日本の近代1

中村光夫による「日本の近代」観


 中村光夫の文芸批評家としてのひとつの大きなテーマとして、「日本における近代の受け入れかたのゆがみ」についての指摘、分析というものがあります。以下、中村光夫の「『近代』への疑惑」(『文学界』1942年10月)における「日本の近代」観の素描です。


●「日本における(西洋)近代の受け入れかたのゆがみ」~「近代」の移入に際して存在した縛り~

 まわりのアジア諸国はほとんどすべて西洋の植民地となっていたため、①独立維持のために、②物質文明を逆向きで、③大量に、④短期間で移入しなければならない、という縛りが存在した。

① 独立のために必要だった…独立維持のために、武力や経済力の面で西洋諸国と同等の力をもつことが急務であった。
② 逆向きの移入…外国からの慌しい「輸入」としての近代。すでにできあがった物質文明を中心として移入された。ヨーロッパにおける物質文明成立の背景には、14世紀に始まるルネサンス以来の地道な、多領域にわたる知的・精神的な営為の蓄積が存在した。物質文明が確立するまでには、こうした膨大な知的・精神的な営為が存在したが、日本はそれらの結果をのみ膨大に移入することとなった。
③ 大量の移入…「大砲」「蒸気船」「汽車」「紡績機」「工場」「銀行」「会社」など、機械と技術が中心であった。生存上必要なので、まずはこれらが中心であった。そのほか、海水浴などの習慣や、政治経済や、文化などあらゆる領域での移入が実施された。
④ 短期間での移入…悠長に移入していたのでは、独立を維持できない可能性があったため、切羽詰まっていた。《この驚くべき生活様式の革命が、維新の開国以来わずか八十年、長命な人の一生にも当らぬ短い期間に成就されたということに我国の所謂「近代」の最も著しい特色があるのではなかろうか。世界中のどこの国が何時の時代にこのように激しくまた慌しい変化を経験したであろうか》(中村の前掲論文)。

●そのためにわれわれが払った犠牲とは何か


 日本の近代移入は上記のような特殊事情のため、日本人は以下のような犠牲を払わざるをえなかった。
① つねに新しいものを求めて移りゆく浅薄な精神の姿勢が身についた。
②西洋の「新知識」の圧倒的な権威に幻惑され、自分でものを考える習慣が減退した(本当は考える力を持っているのに、知識のコピーばかりしていると、次第に考えようという気力や習慣も減退していかざるをえない)。
② 西洋のものは何でも過大評価する姿勢が身についた(令和の大谷翔平に「相手をリスペクトしすぎないようにしましょう」と言わせるほど)。



浜崎洋介氏の問題提起

 文芸批評家の浜崎洋介氏は、最近、R・D・レインや岸田秀が用いた概念、「内的自己」「外的自己」という概念を用いながら、日本の近代の問題点について、独自の考察をしておられます(YOUTUBE動画「日本を包む「ぼんやりとした不安」の正体とは?」【浜崎洋介×川嶋政輝】2023/9/30)。もともとのR・D・レインの「内的自己」「外的自己」の考えかたは、人間の自我は、素直な生命の流れとしてある自然的な「内的自己」と、他者や社会と交わる部分であると同時にそれらから規制をうける部分でもある「外的自己」とからなるが、この本来は調和しているはずの「内的自己」と「外的自己」とが引き裂かれるところに「精神分裂病」が発症する、というものです。

 浜崎氏は、この自我に関する「内的自己」「外的自己」理論を「日本の近代社会」を分析する際に応用します。浜崎氏によると、明治維新以降の「近代日本」は、「西洋近代に右に倣え」ということを大きな基本原則とした、明治以降の日本を統制する圧倒的な視点は「西洋近代」にある、そしてそのような「外的自己」を皆もつようになった、ということだそうです。「西洋近代」に合わせる者は有用であり、優れており、「西洋近代」に合わせない者は無用であり、劣っている、近代以降の日本社会はそうした社会になったと浜崎氏は言います。この考えかたは、基本的には中村光夫と同じです。中村光夫は、明治以降の日本社会には、独立維持のために、西洋の圧倒的な物質文明を、大量に、短期間で移入しなければならない縛りが存在した、と言いましたが、そのような縛りの実現のためには、必然的に、社会のあらゆる局面で「西洋近代」をものさしとする目に見えない規範のようなものの存在を想定せざるをえないからです。こうした考えかたは、森鴎外や夏目漱石の文明批評とも重なる部分があると思われます。

