中村光夫「自分の回復」


 この小論文は、中村光夫が敗戦後まもない頃の日本論壇の現実をうけて書いたものです。当時の日本の論壇人たちは、敗戦によって肉体的にも精神的にも疲弊した状況にあった日本人に向って、追い討ちをかけるように「日本人の悪いところは…」などといったご託宣をたれてばかりいました。中村は、そういった風潮に疑問を感じて、この小論文を書いたようです。国敗れ傷心している人たちに対する愛情に溢れた中村の文章を、堪能してください。ごく簡単にいうと、新しい「正義」に飛びつくのではなく、まずは「自分」をとり返しましょう、というメッセージです(一部省いています)。


 自分の回復

中村光夫


 近頃新聞や雑誌を見て不思議に思うのは、まるで自分が日本人でないような顔をして日本の悪口をいう人がひどく増えたことです。


 戦争中、日本人ぐらい世界中ですぐれた国民はないなどといっていた人達までが、平然として、二言目には「日本人の短所は」などともっともらしい顔をしています。


 まるでそのいうことを聞いていると、世界中に日本人くらい愚昧で不道徳で不潔で無気力な国民はないのではないかと思われるほどですが、ほんとうにそうなのでしょうか。またそういっている人もほんとうにそう思っているのでしょうか。それともただ時の勢いに乗った筆の調子で「日本は神国なり」などといったのと同じように、何の気なしに悪口をいっているのでしょうか。もしそうだとしたらずいぶん馬鹿げた無駄な話であるばかりでなく、有害だといってさえいいでしょう。


 こういう不真面目な論文が世の中に氾濫しても、それが大した実質的な害悪を流さないのは、ただただ雑誌の論文などを真に受ける人が少ないという理由からです。それともあまり不真面目な論文ばかり載るから人々が自然と、そういうつもりで読むようになったのでしょうか。いずれにせよ情ない話です。


 戦争中は自分ひとりで戦争しているような顔で読者を叱りつけていた連中が、今度は外国を自分ひとりで見て来たような顔で、「我国民の欠点として」などといっているのを聞いてくすぐったくなるのは僕だけでしょうか。僕はそこで彼らの豹変を咎めるよりむしろ、その相も変らぬ軽薄な威張り癖を情ないと思います。こういう「指導者」たちが顔を洗って出なおさぬかぎり日本の文化の向上はまず望めないことです。


 実際、今少しでも真面目に考えてみれば、現在の日本人に必要なのは悪口ではなく、むしろ励ましであり、その短所をことさらにいい立てるより美点をなくさせないようにはっきりさせることの方がずっと大切なことはすぐに解るはずではありませんか。


 個人の場合でも精神的にまたは経済的にでも本当に苦境にあえいで立ちなおろうとするとき、まず一番につかまねばならぬのは自信です。


 自分を信じられなくなったとき、どんな人間でも滅びるほかはないのですが、人生の危機に臨むと僕らはふだんは何でもなく持てる程度の自信さえ失いがちです。というよりこういう自信を失うことが危機なのかもしれません。

 そして今の日本人が国民としてちょうどこういう危機のなかであがいていることは誰にも明かなことです。落目にあるとき、人の短所ははっきり現われるものです。しかしそういう境遇にいる人の弱点をことさらに数えあげるのは、個人の間でも慎むべきこととされているではありませんか。第一それはあまり容易すぎることだし、またそんなことをしたところでその人を落目から救う役に少しも立たないからです。人間が逆境から立上るのにまず必要なのは元気です。いわば自信と勇気が僕らが危機を通り抜けるために、まずつかまねばならぬ最小限の資本なのです。


 だからそれでなくても悄気てる(しょげてる―川島)人間に悪口をいうことは、少なくもその人のことを真面目に思う者のするべきことでないのは、個人の場合でも国民の場合でも同じではないでしょうか。
 自業自得とはいえ、今日のような惨めな生活を強いられている時こそ、ぼくらは自分たちにせめて何かの取柄がないかを真剣に考えて見るべきではないでしょうか。


 誰も彼も生きるために苦しまなければならない現在こそ、僕らは漠然とした己惚れでなく、はっきりした自己反省にもとづいて、自分の美点を育てていくべきではないでしょうか。


 暗黒のなかでは一点の灯りにたよるように、僕らは心に残されたわずかに人間らしい気持の芽をお互に励ましあってのばしていかねばならないのではないでしょうか。


 いまの日本人にとって自ら卑下することくらいやさしいことはないし、自分を本当に尊敬するくらいむずかしいことはないのです。

 そして危機のなかで安易に就くのは、そのまま滅亡に身を委すことです。

 人間は自分から卑しいと考えれば、それだけで卑しくなるし、自分に誇りを持ってそれに価するように努めるのは、いつも苦しいことです。しかし努力なしに幸福にありつこうとするのは、それ自身卑屈な奴隷根性ではないでしょうか。

 見栄や見せかけでない本当の幸福は決してただで得られるものではなりません。

 そして他人にむかって誇るためでなく、自分を延ばして行くために、自分の心のなかの一番ましな芽を大切にしていくことは、自覚の第一歩であり、本当の意味での自立に達する唯一の道と僕には思われます。

 いったい僕らには自分というものを大切にする習慣が欠けていると思います。何かちょっとしたことをするのにも、僕らぐらい人の思惑を気にする人種はちょっとありますまい。自分が自分にどう見えるかより、他人にどう見えるかがまず問題なのです。馬鹿げた話ではありませんか。つまり自信がないからです。こういう習癖は社会生活の統制を保っていくには便利でしょうが、そのかわり僕らの生活はいつも他人の考えに支配されているわけです。隣組なんかというおそらくどこの国にも例のない制度ができたのはこういう心理的な基礎の上にでしょう。だから日本の国はどんな大変動にあっても社会の秩序は驚くほど平静に維持されているかわりに、個人の生活はいつもあまり楽しくないといった現象が生れるのではないでしょうか。

