エッセイ一覧

若さの力技







若さの力技(エッセイ)


若さの力技

 近頃ぼくは、とても爽快なニュースを聞きました。それは、近頃ぼくらがよく耳にする青少年の犯罪といった若さの否定的な面についてのものではなく、若さの肯定的な面、いや、まさに若さの「力技(ちからわざ)」とでもいうべき喜ばしいニュースでした。

 2月27日の夜、福岡県久留米市を走るJR久大本線で、列車が脱線する事故があり、近くの踏み切りの遮断機が下がったままとなり、交通量の多い道路(国道209号線)が身動きのとれない状態になってすぐに南北1キロにもわたる大渋滞になってしまったそうです。

 以下、エキサイト:ニュース(3月2日)から引用します。

《……その際、たまたま通りかかった高校生6人が「脱線しているなら列車は来ない」と判断。手分けして遮断機を上げてクルマの通行を確保した。近くの高校には「おたくの生徒が踏み切りの遮断機を上げている」という通報が近隣の住民から入り、いたずらだと考えた教師が慌てて駆けつけたところ、必死に遮断機を上げている生徒を発見。携帯電話で警察に通報するとともに、協力して遮断機を支え続けた。
15分後に福岡県警の久留米署員が現場に到着。ロープで遮断機を固定するまでの約20分間、高校生たちは重い遮断機を支え続けたことになる。久留米署では「遮断機を上げることの法的な問題は別にしても、現場での緊急処置としてはあれが最善だった。もし支えてくれなかったら、交通が大混乱して大変な事態になっていた」と、この高校生たちを絶賛している》

 ぼくはこのニュースを読んで、あらためて、若さの素晴らしさというものを再認識させられました。彼ら6人の高校生は、たんなる行動バカではありません。彼らは、しっかりと状況を見極めて、「脱線しているなら、列車は来ない」ときわめて理性的な判断を下し、そしてその判断に基づいて渋滞を解消すべく素早く行動を起したのです。

 逆に、渋滞に巻き込まれていた多くの大人たちは、いったい何をしていたのでしょう? ぼくは、上の高校生たちの的確かつ迅速な判断および行動に感嘆すると同時に、そのほか現場に大勢いたであろう大人たちの情けなさにひどく落胆しました。渋滞に巻き込まれた人たちの多くは、いうまでもなく大人でしょう。彼らは、なぜ、何の行動もとらなかったのでしょう? おそらく、何か行動を起してあとでそれが裏目に出て責任を問われたらイヤだから、とか、オレじゃなくても、誰かが何とかしてくれるだろう、とか、考えていたのではないでしょうか。

 事故の多くは、突発的に起るものです。その際、すべての人が上の「大人」のように考えていたら、どうなるでしょう? いうまでもなく、事故はますます大きくなって被害が拡大してしまうほかはないでしょう。このような事故のときに必要なものは、上の「大人」のような無責任で卑怯な打算ではなく、6人の高校生のような、素早い理性的な判断とそれを行動に移す勇気と機動力ではないでしょうか?

 ぼくは、同じことは政治の世界においても言えると思います。少子高齢化の危機が指摘されてからすでに久しいのに、いまだに日本の政治家はその抜本的な対策を実行していません。これは、上の「大人」のような政治家が大多数を占めているからではないでしょうか?

 けれどもぼくは、まだ日本の政治家に絶望しているわけではありません。ぼくらは、20代から40代にかけての若い政治家のなかには、素晴らしい志を持って、日本をよくしようと真剣な熱意に燃えている方もいるということを知っています。彼らに、上の6人の高校生のような「力技!」を期待したいと思います。それから、熟年、老年の政治家たちには、せめて、上の生徒たちの的確迅速な行動を理解してそれを援助した教師のような、理解力のある裏方としての役割を期待したいと思います。


(2001/3/12 脱稿)



2022年06月07日

米津玄師と山本太郎の「心の橋」

米津玄師と山本太郎の「心の橋」



 先日、歌手の米津玄師が以前にラジオで語ったことを紹介する動画を見ていたら、とても印象深いことを語っていました。動画再生回数5億回を超える大ヒット曲「Lemon」は、そのミュージックビデオも芸術性が高く人気がありますが、その中で米津玄師がハイヒールを履いている場面があります。私は、なぜ米津氏はハイヒールを履いているのだろうと不思議に思っていたのですが、米津氏はラジオの中でその理由について語っています。以下は私がそれを要約したものです。

 《むかし夢で見た光景があって、そこはおそらく誰かの葬式の会場で、会場にはいろんな人たちがいて、みんな喪服を着ていて、その中のひとりに自分もいる。しばらくして、ある人が突然、指笛を吹き始めたんです。「ピー!」っとものすごい甲高い音で。まわりのみんなは戸惑うんですよ。

「えっ? なにあの人、ちょっと頭おかしいんじゃないの?」と。

 まわりの人は指差して笑う人もいれば、うわさ話をしてザワついた雰囲気になったりもしている。それでもその人はまわりを気にせず指笛を吹き続けているんです。その人が指笛を吹いている理由は誰にも分からない。

 でも、夢から覚めて、自分は思ったんです、亡くなってしまった人と、その人とのあいだに、なにか合図のようなものかあって、あるいはその二人にしか分からない何かがあって、それによって指笛を吹くっていう行為が生まれたんだろうなあ、って。そして自分はそれはものすごく美しいことだなと思ったんですね。亡くなってしまった人とその人とのあいだにある、ほかの誰もが知らない何か、そういうものがそこにある、という側面を読み取ったんです。で、そういうニュアンスを「Lemon」の映像の中で落とし込みたいなあと思って、それでヒールを履くという結果となりました》(『米津玄師 × 野木亜希子 アンナチュラル対談』〈2018.3.4 TBSラジオ〉の要約)

 つまり、まわりの目を気にせず、誰にも分からないような何かをすることで、二人の間の絆を表現する、そういうニュアンスがあのハイヒールには込められているのだということです。 

 私はこのくだりを聞いて、なぜか小林秀雄のある言葉を思い出しました。《…問題を男と女との関係だけに限るまい、友情とか肉親の間柄とか、凡そ心と心との間に見事な橋がかかっているとき、重要なのはこの橋だけなのではないだろうか》(小林秀雄『Xへの手紙』)小林は、それは《近付き難い威厳を備えているものの様に見える》とも言います。米津玄師がハイヒールを履いて座っているあの姿は、まさに死者との間にかかる「心の橋」を表現しているのではないだろうか、そう私は思いました。

 また、最近、山本太郎の街頭演説の動画を見ていて、この「心の橋」を垣間見ることができたような気がします。山本太郎は演説会で、大型モニターを使っていろいろなデータや資料を使いながら市民からの質問に答えていくというスタイルをとっているのですが、このとき5万枚を超えるという資料の中から即座に山本の欲する資料をPCを使ってモニターにアップするスタッフがいます。この人は、山本太郎の「IMFのあれ」などという抽象的な短い言葉から、察して素早く正確な資料を画面上に取り出してみせることができます。ときに山本が「あ、もう出てる(笑)」というくらい、山本の心の中を読むことに長けているのです。興が乗ってくると、ときに山本はこのスタッフをイジって聴衆の笑いを誘うこともあります。そういうとき、私は、「ああ、見事な橋がかかっているな」と思ってしまうのでした。山本太郎には、日本の政治を変えてもらって、あちこちで「心の橋」のかかる、そんな暖かい国にしてもらいたいですね。


(2020/01/23 脱稿)


※2024/01/11 更新




2024年01月11日

日本の近代1

中村光夫による「日本の近代」観


 中村光夫の文芸批評家としてのひとつの大きなテーマとして、「日本における近代の受け入れかたのゆがみ」についての指摘、分析というものがあります。以下、中村光夫の「『近代』への疑惑」(『文学界』1942年10月)における「日本の近代」観の素描です。


●「日本における(西洋)近代の受け入れかたのゆがみ」~「近代」の移入に際して存在した縛り~

 まわりのアジア諸国はほとんどすべて西洋の植民地となっていたため、①独立維持のために、②物質文明を逆向きで、③大量に、④短期間で移入しなければならない、という縛りが存在した。

① 独立のために必要だった…独立維持のために、武力や経済力の面で西洋諸国と同等の力をもつことが急務であった。
② 逆向きの移入…外国からの慌しい「輸入」としての近代。すでにできあがった物質文明を中心として移入された。ヨーロッパにおける物質文明成立の背景には、14世紀に始まるルネサンス以来の地道な、多領域にわたる知的・精神的な営為の蓄積が存在した。物質文明が確立するまでには、こうした膨大な知的・精神的な営為が存在したが、日本はそれらの結果をのみ膨大に移入することとなった。
③ 大量の移入…「大砲」「蒸気船」「汽車」「紡績機」「工場」「銀行」「会社」など、機械と技術が中心であった。生存上必要なので、まずはこれらが中心であった。そのほか、海水浴などの習慣や、政治経済や、文化などあらゆる領域での移入が実施された。
④ 短期間での移入…悠長に移入していたのでは、独立を維持できない可能性があったため、切羽詰まっていた。《この驚くべき生活様式の革命が、維新の開国以来わずか八十年、長命な人の一生にも当らぬ短い期間に成就されたということに我国の所謂「近代」の最も著しい特色があるのではなかろうか。世界中のどこの国が何時の時代にこのように激しくまた慌しい変化を経験したであろうか》(中村の前掲論文)。

●そのためにわれわれが払った犠牲とは何か


 日本の近代移入は上記のような特殊事情のため、日本人は以下のような犠牲を払わざるをえなかった。
① つねに新しいものを求めて移りゆく浅薄な精神の姿勢が身についた。
②西洋の「新知識」の圧倒的な権威に幻惑され、自分でものを考える習慣が減退した(本当は考える力を持っているのに、知識のコピーばかりしていると、次第に考えようという気力や習慣も減退していかざるをえない)。
② 西洋のものは何でも過大評価する姿勢が身についた(令和の大谷翔平に「相手をリスペクトしすぎないようにしましょう」と言わせるほど)。



浜崎洋介氏の問題提起

 文芸批評家の浜崎洋介氏は、最近、R・D・レインや岸田秀が用いた概念、「内的自己」「外的自己」という概念を用いながら、日本の近代の問題点について、独自の考察をしておられます(YOUTUBE動画「日本を包む「ぼんやりとした不安」の正体とは?」【浜崎洋介×川嶋政輝】2023/9/30)。もともとのR・D・レインの「内的自己」「外的自己」の考えかたは、人間の自我は、素直な生命の流れとしてある自然的な「内的自己」と、他者や社会と交わる部分であると同時にそれらから規制をうける部分でもある「外的自己」とからなるが、この本来は調和しているはずの「内的自己」と「外的自己」とが引き裂かれるところに「精神分裂病」が発症する、というものです。

 浜崎氏は、この自我に関する「内的自己」「外的自己」理論を「日本の近代社会」を分析する際に応用します。浜崎氏によると、明治維新以降の「近代日本」は、「西洋近代に右に倣え」ということを大きな基本原則とした、明治以降の日本を統制する圧倒的な視点は「西洋近代」にある、そしてそのような「外的自己」を皆もつようになった、ということだそうです。「西洋近代」に合わせる者は有用であり、優れており、「西洋近代」に合わせない者は無用であり、劣っている、近代以降の日本社会はそうした社会になったと浜崎氏は言います。この考えかたは、基本的には中村光夫と同じです。中村光夫は、明治以降の日本社会には、独立維持のために、西洋の圧倒的な物質文明を、大量に、短期間で移入しなければならない縛りが存在した、と言いましたが、そのような縛りの実現のためには、必然的に、社会のあらゆる局面で「西洋近代」をものさしとする目に見えない規範のようなものの存在を想定せざるをえないからです。こうした考えかたは、森鴎外や夏目漱石の文明批評とも重なる部分があると思われます。

 浜崎氏はさらに上記のような「西洋近代に右に倣え」的な「外的自己」による長期間の広範囲な統制の状態が続くと、日本人の「内的自己」はどんどん浸食されて縮小していかざるをえなくなるが、そうした「内的自己」から発信される違和感を公にいうこともなかなかできない。なぜなら、すでに大きな権威として存在する東大を頂点とした日本のアカデミズムのガチガチのピラミッド構造は、すべて「西洋近代」を範としているものだから。そうして、「西洋近代」という視点を越えたところの、本来は豊かな「内的自己」のリアリティが徐々になくなっていき、《リアリティの稀薄な、解離性の、実感のない子どもたち、あるいは大人たちが》大量に生産されてくることになった、と浜崎氏は言います。

 また、「外的自己」からくるプレッシャーは受動的であり、「内的自己」から発せられるエネルギーは能動的であるが、明治以降の日本は、この能動を押し殺して受動に適応することを良しとしているので、みんなエネルギーがなくなってきている、とも浜崎氏は言います。

 以上が、この動画の中で浜崎氏がご自身の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社、2022年8月)に基いて「日本の近代」の問題点について大まかに述べられたところとなります。

 ちなみに、明治以降より続く日本におけるこうした事態に対する浜崎氏の処方箋は、(ここから先は、動画ではなく浜崎氏の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』を参考にします)まずは自分の足元を見つめ、「あるがままの自分」「等身大の自分」から歩きはじめることであり、「様々なる意匠」にだまされず、背伸びをやめ、日本人自身の生きかたを受け入れることである、ということです。そして浜崎氏は漱石の「自己本位」という概念を引用して、次のように述べています。

