「ございます」と「いらっしゃいます」
「ございます」と「いらっしゃいます」
ビジネスの現場では、「~でございます」の誤用例として、よく次のような指摘がされています。
《 ……相手の名前を確認するときの「山田様でございますか」は丁寧な表現ではあるが、「山田様でいらっしゃいますか」という言い方のほうが適切だ。「『ございます』は、『です』『あります』をさらに丁寧にした表現。通常は自分のことや物に対して使います。相手のことについて話すときは、『いらっしゃいます』を使うのが適切」と敬語講師の井上明美さん
》(『「〇〇でございますか」の恥ずかしい使い方:日経ウーマンオンライン【大人女子の教養講座】』)
通常、「ございます」は「ある」の<丁寧語>、「いらっしゃる」は「いる」の<尊敬語>とされていますが、<丁寧語><尊敬語>という名称の是非はともかく、「ございます」「いらっしゃる」の原形としてそれぞれ「ある」「いる」があるということはまちがいありません。「ある」は「存在する」というきわめて抽象的な意味内容をあらわす<動詞>であるとともに、他方では<助動詞>「だ」の連用形と接続して「である」となり、判断をあらわす<助動詞>の表現としても使われます
⑴ 。「いる」も存在をあらわす<動詞>としての用法がありますが、こちらは判断をあらわす<助動詞>としては使われません
⑵。「ある」も「いる」も<動詞><抽象動詞>として使われる場合は客体的表現であり、「ある」も「ございます」も判断の<助動詞>に使われる場合は主体的表現です表現です
⑶。文法的内容的にはこの二大別の区別が重要ですので、形式上の同一性に惑わされないようにしておかなければなりません。
上の例では、「ございます」は自分や物に対して使うべきであり、「いらっしゃる」は相手や生きているもの(動物など)に対して使うべきである、とされています。ほんとうにそうなのでしょうか。「ございます」の原形は「ある」、「いらっしゃる」の原形は「いる」ですが、私たちはふつう「私はここにある」とは言わず、「私はここにいる」と言いますし、対象が「自分」か「相手」かという基準で使いわけているとも思えません。かつて言語学者の三浦つとむは、この「ある」と「いる」という内容の似通った、きわめて抽象レベルの高い語の区別に関する分析は文法的にきわめて重要であるとして、くわしく論じています。それについて少し復習してみることにしましょう。
三浦つとむの分析
《 言語学をかじっている学者は、人や動物には「いる」を使うものだと思いこんでいるから、「ある」を使っているのに気づくと誤用だと非難する者もあらわれた。今泉忠義や大石初太郎は鴎外を非難しはしないが、車掌のことばの使いかたはまちがっていると非難する。車掌のいうのを聞いていると、誰でも「お降りの方はありませんか。」「乗越しの方はございませんか。」と、「ある」系のことばを使っているが、これは誤りで、「いませんか」「いらっしゃいませんか」と、「いる」系を使わなければならない、と主張するのである。言語学などかじっていない乗客たちは、車掌が「ある」系を使っても、鴎外の文章を読んだときと同じように、誰もおかしいともまちがいだとも思っていないのだが、学者たちにとっては乗客たちがおかしいと思っていないことが不思議に思われたわけである
》(三浦つとむ『日本語の文法』【勁草書房、1975年】187頁)
1975年当時、言語学(国語学)の世界ではすでに無生物には「ある」を、生物には「いる」を使うということが「通説」となっていました。上に三浦がいう鴎外の文章というのは、『ヰタ・セクスアリス』の次のような描写です。
《 教場でむつかしい顔ばかりしてゐた某教授が相好を崩して笑ってゐる。僕のすぐ脇の卒業生を摑まへて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちや嫌よ」と云つてゐる。お玉とでも云ふのであらう。席にゐた丈のお酌が皆立つて、笑談半分に踊つてゐる。誰も見るものはない。杯を投げさせて受けとつてゐるものがある。お酌の間へ飛びこんで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれさうになつて、慌てて退ける芸者がある。さつき僕にけんつくを食はせた芸者はねえさん株と見えて、頻りに大声を出して駆け廻つて世話を焼いてゐる 》(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』、傍線は原文では傍点)
