煮詰まる

 私は以前、論文「『なので』と〈形式名詞〉論」で、三浦つとむの〈形式名詞〉論についてくわしく論じたことがあります。そのとき、私は通説で〈準体助詞〉とされている〈形式名詞〉「の」の本質的な特徴について、三浦の説を参照にして論じていました。

 そのときには直接触れませんでしたが、実は三浦つとむが〈形式名詞〉論中において指摘していたきわめて重要なとらえかたについて、ここで触れておこうと思います。三浦は、以下のような例文を提示して、順を追って〈形式名詞〉についての説明を述べていきます。

《 いま、〈普通名詞〉を使って表現するならば、

 青いリンゴはすっぱく、赤いリンゴはあまい。  (a)
 私が干渉した行為は、よくなかった。      (b)

というところを、初出以後はもっと抽象的に、〈形式名詞〉を使って

 青いものはすっぱく、赤いものはあまい。    (c)
 私が干渉したことは、よくなかった。      (d)

と表現することも多いし、さらには「もの」と「こと」との段階をも超えてもっと抽象的にとらえて

 青いはすっぱく、赤いはあまい。      (e)
 私が干渉したは、よくなかった。       (f) 》(三浦『日本語の文法』〔1975年〕p72。傍線は原文では傍点)


 三浦は、(a)の「リンゴ」、(b)の「行為」は、それぞれ抽象度が高くなるにつれて、「もの」「こと」になりうるし、さらに抽象度を高くして「の」にもなりうるという事実について説明しています。そして、「の」には、〈格助詞〉のほかに〈形式名詞〉として二つの使われかたが存在するのであり、それは(e)系の実体概念を表現しているものと、(f)系の属性の実体的なとらえなおしを表現しているものとの二種類である、というのが三浦の〈形式名詞〉論の論旨でした。

 実は、この〈形式名詞〉論のなかで三浦はあまり目立たないけれども重要な指摘をしています。


《 (a)の「リンゴ」も(b)の「行為」も、それ自体はたしかに〈普通名詞〉であるが、これらの対象は異質であり、認識のありかたもちがっている。過程的構造を見ると、「リンゴ」の対象はそれ自体静止した手でにぎることのできる実体であって、そこから直接に把握された実体概念を表現した〈名詞〉である。けれども「行為」の対象はそれ自体実体ではなく、ダイナミックな人間の属性であり、しかもこの属性を直接に把握した概念は、「干渉し」とすでに〈動詞〉で表現ずみなのである。「行為」はそのすでに表現されている属性を、いま一度もっと普遍的なありかたでこんどは実体的にとらえなおし、固定化してとらえて表現しているために、「干渉し」とは異質な語となっていて〈名詞〉である。それゆえ、この「行為」には「リンゴ」のようにそれ自体に独自の対象があるわけではなく、「干渉し」の対象から媒介的に把握された実体概念を表現しているにすぎない》(『日本語の文法』p79)(傍線は原文では傍点、太字は引用者)

《 「私の行為を反省する」というときの「行為」は、(b)の「行為」とはちがってそれ自体独自の対象を持っていて、その対象である属性を直接に実体的にとらえて表現した〈名詞〉である。ところが、このとらえかたはかなり抽象のレベルが高いために、(b)の「私の干渉した行為」のような、属性をまず直接に把握して表現したのちに、もっと普遍的に実体的にとらえなおして〈名詞〉として表現するのに使われる。「私の干渉した」という具体的な認識と、「行為」という抽象的な認識とが、ここで入子型に立体的に組合わされて一つの句が形成され、さらにこれに〈助詞〉の「は」や「を」が加えられて展開されていくことになる。この種の〈名詞〉は、抽象のレベルが高くなればなるほど、こうした実体的なとらえなおしに使われることが多くなる》(同p79~80)(傍線は原文では傍点)


 「私が干渉した行為」の「行為」は、一般的には、〈普通名詞〉とされています。三浦はここで、いわゆる〈普通名詞〉でも「行為」のように抽象のレベルが高いものは、「こと」や「の」と同じように独自の実体的な対象をもたず、属性の実体的なとらえなおしに使われることがあると述べているのです。

 このとらえかたによると、「私が干渉した行為」のほかにも、たとえば「彼が放った言葉」や「彼女の陥った状態」における「言葉」や「状態」なども、属性の実体的なとらえなおしとして使われているということができるでしょう。

 これらの表現と、泉大輔氏が研究対象とされた「早くしろオーラ」「困ったな状態」「どっちなんだよ問題」「当たって砕けろ作戦」など「文包摂」の逸脱的な表現群とは、明らかに何かが違うように思われます。私も最初は、「オーラ」「状態」「問題」「作戦」などのいわゆる〈普通名詞〉が実体的なとらえなおしとして使われているのではないかと考えたのですが、よく考えてみると、どうも何かが違うようです。この「違い」について、いま一度本質的に考え直しているところです。だいぶ煮詰まってはきました。






(2024年7月22日)

2024年07月22日