《漱石の「個人主義」、あるいは「自己本位」は、(中略)「自己」の内奥から発される必要の感覚に応じて、外部との折り合いを果たそうとする生き方、言い換えれば、自己自身の持続感——歴史感覚に基づいて、他者——他国との距離感を測るという生き方です。

 他人から見て、その道がいかに下らないにせよ、「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば」、人は、要らぬ劣等感や優越感に囚われることはありません。等身大の自分に「容易に打ち壊されない自信」を見出すことができるのです》(浜崎洋介『ぼんやりとした不安の近代日本』)



中村光夫による北村透谷論~そこに垣間見える文明批評~

 以上のような、浜崎氏による処方箋は、私もほとんどそのとおりだと思います。やはり、もっとひとりひとりが「自己本位」の立場から、内発的に、自由に発言・発信できる社会になればどれほどよいだろう、と私も思います。けれども、そうはいってもなかなかそれを実地に行なうことは難しい、というのが現状ではないかと思います。明治維新から100年以上もの時間をかけて身についた独自の文明開化精神は、ちょっとやそっとの小手先の工夫で何とかなるものではありません。

 そこで、ここでは、日本人の「内的自己」が明治以降、委縮して固定化してしまった経緯についての、さきほど紹介した中村光夫の説明の別バージョンを図解化・視覚化して、分かりやすく提示してみようと思います。そうして、「近代の受け入れかたのゆがみ」の過程をはっきりと認識することにより、自らの本来もっている認識や能力の可能性の大きさに気づくこともあろうかと思います。つまり、いいかえると原因の認識を得ることにより、認識の書き換えをおこなってみよう、という試みです。以下は、中村光夫が北村透谷の『明治文学管見』の内容について解説しつつ、日本における「精神の自由」の発現史について述べている部分です。

《 透谷は、西洋の文学発達の歴史を、精神の自由の自覚と発現の歴史だととらえています。元来、精神の自由を求める性質というものは、人類に共通のものであって、東洋であろうと西洋であろうと変わりはない。特に、わが国では、近世の徳川時代において、町人文学の形で、精神の自由を求め、実現しようとする欲求がはっきりと現れてきた。しかし、それは、日本も、東洋の一国であるという事情によって、はなはだ不完全にしか発現しえなかった。だが、ここに明治維新が断行され、精神の自由に向かっての国民の欲求は飛躍的な進歩を遂げた。ただ、物質的な西洋文明の側面が先に入って来てしまったので、精神の自由を求める欲求は、その時代の精神、あるいは社会全体の要望にまでならず、逆に物質に幻惑されて、国民が自己を失って行くことになった。そういうことがだいたい「明治文学管見」の論旨です》(中村光夫「「近代」への疑惑」)

 以上の中村の説明を図式化すると、以下のようになります。


 



 中村はまた、次のようにも述べています。

《「物質の変遷は精神に次ぎて来るものなるが故に、之を苟且(かりそめ)にすべしと云(いふ)にはあらねど、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあるべし」(北村透谷『明治文学管見』)つまり、まず人間の精神あるいは思想があって、それが自然科学を生み、その自然科学が物質生活の変遷をもたらすと言うことです。ところで、ヨーロッパの歴史では、そのような過程をへていますが、日本ではそうはなっていない。特に明治時代は、物質文明が先に入って来て、それによる社会生活の変化が精神に影響を及ぼすという順序になります。透谷は、それは一時の変態的現象だというふうに考えるのです。本質的に論ずれば、物質は精神の後から来るのであって、従って、本当の歴史は、人間の精神のあり方を研究するものでなければならない、と言うことになります》(中村光夫『近代の文学と文学者』、太字ー引用者)

 このように、日本の近代文芸批評の草分けともいうべき北村透谷は、日本の近代の受動性を理解していたものと思われます。同様にこれを図式化すると、次のようになるかと思います。

 


 ようするに、本来は私たちも「やれば出来る」はずだということです。ここには、一般に有名な「ノミの跳躍力」の話と似た構造があるように思われます。跳躍力20㎝のノミを高さ10㎝の箱にいれ、ふたをしてしばらく放置すると、そのあいだ中、ノミは10㎝の高さしか跳躍できず、それが習慣化してしまうこととなり、その後、箱から出しても10㎝しか跳べなくなってしまっている、という話です。私たちの精神も同じことでしょう。自己の内側から湧いてくる知的好奇心の跳躍力は、おそらく私たちが想像もつかぬほどはるかに高く、圧倒的なものであるはずなのです。

 ちなみに、中村光夫は科学の本質について、次のように述べています。

科学とは云うまでもなく人間の精神の一機能であり、知性により自然を認識する一方法である。したがってこれは元来が長い伝統を持つ厳格な知的訓練の所産であり、またその本質において芸術と同じく人間精神の無償の活動である筈である。科学の実生活への応用は、たとえそれがどのように驚くべき結果を生じようと、常に科学自体にとってはひとつの結果であり、目的ではあり得ない。この無償性は芸術におけると同様に科学にとってもその本質をなす生命であろう。芸術の功利性の強調がともすれば芸術の堕落を招き易いように、科学が単にその有用性のみから社会に重んじられるのは、或る意味で真の科学者にとって不幸な事態であろう。この点から考えれば、科学の実用化が驚くべき勢いで促進された十九世紀以後のヨーロッパに、ダ・ヴィンチやゲーテのような天才が跡を絶ったのは、決して偶然の暗合ではないのである》(中村光夫「「近代」への疑惑」、太字ー引用者)

 

 以前、私は別のところで、ニュートンがペスト流行のため大学が休校になり、暇をもてあそんでいるあいだに万有引力の法則を発見したという話を紹介したことがありますが、ニュートンが錬金術や聖書の研究、あるいは今日でいう「オカルトの研究」に熱心だったということは少し調べれば誰でもすぐに分かることです。湧出する内発性を元手として、数々の無償の知的な営為が行なわれれば、私たちの社会から「ダ・ヴィンチやゲーテのような天才」があらわれる可能性だってあるのではないでしょうか。

 

 



(続く)

 

(2024年1月22日 脱稿)


 


2024年01月11日

「報復」か、「不当な攻撃」か

(2001年10月10日の「川島正平のページ」エッセイより)


《 ――お静かに。感情的におなりになってはいけませんわ。ここはともあれ平和の場所、どんな争いも程のいい微笑に変る場所なのですもの。私は見えない秤を手に持って、双方へ等分に、相応の満足と、それから相応の不本意をさしあげるのです。私の目には怒っている焔も、瑪瑙の彫刻にしか見えませんし、たぎっている瀬の水も、水晶の浮彫にしか見えません。もつれにもつれた毛糸も、からみ合った蔦かずらも、何かしら私には、そこにへんな悪い魂があって、むりに複雑さに化けて見せているのだとしか思えません。複雑な事情などというものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純でいつもしんとしている場所なのですわ。少くとも私はそう信じております。ですから私には、闘牛場の血みどろの戦いのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な足取で歩いてゆく白い鳩のような勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でしょう。血も幻、戦いも幻なのですもの。私は海ぞいのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のように、争い事に波立っているお心の上を平気で歩いて差上げますわ…… 》三島由紀夫『弱法師』(新潮社『近代能楽集』<1990年刊>)より

 

本当に「報復」なのか

 とうとうアメリカは、「戦争」を始めた。

 日本時間で10月7日の夜、アメリカとイギリスはアフガニスタンの軍事拠点に対する軍事攻撃を開始した。 米英は、これをテロに対する「報復」攻撃であるという。

 だが、これが本当に「報復」なのか、どうか、ぼくらには分らない。

 ぼくらは、9月11日の「テロ事件」を含むこれら一連の事件に関する報道の多くを、「西側」の報道機関のそれに依存してしまっている。

 一方、中東における知識人たちの多くは、それら「西側」の報道機関があまり触れないこれらの事件の背後にある事情について、よく知っており、その事情及び今回の「戦争」について、深く憂慮しているようだ。

 田中宇氏の「国際ニュース解説」(http://tanakanews.com)は、そういう中東知識人たちの憂慮について、詳しく紹介してくれている。

 つまり、9月11日のアメリカにおける爆破事件が、「テロ行為」であるにしろ、そうでないにしろ、いずれにしても、中東の良識的な知識人たちは、今回の一連の事件の背後には、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカ、という構図が存在することを、さらにいえば、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカ、という構図が存在することを、視野に入れて、今回の「戦争」を憂慮している、ということだ。

 このような構図を視野に入れると、今回の米英の「報復」が、果して本当に「報復」なのか、どうか、必然に怪しくなってくる。


 しかもぼくら自身は、いまだに、ビンラディンが今回の「テロ」の首謀者であるかどうかを決定するに足る、「証拠」を提示されていない。これまでのビンラディンの「テロ」の手口とその規模を考えるとき、ぼくらがアメリカに対して、今回の事件に本当に彼が関与していたという決定的な証拠を提示してもらいたい、と願うことは、当然のことだと思う。※ビンラディンについての詳細な情報は、以下のサイトで得ることができる。http:hanran.tripid.com./terro/osamabinladin/

 上のサイトに拠ると、ビンラディンがかつて「自由戦士」としてアメリカのCIAに歓迎されていた、という情報もある。


日本政府の義務

 もちろん、だからといってぼくは別に、9月11日の事件に関する「イスラエル謀略説」や「アメリカ自作自演説」を簡単に信じるわけではない。

 ただ、上述のような、「アメリカ」側の事情と「イスラム」側の事情を冷静に眺めてみるとき、明確な証拠もないのにある特定の集団を犯人と決めつけて軍事攻撃をすることを容認することはできない、ということだ。なぜなら、かりにビンラディンが「テロ事件」の首謀者であるという明確な証拠もないまま米英が今回の軍事攻撃に出ていたとするならば、その攻撃は「報復」ではなく、明らかに「不当な攻撃」である、といおうことになるのだから…。

 アメリカの「報復」に対して、全面的に支持する意向を示している日本の一国民として、単純にぼくは、アメリカがビンラディンが「犯人」であるという決定的な証拠を日本国民に(もちろん、出来れば世界中の一般市民に対しても)示すことを願うのみだ。

そして、かりにアメリカがビンラディンが「犯人」であることを示す決定的な証拠を提示したとしても、長い目で今後のテロ対策を考えるとき、依然として残る問題がある。それは、すでに述べたように、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカという構図や、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカという構図が、かりに真実であるならば、今回の事件の犯人を撲滅したあとも、同じような事件が起る可能性はなくならない、からだ。

 日本政府は、上のような構図が存在するかどうか、独自に調査すべきだろう。なぜなら、9月11日のニューヨークにおけるテロで殺された人たちの中には、日本人も含まれているのであり、日本国民の平和と安全を確保するのが政府の重要な任務のひとつであるならば、そのような調査をすることは、日本政府の重大な義務のひとつであると言わなければならないからである。




正平のひとりごと



憎しみは憎しみで

怒りは怒りで

裁かれることに何故

気づかないのか

———浜田省吾「愛の世代の前に」より



J ―boy の怒り


 10月9日の夜、ぼくは、10月8日の夜にNHKで放送されていた、ロック・シンガー浜田省吾の特集番組をビデオで見ていました。

 前日の夜(10月7日の夜)にアメリカがアフガン攻撃を始めたばかりだったので、この番組の間もずっと画面の上と横に「戦争」関連のテロップが流ていました。

 そして、ラスト5分の所で、アメリカがアフガンに対する再攻撃を始めたということで、番組は中止になってしまいました。

 ショックでしたね。

 同時に、愛と平和を願い、反骨の人である浜省の番組であるだけに、何とも象徴的な、偶然にしては出来すぎの、皮肉っぽい出来事だと思いました。

 まるで、浜省が今回の一連の事件の愚かさをあざ笑っているようにも思えました。

 こんな事態であるにもかかわらず、なぜ、ぼくが浜省の番組の突然の中止がショックであったか、ということを考えてみると、それは、本質的には、日本のテレビ局が流す「戦争」に関する情報よりも、浜省の歌の与える感動と、その歌詞の内容の豊かさ、美しさの方が、今回の事件の真相をより深く洞察するひとを育てるのに有益ではないか、ということを、ぼくが心の中で無意識に感じたからではないか、と思います。

 何とも能天気なことを言っているように見えるかもしれませんが、正直、ぼくはそう思いました。

 あとで、浜省関係の掲示板を見てみると、みんな、「戦争なんて、どうだっていいんだよね」とか、「浜省、ホントすてき~!」とか、「しかし、ほんとステージが似合う男だねぇ~」とか、いろいろに好き勝手なことを言っており、苦笑してしまいました。





(2001年10月10日脱稿 / 2024年2月4日再掲載)

※上記エッセイは、2001年10月7日に米英によって行なわれたアフガニスタン侵攻の直後に書いたものです。



2024年02月04日

生きることの意義について(エッセイ・令和版)

(2002年5月16日の「川島正平のページ」エッセイより)

 


人の一生はおびえ慄えて縮むほど大事なものではない。
ショウペンハウエル『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』より



