エッセイ一覧

若さの力技







若さの力技(エッセイ)


若さの力技

 近頃ぼくは、とても爽快なニュースを聞きました。それは、近頃ぼくらがよく耳にする青少年の犯罪といった若さの否定的な面についてのものではなく、若さの肯定的な面、いや、まさに若さの「力技(ちからわざ)」とでもいうべき喜ばしいニュースでした。

 2月27日の夜、福岡県久留米市を走るJR久大本線で、列車が脱線する事故があり、近くの踏み切りの遮断機が下がったままとなり、交通量の多い道路(国道209号線)が身動きのとれない状態になってすぐに南北1キロにもわたる大渋滞になってしまったそうです。

 以下、エキサイト:ニュース(3月2日)から引用します。

《……その際、たまたま通りかかった高校生6人が「脱線しているなら列車は来ない」と判断。手分けして遮断機を上げてクルマの通行を確保した。近くの高校には「おたくの生徒が踏み切りの遮断機を上げている」という通報が近隣の住民から入り、いたずらだと考えた教師が慌てて駆けつけたところ、必死に遮断機を上げている生徒を発見。携帯電話で警察に通報するとともに、協力して遮断機を支え続けた。
15分後に福岡県警の久留米署員が現場に到着。ロープで遮断機を固定するまでの約20分間、高校生たちは重い遮断機を支え続けたことになる。久留米署では「遮断機を上げることの法的な問題は別にしても、現場での緊急処置としてはあれが最善だった。もし支えてくれなかったら、交通が大混乱して大変な事態になっていた」と、この高校生たちを絶賛している》

 ぼくはこのニュースを読んで、あらためて、若さの素晴らしさというものを再認識させられました。彼ら6人の高校生は、たんなる行動バカではありません。彼らは、しっかりと状況を見極めて、「脱線しているなら、列車は来ない」ときわめて理性的な判断を下し、そしてその判断に基づいて渋滞を解消すべく素早く行動を起したのです。

 逆に、渋滞に巻き込まれていた多くの大人たちは、いったい何をしていたのでしょう? ぼくは、上の高校生たちの的確かつ迅速な判断および行動に感嘆すると同時に、そのほか現場に大勢いたであろう大人たちの情けなさにひどく落胆しました。渋滞に巻き込まれた人たちの多くは、いうまでもなく大人でしょう。彼らは、なぜ、何の行動もとらなかったのでしょう? おそらく、何か行動を起してあとでそれが裏目に出て責任を問われたらイヤだから、とか、オレじゃなくても、誰かが何とかしてくれるだろう、とか、考えていたのではないでしょうか。

 事故の多くは、突発的に起るものです。その際、すべての人が上の「大人」のように考えていたら、どうなるでしょう? いうまでもなく、事故はますます大きくなって被害が拡大してしまうほかはないでしょう。このような事故のときに必要なものは、上の「大人」のような無責任で卑怯な打算ではなく、6人の高校生のような、素早い理性的な判断とそれを行動に移す勇気と機動力ではないでしょうか?

 ぼくは、同じことは政治の世界においても言えると思います。少子高齢化の危機が指摘されてからすでに久しいのに、いまだに日本の政治家はその抜本的な対策を実行していません。これは、上の「大人」のような政治家が大多数を占めているからではないでしょうか?

 けれどもぼくは、まだ日本の政治家に絶望しているわけではありません。ぼくらは、20代から40代にかけての若い政治家のなかには、素晴らしい志を持って、日本をよくしようと真剣な熱意に燃えている方もいるということを知っています。彼らに、上の6人の高校生のような「力技!」を期待したいと思います。それから、熟年、老年の政治家たちには、せめて、上の生徒たちの的確迅速な行動を理解してそれを援助した教師のような、理解力のある裏方としての役割を期待したいと思います。


(2001/3/12 脱稿)



2022年06月07日

米津玄師と山本太郎の「心の橋」

米津玄師と山本太郎の「心の橋」



 先日、歌手の米津玄師が以前にラジオで語ったことを紹介する動画を見ていたら、とても印象深いことを語っていました。動画再生回数5億回を超える大ヒット曲「Lemon」は、そのミュージックビデオも芸術性が高く人気がありますが、その中で米津玄師がハイヒールを履いている場面があります。私は、なぜ米津氏はハイヒールを履いているのだろうと不思議に思っていたのですが、米津氏はラジオの中でその理由について語っています。以下は私がそれを要約したものです。

 《むかし夢で見た光景があって、そこはおそらく誰かの葬式の会場で、会場にはいろんな人たちがいて、みんな喪服を着ていて、その中のひとりに自分もいる。しばらくして、ある人が突然、指笛を吹き始めたんです。「ピー!」っとものすごい甲高い音で。まわりのみんなは戸惑うんですよ。

「えっ? なにあの人、ちょっと頭おかしいんじゃないの?」と。

 まわりの人は指差して笑う人もいれば、うわさ話をしてザワついた雰囲気になったりもしている。それでもその人はまわりを気にせず指笛を吹き続けているんです。その人が指笛を吹いている理由は誰にも分からない。

 でも、夢から覚めて、自分は思ったんです、亡くなってしまった人と、その人とのあいだに、なにか合図のようなものかあって、あるいはその二人にしか分からない何かがあって、それによって指笛を吹くっていう行為が生まれたんだろうなあ、って。そして自分はそれはものすごく美しいことだなと思ったんですね。亡くなってしまった人とその人とのあいだにある、ほかの誰もが知らない何か、そういうものがそこにある、という側面を読み取ったんです。で、そういうニュアンスを「Lemon」の映像の中で落とし込みたいなあと思って、それでヒールを履くという結果となりました》(『米津玄師 × 野木亜希子 アンナチュラル対談』〈2018.3.4 TBSラジオ〉の要約)

 つまり、まわりの目を気にせず、誰にも分からないような何かをすることで、二人の間の絆を表現する、そういうニュアンスがあのハイヒールには込められているのだということです。 

 私はこのくだりを聞いて、なぜか小林秀雄のある言葉を思い出しました。《…問題を男と女との関係だけに限るまい、友情とか肉親の間柄とか、凡そ心と心との間に見事な橋がかかっているとき、重要なのはこの橋だけなのではないだろうか》(小林秀雄『Xへの手紙』)小林は、それは《近付き難い威厳を備えているものの様に見える》とも言います。米津玄師がハイヒールを履いて座っているあの姿は、まさに死者との間にかかる「心の橋」を表現しているのではないだろうか、そう私は思いました。

 また、最近、山本太郎の街頭演説の動画を見ていて、この「心の橋」を垣間見ることができたような気がします。山本太郎は演説会で、大型モニターを使っていろいろなデータや資料を使いながら市民からの質問に答えていくというスタイルをとっているのですが、このとき5万枚を超えるという資料の中から即座に山本の欲する資料をPCを使ってモニターにアップするスタッフがいます。この人は、山本太郎の「IMFのあれ」などという抽象的な短い言葉から、察して素早く正確な資料を画面上に取り出してみせることができます。ときに山本が「あ、もう出てる(笑)」というくらい、山本の心の中を読むことに長けているのです。興が乗ってくると、ときに山本はこのスタッフをイジって聴衆の笑いを誘うこともあります。そういうとき、私は、「ああ、見事な橋がかかっているな」と思ってしまうのでした。山本太郎には、日本の政治を変えてもらって、あちこちで「心の橋」のかかる、そんな暖かい国にしてもらいたいですね。


(2020/01/23 脱稿)


※2024/01/11 更新




2024年01月11日

日本の近代1

中村光夫による「日本の近代」観


 中村光夫の文芸批評家としてのひとつの大きなテーマとして、「日本における近代の受け入れかたのゆがみ」についての指摘、分析というものがあります。以下、中村光夫の「『近代』への疑惑」(『文学界』1942年10月)における「日本の近代」観の素描です。


