日本の近代






動きなれた精神の軌道から出ることは、口に云ふほど、簡単ではないのです。
                       ――中村光夫 「『近代』の借り着」より――

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「『近代』への疑惑」

 「『近代』への疑惑」(1942・10『文学界』)という論文は、中村光夫の書いた論文のなかでもっとも有名なものの一つです。日本がアメリカとの戦争を始めてまもない1942年の夏、雑誌『文学界』は「近代の超克」という標題のもと、各界の知識人を集めて、日本はいかにして西欧近代を超えるべきかという座談会を催したのですが、その座談会の提出論文として中村が書いたのがこの「『近代』への疑惑」という論文でした。この座談会は戦後、知識人の間で戦中の体制讃美のためのものだったなどいろいろと問題視されたため、また日本にとっていまだに未解決の現下の問題であるため、今でもある程度有名なようです。

 中村のこの論文は、内容的に、座談会に提出された諸々の論文のなかでひときわ異彩を放っています。というのは、他の論者が近代をいかにして超克するかということについて真剣に論じているのに対して、中村は、近代を超克するという視座そのもの、すなわち座談会の主旨そのものを真っ向から否定してしまっているからです。「近代の超克」という問題提起の仕方自体、西欧のものであり、西欧を批判するのに西欧産の標語を借りてくること自体馬鹿げているし、そもそも日本の「近代」は輸入物であり、徹頭徹尾外発的である点で西欧の近代とは決定的に異なるものである、「近代の超克」について語る前にまず日本の「近代」の問題点について論じるべきであろう。この論文の前半の趣旨を簡単にいうとこんな感じになります。

 このような問題提起に続いて、中村はさらに、性急な近代化によって歪められた日本人の精神のあり方について論及してゆきます。

《 むろん当時の我国にとつて西洋自体がひとつの巨大な新発見であつたとすれば、そこに新たな知識の糧を求めることに何等不健全な事情があつたわけはない。しかし問題はここに移入された知識の質である。話を簡単にするために極端な云ひ方をすれば、僕等は西洋の文学や思想を、あたかも汽船や電信機と同様に、ただ僕等にだけ目新しい出来合ひの品物のやうに受け取つて来たのではないか。文学の上でも当時の作家が外国文学の作品からは強い影響を受けながら、それを書いた西欧の作家の生きた姿を本当に究めた人がほとんどゐないやうに、思想の上でも当時の学者が西洋から受入れた新思想とは単に西欧の哲学者の学説や体系についての知識にすぎなかつたのではなからうか。そして外国の作品を要領よく模倣した者が新文学の選手と見られたやうに、西洋哲学の巧みな解説者が哲学者乃至は思想家として通用した。いはば文学の領域では外国の作品がすぐ役立つお手本として読まれたやうに、思想の領域でも思想についての知識が思想の代用品として行はれた》

《 …当時の社会を支配した西洋崇拝といふよりはむしろ西洋恐怖の風潮のお蔭で、そこに輸入された外国の文学または思想は単なる生硬の形ですら社会から過大な流通価値を与へられたため、却つて我国の土壌に根を下す余裕を与へられなかつた。或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた「新知識」として輸入された。そしてこの思想もまた単に目新しい知識である間だけ歓迎され、やがて忘れられるのは前の思想と同じであつた。

 その結果、文学は絶えず新式の機械でも輸入するやうに、海外の新意匠を求めて転々し、哲学は自分の思想を持たぬ多くの「哲学者」を生んだだけであつた》(以上、中村光夫「『近代』への疑惑」)

 このように、明治以来の文明開化の影響で、外来の文物を移入することがすっかり習慣化してしまい、本来は自分でものを考えるところからしか生まれないはずの思想や文学などの精神的な領域においてさえ、輸入品でことを済まし、たえず西欧の思想や文学の動きに目を奪われ、われを忘れてしまっている「知識人」たちを、中村は愚直なほど直截に批判しています。ここで誤解してはならないのは、中村は西欧の思想や文化の移入それ自体を批判しているのではないことです。彼は、「かうした外国文明の急速な吸収は明治以来の我国の生存上の必要事であつた」(同上)と認めているのです。彼は、そうした認識をふまえつつ、一方で、明治維新から80年近くたった今、そろそろそうした急速な近代化によってもたらされた日本人の精神上の犠牲について、じっくり考えてみるべきなのではないか、と問題提起しているのです。

《 最近数年来、国民の文化的自覚を促す声もまた盛であるが、長年にわたる外来文化の圧迫によつて無意識のうちに醸成されて来た精神の畸形は、単なるジャーナリズムの風潮の交替などによつては決して癒されぬほど根深いのではなからうか。むしろ反対に時勢の表面的な動きに「気ぜわしく」適合することにのみ汲々として、自分でものを考へる習慣を失つた精神の持主は次第にその数を増す傾きさへあるのではなからうか。
 (中略)
 ここに僕等の実際に生きている「近代」の悲しい正体があるとすれば、この精神の危機を僕等のまづ闘ふべき身内の敵として判つきりと意識することに、その超克の着実な第一歩があらう》(同上)