 最近、身近な人が自殺して、いろいろと考えさせられました。しばらくショックであまりものを考えることが出来ない状態だったのですが、数週間たってようやく冷静な気持が戻ってきたようです。実は前回のエッセイがすでに自殺に関するものだったので、二回続けてこういう題材について書くのはどうかとためらわれたのですが、今回の事件を契機に「生きることの意義」に関して自分なりに真剣に考えたことを記しておきたかったし、そして何よりも自分自身の気持の整理(けじめ)のためにも、このエッセイを書くことにしました。

 Aさん(今回自殺した47歳の男性)は、仕事を通じて知り合った友人の一人でしたが、飄逸な笑顔とその独特のユーモア感覚でまわりからも慕われている陽気な中年男性でした。Aさんは、豊富な経験とその盛んな好奇心のため、ことに雑学に長けていて、若い人の中には「Aさんに聞けば何でもわかる」と尊敬の眼差しで見つめている人もあったくらいでした。そのAさんがなぜ自殺することになってしまったのか、いまでは知る由もありませんが、ただ(少なくともぼくにわかる範囲で)はっきりしているのは、Aさんが心臓に遺伝性の持病を持っていたことと、最近仕事で失敗してヘコんでいたこと、くらいなものです。けれども、これだけでAさんが自殺するということは、少なくともぼくには信じられないので、おそらく衝動的なものだったのだろうと今では推測しています。

 実は、ぼくは以前、このAさんと、「生きることの意義」について、少しだけ議論したことがあります。それは、あるときふとAさんが「…生きていてもしょうがない」ということを言ってきたので、ぼくが「どうしてですか?」と聞いたところから始まりました。ぼくにしてみれば、頭が良くてユーモアもあり、打ち込んでいる趣味(パソコン関係)もあるAさんがこんなことを言ってくるのは、寝耳に水という感じがしたのです。よく聞いてみると、20代の頃にAさんは、「生きることの意義」に対する疑問に悩んで、キリスト教の教会に通っていた時期があったということでした。教会で牧師さんと何度も議論したそうですが、結局神を盲目的に信じるしかない、という牧師さんの答えに失望して、それ以来この問題に関してはすべて棚上げにして今まで生きて来た、と言っていました。ぼくはぼくなりに「生きることの意義」に関する考えを持っていましたが、それを開陳するにはそれなりの時間とそれなりの労力をかけてする必要がありましたし、またそのときの雰囲気がそれほど深刻なものではなかった(Aさんは多少冗談っぽく、自嘲気味に話していました)ので、「まあ、生きることの意義に関する答えがなければ人間生きられない、というわけでもないですからねえ」というお座なりの言葉で済ませてしまいました。今ではそれが多少悔やまれますが、それでも「自殺する人は結局何を言っても自殺するんだ」というのが今のぼく自身の正直な気持ちです。

 その後、Aさんが死んでから、再びこの問題について考えたこと(あるいは、先人の考えから学んだこと)を以下に書いておこうと思います。

 中村光夫の晩年の著作に『老いの微笑』(1989、ちくま文庫)という本があります。これは中村が老いをテーマにして書いたもろもろのエッセイをまとめたものですが、その中に「自分は大切か」と題するエッセイがあります。中村はそこで、近代の洗礼を受けた個々人にとって、生きることの意義はどういうところにあるか、ということに関する自らの見解をわかりやすく述べています。

 中村はまず、明治になって封建主義を脱した日本人が、西欧の個人主義の思想を取り入れた歴史について概観します。曰く、昔の日本人は、個々人が行動するときに、自分の考えに従うのではなく、他人の考えによっていたが、西欧近代の個人主義の思想の影響で、次第に日本人も、自分のために、自分の考えに従って生きることが善とされるようになった(実質的にそうなったのは、戦後のことでしょう)、と。それは、たとえて言えば、個々人が自らの進むべき行き先を指し示す羅針盤を自分の中に持つことであり、他人が持つ羅針盤に従って生きていた昔に比べれば望ましいことかもしれないが、しかしそれはまた同時に、新たな苦悩の始まりでもあった、なぜなら、《羅針盤を一々のぞくのは、ある意味でわずらわしいことだし、第一、羅針盤そのものが正確とはかぎらない》(中村光夫『老いの微笑』p.154)からだ、といいます。

 さらにはそこへ、「遺伝と環境」によるある種の決定論の思想である近代自然主義の考え方が入ってきて、ぼくらは、自我を意識することがすなわち自我の解体に立ち会うことである、という近代人の宿命を自覚することになります。

《僕らが、どんなに自分に固執しようと、時代や環境の影響を免れないのは明らかですが、そうだとすると、僕らが自分の考えと思っているものは、たいがい他人から学んだもの、あるいは、他人の是認を予期しているものでしょう。自分のなかの本当に自分といえる部分は何か、という疑問は自己反省を多少でも本気で行った者が必ず逢着するものであり、僕らが人生でいくつか出会う解決のない問題のひとつです。

 よく考えて見れば、僕らの内面にも、まったく他人に依存しない思想や感情などないといってよいので、僕らが平素「自分」と思いこんでいるものは、多くの他人の影響の複合体であり、ただその要素の組合せが、多少異っているにすぎないのです。

 そうでなければ、時代の影響が、人間の性格や行動に見られるはずはありません。

 これは僕らの生命が限られていることとも照応する現象です。

 自分の内心の声を聞いたつもりでも、実は時代の流行を追っていたにすぎないという経験は、おそらく誰にもあるでしょう。

 そんなふうに考えると、自分というものが一体あるのかないのかが問題になってきます。僕らが自分で考えたと思っていることが、すべて他人のうけ売りだとすれば、僕らの本来の自分はないに等しいはずです》(中村光夫『老いの微笑』p.156~157)

 ――たしかにそうでしょう。たとえ自分が自己の内面の論理に従って個性的に生きているつもりでも、一方で、その「自己」というものがすべて外界の影響から出来上がったものであるならば、それが果して「個性的」な生き方かどうか、あやふやになって来てしまいます。ならばわれわれが「個性的」に生きる意義はどこにあるのか、ということになってしまいます。中村はこの問題について、次のような解答を提出しています。

《…前世紀の詩人は星空を仰いで、そこに感知される無限の時間と巨大な空間にたいして、地球と人間の卑小さを嘆息しましたが、僕らは自己のとるにたらぬ存在であることを感ずるために、宇宙を持ちだす必要はないのです。

 僕らの肉体が社会に加わらなければ生きられないように、僕らの精神も外界からきたさまざまの要素から成り立っています。しかし、このことは、すぐに僕らの精神が画一的な存在であることを意味しません。これらの要素の組合せは各人によって異るはずで、この組合せの違いが人間の個性を形造ります。

僕らが生きるとは、この組合せの持つ可能性を実現することで、むかしから言われてきた個性を生かすというのもこれ以外のことではないはずです。

 自分を大切にすることは、以前には自己の内面に絶対の権威をみとめ、外界を軽蔑し、孤立することから始まったのですが、現在ではそのような孤独や隔絶は、僕らの方から望まなくとも、社会の方からそれを構成する人々に押しつけてきます。したがって自分を大切にし、その発達を希う努力は、ある意味で、前世紀と反対の方向にむかうはずです。

 自分の内面を形成する要素は、個々には外界からきても、全体としては自分に独得のものである以上、これを真の意味で自分のものとすることが、僕らにとって生きることの意義になるはずです。自分という外界から隔絶した外界の持つ可能性を、現実のものとする道は、この小さな外界に、大きな外界との交流を恢復し、生命をあたえることです。

 むろん、僕らの内面は全く外界と同じではありません。たとえば知、情、意という三面で普通表わされる精神のはたらきは、僕らの内面だけにあるものと言えます。

 しかし、ひと並より明晰な智力を持っているとか、情がこまやかとか、意思が強いというような、僕らの性格の特色も、結局は「遺伝と環境」の所産にほかなりません。だからそれも僕らにとって外界から来たものと言えるのですが、それが僕らの個性とすると、僕らの意識にとって、ぼくらの個性もまた外界だと言えます。

 僕らの個性の持つさまざまの特色、たとえば――ごく単純に言って――知性は鋭いが意思が弱いとか、意思が強いが、情感が乏しいというような性格は、おそらく偶然の所産ですが、あたえられた僕らにとってはかけがいのないものです。したがって、このそれぞれ歪みと不均衡を持つ――それによって外界から離れる――性格を、それが歪みと不均衡のゆえに孕んでいる可能性を、外界との交流のうちに開花させること、これが僕らにとって生きるということである筈です。

生命の営みとは既成の諸要素の新しい組合せから、これまで現実になかったものに存在を与えることであり、生きるとはこの広い意味での創造だからです。

 「自分を大切にする」のも、むかしのように外部からの影響を遮断し、自己を絶対化することではなく、自己を形造る要素がすべて外界から来たものであることを知り、その組合せに個性をみとめ、そこに含まれた可能性を抽きだし、そのことによって、現実に何物かをつけ加える、少なくもそういう創造の方向に努力することになりましょう

 それは外界からの隔絶を条件とする代りに(隔絶は物心つけばすでにしているので)すすんで外界とかかわり、それを変化させることで自分も変化して行くことです。外界に働きかけ、そこから何かをとり入れずに人間は生きて行けないからです》(同上、p.161~163)(太字――川島)

 このように、自らの内面の持つ組合せの独自性を信じて、そこから個性的なものを創造し、個性的な生き方を歩んでいく、ということは、何も学者や芸術家やアーティストなど、特別な人にだけ妥当するものではありません。普通のサラリーマンでも、日々の仕事の経験から何か独創的な発想を得て、時期を見て脱サラしその発想をもとに起業して成功した、という例はいとまがありません。また、普通のサラリーマンや被雇用者や主婦でありつつ、同時に趣味の世界で独自の豊かな精神生活を実現しそこに生き甲斐を見つけているという例は、皆さんのまわりにもいくらでもあることと思います(もっとも、つとにマルクスが指摘したように、「効率」第一の近代社会における仕事場では、個々人をその趣味や人格の面も含めて全体的に評価するという面がなさすぎる、というのは事実でしょう)。

 また、マルクスやエンゲルスであれば、上のような問いに関しては、次のように答えることでしょう。人間は精神的にも肉体的にも相互に作りあっているのであって、決して自分で自分を作りはしない。ゆえに人間の生き甲斐は、世界中の働く人びとの幸福と安全と福祉のために何ごとかを為すことである、あるいはそのために何ほどかでも協力することである、と。実際、三浦つとむは、このような考えのもとに、社会科学の領域における謎解きを自らの生き甲斐にしていました。ついでにいうと、ぼくも三浦と同じような生き甲斐のもとに人生を送っています。――ちなみに、上の中村の考えに当てはめて考えてみると、ぼくが学問上の影響を受けたのは、その主なものは、マルクス、エンゲルス、三浦つとむ、時枝誠記、中村光夫、デカルト、プラトン、村上陽一郎、古田博司などなどであり(もちろんそのほか目に見えない影響もたくさんあると思います)、このような組合せはおそらくこの広い世界の中でもぼく一人だけだろうと思います。そうして、そういう自分だからこそ、他の誰にも書けないところの何ものかを書くことが出来る、という自負が一方であります。そして同時に、それがぼくの生き甲斐にもなっています。

 ――ここで誤解してもらいたくないことは、すべての人が肩肘はって「独創」を目指さなければならないということではない、あるいは、すべての人がいわるゆ「成功」をしなければならないということではない、ということです。すべての人は、その容貌、声、喋り方、中村の指摘した知、情、意の組合せ、などの面において、すでに世界に二人とはいない貴重な、かけがえのない存在なのです。――実際、今回のAさんの自殺でぼくが一番残念に思ったのは、Aさん独特の人なつこい笑顔や立居振舞い、それから何よりもその独特のユーモア表現などがもう二度と見られない、ということでした。こう考えてみると、ある人が自殺するということは、その人を慕っていた(あるいは、不謹慎な言い方かもしれませんが、その人の個性を楽しんでいた)周囲の人びとに対する罪である、とさえ思われてきます(家族や親戚に対する罪である、ということはいうまでもありません)。もっとも、なかには「自殺するヤツなんか知ったこっちゃねえ。勝手に死なせておけ」と考える人もいるでしょう。たしかに、究極的にはそうなのですが、それでも、自殺するということの中には、こういった小さな、目立たない罪がある、ということを自殺志願者に知ってもらうことは、あながち無意味なことではないだろうと、ぼくは思うのです。




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※先日、何となく寝そべりながら米津玄師のラジオ出演を動画にしたものを見ていたら、とても興味深いことを語っていました。彼は本当に探究心のかたまりのような人で、ひとつひとつの自分の音楽上の作品の価値とそれに対する世の中の受けとめ方を細かく分析していて、そこで生まれた疑問についてまた真剣に考え込んでしまうことがある、しかもその疑問はときに一年間も持続してしまうこともあるそうです。


 以下、このとき聴いた話の要約です。2012年、米津玄師は本名で活動を開始し、アルバム『diorama』を発表します。


 《このアルバムは自分の中では、完璧なJポップで普遍的なもの。幅広い世代に受け入れてもらえるものと信じていたのに、現実はそうではなかった。そこにズレがあった。このズレが何なのかについて、必死に考えた。このズレと向き合う必要を感じた。じゃあ、どうすれば多くの人に伝わる音楽を作ることができるのか? 