●「日本における(西洋)近代の受け入れかたのゆがみ」~「近代」の移入に際して存在した縛り~

 まわりのアジア諸国はほとんどすべて西洋の植民地となっていたため、①独立維持のために、②物質文明を逆向きで、③大量に、④短期間で移入しなければならない、という縛りが存在した。

① 独立のために必要だった…独立維持のために、武力や経済力の面で西洋諸国と同等の力をもつことが急務であった。
② 逆向きの移入…外国からの慌しい「輸入」としての近代。すでにできあがった物質文明を中心として移入された。ヨーロッパにおける物質文明成立の背景には、14世紀に始まるルネサンス以来の地道な、多領域にわたる知的・精神的な営為の蓄積が存在した。物質文明が確立するまでには、こうした膨大な知的・精神的な営為が存在したが、日本はそれらの結果をのみ膨大に移入することとなった。
③ 大量の移入…「大砲」「蒸気船」「汽車」「紡績機」「工場」「銀行」「会社」など、機械と技術が中心であった。生存上必要なので、まずはこれらが中心であった。そのほか、海水浴などの習慣や、政治経済や、文化などあらゆる領域での移入が実施された。
④ 短期間での移入…悠長に移入していたのでは、独立を維持できない可能性があったため、切羽詰まっていた。《この驚くべき生活様式の革命が、維新の開国以来わずか八十年、長命な人の一生にも当らぬ短い期間に成就されたということに我国の所謂「近代」の最も著しい特色があるのではなかろうか。世界中のどこの国が何時の時代にこのように激しくまた慌しい変化を経験したであろうか》(中村の前掲論文)。

●そのためにわれわれが払った犠牲とは何か


 日本の近代移入は上記のような特殊事情のため、日本人は以下のような犠牲を払わざるをえなかった。
① つねに新しいものを求めて移りゆく浅薄な精神の姿勢が身についた。
②西洋の「新知識」の圧倒的な権威に幻惑され、自分でものを考える習慣が減退した(本当は考える力を持っているのに、知識のコピーばかりしていると、次第に考えようという気力や習慣も減退していかざるをえない)。
② 西洋のものは何でも過大評価する姿勢が身についた(令和の大谷翔平に「相手をリスペクトしすぎないようにしましょう」と言わせるほど)。



浜崎洋介氏の問題提起

 文芸批評家の浜崎洋介氏は、最近、R・D・レインや岸田秀が用いた概念、「内的自己」「外的自己」という概念を用いながら、日本の近代の問題点について、独自の考察をしておられます(YOUTUBE動画「日本を包む「ぼんやりとした不安」の正体とは?」【浜崎洋介×川嶋政輝】2023/9/30)。もともとのR・D・レインの「内的自己」「外的自己」の考えかたは、人間の自我は、素直な生命の流れとしてある自然的な「内的自己」と、他者や社会と交わる部分であると同時にそれらから規制をうける部分でもある「外的自己」とからなるが、この本来は調和しているはずの「内的自己」と「外的自己」とが引き裂かれるところに「精神分裂病」が発症する、というものです。

 浜崎氏は、この自我に関する「内的自己」「外的自己」理論を「日本の近代社会」を分析する際に応用します。浜崎氏によると、明治維新以降の「近代日本」は、「西洋近代に右に倣え」ということを大きな基本原則とした、明治以降の日本を統制する圧倒的な視点は「西洋近代」にある、そしてそのような「外的自己」を皆もつようになった、ということだそうです。「西洋近代」に合わせる者は有用であり、優れており、「西洋近代」に合わせない者は無用であり、劣っている、近代以降の日本社会はそうした社会になったと浜崎氏は言います。この考えかたは、基本的には中村光夫と同じです。中村光夫は、明治以降の日本社会には、独立維持のために、西洋の圧倒的な物質文明を、大量に、短期間で移入しなければならない縛りが存在した、と言いましたが、そのような縛りの実現のためには、必然的に、社会のあらゆる局面で「西洋近代」をものさしとする目に見えない規範のようなものの存在を想定せざるをえないからです。こうした考えかたは、森鴎外や夏目漱石の文明批評とも重なる部分があると思われます。

 浜崎氏はさらに上記のような「西洋近代に右に倣え」的な「外的自己」による長期間の広範囲な統制の状態が続くと、日本人の「内的自己」はどんどん浸食されて縮小していかざるをえなくなるが、そうした「内的自己」から発信される違和感を公にいうこともなかなかできない。なぜなら、すでに大きな権威として存在する東大を頂点とした日本のアカデミズムのガチガチのピラミッド構造は、すべて「西洋近代」を範としているものだから。そうして、「西洋近代」という視点を越えたところの、本来は豊かな「内的自己」のリアリティが徐々になくなっていき、《リアリティの稀薄な、解離性の、実感のない子どもたち、あるいは大人たちが》大量に生産されてくることになった、と浜崎氏は言います。

 また、「外的自己」からくるプレッシャーは受動的であり、「内的自己」から発せられるエネルギーは能動的であるが、明治以降の日本は、この能動を押し殺して受動に適応することを良しとしているので、みんなエネルギーがなくなってきている、とも浜崎氏は言います。

 以上が、この動画の中で浜崎氏がご自身の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社、2022年8月)に基いて「日本の近代」の問題点について大まかに述べられたところとなります。

 ちなみに、明治以降より続く日本におけるこうした事態に対する浜崎氏の処方箋は、(ここから先は、動画ではなく浜崎氏の著書『ぼんやりとした不安の近代日本』を参考にします)まずは自分の足元を見つめ、「あるがままの自分」「等身大の自分」から歩きはじめることであり、「様々なる意匠」にだまされず、背伸びをやめ、日本人自身の生きかたを受け入れることである、ということです。そして浜崎氏は漱石の「自己本位」という概念を引用して、次のように述べています。

《漱石の「個人主義」、あるいは「自己本位」は、(中略)「自己」の内奥から発される必要の感覚に応じて、外部との折り合いを果たそうとする生き方、言い換えれば、自己自身の持続感——歴史感覚に基づいて、他者——他国との距離感を測るという生き方です。

 他人から見て、その道がいかに下らないにせよ、「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば」、人は、要らぬ劣等感や優越感に囚われることはありません。等身大の自分に「容易に打ち壊されない自信」を見出すことができるのです》(浜崎洋介『ぼんやりとした不安の近代日本』)



中村光夫による北村透谷論~そこに垣間見える文明批評~

 以上のような、浜崎氏による処方箋は、私もほとんどそのとおりだと思います。やはり、もっとひとりひとりが「自己本位」の立場から、内発的に、自由に発言・発信できる社会になればどれほどよいだろう、と私も思います。けれども、そうはいってもなかなかそれを実地に行なうことは難しい、というのが現状ではないかと思います。明治維新から100年以上もの時間をかけて身についた独自の文明開化精神は、ちょっとやそっとの小手先の工夫で何とかなるものではありません。

 そこで、ここでは、日本人の「内的自己」が明治以降、委縮して固定化してしまった経緯についての、さきほど紹介した中村光夫の説明の別バージョンを図解化・視覚化して、分かりやすく提示してみようと思います。そうして、「近代の受け入れかたのゆがみ」の過程をはっきりと認識することにより、自らの本来もっている認識や能力の可能性の大きさに気づくこともあろうかと思います。つまり、いいかえると原因の認識を得ることにより、認識の書き換えをおこなってみよう、という試みです。以下は、中村光夫が北村透谷の『明治文学管見』の内容について解説しつつ、日本における「精神の自由」の発現史について述べている部分です。