 このように、中村は急速な近代化によって生じた日本人の精神的なゆがみについて指摘し、これを戦うべき対象としてはっきり意識化することが重要だと述べています。これは中村にとっては、きわめて切実な心の叫びでした。その証拠に、これと同じ主張は、その後も「『移動』の時代」「第二の開国」「『近代』の借り着」「人ごみのなかで」「利口すぎる民族」「知識階級」「自分の恢復」などに代表されるエッセイのなかで、繰り返しなされています。また、彼の『風俗小説論』『二葉亭四迷伝』などをはじめとする文学論のなかにも、これを同じような主張がそこかしこに散りばめられていることは、中村光夫全集を読破した人であるならば誰しも認めるところでしょう。それほどこの問題は、中村にとっては切実な問題だったのです。そして2004年の今、ぼくは、中村の提起した問題の切実性・重要性を痛感する者のひとりです。以前、「青春時代の偶像」のところで少し書いた、青春時代に自分が感じていた現代の日本社会に対する漠然とした不満や嫌悪感は、実はこの中村が提起した問題と深い関係があったのです。それについては、この後詳しく述べます。とりあえずもう少し、中村のいう、性急な近代化によってもたらされた精神的なゆがみについて、彼の言を引きつつ、探って行くことにしましょう。


「はにかめる栗鼠」

 中村は戦後になって、「はにかめる栗鼠」(『文藝春秋』1955年11月)というエッセイを書いています。1955年当時の外務大臣・重光葵が訪米したときの2つのエピソードに絡め、日本人の精神にひそむ病弊について論じたものです。

 初めのエピソードは、訪米中の重光外相がハワイ・サンフランシスコ間の飛行機に乗っている際に起こったものです。当時は外相といえどもまだ政府専用機を使用していなかったらしく、重光氏は一般の人と同じ飛行機に乗っていたのですが、その際、重光氏は自分の寝台を見ず知らずの子供連れのアメリカ婦人にゆずったらしく、しかもそのことが日本で美談として報道されたとのこと。中村はこの美談報道を目にして、次のように不満を表明しています。

《…僕はこの「美談」をすなほに呑みこむことができませんでした。それは氏がこのやうな親切を発揮したのは、相手がアメリカ婦人だからではないか。もし日本婦人だつたらどうだらうかといふ疑問がすぐ頭にきたからです。

 外国を旅行したことのある者は、誰しも、外交官の伝統的な特権意識が――ことに「一般邦人」にたいして――どんなに強いか知つてゐる筈で、そのなかでも官僚的だと云はれる重光氏が大臣の公務で旅行してゐる場合、肩書もない一般国民の乗合ひには、たとへそれが子供をつれた母親だらうと、孫を抱いたお婆さんだらうと、自分のために予約された寝台をゆづる筈はないと思はれたからです。

 このやうな特権意識はある意味では正しいかも知れないのです。外務大臣重光氏はけつして自分一個のたのしみのために旅行してゐるのではありません。

 彼の双肩には日本国の運命がかかつてゐる、と云つては少し大げさすぎるかも知れませんが、ちよつとぼんやりしてゐると、重大な不利をまねくことは、何も今度にかぎつたことではありません。

 だからもう若いとも云へぬ、ことに身体の不自由な氏が、酷暑ををかして旅行する場合、夜は寝台をとつてよくねて行くことが、重光氏個人にではなく、我々にとつて必要なのです。だからこそ、我々は税金でそれを支払つているのです。氏の安楽のためでなく、氏の担つた使命のために、金をだしてゐるのです。それを使ふことは氏の権利でなく、むしろ義務なのです。

 それを自分勝手に放棄してしまふのは、はなはだけしけらんことのやうにさへ、僕には思はれるのです》(中村光夫「はにかめる栗鼠」)

 今日のぼくらの感覚からしても、一国の外務大臣が公務で飛行機に乗っている際に一般の外国人に寝台をゆずるなどということは常識外れの愚挙と思われますが、当時の日本はそれを「美談」として報道したというのですから、驚きです。むしろ当時の中村が感じた「けしからん」という意識の方が今日のぼくらと共通するものといえるでしょう。中村は、日本とアメリカの関係を少しでも対等なものとするべく努力するのが外相の本分であるはずなのに、逆に不自然な卑屈さでアメリカ人に媚びるようなことをするとは「度外れた気軽な振舞い」だと、その行動の軽率さを批判しています。たしかに、これが逆のケース、すなわちアメリカの国務長官が日本の一民間人に寝台をゆずるなどということは、天地がひっくりかえってもありえないことだろうと思われますし(今は専用機なのでどのみちありえませんが)、この中村の批判は的を射ているといえるでしょう。もっとも、こうした重光氏のエピソードは、これだけで済んでいたら、それほど大きな問題はなかったのですが、次に挙げる仰天なエピソードがこれに続いたため、中村は一筆とることにしたようです。

