「ので」と「です・ます」体
以前、私は論文「『なので』と〈形式名詞〉論」の中で、国語学者永野賢氏の「『から』と『ので』論」について、三浦つとむの文法論の立場から触れたことがあります。そのとき三浦が批判の対象としていた永野氏の説は、話し手の主観で前件と後件を結びつけるのは「から」であり、「ので」は判断の表現ではなく因果関係の表現であるというものでした。三浦は、「ので」の「の」は〈格助詞〉ではなく属性の実体的なとらえなおしに使われる〈形式名詞〉であり、かつ「で」は判断辞「だ」の連用形であるとして、「ので」こそ話し手の主観で前件・後件を結びつけるものであり、「から」の方が因果関係の表現である、という説を展開していました。
実は永野氏は、当時の同じ論文(「『ので』と『から』とはどう違うか」【『国語と国文学』1952年2月号】)の中で、話し手の主観で前件と後件を結びつけるのに「から」ではなく「ので」が用いられる例外として、次のような用例を挙げていました。
《〇今回「有名商社親睦野球連盟」が結成され、その第一回大会を行いますので御覧の程お願い致します。
〇本誌の愛読者カードを整理したいと存じますので綴込みハガキに所要事項御記入の上、何とぞ御返送ください。
〇帰ってくることになりましたのでこの部屋を空けて下さいませんか!
〇遺失物のお知らせ 一品名 万年筆 一発見の場所 当局窓口 右の通り拾得しましたのでお心当りの方は当局窓口又は四谷警察署に御申出下さい。(警察)
〇混雑の折は約三十分はかゝりますのでお呼びするまで控席にてお待ち下さいませ。(病院)》
〇二階の女が、盛に亭主に向って、わめき立てゝいるんだけど、うるさくて仕方ないので、止めさせて、くれませんか。
〇二月二十八日迄次の通り電力制限が実施されることになりましたのでお知らせ致します。(電力会社)》(永野賢「『ので』と『から』とはどう違うか」太字は原文では傍線、傍線は原文では傍点)
永野氏は、「ので」のこのような例外的な用法が多いことの理由として、主観的な押しつけ表現である「から」を使うと《たゝみかけるような印象を相手に与えるのに対して、客観的表現である「ので」を使うと、自分を殺して主観を押しつけない、淡々と述べている、という印象を与える。すなわち、「から」だと、強すぎてかどが立つところを、「ので」を使うと、丁寧な、やわらかい表現になり、下にくる丁寧体の表現とよく照応するわけである》(同上。傍線は原文では傍点)と述べています。
つまり永野氏の説だと「ので」は主観を含まないから丁寧体の表現とうまく照応するということになりますが、これに対して三浦つとむは、永野氏の説は原因と結果が逆になっていると主張します。すなわち、丁寧体だからそれと「照応する」「ので」が使われているのではなく、実は「ので」を使うから丁寧体が使われているのだというわけです。
《…論より証拠、文から〈敬語〉を除いてみるがよい。病院が「約三十分はかかるので呼ぶまで控席にて待て。」と書けば、患者は頭にくるにちがいない。部屋空け渡し要求も警察も電力会社も同じである。この「ので」を使った、内容的に強すぎてかどの立つ押しつけを、〈敬語〉特に相手を直接に尊敬する〈敬辞〉で飾って、「丁寧な、やわらかい表現」に仕上げ、いわば慇懃無礼の文体を創造したのではないか。「聞いておりませんから」よりも「聞いておりませんので」を好んで使うのも、聞いていないことに話し手として責任がないならば、理由の意識よりも理由それ自体を強く押し出すことによって、当然ではないかという毅然とした態度を〈敬語〉で飾って慇懃に表示できるからである。これらも〈敬語〉を除いてみると
聞いていないから、わかりかねる。
聞いていないので、わかりかねる。
になる。「ので」を使うと、やわらかいどころか、いわゆる剣もホロロで木で鼻をくくったような冷酷な返事になってしまう。まだ「から」のほうが、これが理由だといっているだけましだという感じがする》(三浦つとむ『日本語の文法』〔旧版〕126~127頁。太字は原文では傍線。傍線は原文では傍点)