 机の上にいろんなものを並べた。普遍的なものとは何か。人と人との間にある共感とかルールとは何か。そしてそれはどこから生まれてくるものなのか。


 1年くらいずっと考えた。そして1年間の中でいろんな答えが見つかって、その中のひとつが、


『人と一緒にやっていく ! 』


『人と一緒に美しいものを作っていく ! 』


で、自分以外の誰かとの間に見つかる共通した部分、ルールとかそういったものを大事にしていく。そういうことがあるから、人に伝わるものになる。自分なんてしょうもないんすよ、基本的に。生まれてきた瞬間から、人間は社会的な生き物であって、、、で、日本という国に住んでるわけであって、まあいろんな倫理観だとか、道徳だとか、そのコミュニティにおいてのいろんな所作を教えられながら生きてくるわけじゃないですか。そのいろんな積み重ねの上に自分がいるわけであって、そこで自分の肉体の中にあるものだけを見つめて行ったところで結局それは見つめて行けば行くほど外へ向いて行くしかないんですよね。まあ、(2012年から2013年にかけては)仲間を作るっていう1年になったと思うんですけど、それによっていろんな美しくもしょうもない友だちがいっぱいできまして、まあ、それによって今の自分が成り立っているなあっと思いますね 》(『米津玄師□と、Lemon。』より)


 ここには、学生時代のバンド活動で人と一緒にやろうとして挫折を経験したという、自分の過去をもう1回受け入れて、それでも人と関わって生きていかなければ良いものは作れないという必死な彼の決意を感じることができます。結局、自分ひとりだけでやっていると、その作品は知らず知らずのうちにどこか豊かさに欠ける、人の心に届きづらいものになってしまうのではないか、ということだと思います。たとえば一本の木が成長する過程を考えてみても、太陽の光や酸素、土の養分、水などいろいろなものを必要としますが、人間の才能−−それもいろんな種類があると思いますが−−も、自らの思いつきや考えだけでなく、他人の言葉や作品、それからその他人との関わりの中で生まれてくる諸々の所産なども、必要としているのだと思います。20代半ばでこういう境地に達することができるという、彼の早熟さには驚きを禁じえません。(2020年2月8日追記)

 








(2002年5月16日脱稿 / 2020年2月8日更新 / 2024年2月28日再掲載)



2024年02月28日

「ございます」と「いらっしゃいます」

「ございます」と「いらっしゃいます」



 ビジネスの現場では、「~でございます」の誤用例として、よく次のような指摘がされています。

《 ……相手の名前を確認するときの「山田様でございますか」は丁寧な表現ではあるが、「山田様でいらっしゃいますか」という言い方のほうが適切だ。「『ございます』は、『です』『あります』をさらに丁寧にした表現。通常は自分のことや物に対して使います。相手のことについて話すときは、『いらっしゃいます』を使うのが適切」と敬語講師の井上明美さん 》(『「〇〇でございますか」の恥ずかしい使い方:日経ウーマンオンライン【大人女子の教養講座】』)


 通常、「ございます」は「ある」の<丁寧語>、「いらっしゃる」は「いる」の<尊敬語>とされていますが、<丁寧語><尊敬語>という名称の是非はともかく、「ございます」「いらっしゃる」の原形としてそれぞれ「ある」「いる」があるということはまちがいありません。「ある」は「存在する」というきわめて抽象的な意味内容をあらわす<動詞>であるとともに、他方では<助動詞>「だ」の連用形と接続して「である」となり、判断をあらわす<助動詞>の表現としても使われます ⑴ 。「いる」も存在をあらわす<動詞>としての用法がありますが、こちらは判断をあらわす<助動詞>としては使われません ⑵。「ある」も「いる」も<動詞><抽象動詞>として使われる場合は客体的表現であり、「ある」も「ございます」も判断の<助動詞>に使われる場合は主体的表現です ⑶。文法的内容的にはこの二大別の区別が重要ですので、形式上の同一性に惑わされないようにしておかなければなりません。

 上の例では、「ございます」は自分や物に対して使うべきであり、「いらっしゃる」は相手や生きているもの(動物など)に対して使うべきである、とされています。ほんとうにそうなのでしょうか。「ございます」の原形は「ある」、「いらっしゃる」の原形は「いる」ですが、私たちはふつう「私はここにある」とは言わず、「私はここにいる」と言いますし、対象が「自分」か「相手」かという基準で使いわけているとも思えません。かつて言語学者の三浦つとむは、この「ある」と「いる」という内容の似通った、きわめて抽象レベルの高い語の区別に関する分析は文法的にきわめて重要であるとして、くわしく論じています。それについて少し復習してみることにしましょう。

三浦つとむの分析

《 言語学をかじっている学者は、人や動物には「いる」を使うものだと思いこんでいるから、「ある」を使っているのに気づくと誤用だと非難する者もあらわれた。今泉忠義や大石初太郎は鴎外を非難しはしないが、車掌のことばの使いかたはまちがっていると非難する。車掌のいうのを聞いていると、誰でも「お降りの方はありませんか。」「乗越しの方はございませんか。」と、「ある」系のことばを使っているが、これは誤りで、「いませんか」「いらっしゃいませんか」と、「いる」系を使わなければならない、と主張するのである。言語学などかじっていない乗客たちは、車掌が「ある」系を使っても、鴎外の文章を読んだときと同じように、誰もおかしいともまちがいだとも思っていないのだが、学者たちにとっては乗客たちがおかしいと思っていないことが不思議に思われたわけである 》(三浦つとむ『日本語の文法』【勁草書房、1975年】187頁)

 1975年当時、言語学(国語学)の世界ではすでに無生物には「ある」を、生物には「いる」を使うということが「通説」となっていました。上に三浦がいう鴎外の文章というのは、『ヰタ・セクスアリス』の次のような描写です。

《 教場でむつかしい顔ばかりしてゐた某教授が相好を崩して笑ってゐる。僕のすぐ脇の卒業生を摑まへて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちや嫌よ」と云つてゐる。お玉とでも云ふのであらう。席にゐた丈のお酌が皆立つて、笑談半分に踊つてゐる。誰も見るものはない。杯を投げさせて受けとつてゐるものがある。お酌の間へ飛びこんで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれさうになつて、慌てて退ける芸者がある。さつき僕にけんつくを食はせた芸者はねえさん株と見えて、頻りに大声を出して駆け廻つて世話を焼いてゐる 》(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』、傍線は原文では傍点)

 このように鴎外の時代には、ふつうに人に対しても「ある」が使われていました。三浦の文章が書かれた1975年頃も大衆のあいだではふつうに使われていたようですが、学者による「通説」の押しつけが継続的におこなわれた結果、いまでは公の場面ではあまり使われていません。一方で、物に対して「いる」を使う場合や、動物に対して「ある」を使う場合は、上の三浦の論文執筆の時代から現在まできわめて多く見うけられます。

《 ……置いてある車ならば、「家の前にあるトラックをどけてくれ。」とか、「その車はいま車庫においてある。」とかいう。ところが運転中の車だと、「ひかり1号はいま名古屋の近くにいるはずだ」といい、アナウンサーも「いまNHKの中継車はマラソンの折返点にますから、そこへカメラを移します。」などと語っている。「近くにある」とか「折返点にある」とかいわない。……街をあるいて気づくのは、動物でありながら「ある」を使っている場合がすくなくないことである。魚屋は「どじょうがあります」と貼紙をしたり、「上等のあさりがあるよ」とすすめたりしているし、小鳥屋の店員も「声のいいカナリヤがございますがいかがでしょうか。」という。イモやダイコンを売る場合と同じ扱いかたである。ところが店に来た子どもたちは、魚屋の桶をのぞいて「どじょうがいるよ」といい、小鳥の籠をながめて「あそこにカナリヤがいるわ。」という。「ある」とか「ございます」とはいわない。このような事実は、単なる習慣や不特定特定の区別ではなく、それぞれの対象認識にちがいがあることを暗示している 》(三浦つとむ前掲書、191~192頁。傍線は原文では傍点)

 現在の私たちも、「〇〇を乗せた護送車が××にいるぞ」とか「イージス艦が横須賀にいる」とか言いますし、またホームセンターなどで「カブトムシございます」というポップ広告が貼ってあるのをよく見かけたりします。こうした事実を分析して、三浦は次のような結論に達します。

《 このように認識のありかたを吟味してみると、われわれは「ある」「いる」を特に意識して使いわけているわけではないが、そこにやはり一貫性のあることがわかってくる。生物と無生物、あるいは不特定と特定などという対象のありかたとはまったく関係なしに、対象を動きまわるものと把握したときには「いる」を、たとえ同じ対象でも動かないときや動きを捨象して静止的に把握したときには「ある」を、使いわけているのである。鴎外が宴会の席の人びとの描写に「ある」を使ったのも、筆者のいいかたを借りるなら「純客観的に」自分からつきはなして、いわば菊人形の一場面でも見物するような意識でとらえたからである 》(三浦つとむ前掲書、193頁。傍線は原文では傍点、太字は川島)

 このように三浦は、対象のありかたと関係なく、話し手書き手の対象に対する把握のしかたに「ある」と「いる」の区別の基準があるといいます。たしかに、電車やバスの乗客とどじょうやカナリヤには共通点があります。電車やバスの中の乗客とお店の中のどじょうやカナリヤには規模のちがいはありますが、大きな「箱」に入れられて動きが制限された状態にあるという点で共通しています。乗客たちは電車やバスの車内で立ったり座ったり歩いたりはできますが、車掌の立場からすると大きな「箱」の中にとじこめられており、一定の範囲内で動きを制限された状態にあります。その点で、多少は動くことができるけれども水槽やカゴにとじこめられた状態にあるどじょうやカナリヤと共通しています。車掌も店員も、乗客やどじょうやカナリヤという生き物を大きな視野からとりあえず動かないものと把握して「ある」と表現しているのです。かつての車掌は、そうしたマクロの視点から「お降りのかたはありませんか」と言っていました。けれども乗客自身は、電車やバスのなかで実際に動いているわけですから、「いるよ、通してください」とミクロの視点から言うことになります。車掌もそういうときは乗客の具体的なありかたを意識するので、「あ、いらっしゃいましたか」とミクロの視点でいうことになります。お店のなかのどじょうやカナリヤは水槽やカゴのなかに入れられており店員はマクロの視点から「どじょうがあります」「カナリヤがございます」と言い、子どもたちは実際に目の前に動いているどじょうやカナリヤを見て、「どじょうがいる」「カナリヤがいる」と言うことになるわけです。この三浦の説はきわめて説得力があります。しかもすでに42年も前にこの説を唱えていたのですから驚きです。

 さらに三浦は、「ある」と「いる」の使われかたを歴史的に分析して、《……「あり」のときには、生物であろうと無生物であろうと動こうと動かなかろうと、それらの特殊性を超えた存在表現として使われた。それが「いる」を実体として動くものに使ったことから、「ある」の使われる分野も普遍的ではなく狭いものになっていったというわけである 》(三浦つとむ前掲書、195頁。傍線は原文では傍点)。つまり、もともと「ある」は存在するというあらゆる実体に普遍的な属性を抽象して表現していたのですが、似たような意味内容の「いる」がはじめから実体として動くものに使われはじめ、それによって、「ある」は次第に実体として動かないものに使われるようになっていった、というわけです ⑷。ただし、ここで注意しなければならないのは、「ある」を実体それ自体が動かない場合に使ったとしても、それはその実体が動く場合もあるということを否定してはいないことです。マクロの視野からある人を静止的にあつかったとしても、それはその人が具体的に動く存在であることを否定したことにはなりません。また逆に、ミクロの視野から電車に「いる」と使ったとしても、それは電車が動きまわる存在であることを認めたものの、それが「生き物」であると認めたわけではありません。このことに対する理解がないと、人に「ある」を使うとはけしからん、電車に「いる」を使うとはけしからん、と見当違いの批判することになってしまいます。

結論は同じでも根拠がちがう

 上の例においては、私も「~様でございますか」ではなく、「~様でいらっしゃいますか」と言うほうが適切だと主張しますが、その主張の根拠がちがいます。「山田様」が「相手」だからとか、「生きているもの」だから「いらっしゃいますか」を使うべきと主張しているわけではありません。この表現は、目の前にいる具体的な人と面と向かっておこなうものですので、当然対象を動かないものとして把握するはずはなく、対象を動きまわるものと把握して表現することになります。それゆえ、「いる」の<尊敬語>である「いらっしゃる」を使用するのが適切だということになるわけです。


 

 