《 透谷は、西洋の文学発達の歴史を、精神の自由の自覚と発現の歴史だととらえています。元来、精神の自由を求める性質というものは、人類に共通のものであって、東洋であろうと西洋であろうと変わりはない。特に、わが国では、近世の徳川時代において、町人文学の形で、精神の自由を求め、実現しようとする欲求がはっきりと現れてきた。しかし、それは、日本も、東洋の一国であるという事情によって、はなはだ不完全にしか発現しえなかった。だが、ここに明治維新が断行され、精神の自由に向かっての国民の欲求は飛躍的な進歩を遂げた。ただ、物質的な西洋文明の側面が先に入って来てしまったので、精神の自由を求める欲求は、その時代の精神、あるいは社会全体の要望にまでならず、逆に物質に幻惑されて、国民が自己を失って行くことになった。そういうことがだいたい「明治文学管見」の論旨です》(中村光夫「「近代」への疑惑」)

 以上の中村の説明を図式化すると、以下のようになります。


 



 中村はまた、次のようにも述べています。

《「物質の変遷は精神に次ぎて来るものなるが故に、之を苟且(かりそめ)にすべしと云(いふ)にはあらねど、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあるべし」(北村透谷『明治文学管見』)つまり、まず人間の精神あるいは思想があって、それが自然科学を生み、その自然科学が物質生活の変遷をもたらすと言うことです。ところで、ヨーロッパの歴史では、そのような過程をへていますが、日本ではそうはなっていない。特に明治時代は、物質文明が先に入って来て、それによる社会生活の変化が精神に影響を及ぼすという順序になります。透谷は、それは一時の変態的現象だというふうに考えるのです。本質的に論ずれば、物質は精神の後から来るのであって、従って、本当の歴史は、人間の精神のあり方を研究するものでなければならない、と言うことになります》(中村光夫『近代の文学と文学者』、太字ー引用者)

 このように、日本の近代文芸批評の草分けともいうべき北村透谷は、日本の近代の受動性を理解していたものと思われます。同様にこれを図式化すると、次のようになるかと思います。

 


 ようするに、本来は私たちも「やれば出来る」はずだということです。ここには、一般に有名な「ノミの跳躍力」の話と似た構造があるように思われます。跳躍力20㎝のノミを高さ10㎝の箱にいれ、ふたをしてしばらく放置すると、そのあいだ中、ノミは10㎝の高さしか跳躍できず、それが習慣化してしまうこととなり、その後、箱から出しても10㎝しか跳べなくなってしまっている、という話です。私たちの精神も同じことでしょう。自己の内側から湧いてくる知的好奇心の跳躍力は、おそらく私たちが想像もつかぬほどはるかに高く、圧倒的なものであるはずなのです。

 ちなみに、中村光夫は科学の本質について、次のように述べています。

科学とは云うまでもなく人間の精神の一機能であり、知性により自然を認識する一方法である。したがってこれは元来が長い伝統を持つ厳格な知的訓練の所産であり、またその本質において芸術と同じく人間精神の無償の活動である筈である。科学の実生活への応用は、たとえそれがどのように驚くべき結果を生じようと、常に科学自体にとってはひとつの結果であり、目的ではあり得ない。この無償性は芸術におけると同様に科学にとってもその本質をなす生命であろう。芸術の功利性の強調がともすれば芸術の堕落を招き易いように、科学が単にその有用性のみから社会に重んじられるのは、或る意味で真の科学者にとって不幸な事態であろう。この点から考えれば、科学の実用化が驚くべき勢いで促進された十九世紀以後のヨーロッパに、ダ・ヴィンチやゲーテのような天才が跡を絶ったのは、決して偶然の暗合ではないのである》(中村光夫「「近代」への疑惑」、太字ー引用者)

 

 以前、私は別のところで、ニュートンがペスト流行のため大学が休校になり、暇をもてあそんでいるあいだに万有引力の法則を発見したという話を紹介したことがありますが、ニュートンが錬金術や聖書の研究、あるいは今日でいう「オカルトの研究」に熱心だったということは少し調べれば誰でもすぐに分かることです。湧出する内発性を元手として、数々の無償の知的な営為が行なわれれば、私たちの社会から「ダ・ヴィンチやゲーテのような天才」があらわれる可能性だってあるのではないでしょうか。

 

 



(続く)

 

(2024年1月22日 脱稿)


 


2024年01月11日

「報復」か、「不当な攻撃」か

(2001年10月10日の「川島正平のページ」エッセイより)


《 ――お静かに。感情的におなりになってはいけませんわ。ここはともあれ平和の場所、どんな争いも程のいい微笑に変る場所なのですもの。私は見えない秤を手に持って、双方へ等分に、相応の満足と、それから相応の不本意をさしあげるのです。私の目には怒っている焔も、瑪瑙の彫刻にしか見えませんし、たぎっている瀬の水も、水晶の浮彫にしか見えません。もつれにもつれた毛糸も、からみ合った蔦かずらも、何かしら私には、そこにへんな悪い魂があって、むりに複雑さに化けて見せているのだとしか思えません。複雑な事情などというものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純でいつもしんとしている場所なのですわ。少くとも私はそう信じております。ですから私には、闘牛場の血みどろの戦いのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な足取で歩いてゆく白い鳩のような勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でしょう。血も幻、戦いも幻なのですもの。私は海ぞいのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のように、争い事に波立っているお心の上を平気で歩いて差上げますわ…… 》三島由紀夫『弱法師』(新潮社『近代能楽集』<1990年刊>)より

 

本当に「報復」なのか

 とうとうアメリカは、「戦争」を始めた。

 日本時間で10月7日の夜、アメリカとイギリスはアフガニスタンの軍事拠点に対する軍事攻撃を開始した。 米英は、これをテロに対する「報復」攻撃であるという。

 だが、これが本当に「報復」なのか、どうか、ぼくらには分らない。

 ぼくらは、9月11日の「テロ事件」を含むこれら一連の事件に関する報道の多くを、「西側」の報道機関のそれに依存してしまっている。

 一方、中東における知識人たちの多くは、それら「西側」の報道機関があまり触れないこれらの事件の背後にある事情について、よく知っており、その事情及び今回の「戦争」について、深く憂慮しているようだ。

 田中宇氏の「国際ニュース解説」(http://tanakanews.com)は、そういう中東知識人たちの憂慮について、詳しく紹介してくれている。

 つまり、9月11日のアメリカにおける爆破事件が、「テロ行為」であるにしろ、そうでないにしろ、いずれにしても、中東の良識的な知識人たちは、今回の一連の事件の背後には、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカ、という構図が存在することを、さらにいえば、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカ、という構図が存在することを、視野に入れて、今回の「戦争」を憂慮している、ということだ。

 このような構図を視野に入れると、今回の米英の「報復」が、果して本当に「報復」なのか、どうか、必然に怪しくなってくる。


 しかもぼくら自身は、いまだに、ビンラディンが今回の「テロ」の首謀者であるかどうかを決定するに足る、「証拠」を提示されていない。これまでのビンラディンの「テロ」の手口とその規模を考えるとき、ぼくらがアメリカに対して、今回の事件に本当に彼が関与していたという決定的な証拠を提示してもらいたい、と願うことは、当然のことだと思う。※ビンラディンについての詳細な情報は、以下のサイトで得ることができる。http:hanran.tripid.com./terro/osamabinladin/

 上のサイトに拠ると、ビンラディンがかつて「自由戦士」としてアメリカのCIAに歓迎されていた、という情報もある。


日本政府の義務

 もちろん、だからといってぼくは別に、9月11日の事件に関する「イスラエル謀略説」や「アメリカ自作自演説」を簡単に信じるわけではない。

 ただ、上述のような、「アメリカ」側の事情と「イスラム」側の事情を冷静に眺めてみるとき、明確な証拠もないのにある特定の集団を犯人と決めつけて軍事攻撃をすることを容認することはできない、ということだ。なぜなら、かりにビンラディンが「テロ事件」の首謀者であるという明確な証拠もないまま米英が今回の軍事攻撃に出ていたとするならば、その攻撃は「報復」ではなく、明らかに「不当な攻撃」である、といおうことになるのだから…。