 浜崎氏はさらに上記のような「西洋近代に右に倣え」的な「外的自己」による長期間の広範囲な統制の状態が続くと、日本人の「内的自己」はどんどん浸食されて縮小していかざるをえなくなるが、そうした「内的自己」から発信される違和感を公にいうこともなかなかできない。なぜなら、すでに大きな権威として存在する東大を頂点とした日本のアカデミズムのガチガチのピラミッド構造は、すべて「西洋近代」を範としているものだから。そうして、「西洋近代」という視点を越えたところの、本来は豊かな「内的自己」のリアリティが徐々になくなっていき、《リアリティの稀薄な、解離性の、実感のない子どもたち、あるいは大人たちが》大量に生産されてくることになった、と浜崎氏は言います。

 また、「外的自己」からくるプレッシャーは受動的であり、「内的自己」から発せられるエネルギーは能動的であるが、明治以降の日本は、この能動を押し殺して受動に適応することを良しとしているので、みんなエネルギーがなくなってきている、とも浜崎氏は言います。

 以上が、この動画の中で浜崎氏がご自身の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社、2022年8月)に基いて「日本の近代」の問題点について大まかに述べられたところとなります。

 ちなみに、明治以降より続く日本におけるこうした事態に対する浜崎氏の処方箋は、(ここから先は、動画ではなく浜崎氏の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』を参考にします)まずは自分の足元を見つめ、「あるがままの自分」「等身大の自分」から歩きはじめることであり、「様々なる意匠」にだまされず、背伸びをやめ、日本人自身の生きかたを受け入れることである、ということです。そして浜崎氏は漱石の「自己本位」という概念を引用して、次のように述べています。

《漱石の「個人主義」、あるいは「自己本位」は、(中略)「自己」の内奥から発される必要の感覚に応じて、外部との折り合いを果たそうとする生き方、言い換えれば、自己自身の持続感——歴史感覚に基づいて、他者——他国との距離感を測るという生き方です。

 他人から見て、その道がいかに下らないにせよ、「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば」、人は、要らぬ劣等感や優越感に囚われることはありません。等身大の自分に「容易に打ち壊されない自信」を見出すことができるのです》(浜崎洋介『ぼんやりとした不安の近代日本』)



中村光夫による北村透谷論~そこに垣間見える文明批評~

 以上のような、浜崎氏による処方箋は、私もほとんどそのとおりだと思います。やはり、もっとひとりひとりが「自己本位」の立場から、内発的に、自由に発言・発信できる社会になればどれほどよいだろう、と私も思います。けれども、そうはいってもなかなかそれを実地に行なうことは難しい、というのが現状ではないかと思います。明治維新から100年以上もの時間をかけて身についた独自の文明開化精神は、ちょっとやそっとの小手先の工夫で何とかなるものではありません。

 そこで、ここでは、日本人の「内的自己」が明治以降、委縮して固定化してしまった経緯についての、さきほど紹介した中村光夫の説明の別バージョンを図解化・視覚化して、分かりやすく提示してみようと思います。そうして、「近代の受け入れかたのゆがみ」の過程をはっきりと認識することにより、自らの本来もっている認識や能力の可能性の大きさに気づくこともあろうかと思います。つまり、いいかえると原因の認識を得ることにより、認識の書き換えをおこなってみよう、という試みです。以下は、中村光夫が北村透谷の『明治文学管見』の内容について解説しつつ、日本における「精神の自由」の発現史について述べている部分です。