ここで三浦が《「ので」を使った、内容的に強すぎてかどの立つ押しつけを、〈敬語〉特に相手を直接に尊敬する〈敬辞〉で飾って、「丁寧な、やわらかい表現」に仕上げ、いわば慇懃無礼の文体を創造したのではないか》と述べているのを読んで、なぜか私の脳裏に中村光夫の文体のことが思い浮かびました。周知のとおり文芸批評家の中村光夫は、「ので」を多用した「です・ます」体の文体で有名な人ですが、たしかに彼の批評文は非情な、厳密な論理的な性格を帯びており、それを「です・ます」体のオブラートで包んでいるような印象があります。かつて三島由紀夫は『文章読本』(中公文庫、1973年)の中で、中村光夫の文体について《中村光夫氏の文章は、小林(秀雄)氏のようにある意味での日本語への屈服を捨て、日本人の思考の型をことさらに排除しながら、実に厳密な論理的な文体を作りました。氏が有名な「です口調」を使いだしたのは、私には普通口語文のともすると陥りがちな日本的感性から身をそらし、現代の口語文の一種の有機性に背反し、無機的な文体を作ろうとした結果だと思われます。氏の長篇評論は、快い論理的展開にみち、日本語はかつてないほど論理的正確さを帯びさせられ…》(『文章読本』)と述べています。三浦によると、「ので」のような日本語を使って論理的正確さを追求した文体を作ると、当然内容が強すぎてかどが立ってしまい、「剣もホロロで木で鼻をくくったような冷酷な」表現になってしまいがちですが、それを中和してくれるのが「です・ます」体であるというわけです。三浦の「当然ではないかという毅然とした態度を〈敬語〉で飾って慇懃に表示できる」「慇懃無礼な文体」という表現と、三島の「日本的感性から身をそらし」た「無機的な文体」という表現は、きわめて似通っていて符節が合っています。批評家・中村光夫は論理的正確さを重視した文体を模索する中で、39歳のときに代表作『風俗小説論』を書くことで、自らの批評スタイルの大きな要として「です・ます」体批評を意図的に確立したともいえるかもしれません。中村の批評文の場合、「ので」をはさんで前件(前句)で述べた具体的な内容を後件(後句)でさらに抽象化して結論へと展開していくパターンが多くみられます。
以下、中村光夫の批評文です。
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《「神童」「異端者」「悪魔」と、少年期から青年期へ彼の自己について持つ意識の内容は変つても、その自意識の構造はまつたく同じであつたので、ここに彼の精神のもつとも個性的な相貌があると考へられます。
あらゆる意味での異常な事物に対する熾烈な嗜好と、他からぬきんでる強い欲望から来る、自己を例外の存在と考へずにはゐられぬ性向は、近代のロマン派以来文学者に通例の傾向で、あへて異とするにたりませんが、谷崎の場合特殊なのは、彼がさうした生来の傾向を満足さす概念をいつも容易すぎるほど容易に見出し得たことで、ここに彼の目醒しい早熟な成功の原因があると同時に、この子供らしい自己欺瞞からの脱却が青年期を終つた彼に、芸術家として再生の課題になつた所以です》(中村光夫『谷崎潤一郎論』【日本図書センター、1984年、近代作家研究叢書39】初刊行は1952年。太字は引用者、以下同じ)
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《花袋が自己の生活を「自然」のあらはれと見たとき、それに文学表現をあたへるに足る「意味」を見出したやうに、谷崎も自己を「悪魔」と信ずることで、その青春の官能の奔流を実生活の抵抗に打勝つて、表現する意力を支へたのです。両者はともに彼等の自我の文学的客体化の要求から生れた観念であり、彼等が芸術家として新しい進路をひらくに、思想の代用品たる役目を果したのです。
しかし彼等はこの観念にむかつて歩む彼等の自画像を、作品のなかに描いただけであり、その観念自体を作品によつて証明する必要は感じなかつたので、もともと彼等の文学はその思想を生かし検証する場所でなく、むしろその思想を実生活と調和させる手段であり、彼等の作品はその調和の過程の報告であつたのです。