 アメリカの「報復」に対して、全面的に支持する意向を示している日本の一国民として、単純にぼくは、アメリカがビンラディンが「犯人」であるという決定的な証拠を日本国民に(もちろん、出来れば世界中の一般市民に対しても)示すことを願うのみだ。

そして、かりにアメリカがビンラディンが「犯人」であることを示す決定的な証拠を提示したとしても、長い目で今後のテロ対策を考えるとき、依然として残る問題がある。それは、すでに述べたように、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカという構図や、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカという構図が、かりに真実であるならば、今回の事件の犯人を撲滅したあとも、同じような事件が起る可能性はなくならない、からだ。

 日本政府は、上のような構図が存在するかどうか、独自に調査すべきだろう。なぜなら、9月11日のニューヨークにおけるテロで殺された人たちの中には、日本人も含まれているのであり、日本国民の平和と安全を確保するのが政府の重要な任務のひとつであるならば、そのような調査をすることは、日本政府の重大な義務のひとつであると言わなければならないからである。




正平のひとりごと



憎しみは憎しみで

怒りは怒りで

裁かれることに何故

気づかないのか

———浜田省吾「愛の世代の前に」より



J ―boy の怒り


 10月9日の夜、ぼくは、10月8日の夜にNHKで放送されていた、ロック・シンガー浜田省吾の特集番組をビデオで見ていました。

 前日の夜(10月7日の夜)にアメリカがアフガン攻撃を始めたばかりだったので、この番組の間もずっと画面の上と横に「戦争」関連のテロップが流ていました。

 そして、ラスト5分の所で、アメリカがアフガンに対する再攻撃を始めたということで、番組は中止になってしまいました。

 ショックでしたね。

 同時に、愛と平和を願い、反骨の人である浜省の番組であるだけに、何とも象徴的な、偶然にしては出来すぎの、皮肉っぽい出来事だと思いました。

 まるで、浜省が今回の一連の事件の愚かさをあざ笑っているようにも思えました。

 こんな事態であるにもかかわらず、なぜ、ぼくが浜省の番組の突然の中止がショックであったか、ということを考えてみると、それは、本質的には、日本のテレビ局が流す「戦争」に関する情報よりも、浜省の歌の与える感動と、その歌詞の内容の豊かさ、美しさの方が、今回の事件の真相をより深く洞察するひとを育てるのに有益ではないか、ということを、ぼくが心の中で無意識に感じたからではないか、と思います。

 何とも能天気なことを言っているように見えるかもしれませんが、正直、ぼくはそう思いました。

 あとで、浜省関係の掲示板を見てみると、みんな、「戦争なんて、どうだっていいんだよね」とか、「浜省、ホントすてき~!」とか、「しかし、ほんとステージが似合う男だねぇ~」とか、いろいろに好き勝手なことを言っており、苦笑してしまいました。





(2001年10月10日脱稿 / 2024年2月4日再掲載)

※上記エッセイは、2001年10月7日に米英によって行なわれたアフガニスタン侵攻の直後に書いたものです。



2024年02月04日

生きることの意義について(エッセイ・令和版)

(2002年5月16日の「川島正平のページ」エッセイより)

 


人の一生はおびえ慄えて縮むほど大事なものではない。
ショウペンハウエル『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』より



 最近、身近な人が自殺して、いろいろと考えさせられました。しばらくショックであまりものを考えることが出来ない状態だったのですが、数週間たってようやく冷静な気持が戻ってきたようです。実は前回のエッセイがすでに自殺に関するものだったので、二回続けてこういう題材について書くのはどうかとためらわれたのですが、今回の事件を契機に「生きることの意義」に関して自分なりに真剣に考えたことを記しておきたかったし、そして何よりも自分自身の気持の整理(けじめ)のためにも、このエッセイを書くことにしました。

 Aさん(今回自殺した47歳の男性)は、仕事を通じて知り合った友人の一人でしたが、飄逸な笑顔とその独特のユーモア感覚でまわりからも慕われている陽気な中年男性でした。Aさんは、豊富な経験とその盛んな好奇心のため、ことに雑学に長けていて、若い人の中には「Aさんに聞けば何でもわかる」と尊敬の眼差しで見つめている人もあったくらいでした。そのAさんがなぜ自殺することになってしまったのか、いまでは知る由もありませんが、ただ(少なくともぼくにわかる範囲で)はっきりしているのは、Aさんが心臓に遺伝性の持病を持っていたことと、最近仕事で失敗してヘコんでいたこと、くらいなものです。けれども、これだけでAさんが自殺するということは、少なくともぼくには信じられないので、おそらく衝動的なものだったのだろうと今では推測しています。

 実は、ぼくは以前、このAさんと、「生きることの意義」について、少しだけ議論したことがあります。それは、あるときふとAさんが「…生きていてもしょうがない」ということを言ってきたので、ぼくが「どうしてですか?」と聞いたところから始まりました。ぼくにしてみれば、頭が良くてユーモアもあり、打ち込んでいる趣味(パソコン関係)もあるAさんがこんなことを言ってくるのは、寝耳に水という感じがしたのです。よく聞いてみると、20代の頃にAさんは、「生きることの意義」に対する疑問に悩んで、キリスト教の教会に通っていた時期があったということでした。教会で牧師さんと何度も議論したそうですが、結局神を盲目的に信じるしかない、という牧師さんの答えに失望して、それ以来この問題に関してはすべて棚上げにして今まで生きて来た、と言っていました。ぼくはぼくなりに「生きることの意義」に関する考えを持っていましたが、それを開陳するにはそれなりの時間とそれなりの労力をかけてする必要がありましたし、またそのときの雰囲気がそれほど深刻なものではなかった(Aさんは多少冗談っぽく、自嘲気味に話していました)ので、「まあ、生きることの意義に関する答えがなければ人間生きられない、というわけでもないですからねえ」というお座なりの言葉で済ませてしまいました。今ではそれが多少悔やまれますが、それでも「自殺する人は結局何を言っても自殺するんだ」というのが今のぼく自身の正直な気持ちです。

 その後、Aさんが死んでから、再びこの問題について考えたこと(あるいは、先人の考えから学んだこと)を以下に書いておこうと思います。

 中村光夫の晩年の著作に『老いの微笑』(1989、ちくま文庫)という本があります。これは中村が老いをテーマにして書いたもろもろのエッセイをまとめたものですが、その中に「自分は大切か」と題するエッセイがあります。中村はそこで、近代の洗礼を受けた個々人にとって、生きることの意義はどういうところにあるか、ということに関する自らの見解をわかりやすく述べています。

 中村はまず、明治になって封建主義を脱した日本人が、西欧の個人主義の思想を取り入れた歴史について概観します。曰く、昔の日本人は、個々人が行動するときに、自分の考えに従うのではなく、他人の考えによっていたが、西欧近代の個人主義の思想の影響で、次第に日本人も、自分のために、自分の考えに従って生きることが善とされるようになった(実質的にそうなったのは、戦後のことでしょう)、と。それは、たとえて言えば、個々人が自らの進むべき行き先を指し示す羅針盤を自分の中に持つことであり、他人が持つ羅針盤に従って生きていた昔に比べれば望ましいことかもしれないが、しかしそれはまた同時に、新たな苦悩の始まりでもあった、なぜなら、《羅針盤を一々のぞくのは、ある意味でわずらわしいことだし、第一、羅針盤そのものが正確とはかぎらない》(中村光夫『老いの微笑』p.154)からだ、といいます。

 さらにはそこへ、「遺伝と環境」によるある種の決定論の思想である近代自然主義の考え方が入ってきて、ぼくらは、自我を意識することがすなわち自我の解体に立ち会うことである、という近代人の宿命を自覚することになります。