【註】
⑴ 学校文法では「あり」の<助動詞>としての用法を<補助動詞>として分類していますが、三浦つとむはこれを判断をあらわす語とみなし、<判断辞>と表現しています。判断辞の「あり」は、<助詞>の「に」と接続して「にあり」となり、それが転じて別の判断辞「なり」が生まれ、<助詞>「と」と接続して「とあり」となり、これまた別の判断辞「たり」が生まれています。これらは属性表現が本質である<動詞>とはまったく別の判断表現の語です。
⑵ ただし、「ある」も「いる」も、「置いてある」「降っている」のように三浦つとむのいう抽象動詞【学校文法でいう<形式動詞>または<補助動詞>】としての用法もあります。抽象動詞は、きわめて抽象的な内容の・動的属性概念を表現する語のことをいいます。ちなみに、「いらっしゃる」は、「いる」に<接尾語>の「せらる」が接続された「いらせらる」が転じたもので、「っしゃる」の部分は<接尾語>です。
⑶ 主体的表現と客体的表現とは、国語学者の時枝誠記から言語学者の三浦つとむに継承された言語過程説における語の分類方法です。客体的表現とは、「家」「学校」「パンダ」「歩く」など、実体概念や属性概念を表現する語です。主体的表現とは、「だ」「です」「だろう」「おい」「ねえ」「はい」など、話し手書き手の判断概念を表現する語や、感情などを直接的に概念で表現する語です。
⑷ その結果、たとえばかつての「誰かある」などは今では「誰かいるか」というの方が適当だということになりました。けれども、鴎外が菊人形の一場面を見物するような意識で「ある」と表現していたような例は、現在でもそのまま表現するべきでしょう。

 



(2002/5/16 脱稿 / 2020年2月8日更新)

 

 

 


2024年07月17日

『酔拳』を観て

 先日、久しぶりに、ジャッキー・チェンの『酔拳』という映画をビデオを借りてきて観ました。昔からぼくはカンフーものの映画が好きで、ブルース・リーの映画もずいぶん繰り返し観たクチです。ついこの間も、ブルース・リーの『死亡遊戯』に未公開フィルムを加えて新たにリメイクされた『死亡的遊戯』という映画を観てきたばかりです(売店で「ブルース・リーのテーマ」が収録されたCDもついでに買ってしまいました^^)。それに刺激されたのか、最近また、カンフー映画熱が復活してしまったようです。

 久しぶりに観た『酔拳』は、ストーリーは単純でしたが、最近観たいくつかの新作映画とは比較にならないほど、面白いと感じました。よくまあ、あれだけ低予算であれほど面白い映画を作ったものだと、ジャッキーの演技力とそのコミカルな魅力、それから脇役俳優の充実もさることながら、この映画の監督と製作者の手腕にも感心してしまいました。それほど面白く、魅力あふれる映画でした。

 ストーリーはきわめて単純です。ジャッキーの役どころは、道場を開いているカンフーの師範の一人息子で、暴れん坊で悪さばかりしているやんちゃな若者ウォン・フェイフォン(面倒なので以下、ジャッキーと書きます。ウォン・フェイフォンは、実在した中国の英雄らしいです)です。ある日、ジャッキーの度を過ぎたイタズラに堪忍袋の緒がきれた父親が彼を蘇化子という弟子を痛めつけることで有名なカンフーの達人に弟子入りさせることを宣言します。ジャッキーはもちろん怖くて家を飛び出して身を隠そうとするのですが、偶然(?)ある料理店で一緒になった老人が実は蘇化子で、逃げられなくなり、しぶしぶ彼のもとで修行することになります。

 蘇化子は、はじめのうちはジャッキーに受身の練習と基礎体力作りしかやらせません。もともと父親の命令で弟子入りしたジャッキーは、そういうキツくて単調な修行に堪えきれず、ある日、とうとう修行を放棄して師匠のもとから逃げ出してしまいます。そうして、ある隠れ家のような所でたき火をして休んでいると、そこの住人らしき男が帰ってきます。その男は実は殺し屋で(ちなみに、いくら時代設定が違うとはいえ、中国に素手で殺しを引き受ける人間が本当にいたかどうか、ぼくには定かではありません。まあ、こういう細部が気にならないほどの魅力がこの映画にはあることはたしかですが)、何人もの人間をその卓越した武術で殺した経歴のある、つわものです。ジャッキーはこの男に追い出されそうになって、ついムキになって戦いを挑んでしまいます。そしてコテンパに打ちのめされてしまいます。殺し屋は、生きて帰りたかったら自分の股の下をくぐれ、と要求し、死にたくないジャッキーはその言葉に従います。コテンパに打ちのめされた上に股の下をくぐらされるという屈辱をうけたジャッキーは、思い直して、再び、今度は自らの意志で、蘇化子のもとに戻ります。

 そして根性を入れなおして、厳しい修行をつづけようとします。その心意気を買った蘇化子は、ついに、酔えば酔うほど強くなるという伝説の拳法「酔八仙」をジャッキーに伝授することを決意します。そうして、ジャッキーは、蘇化子がほかの誰にも教えたことのない「酔八仙」という秘伝の拳法を伝授され、これを習得します。そしてある日、とうとう蘇化子は、もう教えることはない、という置手紙を残して居なくなってしまいます。晴れて修行を完成させたジャッキーは、意気揚揚と実家に戻ります。彼が家に戻ってみると、偶然(必然に、というべきか(^^))、父親が例の殺し屋に命を狙われているではありませんか! ジャッキーは、さっそく二人の間に割って入って、例の「酔八仙」を使って殺し屋を倒してしまいます。――まあ、これがこの映画の大まかなあらすじです。

 この映画の最大の魅力は、おそらくジャッキー・チェンの格闘シーンとか、彼のコミカルな演技、それから彼と師匠とのからみの面白さとかにあるのでしょう。もちろんぼくも、その妙味を十分に堪能しました。今回ぼくは、それとは別に、以前観たときには気づかなかったこの映画の魅力を発見しました。それは、ジャッキー・チェンが強くなって行く過程、彼の武術が上達して行く過程がわりと細かく描写されているところです。ここに描写されている彼の武術の上達過程は、よく観察してみると、きわめて現実的な、理にかなっているものであり、武術以外のいろいろな分野にも当てはめて考えてみることのできるもののようにぼくには思われました。

 蘇化子師匠のもとで修行することになったジャッキーは、しばらくの間、受身と体力づくりという基本練習ばかりで、技の練習をほとんどさせてもらえませんでした。来る日も来る日も、朝から晩まで基本練習ばかりさせられたのです。その単調な修行に堪えきれないで、一度逃亡して、そうして外で殺し屋に殺されかけて戻ってきたあと、ジャッキーは初めて技の練習をさせてもらうことになるのですが、このあたりなど、武術にかぎらず何ごとも基本が大事だという、ぼくらが普段忘れがちな大きな、大切な事実を思い起させてくれます。何ごとも、いくら単調で面白くないといっても、基本的なことを繰り返し学ぶ努力と根気のないところに、見せかけでない、本物の上達はありえないということです。

 また、殺し屋に打ちのめされて股の下をくぐらされるという屈辱を受けたジャッキーが、負け犬になってそのまま逃げてしまうのでなく、自らの意志で敗北感と屈辱感から立ち直って、本気で強くなろうという強い思いを持って師匠のもとへ立ち戻り、真剣な熱意で武術を学ぶようになってから、師匠も本気になって教えるようになり、そうして実際ジャッキーの腕がメキメキと上達していくあたりなど、やはり何ごとも自らの意志と熱意如何で習熟度、上達度が変ってくる、つまり上向いてくる、ということを示唆しているように思われました。

 それから、師匠直伝の「酔八仙」を会得したジャッキーが最後に殺し屋と一騎打ちをする場面では、ジャッキーが「酔八仙」の技のうち「何仙姑」という技を忘れてしまう(実際は、カッコ悪い技だったのでサボって覚えなかったのです)シーンがあります。そうして、すでに覚えた技を出しつくしたジャッキーは絶体絶命の危機に直面します。そのとき、戦いの始めに駆けつけて二人の戦いを観戦していた師匠が、お前自身の技を創れ、と指示を出します。その言葉のとおり、ジャッキーは、ついに自分で師匠の技を応用した独自の技を創り出して、殺し屋を倒してしまいます。

新しい技を生み出した瞬間、ジャッキーは、殺し屋に向ってこう言い放ちます。


術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ!


 これも、おそらくすべての「学ぶ」ことに関して言えることでしょう。師匠の技をそっくりそのまま覚えるだけでは、およそ技の発展ということはありえません。学問でも同じことでしょう。師匠の教えを十分理解した上で、それを自分の力でいかに発展させるか、というところに、学ぶこと、学問することの本当の楽しさや、その醍醐味があるのではないでしょうか。ぼくは一介の独学者にすぎませんが、今のぼくがアカデミズムの世界に対して何か言いたいことがあるとすれば、それは、そうした、学問することの本当の楽しさや醍醐味を感得させてくれる環境を提供してほしい、ということです。少なくとも学閥や派閥めいたものに学問の発展が縛られない環境が整ってくれることを願います。「学徒」たるもの、「真理の王冠」以外のものに自らを従属させることなかれ!とでもいいたいところです。

 ――なんだか最後は、映画の話を強引に自分の関心領域へ引き寄せてしまったようで、我田引水の感が否めませんが(^^)、とりあえずぼくは、久しぶりにこの『酔拳』という映画を観て以上のようなことを考えたので、それをエッセイにしてみました。






(2001/4/16 脱稿 / 2024/7/28再掲載 / 2025/9/14 更新)

 

 

 


2024年07月28日

大いなる希望とともに(2005年6月1日)

 彼が産まれたのは去年の6月だった。その日の夜に産まれそうだと聞いて、私は仕事を休んで東神奈川の病院に駆けつけ、陣痛に苦しんでいる妻に付き添っていた。彼女がさすってほしいところを言ってくるので、私はその指示に従ってさすり、励ましの言葉を掛け、妻を元気づけたりしていた。

 が、実際のところ、一番動揺していたのは私かもしれなかった。ドラマに出てくるシーンとは違う、本物の「ウーン、ウーン」という腹の底から唸るような感じの凄まじいいきみ声に、無意識のうちに第三者的な気楽さで出産に立ち会おうとしていた私は、気後れしてしまっていたのだ。出産は意外と難産だった。夜中の3時過ぎ、帝王切開する可能性もあると医者から告げられた時は、本当になんにもしてあげられない自分がもどかしく、イライラが募るばかりであった。

 明け方になって、急遽分娩室にいた看護士から呼ばれた。産まれそうだから妻に声を掛けてほしいとのこと。私はもう無我夢中で、この時のことをよく覚えていない。ただ、子供が産まれた瞬間、看護士がまず一番に私に抱かせてくれたことと、子供を携帯で写真撮影することを許可してくれたこと、そして感動のあまり不覚にも涙を流してしまったことはよく覚えている。その子は、3200グラムの大きくて元気な男の子だった。へその緒を切ったばかりのその子を抱きながら、「ようこそわが家へ!」、私は心の中でそうつぶやいた。

 それからというもの、彼はつねにわが家の中心にいる。最初は乳母車の中で寝てばかりいた彼だが、次第にハイハイするようになり、「アーアー」だの「ウーウー」だの言葉にならぬ言葉をしゃべるようになり、最近では、とうとう「たっち」も出来るようになった。私は家にいる時はなるべく彼と一緒に遊ぶようにしている。こう書くと、妻に、一緒にいるだけでちゃんと遊んであげていないじゃない、もっと真剣に相手してあげて、と言われそうだが、私にしてみれば、以前のように部屋にこもって趣味に興じてばかりいないで、なるべく子供と一緒にいて、時々絡んでくる子供を適当にあやしたり、私なりに自分の時間の大部分を子供のために費やしているつもりである。子供の前でアクロバットを演じたり、身振りを交えて大声で歌を歌ったりする妻の流儀で子供をあやしたりは出来ないが、父親には父親なりのあやし方があってもよいではないか。第一、私は仕事で疲れていることが多いのだから、あまり労力のかからない遊びかたをしたからといってそう責め立てることでもあるまい、とよくあるオヤジの言い訳も付け加えておこう。

 どこの家でも同じだと思うが、子供にとって最も重要な、なくてはならない存在、言いかえれば第一の「友人」は母親である。父親はただでさえ仕事に時間を取られているから(世の働くお母さん方には失礼な言い方であるが、とりあえずわが家では父親が働いている)、子供がなつくようになるにはある程度努力が必要である。私も、なるべく子供と一緒にいて、なるべく多くスキンシップををとるようにしている。その甲斐あってか、最近ようやく、第二か第三の友人くらいには思ってくれるようになったようである。一緒にいて、用事で彼のそばを離れると、ワーワー泣きながら凄まじい勢いのハイハイで、ドタバタドタバタ私の後を追い掛けてくることがある。「おいおい、おまえさんはおいらの友達じゃなかったのかい、なぜ遠くに行ってしまうんだい?」てなことでも考えているのだろうか、はなはだ不満そうな顔で私の顔を見つめている。そういう時、私はなるべく彼と一緒に用事を済ます(たとえば歯を磨く時だったら、片手で彼を抱きながら歯を磨く)ようにしている。そうでもしないと、彼の心がまた私から離れていってしまうのではないかと不安なのかもしれない。というのも、彼にはまだ、母親がいないと恐ろしく不安になる瞬間があって、そういう時は、私がいくらあやしてもどうしようもないのである。父親では不安なのである。しょせん私はまだその程度の存在なのだ。だからこそ、彼が私を必要としているときには彼が望んでいることをしてやり、点数稼ぎをしておきたいのである。実にけなげな父親ではないか。(涙)

