したいわゆる複合語として扱っていたのが、ある話し手の認識においては一つの概念として扱われることになり、ひいてはこれがあたらしく社会的な約束となることもあります。

 「白墨」が日本に入ってきたとき、これは字を書くためのものであるという機能の面で、古くからある「墨」の一種と考え、墨との区別をその色彩の点に求めて「白」という概念を添え、このような複合語をこしらえたと思われます。けれども墨と白墨との決定的な差別は、色彩の点にあるのではありません。一方は水にといて筆で書き、他方は個体のままで黒板に書くという点にあるのです。そのために、話し手の意識から「白」という概念がうすれていって、「白墨」全体が黒板に文字を書く用具そのものについての一概念の表現に変ってしまいました。その結果、色彩を意識するときは、あらためて「白い白墨」「赤い白墨」と表現することになり、見かけは奇妙でもこれが合理的なものとして今では一般に使われています。これに反して「墨」に対する「朱墨(しゅずみ)」は、水にといて筆で書くという点では墨と同質であり、色彩だけが決定的な差別なので、今もって複合語としての性格を失っていません。このように、単語と複合語の区別は話し手の認識を無視しては決定し得ないものであって、これはまた対象の構造によってその変化が規定されているのです。

 言語学者には、語のかたちや語が独立して使われるか、それともつねに他の語に伴うかたちで使われるかといった、形式のありかたから語を分類する傾向があります。けれども、この語の形式は内容によってささえられているのであって、たとえ形式は同じでも意義を異にする別の種類の語があるならば、形式を同じくする二種類の異なった語があると見なければなりません。「彼は急に笑いだした」というときは〈動詞〉でも、「部屋中に笑いの渦がひろがった」というときは〈名詞〉です。この区別も、行動をそのまま行動としてとらえたか、それとも行動を固定して実体的にとらえたかという、話し手の認識いかんに基づいています。つねに他の語に伴うかたちで使われても、〈助詞〉や〈助動詞〉は〈名詞〉や〈動詞〉とまったく異質の意義を持つ語ですから、これらも一語と見なければなりません。かつては二つの概念を複合して表現していたのに、現在では一つの概念の表現に変っているとすれば、複合語から単語に変化したものとして扱うのも、内容の変化による語の分類の変化です》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』【講談社学術文庫版、1976年】75~77頁)

 「チョーク」は、日本に入ってきたときは、「墨」と同じように字を書くという機能の面から同じ種類のものとして捉えられ、「白い墨」すなわち「白墨」と名づけられました。以後、色の意識が薄れていって、「赤いチョーク」と同じように「赤い白墨」などという表現も実際に行われた時もあったみたいですが、三浦は同じ「白墨」でも「白い墨」という意識が強く残ったまま表現されているときは〈複合語〉であり、「チョーク」と同じように黒板に字を書く用具という意識が前面に出て表現されたときは〈単語〉であると認識していたようです。三浦的立場からすると、「朱墨」のようなものが〈複合語〉であり、「なのはな」のような語は全体で一つの概念を表現しているので〈単語〉ということになり、この伝でいくと、山田孝雄のいう〈熟語〉も一つの観念を表しているので〈単語〉ということになりそうです。

 〈複合語〉に関しては、時枝誠記のいうように、表現過程において複数の語(らしきもの)や概念が含まれてはいるけれども、一つのまとまりをもった思想が一回過程において表現されたものを〈複合語〉と規定する、というのがもっとも理に適っているもののように思えます。なぜなら、先に少し触れたように、時枝のこうした考えかたはいわゆる「文包摂名詞」の問題にも適用できるように思えるからですが、ただ一方で、「文包摂名詞」の前項と後項がそれぞれ別の概念を表現していると捉えた場合、時枝の〈複合語〉概念に「文包摂名詞」は合致しないように思われてきます。その場合、〈複合語〉とは「朱墨」のようにそれぞれが別の概念を表現していると捉える三浦つとむのような考えかたをすると、「文包摂概念」もその内に含めることができそうです。――現代のいわゆる逸脱的な造語法である「文包摂名詞」を〈複合語〉とどのような関係において捉えるかという、この問題は、もっと深く、仔細に考えていく必要がありそうです。

 

 

 

(2024年9月7日)

2024年09月07日