《僕らが、どんなに自分に固執しようと、時代や環境の影響を免れないのは明らかですが、そうだとすると、僕らが自分の考えと思っているものは、たいがい他人から学んだもの、あるいは、他人の是認を予期しているものでしょう。自分のなかの本当に自分といえる部分は何か、という疑問は自己反省を多少でも本気で行った者が必ず逢着するものであり、僕らが人生でいくつか出会う解決のない問題のひとつです。

 よく考えて見れば、僕らの内面にも、まったく他人に依存しない思想や感情などないといってよいので、僕らが平素「自分」と思いこんでいるものは、多くの他人の影響の複合体であり、ただその要素の組合せが、多少異っているにすぎないのです。

 そうでなければ、時代の影響が、人間の性格や行動に見られるはずはありません。

 これは僕らの生命が限られていることとも照応する現象です。

 自分の内心の声を聞いたつもりでも、実は時代の流行を追っていたにすぎないという経験は、おそらく誰にもあるでしょう。

 そんなふうに考えると、自分というものが一体あるのかないのかが問題になってきます。僕らが自分で考えたと思っていることが、すべて他人のうけ売りだとすれば、僕らの本来の自分はないに等しいはずです》(中村光夫『老いの微笑』p.156~157)

 ――たしかにそうでしょう。たとえ自分が自己の内面の論理に従って個性的に生きているつもりでも、一方で、その「自己」というものがすべて外界の影響から出来上がったものであるならば、それが果して「個性的」な生き方かどうか、あやふやになって来てしまいます。ならばわれわれが「個性的」に生きる意義はどこにあるのか、ということになってしまいます。中村はこの問題について、次のような解答を提出しています。

《…前世紀の詩人は星空を仰いで、そこに感知される無限の時間と巨大な空間にたいして、地球と人間の卑小さを嘆息しましたが、僕らは自己のとるにたらぬ存在であることを感ずるために、宇宙を持ちだす必要はないのです。

 僕らの肉体が社会に加わらなければ生きられないように、僕らの精神も外界からきたさまざまの要素から成り立っています。しかし、このことは、すぐに僕らの精神が画一的な存在であることを意味しません。これらの要素の組合せは各人によって異るはずで、この組合せの違いが人間の個性を形造ります。

僕らが生きるとは、この組合せの持つ可能性を実現することで、むかしから言われてきた個性を生かすというのもこれ以外のことではないはずです。

 自分を大切にすることは、以前には自己の内面に絶対の権威をみとめ、外界を軽蔑し、孤立することから始まったのですが、現在ではそのような孤独や隔絶は、僕らの方から望まなくとも、社会の方からそれを構成する人々に押しつけてきます。したがって自分を大切にし、その発達を希う努力は、ある意味で、前世紀と反対の方向にむかうはずです。

 自分の内面を形成する要素は、個々には外界からきても、全体としては自分に独得のものである以上、これを真の意味で自分のものとすることが、僕らにとって生きることの意義になるはずです。自分という外界から隔絶した外界の持つ可能性を、現実のものとする道は、この小さな外界に、大きな外界との交流を恢復し、生命をあたえることです。

 むろん、僕らの内面は全く外界と同じではありません。たとえば知、情、意という三面で普通表わされる精神のはたらきは、僕らの内面だけにあるものと言えます。

 しかし、ひと並より明晰な智力を持っているとか、情がこまやかとか、意思が強いというような、僕らの性格の特色も、結局は「遺伝と環境」の所産にほかなりません。だからそれも僕らにとって外界から来たものと言えるのですが、それが僕らの個性とすると、僕らの意識にとって、ぼくらの個性もまた外界だと言えます。

 僕らの個性の持つさまざまの特色、たとえば――ごく単純に言って――知性は鋭いが意思が弱いとか、意思が強いが、情感が乏しいというような性格は、おそらく偶然の所産ですが、あたえられた僕らにとってはかけがいのないものです。したがって、このそれぞれ歪みと不均衡を持つ――それによって外界から離れる――性格を、それが歪みと不均衡のゆえに孕んでいる可能性を、外界との交流のうちに開花させること、これが僕らにとって生きるということである筈です。

生命の営みとは既成の諸要素の新しい組合せから、これまで現実になかったものに存在を与えることであり、生きるとはこの広い意味での創造だからです。

 「自分を大切にする」のも、むかしのように外部からの影響を遮断し、自己を絶対化することではなく、自己を形造る要素がすべて外界から来たものであることを知り、その組合せに個性をみとめ、そこに含まれた可能性を抽きだし、そのことによって、現実に何物かをつけ加える、少なくもそういう創造の方向に努力することになりましょう

 それは外界からの隔絶を条件とする代りに(隔絶は物心つけばすでにしているので)すすんで外界とかかわり、それを変化させることで自分も変化して行くことです。外界に働きかけ、そこから何かをとり入れずに人間は生きて行けないからです》(同上、p.161~163)(太字――川島)

 このように、自らの内面の持つ組合せの独自性を信じて、そこから個性的なものを創造し、個性的な生き方を歩んでいく、ということは、何も学者や芸術家やアーティストなど、特別な人にだけ妥当するものではありません。普通のサラリーマンでも、日々の仕事の経験から何か独創的な発想を得て、時期を見て脱サラしその発想をもとに起業して成功した、という例はいとまがありません。また、普通のサラリーマンや被雇用者や主婦でありつつ、同時に趣味の世界で独自の豊かな精神生活を実現しそこに生き甲斐を見つけているという例は、皆さんのまわりにもいくらでもあることと思います(もっとも、つとにマルクスが指摘したように、「効率」第一の近代社会における仕事場では、個々人をその趣味や人格の面も含めて全体的に評価するという面がなさすぎる、というのは事実でしょう)。

 また、マルクスやエンゲルスであれば、上のような問いに関しては、次のように答えることでしょう。人間は精神的にも肉体的にも相互に作りあっているのであって、決して自分で自分を作りはしない。ゆえに人間の生き甲斐は、世界中の働く人びとの幸福と安全と福祉のために何ごとかを為すことである、あるいはそのために何ほどかでも協力することである、と。実際、三浦つとむは、このような考えのもとに、社会科学の領域における謎解きを自らの生き甲斐にしていました。ついでにいうと、ぼくも三浦と同じような生き甲斐のもとに人生を送っています。――ちなみに、上の中村の考えに当てはめて考えてみると、ぼくが学問上の影響を受けたのは、その主なものは、マルクス、エンゲルス、三浦つとむ、時枝誠記、中村光夫、デカルト、プラトン、村上陽一郎、古田博司などなどであり(もちろんそのほか目に見えない影響もたくさんあると思います)、このような組合せはおそらくこの広い世界の中でもぼく一人だけだろうと思います。そうして、そういう自分だからこそ、他の誰にも書けないところの何ものかを書くことが出来る、という自負が一方であります。そして同時に、それがぼくの生き甲斐にもなっています。

 ――ここで誤解してもらいたくないことは、すべての人が肩肘はって「独創」を目指さなければならないということではない、あるいは、すべての人がいわるゆ「成功」をしなければならないということではない、ということです。すべての人は、その容貌、声、喋り方、中村の指摘した知、情、意の組合せ、などの面において、すでに世界に二人とはいない貴重な、かけがえのない存在なのです。――実際、今回のAさんの自殺でぼくが一番残念に思ったのは、Aさん独特の人なつこい笑顔や立居振舞い、それから何よりもその独特のユーモア表現などがもう二度と見られない、ということでした。こう考えてみると、ある人が自殺するということは、その人を慕っていた(あるいは、不謹慎な言い方かもしれませんが、その人の個性を楽しんでいた)周囲の人びとに対する罪である、とさえ思われてきます(家族や親戚に対する罪である、ということはいうまでもありません)。もっとも、なかには「自殺するヤツなんか知ったこっちゃねえ。勝手に死なせておけ」と考える人もいるでしょう。たしかに、究極的にはそうなのですが、それでも、自殺するということの中には、こういった小さな、目立たない罪がある、ということを自殺志願者に知ってもらうことは、あながち無意味なことではないだろうと、ぼくは思うのです。