 最近、というほどでもないがちょっと前に、腹を抱えて笑うほどおもしろおかしいことがあった。家のダイニングで、私が食器を洗っていたときのこと。すぐそばで子供と妻が遊んでいた。そのうち妻がトイレに立った。私は、彼がひとりになって泣き出すのではないかと思い、食器を洗いながらも、チラチラ彼のほうへ目をやり、気にしていた。彼はトイレの扉と私のほうを代わる代わるみながら、どっちにいこうか迷っているようであった。そこへ妻が、息子をびっくりさせようと「わあっ!」と言いながらいきなり扉をあけて出て来たのである。息子は驚いて、反射的に両手をバンザイさせて、その手を妻のほうから私のほうへ弧を描くように半回転させながら倒れてしまった。驚いてから倒れるまで、わずかコンマ5秒くらいの話である。よくサッカー場で盛り上がった観客がウェーブをやるのをテレビなどで見るが、あれを下から上へではなく、右から左へ、しかも一瞬のうちにやったかたちである。息子は倒れたあと、出て来たのが未知の対象ではなく、母親であることを確認し、泣くでもなく、ただ茫然と母親の顔を見つめている。一瞬、何が起こったのか理解できない様子であった。私と妻は、息子が驚きのあまり一瞬のうちに両手をあげながらドテッと倒れた様があまりにもかわいらしく、またあまりにも滑稽だったので、二人揃って腹を抱えて大笑いをした。――息子のおかげで、私も妻も、以前よりよく笑うようになったことはたしかだと思う。

 そんな息子も、もうすぐ1歳になろうとしている。誕生日には何を買ってあげようか、何をしてあげようか、まだ考えている最中だが、ともあれ、思い出に残るような一日にしてあげようと思っている。

――今日は川島正平の知られざる一面をご紹介しました。父親というのも結構大変なんです、ハイ。ではまた。




(2005/6/1 記す / 2026/4/8再掲)

 

 

 


2026年04月08日

三浦つとむの安保論(再掲)

 1959年11月、日米安保改定の直前に刊行された三浦つとむの著書に『人生――人間のありかたと生きかた』(講談社刊)というのがあります。これはのちの『生きる・学ぶ』(季節社刊、1982年)などと同じく、三浦の家族観・社会的人間観がやさしく述べられている著書ですが、時節柄か、米軍基地や日米安保について述べた箇所もあります。三浦にしては珍しい文章だと思うので、今日はそれについて紹介しておこうと思います。


《 日本の再軍備を主張する人たちが、きまって持ちだしてきたたとえ話に、「戸じまり論」とよばれるものがある。どんな家でも戸じまりが必要だ、戸じまりをしなければ泥棒の入ってくるのを防げない、起り得べき外国の侵略にそなえて軍備を持つことは、家に戸じまりするのと同じなのだ。――こういうたとえ話である。なるほど、と多くの人たちが同感する。

 この同感する人たちも、数年前アメリカ空軍の基地の拡張にあたって、砂川で大きな闘争が起ったことを覚えているはずである(1955年から始まった「砂川闘争」のこと)。現在でも三沢、横田、立川、入間川、板付、芦屋というアメリカ空軍の基地へ行ってみれば、戦闘爆撃機F100、全天候型戦闘機F102、大型爆撃機B57B56など、原爆水爆をつむことのできる各種の航空機がズラッとならんでいるし、横須賀、佐世保など昔の日本海軍の根拠地へ行ってみれば、空母その他各種の艦艇がイカリを下していることもわかる。北海道の千歳では急速に各種の軍事施設が拡張されているし、日本の北端に多数のアメリカ兵がうろついていることもわかる。何のことはない。泥棒は家の外にいるのではなくてチャンと家の中にいるのである。しかも原水爆というとんでもない武器を持って待機しているのである。こんな危険な話はない。まずこの危険な連中に、家の中から立ちのいてもらわなければならない。その上で、また入ってこようとするなら、二度と入ってこないようにしっかり戸じまりをするというのが、日本の現実に即した、本当の戸じまり論である。》(三浦つとむ「日本の平和と独立のために」、『人生――人間のありかたと生きかた』所収。太字は引用者)


 ここで三浦の述べている「戸じまり論」とは、つまりまずは危険な米軍に日本から出ていってもらって、そのうえで、「戸じまり」のための軍備、すなわち専守防衛のための軍備をもつことこそ、本当の「戸じまり論」である、ということです。これは現在(※2018年)の私の考え方とまったく同じです。非武装を掲げる一部のリベラル派の人たちとは違って、さすが三浦つとむは現実的な考え方をする人だ、しかも1959年当時からこういう考え方ができているのですからやはり賢い人だなと認識を新たにしました。

 このあとに三浦は沖縄について言及します。日本の独立後もアメリカが沖縄を実質的な属領とし、核戦争のための基地としていることを批判しています。1950年代後半、米軍は沖縄を核武装化する政策、いいかえれば沖縄を核戦争の最前線とする政策をとっており、この時期に岐阜や山梨など日本本土から多くの海兵隊が移駐して、沖縄本島の25%が米軍基地となりました。大づかみではあるものの、三浦がこうした事実についても認識していたことがわかります。そして近い将来沖縄が日本に復帰することになるかもしれないが、そのときは「沖縄の日本化」としての側面と「日本の沖縄化」としての側面が起こりうるのであり、《沖縄の運命はわたしたち自身の運命として考えなければならないのである。まさに民族の危機である》(前掲書)と述べています。現在、まさに三浦の危惧したとおりになっているといえるでしょう。三浦はこのあと、翌年に控えた安保改定について言及します。

 《 安保改定でアメリカと日本とが共同して戦争をする立てまえになれば、自衛隊をもっと強大にしなければならない。「戸じまり」に必要だと称する自衛隊も、実は家の中にいる泥棒の部下であって、親分のピストルを借りうけ台所の出刃包丁をふところへねじこんで、親分の命令一下いっしょに稼ぎに出かけ、親分のためには命をおしまない働きをするわけである。自衛隊がアメリカ軍と同じように核兵器を持つとすれば、いまの軍事費千五百億円を二倍から三倍にしなければならない。また兵器の値段が非常に高くなるから、人件費をへらすためにも昔の軍隊と同じような徴兵制度をとる必要がある。志願制度で十分な給料を払っていたのでは、必要な人数も集まらないし、きびしい訓練をすれば逃げだしてしまうし、人件費も莫大にかかるので、もはや限界にきてしまっている。露骨な徴兵制度はすぐに採用できないから、見かけは国民訓練とか農村工作隊とかさまざまなかたちで青年を軍隊的に組織し、一方では自衛隊の隊員に幹部教育を行い、将来現在の憲法を変えて公けに軍備できるようになったときに、この両者をむすびつけて即座に大軍隊をつくりあげるというような計画がとられるであろう。昔の日本軍隊はアジアの各地へのりこんで住民と戦った経験を持っていて、その当時の将校が現在の自衛隊の幹部におさまっている。泥棒の子分には素人よりも前科者のほうが役に立つ。アメリカはこの経験を活用して、自衛隊をアジア各地の治安維持に持っていくであろう。徴兵でひっぱられた青年たちが沖縄で台湾や朝鮮に出動させられ、自国を愛するがゆえに立ちあがったこれらの諸国の青年に銃を向ける役割を負わせられることにもなるであろう。 》(前掲書。太字は引用者)

 三浦はここで、将来、自衛隊が米軍の指揮のもとアジアへ派遣され治安維持に利用されるであろうことを予測して述べています。しかもそこに、今もっともホットなテーマである憲法改正が絡んでくることもしっかり予測しています。すばらしい分析力だと思います。日本の自衛隊が米軍の指揮のもと戦うかもしれないということは、現在の私たちは、その後明らかになった吉田・アチソン交換公文(1951年)や指揮権密約(1952年7月と1954年2月)によって知っていますが、三浦は安保改定前に、憲法改正も含めてすでにそう予測していたわけです。

《 こんな内幕話を聞けば、もちろん青年たちは反対する。母親もまた愛する息子を殺したくないと反対するにきまっている。そこで警職法の改正、防諜法の準備、教育に対する文部省の統制、労働組合への圧迫、原水爆禁止世界大会や母親大会への妨害、アカよばわりというような、民主主義と平和を守る運動を弾圧するための一連の政策が行われている。 》(前掲書)

 ここで言われている「防諜法」は、報道規制を招き国民の知る権利を侵害しかねない法律であり、すでに2014年に「特定秘密保護法」として施行されています。また、日本は核兵器禁止条約への批准をかたくなに拒んでいます。民主主義と平和を守るための運動は現在でも弾圧され続けているといえるでしょう。⑴

《 「岸さんだって日本人だ。日本人の政府が、日本の青年をアメリカの戦争政策の犠牲にするような、そんな非国民的なことをするはずがない」こう思っている人もすくなくない。自民党の莫大な選挙資金がどこから出たかは、自民党から報告されて当局もチャンと発表しているが、いわゆる「財界」からである。岸内閣は財界の大手筋のヒモツキ内閣であって、岸内閣を動かしているのは国民の意思・国民の世論ではなく財閥の意思・財界の世論なのである。財界は東南アジアへ進出しようとねらっている。賠償という名にかくれて、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムなどに国家の金を十何億ドルとつぎこんでいる。この賠償リベートが政商をとおして岸首相その他におくられ、熱海の別荘になったといううわさがあったこともご承知のとおりである。軍備の拡張は、財界の大手筋がにぎっている軍需産業にとって、たいへんなご利益(ごりやく――引用者)をもたらす福の神である。ロッキードかグラマンか、どの機種を国産化するかともめた新しい戦闘機は、一機四億円近くもするが、防衛庁はこれを三百機つくる計画を立てている。海上自衛隊の新鋭艦は一隻二十億円もする。ミサイル、核兵器の国産化とくればまたまた大もうけである。しかも兵器の生産は国内向けだけでなく、さきにのべた東南アジアへ輸出しようという計画を立てている。財界すなわち大資本家たちにとっては、自分たちに利潤をもたらすことはすべて善であり、軍需産業に莫大な注文のまいこんでくる軍備の拡張、これをもたらす安保条約の改定、すべて善にほかならない。これを妨害するものはすべて悪であるから、岸政府および自民党の手を通じて圧迫し弾圧を加える。キチンと筋が通っている。》(前掲書。太字――引用者)

 岸元首相の孫である安倍晋三首相も、財界とは仲良しです。彼は武器の輸出を解禁しただけでなく、憲法を改正して自衛隊を海外派兵できる道をつくろうといま必死になっています。この4月にも憲法改正は発議され、6月頃に国民投票が行われることになるかもしれません。私たちはこれに対して「ノー!」をつきつけてやらなければなりません。

《 フィリピンにいた将軍たちや、満州にいた高級官吏たちが、敗色が濃くなったときに兵隊や在満同胞を見すてて、自分たちだけ内地に逃げて帰ってきた話はよく知られている。もし原水爆戦争がはじまれば、日本のアメリカ軍基地に向って、大陸から原水爆の弾頭をつけたミサイルが飛んでくる。これを防ぐことはできない。ミサイル戦争は相手の国を徹底的に破壊することができるけれど、自分の国が徹底的に破壊されるのを防げない点で、これまでの戦争と異っている。神風の吹かないことはもちろん、日蓮大聖人の尊像に祈ったところでミサイルを止めることはできない。日本にいるアメリカ軍部隊は、現在建設を急いでいる原水爆退避のための地下壕に一応入るであろうが、自らの航空機を飛ばせミサイルを発射してしまえばあとは日本から逃げ出すだけである。日本の国民は退避壕へ入ることも、日本から逃げ出すこともできない。財閥は海外に財産をはこび出し、アメリカの銀行に預金をうつし、政府の首脳部と同じく日本の国民を見すてて自分たちだけ航空機で逃げ出すことになるであろう。》(前掲書。太字は引用者)

 たしかに、日本において、米軍や霞が関・永田町の人間たちが地下の核シェルターを所有している可能性は否定できません。私は少し前、神奈川県のある場所へ仕事で行ったときに、「このへんは、地下に米軍の広大な核シェルターがある」と噂話を聞いたことがあります。真偽はさだかではありませんが、そのとき私はありうることだなとは思いました。また、日本の核シェルター普及率は0.02%と、きわめて低いうえに、今のところ公共の地下核シェルターはひとつもありません(もちろん、政府や官僚用のものがある可能性は否定できませんが)。日本人大衆はミサイルが飛んできたら観念するしかない、というわけです。ここで三浦が危惧したことが現実性を帯びてきているというのが現状でしょう。

《 わたしたちは、わたしたちの生活をまもるために、民族の幸福のために、そして人類の幸福のために、この恐るべき現実をしっかりと見つめ、どのようにこれらと闘うかを考え、それぞれの持ち場でたゆまぬ活動をつみかさねなければならない。これは人間としての義務を果すことであり、もっとも尊い事業なのである。》

 朝鮮戦争はいまだ終わっておらず、米朝関係は悪化の一途をたどるばかり、日本の安倍長期政権は一方でやりたい放題の状態であり、戦争の危機は高まるばかりの現状において、私たちは、以上の三浦の言葉をいま一度噛みしめ、考え、そして行動する必要があるのかもしれません。





⑴ 犯罪を実行前の計画段階で処罰する改正組織犯罪処罰法は2017年7月11日に施行されています。いわゆる「共謀罪」がすでに施行されてしまっています。(2018年2月13日追記)

 


