中村光夫による小林秀雄への最後の言葉

 中村光夫は1986年に『知人多逝』(筑摩書房)という本を出しています。題名は江戸から明治にかけて思想家・ジャーナリストとして生きた栗本鋤雲(くりもとじょうん)の書いた文章に拠ります。このなかで、師である小林秀雄について中村が書いた最後の文章を紹介しておきます。


《 この三月一日に小林秀雄氏が亡くなられました。別に思いがけないことではなく、氏が科学的に見れば、「助からない」のは、数ヶ月前から、わかっていましたが、それでも氏の「生きている」事実の大きさは、期限付になって、始めて味わえることでした。

 この意味で小林氏の死は、氏の著作に親しんだ者には、一種の不意打といってもよかったので、それが人々を驚ろかすのを止めたとき、氏の思想の内容は始めて人々の血肉となる筈です。

 氏の批評家としての守備範囲はそれほど広いものではなく、現代の事象とも、幅広くかかわったわけではありませんが、その代り、情熱をこめて掘り下げた対象にむかっては、真髄を把まずにはいなかったので、たえず新しいものに興味をもって立ちむかった氏の批評態度は、間口をひろげる代りに、鋭い切先で、対象の本質を攻め、深く掘り下げることで、大きな鳥観図をつくりだしたといえましょう。

 里見弴氏の陰芸陽芸の説をかりれば氏の晩年の仕事は、陰芸に徹したものですが、それだけに陽にむかって発しようとする力も見られたので、「宣長」を完成したあとにもそれぞれモノグラフィーの発端と読むべき仕事が、ちょうど火山の大噴火のあと新しい火口が煙をあげるようにいくつか見られました。正宗白鳥、フロイト、その他相互にまだつながりの見られぬいくつかのテーマが、同時に違った方向に火を噴くのは、氏の仕事ぶりでもかつて見られなかった壮観だったので、氏の精神はかつてない活動時期に這入ったように、思われました。

 死んだ人間はみな羨しいほど輪郭がはっきりしている、と氏は云っていましたが、生きるとは形のきまらぬ可能性を自分のなかに探ることだったのでしょうか》(小林秀雄氏・文芸評論・昭58〔1983〕・3歿)(中村光夫『知人多逝』【筑摩書房、1986年】より)

 例によって中村の文体のせいでずいぶん冷静に感情を抑えて書かれているように見えますが、おそらく泣きながら書いたのではないかと私は勝手に思っています。





(2025年3月1日)

2025年03月01日