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※先日、何となく寝そべりながら米津玄師のラジオ出演を動画にしたものを見ていたら、とても興味深いことを語っていました。彼は本当に探究心のかたまりのような人で、ひとつひとつの自分の音楽上の作品の価値とそれに対する世の中の受けとめ方を細かく分析していて、そこで生まれた疑問についてまた真剣に考え込んでしまうことがある、しかもその疑問はときに一年間も持続してしまうこともあるそうです。


 以下、このとき聴いた話の要約です。2012年、米津玄師は本名で活動を開始し、アルバム『diorama』を発表します。


 《このアルバムは自分の中では、完璧なJポップで普遍的なもの。幅広い世代に受け入れてもらえるものと信じていたのに、現実はそうではなかった。そこにズレがあった。このズレが何なのかについて、必死に考えた。このズレと向き合う必要を感じた。じゃあ、どうすれば多くの人に伝わる音楽を作ることができるのか? 


 机の上にいろんなものを並べた。普遍的なものとは何か。人と人との間にある共感とかルールとは何か。そしてそれはどこから生まれてくるものなのか。


 1年くらいずっと考えた。そして1年間の中でいろんな答えが見つかって、その中のひとつが、


『人と一緒にやっていく ! 』


『人と一緒に美しいものを作っていく ! 』


で、自分以外の誰かとの間に見つかる共通した部分、ルールとかそういったものを大事にしていく。そういうことがあるから、人に伝わるものになる。自分なんてしょうもないんすよ、基本的に。生まれてきた瞬間から、人間は社会的な生き物であって、、、で、日本という国に住んでるわけであって、まあいろんな倫理観だとか、道徳だとか、そのコミュニティにおいてのいろんな所作を教えられながら生きてくるわけじゃないですか。そのいろんな積み重ねの上に自分がいるわけであって、そこで自分の肉体の中にあるものだけを見つめて行ったところで結局それは見つめて行けば行くほど外へ向いて行くしかないんですよね。まあ、(2012年から2013年にかけては)仲間を作るっていう1年になったと思うんですけど、それによっていろんな美しくもしょうもない友だちがいっぱいできまして、まあ、それによって今の自分が成り立っているなあっと思いますね 》(『米津玄師□と、Lemon。』より)


 ここには、学生時代のバンド活動で人と一緒にやろうとして挫折を経験したという、自分の過去をもう1回受け入れて、それでも人と関わって生きていかなければ良いものは作れないという必死な彼の決意を感じることができます。結局、自分ひとりだけでやっていると、その作品は知らず知らずのうちにどこか豊かさに欠ける、人の心に届きづらいものになってしまうのではないか、ということだと思います。たとえば一本の木が成長する過程を考えてみても、太陽の光や酸素、土の養分、水などいろいろなものを必要としますが、人間の才能−−それもいろんな種類があると思いますが−−も、自らの思いつきや考えだけでなく、他人の言葉や作品、それからその他人との関わりの中で生まれてくる諸々の所産なども、必要としているのだと思います。20代半ばでこういう境地に達することができるという、彼の早熟さには驚きを禁じえません。(2020年2月8日追記)

 








(2002年5月16日脱稿 / 2020年2月8日更新 / 2024年2月28日再掲載)



2024年02月28日

「ございます」と「いらっしゃいます」

「ございます」と「いらっしゃいます」



 ビジネスの現場では、「~でございます」の誤用例として、よく次のような指摘がされています。

《 ……相手の名前を確認するときの「山田様でございますか」は丁寧な表現ではあるが、「山田様でいらっしゃいますか」という言い方のほうが適切だ。「『ございます』は、『です』『あります』をさらに丁寧にした表現。通常は自分のことや物に対して使います。相手のことについて話すときは、『いらっしゃいます』を使うのが適切」と敬語講師の井上明美さん 》(『「〇〇でございますか」の恥ずかしい使い方:日経ウーマンオンライン【大人女子の教養講座】』)


 通常、「ございます」は「ある」の<丁寧語>、「いらっしゃる」は「いる」の<尊敬語>とされていますが、<丁寧語><尊敬語>という名称の是非はともかく、「ございます」「いらっしゃる」の原形としてそれぞれ「ある」「いる」があるということはまちがいありません。「ある」は「存在する」というきわめて抽象的な意味内容をあらわす<動詞>であるとともに、他方では<助動詞>「だ」の連用形と接続して「である」となり、判断をあらわす<助動詞>の表現としても使われます ⑴ 。「いる」も存在をあらわす<動詞>としての用法がありますが、こちらは判断をあらわす<助動詞>としては使われません ⑵。「ある」も「いる」も<動詞><抽象動詞>として使われる場合は客体的表現であり、「ある」も「ございます」も判断の<助動詞>に使われる場合は主体的表現です表現です ⑶。文法的内容的にはこの二大別の区別が重要ですので、形式上の同一性に惑わされないようにしておかなければなりません。

 上の例では、「ございます」は自分や物に対して使うべきであり、「いらっしゃる」は相手や生きているもの(動物など)に対して使うべきである、とされています。ほんとうにそうなのでしょうか。「ございます」の原形は「ある」、「いらっしゃる」の原形は「いる」ですが、私たちはふつう「私はここにある」とは言わず、「私はここにいる」と言いますし、対象が「自分」か「相手」かという基準で使いわけているとも思えません。かつて言語学者の三浦つとむは、この「ある」と「いる」という内容の似通った、きわめて抽象レベルの高い語の区別に関する分析は文法的にきわめて重要であるとして、くわしく論じています。それについて少し復習してみることにしましょう。

三浦つとむの分析

《 言語学をかじっている学者は、人や動物には「いる」を使うものだと思いこんでいるから、「ある」を使っているのに気づくと誤用だと非難する者もあらわれた。今泉忠義や大石初太郎は鴎外を非難しはしないが、車掌のことばの使いかたはまちがっていると非難する。車掌のいうのを聞いていると、誰でも「お降りの方はありませんか。」「乗越しの方はございませんか。」と、「ある」系のことばを使っているが、これは誤りで、「いませんか」「いらっしゃいませんか」と、「いる」系を使わなければならない、と主張するのである。言語学などかじっていない乗客たちは、車掌が「ある」系を使っても、鴎外の文章を読んだときと同じように、誰もおかしいともまちがいだとも思っていないのだが、学者たちにとっては乗客たちがおかしいと思っていないことが不思議に思われたわけである 》(三浦つとむ『日本語の文法』【勁草書房、1975年】187頁)

 1975年当時、言語学(国語学)の世界ではすでに無生物には「ある」を、生物には「いる」を使うということが「通説」となっていました。上に三浦がいう鴎外の文章というのは、『ヰタ・セクスアリス』の次のような描写です。

《 教場でむつかしい顔ばかりしてゐた某教授が相好を崩して笑ってゐる。僕のすぐ脇の卒業生を摑まへて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちや嫌よ」と云つてゐる。お玉とでも云ふのであらう。席にゐた丈のお酌が皆立つて、笑談半分に踊つてゐる。誰も見るものはない。杯を投げさせて受けとつてゐるものがある。お酌の間へ飛びこんで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれさうになつて、慌てて退ける芸者がある。さつき僕にけんつくを食はせた芸者はねえさん株と見えて、頻りに大声を出して駆け廻つて世話を焼いてゐる 》(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』、傍線は原文では傍点)