 つまり僕らは自分でものを判断する前に、他人の思惑を気にしすぎるのです。あまり他の顔色ばかりうかがっているから、自分の判断力を失ったのか、それともまず判断力をなくしたので、ひとの思惑ばかり気にするようになったのか、ともかく僕らは自分の幸福を犠牲にしても、他人からよく思われたいと思うような所があります。奇妙な自己犠牲の精神です。そしてこの悲しい虚栄心はたんに僕らの日常の生活を支配しているだけでなく、国民としての感情の奥底にまで滲み込んでいるように思われます。(中略)


 永井荷風氏は、かつて東京で万国博覧会が計画されたとき、会場の近辺の貧民窟をにわかに政府がとり払うことに決め、しかも博覧会が中止されると取り払いもそのままになったのを笑って、市民の生活より漫遊の外客の印象をずっと重んじる政府のやり方について、なお他にも多くの事例をあげ、「つまり明治文明全体は虚栄心の上に体裁よく建設されたものです」といい、ちょうどそのころ帝劇をはじめいくつかの新しい劇場ができかけていたのを評して、「劇場は石と材木さえあれば何時でも出来ます。然し日本の国民が一体に演劇、演劇に限らず凡ての芸術を民族の真正の声であると思うような時代は、今日の教育政治の方針で進んで行ったら何百年たっても来るべき望みはないだろうと思うのです。日本人が今日新しい劇場を建てようと云うのは僕の考えじゃ、丁度二十年前に帝国議会が出来たのも同様で、国民一般が内心から立派な民族的芸術を要求した結果からではなくて、社会一部の勢力者が国際上外国に対する浅薄な虚栄心無智模倣から作ったものだ」

 とまで極言しています。永井氏がこの文章を書いたのは明治四十二年のことです。おそらくこういうもののいい方には今でも反感を持つ人が多いでしょう。しかし僕はここにいわれていることは正しいと思います。荷風氏だけでなく、鴎外も漱石も、有島武郎も、当時の優れた文学者の多くは、明治文明の「虚偽」について同じように考えていました。

 そして今日このくらいなことに気づくには、何の達見もいらないと思います。

 この問題をあまり深く掘りさげることは、今その場所でないと思うのでやめますが、要するに僕らの生活の中核をなすある中身のない虚栄心は、この虚偽の文明の子である僕らが何者かに対して支払わねばならぬ当然の代償と考えることができます。

 功利と浅薄な虚栄心から、外国文明の外面だけ模倣した結果、自分の持っていた一番大切なものをなくしてしまったともいえましょう。日本の西洋文明輸入がこれまで浅薄で皮相的だったとは誰でもいうことですが、この浅薄で皮相的な輸入文明が、そのなかで生きる僕らの精神をどんなに薄っぺらに歪めているかには、誰も容易に気がつきません。

 「明治という時代は実質上は封建時代だ。というよりはむしろ封建時代の美点を捨てて、悪弊だけを止めた時代だ」という意味のことを、やはり荷風氏がいっていますが、少なくも精神の領域では僕らは明治以来西洋からもらったものより失ったものの方がずっと多いのです。

 西洋人の生活の根幹をなしているその思想の一番大切な部分は理解されず、ただその「文明」の外形が、僕らがこれまで持って来た文化を破壊してしまっただけなのです。

 もしそうでなければ、僕らが自分を忘れて西洋の真似をするというような馬鹿げたことは起らなかったはずです。
 なぜかというと「自分」という考えこそ、西洋の近代思想の根幹をなすものだからです。戦争中英米の文化は個人主義的だから怪しからんというようなことがよくいわれましたが、怪しからんというのは馬鹿げているにしても、とにかくこれは本当なのです。個人の自由、個人の幸福ということが、社会生活の中心思想をなしている点ではイギリスもアメリカもフランスもおそらく同じことです。そして民主主義というような原則も、各々個人が本当に自分を中心として、ものを考えられる国で初めて成り立つのです。つまり自分のために、自分で思考する能力と他人の思惑に自分の幸福を任せず、他人と異った生活や意見を持つのを敢えて恐れぬだけの自信を持つ個人を前提としなければ、選挙も男女同権も無意味な形式にすぎますまい。

 たしかミシュレエという歴史家が、ルネッサンスの根底をなす二大事件として、アメリカの発見と、個人の発見をあげていましたが、日本の「近代」は逆にアメリカに発見されたせいか、いろいろな意味で「自分」のない近代だったようです。

 しかしこの「自分」をとりかえすことが、これから西洋といっそう激しく接触していく上でどれほど大切かは今までいったところで大体お解りと思います。僕は国粋主義者ではありませんからいわゆる「我国固有の美風」といったような馬鹿げたことをいっているのではありません。またこれからの西洋文明のとり入れ方もいわゆる「採長補短」といった生ぬるいことでは駄目だと思います。

 そうではなくて日本がこれから本当に近代化し、そして幸福になっていくために、つまり、西洋の文明を、これまでのような猿真似でなく、人間として本当に理解するために、まず自分をとり返すことが必要なのです。

 これは単に西洋思想の根本というだけでなく、ここ十年の苦しい生活がしみじみ僕らに教えてくれたところではないでしょうか。

 国民のなかで聰明なエゴイストが多数を占めなければ、僕らはまたどんな馬鹿げた目にあうか解らないのです。

 

 

※中村光夫『日本の近代』(文藝春秋、1968年)より(初出は『婦人文庫』【1947年6月】所収の「自分の恢復」)





(2025年7月2日)

2025年07月02日