三浦言語理論における「対象」とは何か?
三浦つとむの言語理論でよく使われる「対象→認識→表現」という図式における「対象」について、三浦は次のように述べています。これは『日本語はどういう言語か』の旧版(季節社版)に掲載されている文章です。「思考言語」と「対象」との関係がおぼろげながらも見えてくる方も多いのではないでしょうか。時枝誠記のいう「素材」(事物、表象、概念)とも違う説明となっています。
《 誤解が起らないように、ここで認識構造の図解のしかたについて一言申しそえます。
想像の世界に対象を設定するとき、ハッキリした感性的なかたちを伴うこともあり、また伴わないこともあります。
昨日デパートで見たドレスがほしい。
金が百万円くらいほしい。
東洋の平和がつづいてほしい。
「ドレス」はハッキリした感性的なかたちを伴っていますが、「平和」は抽象的な理念です。これらの言語表現の対象は、たとえ「ドレス」のような特定の感性的な事物であっても、その感性的な面をとりあげるのでなくて、種類としての普遍的な超感性的な面をとりあげていることは、さきに第一部でも説明しました。ですから、認識構造の図解で、対象を特定の感性的なかたちで描いてあっても、この感性的なかたち自体が対象になっているという意味ではありません。言語表現の対象は超感性的ですから、それをそのまま図に描くことはできないのです。
多くの言語学者は「言語で考える」といいます。ソヴエトの心理学者も、頭の中に「思考言語」があると説明しています。なるほどわたしたちが考えるときは文字や音声を思いうかべますし、時にはこれがひとりごととして口に出ることもあります。これらは観念的な文字や音声です。現実の言語と関係はありますが、言語ではありません。文字や音声は、それぞれの対象と結びついて記憶されます。この場合文字や音声を思いうかべることは、とりもなおさずそれらに結びついている対象を想像の世界として想定することです。しかしこの対象は前にのべたように超感性的ですから、目に見えない想像の世界が想定されているということを見落してしまって、頭の中に文字や音声を思いうかべることそれ自体が思考であるかのようなまちがった解釈を下しがちなのです》(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』【季節社、1971年】145~146頁。太字は原文)
講談社学術文庫版でこの部分がなぜ削除されているのかは不明です。対象はすべて特殊的であるとともに普遍的であり、頭の中に「思考言語」として音声や文字を思い浮かべるとき、私たちは対象の普遍的な面すなわち超感性的な面をとりあげていることになるわけです(『日本語はどういう言語か』学術文庫版の67頁の図解を見ながら読むと理解しやすいと思います)。
(2024年9月15日)