《 透谷は、西洋の文学発達の歴史を、精神の自由の自覚と発現の歴史だととらえています。元来、精神の自由を求める性質というものは、人類に共通のものであって、東洋であろうと西洋であろうと変わりはない。特に、わが国では、近世の徳川時代において、町人文学の形で、精神の自由を求め、実現しようとする欲求がはっきりと現れてきた。しかし、それは、日本も、東洋の一国であるという事情によって、はなはだ不完全にしか発現しえなかった。だが、ここに明治維新が断行され、精神の自由に向かっての国民の欲求は飛躍的な進歩を遂げた。ただ、物質的な西洋文明の側面が先に入って来てしまったので、精神の自由を求める欲求は、その時代の精神、あるいは社会全体の要望にまでならず、逆に物質に幻惑されて、国民が自己を失って行くことになった。そういうことがだいたい「明治文学管見」の論旨です》(中村光夫「「近代」への疑惑」)

 以上の中村の説明を図式化すると、以下のようになります。


 



 中村はまた、次のようにも述べています。

《「物質の変遷は精神に次ぎて来るものなるが故に、之を苟且(かりそめ)にすべしと云(いふ)にはあらねど、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあるべし」(北村透谷『明治文学管見』)つまり、まず人間の精神あるいは思想があって、それが自然科学を生み、その自然科学が物質生活の変遷をもたらすと言うことです。ところで、ヨーロッパの歴史では、そのような過程をへていますが、日本ではそうはなっていない。特に明治時代は、物質文明が先に入って来て、それによる社会生活の変化が精神に影響を及ぼすという順序になります。透谷は、それは一時の変態的現象だというふうに考えるのです。本質的に論ずれば、物質は精神の後から来るのであって、従って、本当の歴史は、人間の精神のあり方を研究するものでなければならない、と言うことになります》(中村光夫『近代の文学と文学者』、太字ー引用者)

 このように、日本の近代文芸批評の草分けともいうべき北村透谷は、日本の近代の受動性を理解していたものと思われます。同様にこれを図式化すると、次のようになるかと思います。

 


 ようするに、本来は私たちも「やれば出来る」はずだということです。ここには、一般に有名な「ノミの跳躍力」の話と似た構造があるように思われます。跳躍力20㎝のノミを高さ10㎝の箱にいれ、ふたをしてしばらく放置すると、そのあいだ中、ノミは10㎝の高さしか跳躍できず、それが習慣化してしまうこととなり、その後、箱から出しても10㎝しか跳べなくなってしまっている、という話です。私たちの精神も同じことでしょう。自己の内側から湧いてくる知的好奇心の跳躍力は、おそらく私たちが想像もつかぬほどはるかに高く、圧倒的なものであるはずなのです。

 ちなみに、中村光夫は科学の本質について、次のように述べています。

科学とは云うまでもなく人間の精神の一機能であり、知性により自然を認識する一方法である。したがってこれは元来が長い伝統を持つ厳格な知的訓練の所産であり、またその本質において芸術と同じく人間精神の無償の活動である筈である。科学の実生活への応用は、たとえそれがどのように驚くべき結果を生じようと、常に科学自体にとってはひとつの結果であり、目的ではあり得ない。この無償性は芸術におけると同様に科学にとってもその本質をなす生命であろう。芸術の功利性の強調がともすれば芸術の堕落を招き易いように、科学が単にその有用性のみから社会に重んじられるのは、或る意味で真の科学者にとって不幸な事態であろう。この点から考えれば、科学の実用化が驚くべき勢いで促進された十九世紀以後のヨーロッパに、ダ・ヴィンチやゲーテのような天才が跡を絶ったのは、決して偶然の暗合ではないのである》(中村光夫「「近代」への疑惑」、太字ー引用者)

 

 以前、私は別のところで、ニュートンがペスト流行のため大学が休校になり、暇をもてあそんでいるあいだに万有引力の法則を発見したという話を紹介したことがありますが、ニュートンが錬金術や聖書の研究、あるいは今日でいう「オカルトの研究」に熱心だったということは少し調べれば誰でもすぐに分かることです。湧出する内発性を元手として、数々の無償の知的な営為が行なわれれば、私たちの社会から「ダ・ヴィンチやゲーテのような天才」があらわれる可能性だってあるのではないでしょうか。

 

 



(続く)

 

(2024年1月22日 脱稿)


 


2024年01月11日