(2018/1/18 記す  2026年4月30日更新、再掲)

 

 

 


2026年04月30日

日本の近代






動きなれた精神の軌道から出ることは、口に云ふほど、簡単ではないのです。
                       ――中村光夫 「『近代』の借り着」より――

     ~~~     ~~~


「『近代』への疑惑」

 「『近代』への疑惑」(1942・10『文学界』)という論文は、中村光夫の書いた論文のなかでもっとも有名なものの一つです。日本がアメリカとの戦争を始めてまもない1942年の夏、雑誌『文学界』は「近代の超克」という標題のもと、各界の知識人を集めて、日本はいかにして西欧近代を超えるべきかという座談会を催したのですが、その座談会の提出論文として中村が書いたのがこの「『近代』への疑惑」という論文でした。この座談会は戦後、知識人の間で戦中の体制讃美のためのものだったなどいろいろと問題視されたため、また日本にとっていまだに未解決の現下の問題であるため、今でもある程度有名なようです。

 中村のこの論文は、内容的に、座談会に提出された諸々の論文のなかでひときわ異彩を放っています。というのは、他の論者が近代をいかにして超克するかということについて真剣に論じているのに対して、中村は、近代を超克するという視座そのもの、すなわち座談会の主旨そのものを真っ向から否定してしまっているからです。「近代の超克」という問題提起の仕方自体、西欧のものであり、西欧を批判するのに西欧産の標語を借りてくること自体馬鹿げているし、そもそも日本の「近代」は輸入物であり、徹頭徹尾外発的である点で西欧の近代とは決定的に異なるものである、「近代の超克」について語る前にまず日本の「近代」の問題点について論じるべきであろう。この論文の前半の趣旨を簡単にいうとこんな感じになります。

 このような問題提起に続いて、中村はさらに、性急な近代化によって歪められた日本人の精神のあり方について論及してゆきます。

《 むろん当時の我国にとつて西洋自体がひとつの巨大な新発見であつたとすれば、そこに新たな知識の糧を求めることに何等不健全な事情があつたわけはない。しかし問題はここに移入された知識の質である。話を簡単にするために極端な云ひ方をすれば、僕等は西洋の文学や思想を、あたかも汽船や電信機と同様に、ただ僕等にだけ目新しい出来合ひの品物のやうに受け取つて来たのではないか。文学の上でも当時の作家が外国文学の作品からは強い影響を受けながら、それを書いた西欧の作家の生きた姿を本当に究めた人がほとんどゐないやうに、思想の上でも当時の学者が西洋から受入れた新思想とは単に西欧の哲学者の学説や体系についての知識にすぎなかつたのではなからうか。そして外国の作品を要領よく模倣した者が新文学の選手と見られたやうに、西洋哲学の巧みな解説者が哲学者乃至は思想家として通用した。いはば文学の領域では外国の作品がすぐ役立つお手本として読まれたやうに、思想の領域でも思想についての知識が思想の代用品として行はれた》

《 …当時の社会を支配した西洋崇拝といふよりはむしろ西洋恐怖の風潮のお蔭で、そこに輸入された外国の文学または思想は単なる生硬の形ですら社会から過大な流通価値を与へられたため、却つて我国の土壌に根を下す余裕を与へられなかつた。或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた「新知識」として輸入された。そしてこの思想もまた単に目新しい知識である間だけ歓迎され、やがて忘れられるのは前の思想と同じであつた。

 その結果、文学は絶えず新式の機械でも輸入するやうに、海外の新意匠を求めて転々し、哲学は自分の思想を持たぬ多くの「哲学者」を生んだだけであつた》(以上、中村光夫「『近代』への疑惑」)

 このように、明治以来の文明開化の影響で、外来の文物を移入することがすっかり習慣化してしまい、本来は自分でものを考えるところからしか生まれないはずの思想や文学などの精神的な領域においてさえ、輸入品でことを済まし、たえず西欧の思想や文学の動きに目を奪われ、われを忘れてしまっている「知識人」たちを、中村は愚直なほど直截に批判しています。ここで誤解してはならないのは、中村は西欧の思想や文化の移入それ自体を批判しているのではないことです。彼は、「かうした外国文明の急速な吸収は明治以来の我国の生存上の必要事であつた」(同上)と認めているのです。彼は、そうした認識をふまえつつ、一方で、明治維新から80年近くたった今、そろそろそうした急速な近代化によってもたらされた日本人の精神上の犠牲について、じっくり考えてみるべきなのではないか、と問題提起しているのです。

《 最近数年来、国民の文化的自覚を促す声もまた盛であるが、長年にわたる外来文化の圧迫によつて無意識のうちに醸成されて来た精神の畸形は、単なるジャーナリズムの風潮の交替などによつては決して癒されぬほど根深いのではなからうか。むしろ反対に時勢の表面的な動きに「気ぜわしく」適合することにのみ汲々として、自分でものを考へる習慣を失つた精神の持主は次第にその数を増す傾きさへあるのではなからうか。
 (中略)
 ここに僕等の実際に生きている「近代」の悲しい正体があるとすれば、この精神の危機を僕等のまづ闘ふべき身内の敵として判つきりと意識することに、その超克の着実な第一歩があらう》(同上)

 このように、中村は急速な近代化によって生じた日本人の精神的なゆがみについて指摘し、これを戦うべき対象としてはっきり意識化することが重要だと述べています。これは中村にとっては、きわめて切実な心の叫びでした。その証拠に、これと同じ主張は、その後も「『移動』の時代」「第二の開国」「『近代』の借り着」「人ごみのなかで」「利口すぎる民族」「知識階級」「自分の恢復」などに代表されるエッセイのなかで、繰り返しなされています。また、彼の『風俗小説論』『二葉亭四迷伝』などをはじめとする文学論のなかにも、これを同じような主張がそこかしこに散りばめられていることは、中村光夫全集を読破した人であるならば誰しも認めるところでしょう。それほどこの問題は、中村にとっては切実な問題だったのです。そして2004年の今、ぼくは、中村の提起した問題の切実性・重要性を痛感する者のひとりです。以前、「青春時代の偶像」のところで少し書いた、青春時代に自分が感じていた現代の日本社会に対する漠然とした不満や嫌悪感は、実はこの中村が提起した問題と深い関係があったのです。それについては、この後詳しく述べます。とりあえずもう少し、中村のいう、性急な近代化によってもたらされた精神的なゆがみについて、彼の言を引きつつ、探って行くことにしましょう。


「はにかめる栗鼠」

 中村は戦後になって、「はにかめる栗鼠」(『文藝春秋』1955年11月)というエッセイを書いています。1955年当時の外務大臣・重光葵が訪米したときの2つのエピソードに絡め、日本人の精神にひそむ病弊について論じたものです。

 初めのエピソードは、訪米中の重光外相がハワイ・サンフランシスコ間の飛行機に乗っている際に起こったものです。当時は外相といえどもまだ政府専用機を使用していなかったらしく、重光氏は一般の人と同じ飛行機に乗っていたのですが、その際、重光氏は自分の寝台を見ず知らずの子供連れのアメリカ婦人にゆずったらしく、しかもそのことが日本で美談として報道されたとのこと。中村はこの美談報道を目にして、次のように不満を表明しています。

《…僕はこの「美談」をすなほに呑みこむことができませんでした。それは氏がこのやうな親切を発揮したのは、相手がアメリカ婦人だからではないか。もし日本婦人だつたらどうだらうかといふ疑問がすぐ頭にきたからです。

 外国を旅行したことのある者は、誰しも、外交官の伝統的な特権意識が――ことに「一般邦人」にたいして――どんなに強いか知つてゐる筈で、そのなかでも官僚的だと云はれる重光氏が大臣の公務で旅行してゐる場合、肩書もない一般国民の乗合ひには、たとへそれが子供をつれた母親だらうと、孫を抱いたお婆さんだらうと、自分のために予約された寝台をゆづる筈はないと思はれたからです。

 このやうな特権意識はある意味では正しいかも知れないのです。外務大臣重光氏はけつして自分一個のたのしみのために旅行してゐるのではありません。

 彼の双肩には日本国の運命がかかつてゐる、と云つては少し大げさすぎるかも知れませんが、ちよつとぼんやりしてゐると、重大な不利をまねくことは、何も今度にかぎつたことではありません。

 だからもう若いとも云へぬ、ことに身体の不自由な氏が、酷暑ををかして旅行する場合、夜は寝台をとつてよくねて行くことが、重光氏個人にではなく、我々にとつて必要なのです。だからこそ、我々は税金でそれを支払つているのです。氏の安楽のためでなく、氏の担つた使命のために、金をだしてゐるのです。それを使ふことは氏の権利でなく、むしろ義務なのです。

 それを自分勝手に放棄してしまふのは、はなはだけしけらんことのやうにさへ、僕には思はれるのです》(中村光夫「はにかめる栗鼠」)

 今日のぼくらの感覚からしても、一国の外務大臣が公務で飛行機に乗っている際に一般の外国人に寝台をゆずるなどということは常識外れの愚挙と思われますが、当時の日本はそれを「美談」として報道したというのですから、驚きです。むしろ当時の中村が感じた「けしからん」という意識の方が今日のぼくらと共通するものといえるでしょう。中村は、日本とアメリカの関係を少しでも対等なものとするべく努力するのが外相の本分であるはずなのに、逆に不自然な卑屈さでアメリカ人に媚びるようなことをするとは「度外れた気軽な振舞い」だと、その行動の軽率さを批判しています。たしかに、これが逆のケース、すなわちアメリカの国務長官が日本の一民間人に寝台をゆずるなどということは、天地がひっくりかえってもありえないことだろうと思われますし(今は専用機なのでどのみちありえませんが)、この中村の批判は的を射ているといえるでしょう。もっとも、こうした重光氏のエピソードは、これだけで済んでいたら、それほど大きな問題はなかったのですが、次に挙げる仰天なエピソードがこれに続いたため、中村は一筆とることにしたようです。

 その仰天エピソードは、重光氏がアメリカのナショナル・プレス・クラブで行った演説の内容にまつわるものです。  

《 これは大分評判になつたので、今でも記憶してゐる人が多いかと思ひますが、念のために当時の新聞から引用すると、氏はここで自分を「はにかみ屋の栗鼠(りす)」にたとへ、その日の朝ワシントンの公園で、放しがひの栗鼠に「手づから」餌をやる貴婦人を見たが、「婦人がこの小さな動物に対してあふれんばかりの好意を持ち」栗鼠がそれになついてゐる有様は、あたかも「平和的共存を保証する眼に見えない合意」を象徴するもののやうに見えたといふのです。

 この名文句をきいたときの、新聞記者たちの顔はさぞ見ものであつたらうと思ひます。

 むろんこの演説も、――大臣の演説がすべてさうであるやうに――生なかの文才を鼻にかけた下つぱ役人が草稿をかいたものでせうが、重光氏はそれをよいと思つて読んだのですから、責任は氏にあります。

 およそ可愛気や愛敬などは、どこかにおき忘れてきたやうな重光氏が、自らを「はにかめる栗鼠」に譬へた滑稽さはここでは問ひますまい。しかしこれを氏が日本国民の代表者として、アメリカ国民を代表する人々に云つた言葉とすると、この比喩はそのまま笑つてすますことのできぬ問題を含んでゐます。

 なぜなら、それがすぐ人々の心に呼びおこす映像は、重光氏が日米関係の理想を放し飼ひの小動物と、それを愛翫(あいがん)する慈悲深い婦人たちの間柄のやうに考えていることになるからです。
 (中略)

情けない卑屈さです。かりに主客がところをかへて、アメリカ側のたとえばダレス氏が、こんな比喩を持ちだして、我々が貴婦人でお前たちは放し飼ひの栗鼠だと云つたら、おそらく重光氏自身も腹をたてたらうと思ひます。

かういふ相手に云はれたら、怒らなければならないやうなところまで、自分自身を卑下する必要が、一体どこにあるのか、といふことになると、そんな必要はどこにもなかつたことは明かです。

 問題は、重光氏がかういふ何の必要もない自己卑下を、かういふ儀礼的な席でなぜアメリカ人たちのまへでやつて見せたかといふことですが、それはおそらく、氏が同じく必要もないのに、アメリカの婦人に飛行機の寝台をゆづつたのと同じ動機であつたらうと思ひます。

 つまり一種の善意からでたお愛敬なのですが、それがたんにお世辞としても無意味であるだけでなく、いろいろな点で逆の効果を生じるものであることは、さきに云つた通りです。

 国家の独立の根底には、国民各自の人格の独立がなければならないことは、我国でも数十年前に福沢諭吉が力説したところですが、重光氏の栗鼠演説などは自分自身に対する尊敬が少しも感じられない点で、独立国家の代表たる使命をはづかしめるものです。

 冗談にしろ、自分の人格を故意に傷つけるやうな云ひ方は、自尊の念の強い欧米人には、不自然な阿諛として、不信と軽蔑の念しかあたへません。お互に胸襟をひらくきつかけになるどころか、此奴なにを云ひだすかわからぬぞといふ警戒心をおこさせるだけです。かういふ不自然な行為は必ずもとめるところがある者のすることだといふのが、彼等の抜きがたい通念だからです》(同上、太字――引用者)

