『酔拳』を観て
先日、久しぶりに、ジャッキー・チェンの『酔拳』という映画をビデオを借りてきて観ました。昔からぼくはカンフーものの映画が好きで、ブルース・リーの映画もずいぶん繰り返し観たクチです。ついこの間も、ブルース・リーの『死亡遊戯』に未公開フィルムを加えて新たにリメイクされた『死亡的遊戯』という映画を観てきたばかりです(売店で「ブルース・リーのテーマ」が収録されたCDもついでに買ってしまいました^^)。それに刺激されたのか、最近また、カンフー映画熱が復活してしまったようです。
久しぶりに観た『酔拳』は、ストーリーは単純でしたが、最近観たいくつかの新作映画とは比較にならないほど、面白いと感じました。よくまあ、あれだけ低予算であれほど面白い映画を作ったものだと、ジャッキーの演技力とそのコミカルな魅力、それから脇役俳優の充実もさることながら、この映画の監督と製作者の手腕にも感心してしまいました。それほど面白く、魅力あふれる映画でした。
ストーリーはきわめて単純です。ジャッキーの役どころは、道場を開いているカンフーの師範の一人息子で、暴れん坊で悪さばかりしているやんちゃな若者ウォン・フェイフォン(面倒なので以下、ジャッキーと書きます。ウォン・フェイフォンは、実在した中国の英雄らしいです)です。ある日、ジャッキーの度を過ぎたイタズラに堪忍袋の緒がきれた父親が彼を蘇化子という弟子を痛めつけることで有名なカンフーの達人に弟子入りさせることを宣言します。ジャッキーはもちろん怖くて家を飛び出して身を隠そうとするのですが、偶然(?)ある料理店で一緒になった老人が実は蘇化子で、逃げられなくなり、しぶしぶ彼のもとで修行することになります。
蘇化子は、はじめのうちはジャッキーに受身の練習と基礎体力作りしかやらせません。もともと父親の命令で弟子入りしたジャッキーは、そういうキツくて単調な修行に堪えきれず、ある日、とうとう修行を放棄して師匠のもとから逃げ出してしまいます。そうして、ある隠れ家のような所でたき火をして休んでいると、そこの住人らしき男が帰ってきます。その男は実は殺し屋で(ちなみに、いくら時代設定が違うとはいえ、中国に素手で殺しを引き受ける人間が本当にいたかどうか、ぼくには定かではありません。まあ、こういう細部が気にならないほどの魅力がこの映画にはあることはたしかですが)、何人もの人間をその卓越した武術で殺した経歴のある、つわものです。ジャッキーはこの男に追い出されそうになって、ついムキになって戦いを挑んでしまいます。そしてコテンパに打ちのめされてしまいます。殺し屋は、生きて帰りたかったら自分の股の下をくぐれ、と要求し、死にたくないジャッキーはその言葉に従います。コテンパに打ちのめされた上に股の下をくぐらされるという屈辱をうけたジャッキーは、思い直して、再び、今度は自らの意志で、蘇化子のもとに戻ります。
そして根性を入れなおして、厳しい修行をつづけようとします。その心意気を買った蘇化子は、ついに、酔えば酔うほど強くなるという伝説の拳法「酔八仙」をジャッキーに伝授することを決意します。そうして、ジャッキーは、蘇化子がほかの誰にも教えたことのない「酔八仙」という秘伝の拳法を伝授され、これを習得します。そしてある日、とうとう蘇化子は、もう教えることはない、という置手紙を残して居なくなってしまいます。晴れて修行を完成させたジャッキーは、意気揚揚と実家に戻ります。彼が家に戻ってみると、偶然(必然に、というべきか(^^))、父親が例の殺し屋に命を狙われているではありませんか! ジャッキーは、さっそく二人の間に割って入って、例の「酔八仙」を使って殺し屋を倒してしまいます。――まあ、これがこの映画の大まかなあらすじです。
