「報復」か、「不当な攻撃」か
(2001年10月10日の「川島正平のページ」エッセイより)
《 ――お静かに。感情的におなりになってはいけませんわ。ここはともあれ平和の場所、どんな争いも程のいい微笑に変る場所なのですもの。私は見えない秤を手に持って、双方へ等分に、相応の満足と、それから相応の不本意をさしあげるのです。私の目には怒っている焔も、瑪瑙の彫刻にしか見えませんし、たぎっている瀬の水も、水晶の浮彫にしか見えません。もつれにもつれた毛糸も、からみ合った蔦かずらも、何かしら私には、そこにへんな悪い魂があって、むりに複雑さに化けて見せているのだとしか思えません。複雑な事情などというものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純でいつもしんとしている場所なのですわ。少くとも私はそう信じております。ですから私には、闘牛場の血みどろの戦いのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な足取で歩いてゆく白い鳩のような勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でしょう。血も幻、戦いも幻なのですもの。私は海ぞいのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のように、争い事に波立っているお心の上を平気で歩いて差上げますわ……
》三島由紀夫『弱法師』(新潮社『近代能楽集』<1990年刊>)より
本当に「報復」なのか
とうとうアメリカは、「戦争」を始めた。
日本時間で10月7日の夜、アメリカとイギリスはアフガニスタンの軍事拠点に対する軍事攻撃を開始した。 米英は、これをテロに対する「報復」攻撃であるという。
だが、これが本当に「報復」なのか、どうか、ぼくらには分らない。
ぼくらは、9月11日の「テロ事件」を含むこれら一連の事件に関する報道の多くを、「西側」の報道機関のそれに依存してしまっている。
一方、中東における知識人たちの多くは、それら「西側」の報道機関があまり触れないこれらの事件の背後にある事情について、よく知っており、その事情及び今回の「戦争」について、深く憂慮しているようだ。
田中宇氏の「国際ニュース解説」(http://tanakanews.com)は、そういう中東知識人たちの憂慮について、詳しく紹介してくれている。
つまり、9月11日のアメリカにおける爆破事件が、「テロ行為」であるにしろ、そうでないにしろ、いずれにしても、中東の良識的な知識人たちは、今回の一連の事件の背後には、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカ、という構図が存在することを、さらにいえば、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカ、という構図が存在することを、視野に入れて、今回の「戦争」を憂慮している、ということだ。
このような構図を視野に入れると、今回の米英の「報復」が、果して本当に「報復」なのか、どうか、必然に怪しくなってくる。
しかもぼくら自身は、いまだに、ビンラディンが今回の「テロ」の首謀者であるかどうかを決定するに足る、「証拠」を提示されていない。これまでのビンラディンの「テロ」の手口とその規模を考えるとき、ぼくらがアメリカに対して、今回の事件に本当に彼が関与していたという決定的な証拠を提示してもらいたい、と願うことは、当然のことだと思う。※ビンラディンについての詳細な情報は、以下のサイトで得ることができる。http:hanran.tripid.com./terro/osamabinladin/
上のサイトに拠ると、ビンラディンがかつて「自由戦士」としてアメリカのCIAに歓迎されていた、という情報もある。
日本政府の義務
もちろん、だからといってぼくは別に、9月11日の事件に関する「イスラエル謀略説」や「アメリカ自作自演説」を簡単に信じるわけではない。
ただ、上述のような、「アメリカ」側の事情と「イスラム」側の事情を冷静に眺めてみるとき、明確な証拠もないのにある特定の集団を犯人と決めつけて軍事攻撃をすることを容認することはできない、ということだ。なぜなら、かりにビンラディンが「テロ事件」の首謀者であるという明確な証拠もないまま米英が今回の軍事攻撃に出ていたとするならば、その攻撃は「報復」ではなく、明らかに「不当な攻撃」である、といおうことになるのだから…。
アメリカの「報復」に対して、全面的に支持する意向を示している日本の一国民として、単純にぼくは、アメリカがビンラディンが「犯人」であるという決定的な証拠を日本国民に(もちろん、出来れば世界中の一般市民に対しても)示すことを願うのみだ。
そして、かりにアメリカがビンラディンが「犯人」であることを示す決定的な証拠を提示したとしても、長い目で今後のテロ対策を考えるとき、依然として残る問題がある。それは、すでに述べたように、イスラエルによるパレスチナ人弾圧を支持するアメリカという構図や、イスラム世界の発展と安定を阻もうとするアメリカという構図が、かりに真実であるならば、今回の事件の犯人を撲滅したあとも、同じような事件が起る可能性はなくならない、からだ。
日本政府は、上のような構図が存在するかどうか、独自に調査すべきだろう。なぜなら、9月11日のニューヨークにおけるテロで殺された人たちの中には、日本人も含まれているのであり、日本国民の平和と安全を確保するのが政府の重要な任務のひとつであるならば、そのような調査をすることは、日本政府の重大な義務のひとつであると言わなければならないからである。
正平のひとりごと
憎しみは憎しみで
怒りは怒りで
裁かれることに何故
気づかないのか
———浜田省吾「愛の世代の前に」より
J ―boy の怒り
10月9日の夜、ぼくは、10月8日の夜にNHKで放送されていた、ロック・シンガー浜田省吾の特集番組をビデオで見ていました。
前日の夜(10月7日の夜)にアメリカがアフガン攻撃を始めたばかりだったので、この番組の間もずっと画面の上と横に「戦争」関連のテロップが流ていました。
そして、ラスト5分の所で、アメリカがアフガンに対する再攻撃を始めたということで、番組は中止になってしまいました。
ショックでしたね。
同時に、愛と平和を願い、反骨の人である浜省の番組であるだけに、何とも象徴的な、偶然にしては出来すぎの、皮肉っぽい出来事だと思いました。
まるで、浜省が今回の一連の事件の愚かさをあざ笑っているようにも思えました。
こんな事態であるにもかかわらず、なぜ、ぼくが浜省の番組の突然の中止がショックであったか、ということを考えてみると、それは、本質的には、日本のテレビ局が流す「戦争」に関する情報よりも、浜省の歌の与える感動と、その歌詞の内容の豊かさ、美しさの方が、今回の事件の真相をより深く洞察するひとを育てるのに有益ではないか、ということを、ぼくが心の中で無意識に感じたからではないか、と思います。
何とも能天気なことを言っているように見えるかもしれませんが、正直、ぼくはそう思いました。
あとで、浜省関係の掲示板を見てみると、みんな、「戦争なんて、どうだっていいんだよね」とか、「浜省、ホントすてき~!」とか、「しかし、ほんとステージが似合う男だねぇ~」とか、いろいろに好き勝手なことを言っており、苦笑してしまいました。
(2001年10月10日脱稿 / 2024年2月4日再掲載)
※上記エッセイは、2001年10月7日に米英によって行なわれたアフガニスタン侵攻の直後に書いたものです。