 日本とアメリカの関係を、放し飼いのリスとそれに餌をやる貴婦人にたとえるなどということは、よほどの反日分子でなければしそうにないと思われますが、驚くべきことに日本国の代表たる外相が、外国で、しかも公の席でそれをやってしまったというのですから、中村が憤慨するのも無理ないことでしょう。中村は上記に続けて、このエピソードはすでに重光氏の個人的な問題で済まされることではなく、《今日の日本文化の或る性格を象徴するものであり、したがつて僕等自身の問題として反省するべきものを含んでゐると思はれます》と、問題の幅を広げ考察を深めて行きます。

 彼のいう「今日の日本文化の或る性格」とは、ひとことでいうと、自信を失った利口者に特有の、相手に媚びる「無私」で卑屈な精神的特性のことです。中村によると、日本の工業化・資本主義化などの急速な近代化にはプラスに働いた日本人の利口さが、思想や文化の面では不利に働いてしまった、なぜなら、この利口さが、結局科学や技術など他の諸分野と同じく、思想や文化までも移入してこれを本来の思想や文化の代用品として利用するという習慣を生みだし、次第にそれが移入された西欧の新しいものに何でもかんでも過剰な評価を与える習性となり、そして《たえず外国のもっとも新しいものをできるだけ素早くとり入れるために、見逃すまいとしている精神が、いつのまにかその内面を空虚にし、生活との間に不思議な断層をつくってしまった》といいます。

 この無私で卑屈な精神的特性の端的な例を、ぼくらは今日も欧米人だけを特別扱いするいわゆる「とりまき連」に見ることができます。白人の異性のみをセックス・シンボルとしてむやみに崇拝する人たちや、欧米のファッションや音楽や絵、あるいは学問の世界でいえば学説・理論を崇拝し、それとは対照的に日本のものは一顧だにしない、軽蔑するという態度をとる人たちのことです。その多くが無意識にそうしているというところが、これらの人びとに共通してみられる特性であり、それがこの問題をさらにやっかいなものにしています。しかもそうした人びとが社会のなかで過半数を占めているといったら、それは誇張になるでしょうか、ぼくはおそらくならないと思います。

 たとえばファッション雑誌を見てみましょう。洋服の広告に意味もなく欧米人を使っているものがたくさんあります。日本人に売る洋服を宣伝するのに、体格の違う欧米人をモデルに使うということ自体、本来ならば疑問に思って当然のことなのに、今日の消費者のなかでそうした問題意識を持つ人はむしろ少数派でしょう。なかには、子供服の広告にまで白人の子供を使っているものがあります。

 おそらく一部の人には、ぼくのこうした物言いが日本主義的な危険なものと映るでしょう。けれどもぼくに言わせると、逆に、当然のことをいって右翼扱いされるほど、日本社会の無意識の欧米崇拝癖は常識化してしまっているということになるのです。そしてぼくには、おそらくそうした常識と、さきに紹介した45年前の重光元外相の卑屈な演説とは、決して無縁のものではないと思われるのです。

 このエッセイの最後で中村は、次のように、戦後特に顕著になったという外国人に媚び外国人にとりまく人たちを分析しつつ、「はにかめるリス」たる重光氏の発言を皮肉っています。

《 彼等は植民地の白人から無知な原住民の召使が狡知と我欲によつて獲得する人間としての最低の尊敬、すなはち不信と警戒の念さへ得られぬほど、相手に従属してしまふので、このやうに高尚な、いはば無償の卑屈さが、長年にわたる文化的地盤の準備なくしてあり得ないことは明かです。

 事実、彼等のなかには、学問その他の才能ではかなりすぐれた人も居り、日本人同士のつきあひではそれほどそれほど下劣でも卑屈でもない人が多いのです。ただ彼等は外国人と接触すると相手をあまり「理解」できすぎ、それによつて自分も文化的に向上したやうな気持になるために、人間対人間の関係をこえた、(あるいはそこまでゆかぬ)無私の従属をもとにした「平和的共存」を謳歌することになるのです。

 かう考へると、重光氏の比喩は、つまらぬ駄洒落どころか、今日の日本文化の特質を実に正確に射抜いた批評と云へませう》(同上)


 今日、アメリカはイラク侵略を強引に遂行しつつありますが、小泉首相はそのアメリカを支持しイラクに自衛隊を派遣することについて、ひとことも国民にその是非を問う場を持つもことなく、また必死の説明責任を果すということもなく、ただやみくもにブッシュ大統領支持を表明し続けています。今日の小泉首相も、本質的には重光元外相と同じ「無私の従属」派に属する人だといえるでしょう。


今なお残るリスの群れ

 中村光夫の日本の近代観を見てゆくうちに、話が現代にまで広がってしまいましたが、それだけ今日でもこの問題は語る価値があるということです。

 何年か前、ロック系の歌手の浜田省吾が久しぶりに出たテレビの中で、「もともとロックやブルースというのは、アメリカで黒人が始めた音楽を白人が真似して一般化したジャンルであり、自分たちはさらにその白人たちを真似しているわけで、30代の半ば頃、そうした真似をしているということについてかなり悩んだことがある。けれども、結局、だからといっていまさら伝統的な邦楽に戻る気もしないし、今はもうその問題では悩んでいない」と言っていました。彼の創る楽曲は、いうまでもなく日本人特有の・もしくは彼独特のメロディが基調となっているものが多く、決してたんなる「外タレ」の真似でないことは自明のことですが、それでもこうして日本人の精神的な偏向について真剣に悩んだ経験があるということは、彼が一流の音楽家だということを傍証しています。
 学問の世界でも、日本発の学説・理論は、日本の外国理論の崇拝者たちからつねに攻撃、というより無視の標的とされています。日本で初めて独自の言語本質論を発表した時枝誠記は、その学説を科学的に吟味されるのではなく、一部の学者たちから戦中の言動を過大に問題視され国粋主義者として扱われてしまう傾向があります。また、ある分野で日本人が唱えた独創的な理論が、日本では見向きもされなかったのに、欧米で評価されて逆輸入されたという例は枚挙にいとまがありません。


 ――こういうことをあまりくどくどいうと、国粋主義者扱いする人がいるで本当はあまり言いたくないのですが、以上述べたような日本人の精神的な偏向は、おそらく多くの人が薄々感じているところなのではないでしょうか。薄々感じてはいるけれども、ことさら表立って言うことでもあるまい、と思っている人が多いのではないでしょうか。ぼく自身は、はっきりいって、そういうことを表立って言いたいほど日々の生活から嫌な感じを受けているので、こうしてエッセイの題材にしているわけです。

 一方、たしかに、現代の日本は、昭和の時代ほど欧米崇拝の風潮が蔓延しているというわけではありません。今日のように、誰でも気軽に海外に行ける時代では、昔のように西欧をたんなる「偶像崇拝」の対象として祭り上げているだけでは、どの専門領域でもその専門家としての能力を疑われてしまうだけでしょう。西欧では、自分のアイデンティティをしっかり主張する人の方が、自分の国に関心を持たない人よりも尊敬されます。実際、ぼく自身も、アメリカに1年間住んでみて、アメリカ人の真似をしている日本人は軽蔑されてしまうということを実感させられました。

 ぼくなどはその反動で、帰国してから能楽関係の出版社に入社したわけですが、この日本の伝統芸能の世界での数年の体験は、ぼくに上記の中村の思想を真剣に考え直す契機を与えてくれました。というのは、能狂言の世界は、中世の芸能をそのままに保存するという名目のもとに、ぼくらの一般社会の生活とは別のところに隔離されたかたちでほそぼそと営まれており、そこに存在する演者たちは、斬新な・現代にマッチした演目を試みることは邪道であるという見えない規範のもとに、世阿弥らの作った演目をただ忠実に演じているだけなのです。某社団法人が能の世界を仕切っているところからみて、全般的に、役人の支配する堅苦しい世界だといってよいでしょう。どうして、この本来は素晴らしいはず芸術を、今日のぼくらの生活に近づけるかたちに改良することが禁じられているのか、今日のぼくらには、生活と芸術の幸福な調和は無理なのか、ということをしみじみと考えさせられました(令和8年の現在は、新作能を作ったり、現代風なアレンジ採用の試みなど、徐々に行われつつあります。2026年5月10日 追記)。

 今日の日本の状況は、安易な欧米崇拝が駄目なのはわかるが、かといってほかに拠りどころとするべきものがみつからない、だからもうどうでもいいではないか、といったあきらめの風潮が社会全体を覆っているような気がします。もちろん地方では、伝統的な風習や独自の神楽などを大切にし、それらを生き生きと生活の中に楽しんでいる人たちがいるのも事実です。やはり地方から中央を変えて行くよりほかに方法がないのかもしれません。――うかつにも、ここまで書いてきて、結論らしきことが書けないことに気づきました。今の日本のいびつなニュートラルさは、てこでも動きそうにないし、動かそうとすると危険人物扱いを受けるであろうと思われるので、はっきりしたことが言いにくいということもあるかもしれません。最後に、以上述べてきたことを概括するにふさわしい中村の言葉を引用して、終りにします。

《 近代が自己を特色づける文化の生産力を持つのは、その内発性によるものであり、我国にはそれが欠けてゐたことは、前述しましたが、明治大正時代には、その内発性の欠如は、近代化が社会の一部分にしか行はれてゐないこととひとつの均衡を保つてゐました。

 近代のある部門は、外国のものであるが、とり入れなくてはならない、他の部門は、外国のものであるから、とり入れない方がよいと判断する主体が(たとへその判断が間違つてゐても)まだのこつてゐたわけです。

 それが戦後のやうに、外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれると、近代の外発性は、日本文化そのものの性格になり、いはばひとつの完成に達します。

 今日の日本文化の特色はここにあり、僕等はここで世界のどの国も経験しなかつた事態に生きてゐると云へます。

 近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性である以上、僕等の周囲で、近代の価値がすべて裏目にでてゐても不思議ではありません。

 ここで、人々は独立してゐるのではなく、社会から隔絶した孤独を強ひられてゐるだけです。青年たちは自分の人生を選ぶ自由を与へられてゐるのでなく、ただ欲望を刺戟され、それをみたす順序も手続も知らされずに野放しにされてゐます。近代の、安定と均衡を失つた、変化と過度の時代といふ性格は、ここでは他の何処よりはつきりでるので、世相や風俗の変転は、それが根のない輸入品であるだけに速やかなのです。贅沢と貧乏、繁忙と怠惰などの対照も、社会が自己を異質の観念に支配されてゐる度合ひに比例して大きいのです。

 生きる手段はすべて過剰であり、何故生きるのかが曖昧になつてきます。今日、自殺を企てる者と正面からむかひあつて、彼に何故生きなければならないかを説得することは、おそらく誰にもできないのです。

 しかし、このことは、事態がここまで来て、僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます。

 これは、僕等にとつていはば自業自得のものであり、前例のない難問である点で、僕等にいやでも近代人として思索を強ひる筈です。

 眼前のレッテルや通念にだまされず、いつでも現状を合理化しようと構へてゐる政治家のかけ声をはなれて、僕等の心の歴史を言葉にすることがもしできたら、これまでの近代謳歌の文学とはまつたく別物の、同時代にたいする批判の形をとつた近代思想が生れるでせう》 (中村光夫「『近代』の借り着」、【『批評』1967年4月】、太字は引用者)


 ※「『近代』への疑惑」「はにかめる栗鼠」はともに『中村光夫全集 第十二巻』より、「『近代』の借り着」は『同 第十三巻』より、引用しました。


※ 重光葵(しげみつまもる)外相のアメリカでの演説は、ウィキペディアで調べたところ、1955年9月1日のワシントン(ナショナル・プレス・クラブ)での演説だと思われます。重光葵という人物はウィキペディアを読むかぎり、一本筋の通った、それなりに有能な政治家だったと思われます。少なくとも、売国的な政治家でなかったことはたしかです。戦時中、日本が東南アジア方面へ侵略を開始した際、欧米の国々のようにアジア人を見下してぞんざいに扱うようなことは厳に慎むべきと主張していた面もあります。いま考えると、「はにかめる栗鼠」演説は役人が書いた草稿を読んだものであり、重光本人にそういう卑屈な考えがあったかどうか、甚だ疑問だと思います。今はアメリカの公文書公開により、1956年にソ連と平和条約を結ぶために2島返還で合意しようとしたところ、アメリカのジョン・フォスター・ダレスから「4島一括返還」でなく2島返還で妥協するんだったら沖縄は返さないぞ、と恫喝された人としても有名です。(2020年2月3日 追記)

※先日、TBSラジオの「赤坂タイムズ」というラジオを聴いていたところ、ラッパーのダース・レイダーさんが興味深いことを指摘していました。高市首相が「X上」でオーストラリアのアンソニー・アルバニージー首相のことを「アンソニー」とファースト・ネームで呼んでいたのに対し、ベトナムのレ・ミ・フン首相のことは「フン首相」と呼び、一方でトランプ大統領やマクロン大統領のことは「ドナルド」「エマニュエル」などとやはりファースト・ネームで呼んでいることから、白人の男性を特別視している考えが透けて見えるとのこと。やはり「とりまき連」「リス」的な匂いがしますね(2026年5月10日)。




(2004年11月28日記す、2026年5月10日更新、再掲)

 

 

 


2026年05月10日