『近世科学史』(原種行著、1940年、山雅房発行)の三浦つとむによる書評
戦前に発行されていた『科学ペン』という雑誌の1941年3月発行分に、三浦つとむは「高木場務」名義で上記の本についての書評を書いています。
冒頭、《たいへん立派な書物で、読んで驚きました――とつい口を滑らしたところ書評をどうぞと御依頼を受けて恐縮した。平素科学者の悪口ばかり言つてゐる人間だから何を書くか一興だという了見かも知れない。しかしわたしの駄文では、定評ある本欄の権威を傷け、著者並に読者諸氏の苦笑を買ふくらゐが落ちであらう》と軽快な語り口から始まり、元来科学史系の書物としてもっとも重要なのは、科学の発展をその内的な連関において理解し辿っていくことであるが、大概は既成の知識を切りばりしたようなものが多いのが現実であると述べ、以下の文章が展開されます。
《わたしは本書の著者については全然知るところが無く、他の著作も拝見してゐない。わたしが本書に注意を惹かれたわけは、著者も序文で云はれてゐるやうに、その著るしい特色をなす次の三つの点にある。
「科学の発展をその歴史的、社会的諸条件の下に理解したこと」
「現代科学と現代に於ける『科学の哲学』との関連に注意したこと」
「科学心の生々とした発動を幾分なりとも闡明せんとしたこと」
一国の科学が一大政治家の指導精神によつて突如として大躍進を遂げたとか、或はエヂソンは母親の愛情によつて大発明家となり母親の心掛け一つで何千人でも大科学者はうまれ出るものであるといつたふうの「科学的」訓話は困る。科学の歴史をただその理論の発展の面からのみ眺め、学者の「すぐれた考へつき」を記述してゐたのでは充分ではない。科学の恩恵を説く者は科学への恩恵をも忘れてはならぬ。その科学をうみ出した環境、歴史的、社会的諸条件とのあひだの交互的な関係をしらべ、連鎖をたぐつて行かねばならぬ。さうした科学者の環境はその発見のための基礎的な地盤となり、更にまた理論発展の限界をもかたちづくつてゐたことを理解しなければならぬ。戦闘行為の指揮者必らずしも正しい戦史の執筆者たり得ぬと同様、専門的な知識の所有者であり博士号持つて居るからと云つてその著作必ずしも信頼し得るとは限らない。小倉博士やホグベンのすぐれた通俗数学書は周知の如くいづれも此の点に注意が払はれ、本書もまた著者の極めて周到な準備と深い教養をうかがふことが出来る。
然し乍ら本書の最大の特色は第二の点すなはち現代科学と、「科学の哲学」との関連について著者の示した批判である。最近の目覚ましい理論物理学の発達、踵をついであらはれる偉大なる発見は、古い自然観を急速に崩壊させ、多くの大科学者を理論的混乱に引きずりこんだ。或者は最悪の哲学に救ひを求めさへした。プランクはバアクレー主義とたたかひながら、法則のアプリオリを主張して自ら混乱に陥り、アインスタインが折々純然たる相対論に陥つて詭弁学者に思ひもかけぬ理論的根拠を与へるなど、数へ立てれば限りない。大学者を尊敬するのあまりその言動悉くを無批判的に受け容れる傾向は、特に哲学的教養に欠くるところ多い我国の科学者に著しく、新カント主義の科学観やポアンカレの信奉者がすくなくないことを考へ合せるならば、公然隠然あらゆる科学の領域で常に出会ふさういふ病気への解毒剤として、本書を世の科学者諸氏に熟読していただきたく希望する。又量子力学及びその哲学的見解にあたらしく興味を持たれる方々は、湯川、仁科両博士又は田辺教授の大著に先立ち、先づ本書を読むが適当と信じてゐる。通俗科学書として「物理学は如何に創られたか」は定評ある名著であり「百万人の数学」またモニュメンタルな存在であるが、前者はドイツ風後者はイギリス風と対蹠的に偏狭な思惟方法の残つてゐる点にいささか不満を持つ。本書にはそれがなく、日本人の手になる科学書として世界に誇つてよいのではないかとさへ思はれる。
次に不満を述べるが、その原因は殆んどすべて出版上の制約にある。文章は簡潔明快、第三の点(「科学心の生々とした発動を幾分なりとも闡明せんとしたこと」――引用者)につき著者も云ふやうに不充分ではあるにせよ、この科学史の外廓を述べるにさへ充分とは思はれぬ紙数でこれだけの内容を盛り得た点まことに敬服に値するが、何としても要点だけは具体的に書かれたせめて二倍の厚さのものが欲しい。また公式の量が多いと一般の人々にちよつと取りつき難い感じがするので、良書普及の観点からすくなくして欲しいやうにも思ふ。紙数の関係でやむを得ぬとは云へ、必然性と因果性、相対論批判、四次元などの問題についていますこし詳細にとりあつかひ且つ新カント派の批判を挿入して欲しかつた。尚、さほど重要なところでないにせよ誤植が相当目についたのは良書だけに惜しい。増刷のときは是非あらためられるやう希望する。
本書はいはゆる通俗科学書の読者層にはすこし堅いかも知れぬが、特に物理学に興味持たれる高校以上の学生諸氏には絶好のものであらう。文章に無駄はなく、六号で組んだ註解文の末端まで熟読頑味すべき性質の書物であり、読み捨てられる趣味の書でも単純な参考書でもなく、読んで味へば正しく教養として身につき生きて働く知識を得られる。真に科学書と呼ばれるに値するすぐれた書物である。皇紀二千六百年に際し、かゝる書物が世におくられ、尊敬すべき理論科学者の存在を知り得たことを、わたしはたいへん嬉しく思つてゐる(菊判二〇三頁、定価一円八十銭、山雅書房発行)》(『科学ペン』1941年3月発行、科学ペン社)(太字は原文では傍点)
———ずいぶんと懇切丁寧な書評ですが、さすが三浦つとむ、あやしげな「科学哲学」には注意せよ、「大科学者」を尊敬しすぎるな、という注意喚起とともに、本質論重視の姿勢がうかがわれます。一番驚いたのは、あの三浦つとむが「皇紀二千六百年」と述べていたことです。こういう事実について、戦前の「国家神道」の根強い支配のあらわれとみるか、GHQの支配の及んでいない時代の健全な状態の証拠としてみるか、あるいは両者を統合し止揚したより高い視点からものを考えられるかどうか、分かれるところですね。
(2024年7月15日)