このように鴎外の時代には、ふつうに人に対しても「ある」が使われていました。三浦の文章が書かれた1975年頃も大衆のあいだではふつうに使われていたようですが、学者による「通説」の押しつけが継続的におこなわれた結果、いまでは公の場面ではあまり使われていません。一方で、物に対して「いる」を使う場合や、動物に対して「ある」を使う場合は、上の三浦の論文執筆の時代から現在まできわめて多く見うけられます。
《 ……置いてある車ならば、「家の前にあるトラックをどけてくれ。」とか、「その車はいま車庫においてある。」とかいう。ところが運転中の車だと、「ひかり1号はいま名古屋の近くにいるはずだ」といい、アナウンサーも「いまNHKの中継車はマラソンの折返点にいますから、そこへカメラを移します。」などと語っている。「近くにある」とか「折返点にある」とかいわない。……街をあるいて気づくのは、動物でありながら「ある」を使っている場合がすくなくないことである。魚屋は「どじょうがあります」と貼紙をしたり、「上等のあさりがあるよ」とすすめたりしているし、小鳥屋の店員も「声のいいカナリヤがございますがいかがでしょうか。」という。イモやダイコンを売る場合と同じ扱いかたである。ところが店に来た子どもたちは、魚屋の桶をのぞいて「どじょうがいるよ」といい、小鳥の籠をながめて「あそこにカナリヤがいるわ。」という。「ある」とか「ございます」とはいわない。このような事実は、単なる習慣や不特定特定の区別ではなく、それぞれの対象認識にちがいがあることを暗示している
》(三浦つとむ前掲書、191~192頁。傍線は原文では傍点)
現在の私たちも、「〇〇を乗せた護送車が××にいるぞ」とか「イージス艦が横須賀にいる」とか言いますし、またホームセンターなどで「カブトムシございます」というポップ広告が貼ってあるのをよく見かけたりします。こうした事実を分析して、三浦は次のような結論に達します。
《 このように認識のありかたを吟味してみると、われわれは「ある」「いる」を特に意識して使いわけているわけではないが、そこにやはり一貫性のあることがわかってくる。生物と無生物、あるいは不特定と特定などという対象のありかたとはまったく関係なしに、対象を動きまわるものと把握したときには「いる」を、たとえ同じ対象でも動かないときや動きを捨象して静止的に把握したときには「ある」を、使いわけているのである。鴎外が宴会の席の人びとの描写に「ある」を使ったのも、筆者のいいかたを借りるなら「純客観的に」自分からつきはなして、いわば菊人形の一場面でも見物するような意識でとらえたからである 》(三浦つとむ前掲書、193頁。傍線は原文では傍点、太字は川島)
このように三浦は、対象のありかたと関係なく、話し手書き手の対象に対する把握のしかたに「ある」と「いる」の区別の基準があるといいます。たしかに、電車やバスの乗客とどじょうやカナリヤには共通点があります。電車やバスの中の乗客とお店の中のどじょうやカナリヤには規模のちがいはありますが、大きな「箱」に入れられて動きが制限された状態にあるという点で共通しています。乗客たちは電車やバスの車内で立ったり座ったり歩いたりはできますが、車掌の立場からすると大きな「箱」の中にとじこめられており、一定の範囲内で動きを制限された状態にあります。その点で、多少は動くことができるけれども水槽やカゴにとじこめられた状態にあるどじょうやカナリヤと共通しています。車掌も店員も、乗客やどじょうやカナリヤという生き物を大きな視野からとりあえず動かないものと把握して「ある」と表現しているのです。かつての車掌は、そうしたマクロの視点から「お降りのかたはありませんか」と言っていました。けれども乗客自身は、電車やバスのなかで実際に動いているわけですから、「いるよ、通してください」とミクロの視点から言うことになります。車掌もそういうときは乗客の具体的なありかたを意識するので、「あ、いらっしゃいましたか」とミクロの視点でいうことになります。お店のなかのどじょうやカナリヤは水槽やカゴのなかに入れられており店員はマクロの視点から「どじょうがあります」「カナリヤがございます」と言い、子どもたちは実際に目の前に動いているどじょうやカナリヤを見て、「どじょうがいる」「カナリヤがいる」と言うことになるわけです。この三浦の説はきわめて説得力があります。しかもすでに42年も前にこの説を唱えていたのですから驚きです。