この映画の最大の魅力は、おそらくジャッキー・チェンの格闘シーンとか、彼のコミカルな演技、それから彼と師匠とのからみの面白さとかにあるのでしょう。もちろんぼくも、その妙味を十分に堪能しました。今回ぼくは、それとは別に、以前観たときには気づかなかったこの映画の魅力を発見しました。それは、ジャッキー・チェンが強くなって行く過程、彼の武術が上達して行く過程がわりと細かく描写されているところです。ここに描写されている彼の武術の上達過程は、よく観察してみると、きわめて現実的な、理にかなっているものであり、武術以外のいろいろな分野にも当てはめて考えてみることのできるもののようにぼくには思われました。
蘇化子師匠のもとで修行することになったジャッキーは、しばらくの間、受身と体力づくりという基本練習ばかりで、技の練習をほとんどさせてもらえませんでした。来る日も来る日も、朝から晩まで基本練習ばかりさせられたのです。その単調な修行に堪えきれないで、一度逃亡して、そうして外で殺し屋に殺されかけて戻ってきたあと、ジャッキーは初めて技の練習をさせてもらうことになるのですが、このあたりなど、武術にかぎらず何ごとも基本が大事だという、ぼくらが普段忘れがちな大きな、大切な事実を思い起させてくれます。何ごとも、いくら単調で面白くないといっても、基本的なことを繰り返し学ぶ努力と根気のないところに、見せかけでない、本物の上達はありえないということです。
また、殺し屋に打ちのめされて股の下をくぐらされるという屈辱を受けたジャッキーが、負け犬になってそのまま逃げてしまうのでなく、自らの意志で敗北感と屈辱感から立ち直って、本気で強くなろうという強い思いを持って師匠のもとへ立ち戻り、真剣な熱意で武術を学ぶようになってから、師匠も本気になって教えるようになり、そうして実際ジャッキーの腕がメキメキと上達していくあたりなど、やはり何ごとも自らの意志と熱意如何で習熟度、上達度が変ってくる、つまり上向いてくる、ということを示唆しているように思われました。
それから、師匠直伝の「酔八仙」を会得したジャッキーが最後に殺し屋と一騎打ちをする場面では、ジャッキーが「酔八仙」の技のうち「何仙姑」という技を忘れてしまう(実際は、カッコ悪い技だったのでサボって覚えなかったのです)シーンがあります。そうして、すでに覚えた技を出しつくしたジャッキーは絶体絶命の危機に直面します。そのとき、いつのまにか二人の戦いを観戦していた師匠が、お前自身の技を創れ、と指示を出します。その言葉のとおり、ジャッキーは、ついに自分で師匠の技を応用した独自の技を創り出して、殺し屋を倒してしまいます。
新しい技を生み出した瞬間、ジャッキーは、殺し屋に向ってこう言い放ちます。
「術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ!」
これも、おそらくすべての「学ぶ」ことに関して言えることでしょう。師匠の技をそっくりそのまま覚えるだけでは、およそ技の発展ということはありえません。学問でも同じことでしょう。師匠の教えを十分理解した上で、それを自分の力でいかに発展させるか、というところに、学ぶこと、学問することの本当の楽しさや、その醍醐味があるのではないでしょうか。ぼくは一介の独学者にすぎませんが、今のぼくがアカデミズムの世界に対して何か言いたいことがあるとすれば、それは、そうした、学問することの本当の楽しさや醍醐味を感得させてくれる環境を提供してほしい、ということです。少なくとも学閥や派閥めいたものに学問の発展が縛られない環境が整ってくれることを願います。「学徒」たるもの、「真理の王冠」以外のものに自らを従属させることなかれ!とでもいいたいところです。
――なんだか最後は、映画の話を強引に自分の関心領域へ引き寄せてしまったようで、我田引水の感が否めませんが(^^)、とりあえずぼくは、久しぶりにこの『酔拳』という映画を観て以上のようなことを考えたので、それをエッセイにしてみました。
(2001/4/16 脱稿 / 2024/7/28再掲載)