したがつて、谷崎の「悪魔」も花袋の「自然」と同様にその制作に前提され、作品がその枠のなかでつくられる観念である点で、まさしく私小説的性格を持つてゐます》(同上)
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《もともと(小栗)風葉は露伴の影響を強くうけながら、硯友社の傘下に身を投じて、或る時期には紅葉の後継者と目されるなど、片岡良一の云ふやうに、「その出発の抑々(そもそも)から、彼自身の主張や立場を敢へて有たうとするのでなく、他からの借物によつてまづ身を装はうとした人」であり、したがつて紅葉の死後、硯友社の没落が決定的になつてくるにつれて、当代一流の小説的手腕を持ちながら、新文学台頭の勢ひには人一倍頭を悩ませ、かつこれに鋭敏に適応しようとした人です。いはば彼は青年時代に紅葉と露伴のあひだを巧みに泳いで、その作家的地歩を築いたやうに、外国文学の影響がやうやく圧倒的になつた日露戦後の新時代と、硯友社の文芸技法との混合を企てたので、「青春」は作者に同情して云へばこの傷ましい努力の記念碑と見られます。つまり「金色夜叉」から「蒲団」まで、わづか数年のあひだに推移してしまつた、当時の文壇の過渡的の性格を、消極的ではあるが、もつとも忠実に反映した作品なので、それが易々として得た華々しい成功と、まもなく陥つた不当なほど悲惨な忘却との謎を解く鍵もここにあると思はれます》(中村光夫『風俗小説論』【河出書房、1950年】)
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《以下、「蒲団」のどのような側面が同時代人の関心と模倣を呼び、それがどういふ結果に終つたかを分析して見ませう。
まづ第一に問題になるのは花袋の最大の独創であつた、外国小説または戯曲の人物にみづからなりきつて、(またはなつたつもりで)その作品のモチイフを生きて見、同時にさうした演戯をする作者の姿をそのまま小説の主人公とする方法です。
小説の方法としてどのやうな欠陥を孕んでゐたかを別とすれば、ともかくこれが西欧の近代文学をアダプトする方法として、極めて手軽であると同時に確実なやり方であつたのは事実なので、しかもそれは外国小説を筋立や文章の外面のみしか理解せず、したがつてそれしか模倣しなかつた硯友社時代に較べれば、たしかに内面化した進歩であつたのです。
何故ならかういふ演戯をするには、少なくも外国小説の主人公とともにその作品の「気分」または「問題」を生きて見ることが、不可欠の前提であつたので、このやうな作業は江戸伝来の戯作趣味や封建道徳に染つた旧時代人には不可能であつたのです。
したがつてかういふ観念的陶酔に身を委ね得ることは、それだけで新時代の代表者たる資格であるとともに、さらに好都合なことには、或る外国作品の観念に陶酔する主人公の姿を日本の環境に描きだすことが、そのまま作者の思想を、肉体と生活を通じて我国に移植することと見られたので、極端な云ひ方をすれば、ポオの小説にかぶれた主人公を描けば、それがそのままポオの思想の我国の環境へのアダプテーションになり、トルストイの小説の「影響」をうけた主人公を描いても同様であつたのです。
作家は自己の個性の好むところにしたがつて、といふよりその個性の演戯にもつとも適当な外国小説を選んで、これを舞台とすれば、その個性の表現と同時に新しい外国思想の肉化も達成されたので、この意味で私小説の方法は外国文学移植のためにも、まことに手軽で便利な装置であつたわけです。西欧思想の奔流のなかで、いかにしてその影響を消化するかにもがいてゐた当時の文壇が、この便利の前には、外国文学を所有するよりむしろ所有されることを前提とするこの方法の浅薄さなど顧る余裕がなかつたのは当然の成行でした》(同上)
———どれもきわめて理知的・論理的で説得力のある文章ですが、中村の少々強引と思われるような論理的なまとめも、「です・ます」体がうまい具合に緩和させているように感じられます。中村光夫は、彼の敬愛する二葉亭四迷と同じように、自らも評論の分野ではありますが、新たな近代的な文体の創造者としての一面も持っているように思われます。
(2024年9月11日)