さらに三浦は、「ある」と「いる」の使われかたを歴史的に分析して、《……「あり」のときには、生物であろうと無生物であろうと動こうと動かなかろうと、それらの特殊性を超えた存在表現として使われた。それが「いる」を実体として動くものに使ったことから、「ある」の使われる分野も普遍的ではなく狭いものになっていったというわけである 》(三浦つとむ前掲書、195頁。傍線は原文では傍点)。つまり、もともと「ある」は存在するというあらゆる実体に普遍的な属性を抽象して表現していたのですが、似たような意味内容の「いる」がはじめから実体として動くものに使われはじめ、それによって、「ある」は次第に実体として動かないものに使われるようになっていった、というわけです
⑷。ただし、ここで注意しなければならないのは、「ある」を実体それ自体が動かない場合に使ったとしても、それはその実体が動く場合もあるということを否定してはいないことです。マクロの視野からある人を静止的にあつかったとしても、それはその人が具体的に動く存在であることを否定したことにはなりません。また逆に、ミクロの視野から電車に「いる」と使ったとしても、それは電車が動きまわる存在であることを認めたものの、それが「生き物」であると認めたわけではありません。このことに対する理解がないと、人に「ある」を使うとはけしからん、電車に「いる」を使うとはけしからん、と見当違いの批判することになってしまいます。
結論は同じでも根拠がちがう
上の例においては、私も「~様でございますか」ではなく、「~様でいらっしゃいますか」と言うほうが適切だと主張しますが、その主張の根拠がちがいます。「山田様」が「相手」だからとか、「生きているもの」だから「いらっしゃいますか」を使うべきと主張しているわけではありません。この表現は、目の前にいる具体的な人と面と向かっておこなうものですので、当然対象を動かないものとして把握するはずはなく、対象を動きまわるものと把握して表現することになります。それゆえ、「いる」の<尊敬語>である「いらっしゃる」を使用するのが適切だということになるわけです。
【註】
⑴ 学校文法では「あり」の<助動詞>としての用法を<補助動詞>として分類していますが、三浦つとむはこれを判断をあらわす語とみなし、<判断辞>と表現しています。判断辞の「あり」は、<助詞>の「に」と接続して「にあり」となり、それが転じて別の判断辞「なり」が生まれ、<助詞>「と」と接続して「とあり」となり、これまた別の判断辞「たり」が生まれています。これらは属性表現が本質である<動詞>とはまったく別の判断表現の語です。
⑵ ただし、「ある」も「いる」も、「置いてある」「降っている」のように三浦つとむのいう抽象動詞【学校文法でいう<形式動詞>または<補助動詞>】としての用法もあります。抽象動詞は、きわめて抽象的な内容の・動的属性概念を表現する語のことをいいます。ちなみに、「いらっしゃる」は、「いる」に<接尾語>の「せらる」が接続された「いらせらる」が転じたもので、「っしゃる」の部分は<接尾語>です。
⑶ 主体的表現と客体的表現とは、国語学者の時枝誠記から言語学者の三浦つとむに継承された言語過程説における語の分類方法です。客体的表現とは、「家」「学校」「パンダ」「歩く」など、実体概念や属性概念を表現する語です。主体的表現とは、「だ」「です」「だろう」「おい」「ねえ」「はい」など、話し手書き手の判断概念を表現する語や、感情などを直接的に概念で表現する語です。
⑷ その結果、たとえばかつての「誰かある」などは今では「誰かいるか」というの方が適当だということになりました。けれども、鴎外が菊人形の一場面を見物するような意識で「ある」と表現していたような例は、現在でもそのまま表現するべきでしょう。
(2002/5/16 脱稿 / 2020年2月8日更新)