可愛がられていた中村光夫

 文芸評論家の巌谷大四氏は著書の中で、1941年の夏、はじめて中村光夫に会ったときに見た光景について、次のように印象深く語っています。

《 私はその前の年(1940年———引用者)の四月、早大を卒業して、文芸家協会の書記を勤めていた。その時の書記長が今日出海氏で、時々私を呑みに連れて行ってくれた。

 その日は、はじめに銀座出雲町の小料理店「はせ川」に行き、二軒目に「うしお」(という銀座のスタンド・バー ———引用者)へ行った。どちらも、今さんの関係していた「文學界」のグループの行きつけの店であった。

 そこで私は、生れてはじめてのすさまじい光景を見てしまったのである。

 ドアを開けたとたんにすごい罵声が聞こえて来た。何しろ、五、六人しか入れないスタンド・バーの、そのカウンターの上に一人の男があぐらをかいて、目玉をくりくりさせながらわめいていたのだ。それが、かの有名な青山二郎で、そのうしろ、つまりカウンターの中に立っているのが小林秀雄であった。その二人が、目の前に座っている中村光夫を、こてんぱァにやっつけているのである。そして、中村光夫は、うなだれて涙を流しているのだ。そのすさまじさにびっくり仰天した。そんなのを見たことのない私は、気が弱いから、それだけでふるえ上ってしまった。そして、今さんだけを押し込んで、するりと外へぬけ出して、逃げ帰ってしまった。

 翌日、今さんに会ったら、
「お前、なんで消えちまったんだ。あれからが、面白かったのに、馬鹿な奴だ。あんなのは、しょっ中だ。つまり、小林と青山は、ああやって中村を可愛がってたんだ。小林ってのは、自分の認めている奴を、ああやってしごくんだよ。青山は尻馬にのってるんだ。ああいうのをじっくり見ておかなくちゃだめだよ。あいつは、認めようと思う奴だけをやっつけるんだ。無視している奴は、全然相手にしないんだよ。よくおぼえておけ。編集者になるつもりなら、修行のうちだよ。あんなのびっくりしてちゃだめだ」とじっくり言われた。まず編集者失格であった》(巌谷大四『かまくら文壇史:近代文学を極めた文士群像』かまくら春秋社、1990年。太字は引用者)

 1941年といえば中村光夫はすでに文芸批評家としてそこそこ名の知られた存在であり、しかも30歳になっていたはずですが、それでもまだ小林秀雄との間にこんなに厳しい師弟関係があったのだということに驚かされます。「こてんぱァにやっつけている」の意味は、おそらく文学上のことで、中村が書いた内容が薄いとか理解が足りないとかいったことで小林が説教をしているということだと思うのですが、いくら師匠とはいえ、「尻馬にのっている」人の罵声とともにこんなにこてんぱんにやられるのは、今の時代ではなかなか理解されがたい現象といえる思いますが、まあこの時代はこういう時代だったのでしょう。

 それでも中村光夫はこの年から9年後(1950年)に『風俗小説論』を書いて、師匠とはまったく異なる文体である、みずからの「です・ます」体の批評スタイルを確立させることになるのですから、こうした壮年期における「可愛がり」の体験が何がしか役に立っている可能性も、いくらかはあるのかもしれません。あるいは、中村光夫は本当に肝の据わった人でしたから、「可愛がられ」ながらも、「あなたはそう言うけれども、いつか俺はあなたとは違う、俺のスタイルを確立するんだ!」と心の中で思っていたのかもしれません。今となっては、「古きよき師弟関係」といえるかもしれませんが、現代ではなかなかみられない光景かもしれませんね(中村光夫のエピソードでよく出てくる中原中也とのビール瓶のエピソードよりも、私はこの師匠による「可愛がり」のエピソードの方が強烈に印象に残っています。もちろん、読んだ印象ですが)。


 





(2024年8月1日)

2024年08月05日