 このように鴎外の時代には、ふつうに人に対しても「ある」が使われていました。三浦の文章が書かれた1975年頃も大衆のあいだではふつうに使われていたようですが、学者による「通説」の押しつけが継続的におこなわれた結果、いまでは公の場面ではあまり使われていません。一方で、物に対して「いる」を使う場合や、動物に対して「ある」を使う場合は、上の三浦の論文執筆の時代から現在まできわめて多く見うけられます。

《 ……置いてある車ならば、「家の前にあるトラックをどけてくれ。」とか、「その車はいま車庫においてある。」とかいう。ところが運転中の車だと、「ひかり1号はいま名古屋の近くにいるはずだ」といい、アナウンサーも「いまNHKの中継車はマラソンの折返点にますから、そこへカメラを移します。」などと語っている。「近くにある」とか「折返点にある」とかいわない。……街をあるいて気づくのは、動物でありながら「ある」を使っている場合がすくなくないことである。魚屋は「どじょうがあります」と貼紙をしたり、「上等のあさりがあるよ」とすすめたりしているし、小鳥屋の店員も「声のいいカナリヤがございますがいかがでしょうか。」という。イモやダイコンを売る場合と同じ扱いかたである。ところが店に来た子どもたちは、魚屋の桶をのぞいて「どじょうがいるよ」といい、小鳥の籠をながめて「あそこにカナリヤがいるわ。」という。「ある」とか「ございます」とはいわない。このような事実は、単なる習慣や不特定特定の区別ではなく、それぞれの対象認識にちがいがあることを暗示している 》(三浦つとむ前掲書、191~192頁。傍線は原文では傍点)

 現在の私たちも、「〇〇を乗せた護送車が××にいるぞ」とか「イージス艦が横須賀にいる」とか言いますし、またホームセンターなどで「カブトムシございます」というポップ広告が貼ってあるのをよく見かけたりします。こうした事実を分析して、三浦は次のような結論に達します。

《 このように認識のありかたを吟味してみると、われわれは「ある」「いる」を特に意識して使いわけているわけではないが、そこにやはり一貫性のあることがわかってくる。生物と無生物、あるいは不特定と特定などという対象のありかたとはまったく関係なしに、対象を動きまわるものと把握したときには「いる」を、たとえ同じ対象でも動かないときや動きを捨象して静止的に把握したときには「ある」を、使いわけているのである。鴎外が宴会の席の人びとの描写に「ある」を使ったのも、筆者のいいかたを借りるなら「純客観的に」自分からつきはなして、いわば菊人形の一場面でも見物するような意識でとらえたからである 》(三浦つとむ前掲書、193頁。傍線は原文では傍点、太字は川島)

 このように三浦は、対象のありかたと関係なく、話し手書き手の対象に対する把握のしかたに「ある」と「いる」の区別の基準があるといいます。たしかに、電車やバスの乗客とどじょうやカナリヤには共通点があります。電車やバスの中の乗客とお店の中のどじょうやカナリヤには規模のちがいはありますが、大きな「箱」に入れられて動きが制限された状態にあるという点で共通しています。乗客たちは電車やバスの車内で立ったり座ったり歩いたりはできますが、車掌の立場からすると大きな「箱」の中にとじこめられており、一定の範囲内で動きを制限された状態にあります。その点で、多少は動くことができるけれども水槽やカゴにとじこめられた状態にあるどじょうやカナリヤと共通しています。車掌も店員も、乗客やどじょうやカナリヤという生き物を大きな視野からとりあえず動かないものと把握して「ある」と表現しているのです。かつての車掌は、そうしたマクロの視点から「お降りのかたはありませんか」と言っていました。けれども乗客自身は、電車やバスのなかで実際に動いているわけですから、「いるよ、通してください」とミクロの視点から言うことになります。車掌もそういうときは乗客の具体的なありかたを意識するので、「あ、いらっしゃいましたか」とミクロの視点でいうことになります。お店のなかのどじょうやカナリヤは水槽やカゴのなかに入れられており店員はマクロの視点から「どじょうがあります」「カナリヤがございます」と言い、子どもたちは実際に目の前に動いているどじょうやカナリヤを見て、「どじょうがいる」「カナリヤがいる」と言うことになるわけです。この三浦の説はきわめて説得力があります。しかもすでに42年も前にこの説を唱えていたのですから驚きです。

 さらに三浦は、「ある」と「いる」の使われかたを歴史的に分析して、《……「あり」のときには、生物であろうと無生物であろうと動こうと動かなかろうと、それらの特殊性を超えた存在表現として使われた。それが「いる」を実体として動くものに使ったことから、「ある」の使われる分野も普遍的ではなく狭いものになっていったというわけである 》(三浦つとむ前掲書、195頁。傍線は原文では傍点)。つまり、もともと「ある」は存在するというあらゆる実体に普遍的な属性を抽象して表現していたのですが、似たような意味内容の「いる」がはじめから実体として動くものに使われはじめ、それによって、「ある」は次第に実体として動かないものに使われるようになっていった、というわけです ⑷。ただし、ここで注意しなければならないのは、「ある」を実体それ自体が動かない場合に使ったとしても、それはその実体が動く場合もあるということを否定してはいないことです。マクロの視野からある人を静止的にあつかったとしても、それはその人が具体的に動く存在であることを否定したことにはなりません。また逆に、ミクロの視野から電車に「いる」と使ったとしても、それは電車が動きまわる存在であることを認めたものの、それが「生き物」であると認めたわけではありません。このことに対する理解がないと、人に「ある」を使うとはけしからん、電車に「いる」を使うとはけしからん、と見当違いの批判することになってしまいます。

結論は同じでも根拠がちがう

 上の例においては、私も「~様でございますか」ではなく、「~様でいらっしゃいますか」と言うほうが適切だと主張しますが、その主張の根拠がちがいます。「山田様」が「相手」だからとか、「生きているもの」だから「いらっしゃいますか」を使うべきと主張しているわけではありません。この表現は、目の前にいる具体的な人と面と向かっておこなうものですので、当然対象を動かないものとして把握するはずはなく、対象を動きまわるものと把握して表現することになります。それゆえ、「いる」の<尊敬語>である「いらっしゃる」を使用するのが適切だということになるわけです。


 

 



【註】
⑴ 学校文法では「あり」の<助動詞>としての用法を<補助動詞>として分類していますが、三浦つとむはこれを判断をあらわす語とみなし、<判断辞>と表現しています。判断辞の「あり」は、<助詞>の「に」と接続して「にあり」となり、それが転じて別の判断辞「なり」が生まれ、<助詞>「と」と接続して「とあり」となり、これまた別の判断辞「たり」が生まれています。これらは属性表現が本質である<動詞>とはまったく別の判断表現の語です。
⑵ ただし、「ある」も「いる」も、「置いてある」「降っている」のように三浦つとむのいう抽象動詞【学校文法でいう<形式動詞>または<補助動詞>】としての用法もあります。抽象動詞は、きわめて抽象的な内容の・動的属性概念を表現する語のことをいいます。ちなみに、「いらっしゃる」は、「いる」に<接尾語>の「せらる」が接続された「いらせらる」が転じたもので、「っしゃる」の部分は<接尾語>です。
⑶ 主体的表現と客体的表現とは、国語学者の時枝誠記から言語学者の三浦つとむに継承された言語過程説における語の分類方法です。客体的表現とは、「家」「学校」「パンダ」「歩く」など、実体概念や属性概念を表現する語です。主体的表現とは、「だ」「です」「だろう」「おい」「ねえ」「はい」など、話し手書き手の判断概念を表現する語や、感情などを直接的に概念で表現する語です。
⑷ その結果、たとえばかつての「誰かある」などは今では「誰かいるか」というの方が適当だということになりました。けれども、鴎外が菊人形の一場面を見物するような意識で「ある」と表現していたような例は、現在でもそのまま表現するべきでしょう。

 



(2002/5/16 脱稿 / 2020年2月8日更新)

 

 

 


