浜田泉氏『中村光夫とフロベール』について
フランス文学を専門とし、比較文芸史家でもある浜田泉氏は、中村光夫の近代研究について次のように述べています。
《フロベールは西洋近代のブルジョワ社会や思想を否定したが、中村(光夫)は日本におけるそもそもの近代精神の不在を論じた。西欧の近代に憧れたのではなく――それではただの文明開化主義者にすぎない――西欧近代の実相を正しく知り、日本独自の道を歩むべきと念じた。中世から古代へと中村の西欧文化の基層に寄せる関心は熾烈であった。西欧を西欧たらしめている主因を探っていた。それは、日本が日本の過去と未来を取り戻すためにも、日本と西欧を比較対照して初めて可能となる作業につながっていた。それこそが日本の歴史や文化の正しい見方に通じている。中村の戦後の再出発にはかような情念のマグマが沸々と滾(たぎ)っていた》(浜田泉『中村光夫とフロベール ――ロマン主義のあとさき――』【成文堂、2019年】44頁)
中村光夫の、日本と西欧の近代のありかたの違いに関する比較研究ともいうべき一連の仕事の本質を、これほど直截に正しく言い当てた言葉は他にないでしょう。たしかに、日本における「近代精神」の不在を埋めるためにこそ、中村は西欧近代の実相を知ることの重要性を説くとともに、漱石の講演における分析などを紹介して文化の内発性の重要性について論じました。文学の領域における内発性のもっともよく表れるツールは言語であり、二葉亭四迷と同じく中村もまた文体の改良を模索するなか、1950年に発表した『風俗小説論』において独特の「です・ます」体の批評スタイルを確立します。
《…中村の後年の「です・ます調」は、あたかも言語が論理の祭祀、道具として、宇宙における惑星のように、決められた軌道を進むのである。感情は論理の枠を破らず、論理は感情を押し殺さない。そこには、フロベールの小説に見られるリゴリズムが、柔らかくほぐされ、読みやすくされ、広範に伝えられようという姿勢がある。すなわち、フロベールの書簡の流露感にもつながるのである。主に戦前のどこかぎくしゃくした批評文体の硬さがとれたといえる。このことは、それまで強く影響を受けた小林秀雄の文勢からの脱却も同時に果たすことになった》(同43頁)
浜田氏は、中村の「です・ます」体の文体にフロベールの小説に見られるリゴリズム、非情な写実主義の影響を読みとっています。フランス文学を専門とする研究者ならではの炯眼ともいえるでしょう。中村の文体における堅固な調和のとれた客観性を宇宙における惑星の軌道の動きに喩えるセンスには脱帽します。
(2025年6月26日)