記号と言語における〈場の表現〉について
◎〈場の表現〉とは、《ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている》(三浦つとむ『言語学と記号学』p9。傍線は原文では傍点)もののことをさす。
つまり、《それらを他の場所でなはなくその場所に置くということ自体が一つの認識を示すことであり、一つの表現になっている》(同上)もののことをいう。
※具体例としては、交通標識や地図内の記号、墓標など。映画『幸福の黄色いハンカチ』のハンカチも、ほかの誰でもないある特定の人が一人暮らしであなたを待っているという暗号を含んでおり、これも一種の〈場の表現〉といえるでしょう。
◎小川文昭氏の〈場の表現〉についての説。記号表現における「認識の個別性」の表現は、通常は潜在的なものにとどまっている。《そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います。
結論としては、言語と記号との区別は、記号規範においては、潜在的であるにすぎない・認識の個別性の表現が、言語規範においては、詞辞の表現構造として顕在的なものとなっているということではないかと思います》(小川文昭「場の表現の意義」
第6回LACE研究会 2001年8月)
◎(小川氏の説のまとめとしての川島の言葉)《言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号それ自体としては客体的表現しか表現することができない。記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには「場の表現」と融合しなければならない》(川島正平「言語と記号の差異について 2」2002.3.13。太字は引用者)
◎《記号は言語のように必ず継時的に読まれなければならないわけではなく、ぱっと見てすぐに理解できるものが多いので、てっとり早くある特定の事物や事柄の性質が何であるかを受け手にひと目で理解させるためにきわめて便利な表現だから、その表現が個別の対象と密着したかたちで表現されることが比較的多いの》である(川島正平「言語と記号の差異について 2」)。
◎《さらに、わたくしが考えたのは、滝村隆一の真似ですが、〈表現―即―「場の表現」〉と〈表現―内―「場の表現」〉の区別です。
交通標識の「場の表現」のようなものは〈表現―即―「場の表現」〉ですが、わたくしが、文の中の語順は、語から見れば「場の表現」であるといったのは、〈表現―内―「場の表現」〉です。
また、数式や記号でも、分数のように、横線の上下に数字を書くのは〈表現―内―「場の表現」〉を含んだ表現であり、化学のベンゼン基の構造式も、六角形に記号を結びつけて書きますから、ここにも〈表現―内―「場の表現」〉があると思います》(川島正平「言語と記号の差異について 3」内の小川文昭氏の投稿文より。太字は引用者)
(2024年8月1日)