2024年07月17日

『酔拳』を観て

 先日、久しぶりに、ジャッキー・チェンの『酔拳』という映画をビデオを借りてきて観ました。昔からぼくはカンフーものの映画が好きで、ブルース・リーの映画もずいぶん繰り返し観たクチです。ついこの間も、ブルース・リーの『死亡遊戯』に未公開フィルムを加えて新たにリメイクされた『死亡的遊戯』という映画を観てきたばかりです(売店で「ブルース・リーのテーマ」が収録されたCDもついでに買ってしまいました^^)。それに刺激されたのか、最近また、カンフー映画熱が復活してしまったようです。

 久しぶりに観た『酔拳』は、ストーリーは単純でしたが、最近観たいくつかの新作映画とは比較にならないほど、面白いと感じました。よくまあ、あれだけ低予算であれほど面白い映画を作ったものだと、ジャッキーの演技力とそのコミカルな魅力、それから脇役俳優の充実もさることながら、この映画の監督と製作者の手腕にも感心してしまいました。それほど面白く、魅力あふれる映画でした。

 ストーリーはきわめて単純です。ジャッキーの役どころは、道場を開いているカンフーの師範の一人息子で、暴れん坊で悪さばかりしているやんちゃな若者ウォン・フェイフォン(面倒なので以下、ジャッキーと書きます。ウォン・フェイフォンは、実在した中国の英雄らしいです)です。ある日、ジャッキーの度を過ぎたイタズラに堪忍袋の緒がきれた父親が彼を蘇化子という弟子を痛めつけることで有名なカンフーの達人に弟子入りさせることを宣言します。ジャッキーはもちろん怖くて家を飛び出して身を隠そうとするのですが、偶然(?)ある料理店で一緒になった老人が実は蘇化子で、逃げられなくなり、しぶしぶ彼のもとで修行することになります。

 蘇化子は、はじめのうちはジャッキーに受身の練習と基礎体力作りしかやらせません。もともと父親の命令で弟子入りしたジャッキーは、そういうキツくて単調な修行に堪えきれず、ある日、とうとう修行を放棄して師匠のもとから逃げ出してしまいます。そうして、ある隠れ家のような所でたき火をして休んでいると、そこの住人らしき男が帰ってきます。その男は実は殺し屋で(ちなみに、いくら時代設定が違うとはいえ、中国に素手で殺しを引き受ける人間が本当にいたかどうか、ぼくには定かではありません。まあ、こういう細部が気にならないほどの魅力がこの映画にはあることはたしかですが)、何人もの人間をその卓越した武術で殺した経歴のある、つわものです。ジャッキーはこの男に追い出されそうになって、ついムキになって戦いを挑んでしまいます。そしてコテンパに打ちのめされてしまいます。殺し屋は、生きて帰りたかったら自分の股の下をくぐれ、と要求し、死にたくないジャッキーはその言葉に従います。コテンパに打ちのめされた上に股の下をくぐらされるという屈辱をうけたジャッキーは、思い直して、再び、今度は自らの意志で、蘇化子のもとに戻ります。

 そして根性を入れなおして、厳しい修行をつづけようとします。その心意気を買った蘇化子は、ついに、酔えば酔うほど強くなるという伝説の拳法「酔八仙」をジャッキーに伝授することを決意します。そうして、ジャッキーは、蘇化子がほかの誰にも教えたことのない「酔八仙」という秘伝の拳法を伝授され、これを習得します。そしてある日、とうとう蘇化子は、もう教えることはない、という置手紙を残して居なくなってしまいます。晴れて修行を完成させたジャッキーは、意気揚揚と実家に戻ります。彼が家に戻ってみると、偶然(必然に、というべきか(^^))、父親が例の殺し屋に命を狙われているではありませんか! ジャッキーは、さっそく二人の間に割って入って、例の「酔八仙」を使って殺し屋を倒してしまいます。――まあ、これがこの映画の大まかなあらすじです。

 この映画の最大の魅力は、おそらくジャッキー・チェンの格闘シーンとか、彼のコミカルな演技、それから彼と師匠とのからみの面白さとかにあるのでしょう。もちろんぼくも、その妙味を十分に堪能しました。今回ぼくは、それとは別に、以前観たときには気づかなかったこの映画の魅力を発見しました。それは、ジャッキー・チェンが強くなって行く過程、彼の武術が上達して行く過程がわりと細かく描写されているところです。ここに描写されている彼の武術の上達過程は、よく観察してみると、きわめて現実的な、理にかなっているものであり、武術以外のいろいろな分野にも当てはめて考えてみることのできるもののようにぼくには思われました。

 蘇化子師匠のもとで修行することになったジャッキーは、しばらくの間、受身と体力づくりという基本練習ばかりで、技の練習をほとんどさせてもらえませんでした。来る日も来る日も、朝から晩まで基本練習ばかりさせられたのです。その単調な修行に堪えきれないで、一度逃亡して、そうして外で殺し屋に殺されかけて戻ってきたあと、ジャッキーは初めて技の練習をさせてもらうことになるのですが、このあたりなど、武術にかぎらず何ごとも基本が大事だという、ぼくらが普段忘れがちな大きな、大切な事実を思い起させてくれます。何ごとも、いくら単調で面白くないといっても、基本的なことを繰り返し学ぶ努力と根気のないところに、見せかけでない、本物の上達はありえないということです。

 また、殺し屋に打ちのめされて股の下をくぐらされるという屈辱を受けたジャッキーが、負け犬になってそのまま逃げてしまうのでなく、自らの意志で敗北感と屈辱感から立ち直って、本気で強くなろうという強い思いを持って師匠のもとへ立ち戻り、真剣な熱意で武術を学ぶようになってから、師匠も本気になって教えるようになり、そうして実際ジャッキーの腕がメキメキと上達していくあたりなど、やはり何ごとも自らの意志と熱意如何で習熟度、上達度が変ってくる、つまり上向いてくる、ということを示唆しているように思われました。

 それから、師匠直伝の「酔八仙」を会得したジャッキーが最後に殺し屋と一騎打ちをする場面では、ジャッキーが「酔八仙」の技のうち「何仙姑」という技を忘れてしまう(実際は、カッコ悪い技だったのでサボって覚えなかったのです)シーンがあります。そうして、すでに覚えた技を出しつくしたジャッキーは絶体絶命の危機に直面します。そのとき、いつのまにか二人の戦いを観戦していた師匠が、お前自身の技を創れ、と指示を出します。その言葉のとおり、ジャッキーは、ついに自分で師匠の技を応用した独自の技を創り出して、殺し屋を倒してしまいます。

新しい技を生み出した瞬間、ジャッキーは、殺し屋に向ってこう言い放ちます。


術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ!


 これも、おそらくすべての「学ぶ」ことに関して言えることでしょう。師匠の技をそっくりそのまま覚えるだけでは、およそ技の発展ということはありえません。学問でも同じことでしょう。師匠の教えを十分理解した上で、それを自分の力でいかに発展させるか、というところに、学ぶこと、学問することの本当の楽しさや、その醍醐味があるのではないでしょうか。ぼくは一介の独学者にすぎませんが、今のぼくがアカデミズムの世界に対して何か言いたいことがあるとすれば、それは、そうした、学問することの本当の楽しさや醍醐味を感得させてくれる環境を提供してほしい、ということです。少なくとも学閥や派閥めいたものに学問の発展が縛られない環境が整ってくれることを願います。「学徒」たるもの、「真理の王冠」以外のものに自らを従属させることなかれ!とでもいいたいところです。

 ――なんだか最後は、映画の話を強引に自分の関心領域へ引き寄せてしまったようで、我田引水の感が否めませんが(^^)、とりあえずぼくは、久しぶりにこの『酔拳』という映画を観て以上のようなことを考えたので、それをエッセイにしてみました。






(2001/4/16 脱稿 / 2024/7/28再掲載)

 

 

 


2024年07月28日