 その仰天エピソードは、重光氏がアメリカのナショナル・プレス・クラブで行った演説の内容にまつわるものです。  

《 これは大分評判になつたので、今でも記憶してゐる人が多いかと思ひますが、念のために当時の新聞から引用すると、氏はここで自分を「はにかみ屋の栗鼠(りす)」にたとへ、その日の朝ワシントンの公園で、放しがひの栗鼠に「手づから」餌をやる貴婦人を見たが、「婦人がこの小さな動物に対してあふれんばかりの好意を持ち」栗鼠がそれになついてゐる有様は、あたかも「平和的共存を保証する眼に見えない合意」を象徴するもののやうに見えたといふのです。

 この名文句をきいたときの、新聞記者たちの顔はさぞ見ものであつたらうと思ひます。

 むろんこの演説も、――大臣の演説がすべてさうであるやうに――生なかの文才を鼻にかけた下つぱ役人が草稿をかいたものでせうが、重光氏はそれをよいと思つて読んだのですから、責任は氏にあります。

 およそ可愛気や愛敬などは、どこかにおき忘れてきたやうな重光氏が、自らを「はにかめる栗鼠」に譬へた滑稽さはここでは問ひますまい。しかしこれを氏が日本国民の代表者として、アメリカ国民を代表する人々に云つた言葉とすると、この比喩はそのまま笑つてすますことのできぬ問題を含んでゐます。

 なぜなら、それがすぐ人々の心に呼びおこす映像は、重光氏が日米関係の理想を放し飼ひの小動物と、それを愛翫(あいがん)する慈悲深い婦人たちの間柄のやうに考えていることになるからです。
 (中略)

情けない卑屈さです。かりに主客がところをかへて、アメリカ側のたとえばダレス氏が、こんな比喩を持ちだして、我々が貴婦人でお前たちは放し飼ひの栗鼠だと云つたら、おそらく重光氏自身も腹をたてたらうと思ひます。

かういふ相手に云はれたら、怒らなければならないやうなところまで、自分自身を卑下する必要が、一体どこにあるのか、といふことになると、そんな必要はどこにもなかつたことは明かです。

 問題は、重光氏がかういふ何の必要もない自己卑下を、かういふ儀礼的な席でなぜアメリカ人たちのまへでやつて見せたかといふことですが、それはおそらく、氏が同じく必要もないのに、アメリカの婦人に飛行機の寝台をゆづつたのと同じ動機であつたらうと思ひます。

 つまり一種の善意からでたお愛敬なのですが、それがたんにお世辞としても無意味であるだけでなく、いろいろな点で逆の効果を生じるものであることは、さきに云つた通りです。

 国家の独立の根底には、国民各自の人格の独立がなければならないことは、我国でも数十年前に福沢諭吉が力説したところですが、重光氏の栗鼠演説などは自分自身に対する尊敬が少しも感じられない点で、独立国家の代表たる使命をはづかしめるものです。

 冗談にしろ、自分の人格を故意に傷つけるやうな云ひ方は、自尊の念の強い欧米人には、不自然な阿諛として、不信と軽蔑の念しかあたへません。お互に胸襟をひらくきつかけになるどころか、此奴なにを云ひだすかわからぬぞといふ警戒心をおこさせるだけです。かういふ不自然な行為は必ずもとめるところがある者のすることだといふのが、彼等の抜きがたい通念だからです》(同上、太字――引用者)

 日本とアメリカの関係を、放し飼いのリスとそれに餌をやる貴婦人にたとえるなどということは、よほどの反日分子でなければしそうにないと思われますが、驚くべきことに日本国の代表たる外相が、外国で、しかも公の席でそれをやってしまったというのですから、中村が憤慨するのも無理ないことでしょう。中村は上記に続けて、このエピソードはすでに重光氏の個人的な問題で済まされることではなく、《今日の日本文化の或る性格を象徴するものであり、したがつて僕等自身の問題として反省するべきものを含んでゐると思はれます》と、問題の幅を広げ考察を深めて行きます。

 彼のいう「今日の日本文化の或る性格」とは、ひとことでいうと、自信を失った利口者に特有の、相手に媚びる「無私」で卑屈な精神的特性のことです。中村によると、日本の工業化・資本主義化などの急速な近代化にはプラスに働いた日本人の利口さが、思想や文化の面では不利に働いてしまった、なぜなら、この利口さが、結局科学や技術など他の諸分野と同じく、思想や文化までも移入してこれを本来の思想や文化の代用品として利用するという習慣を生みだし、次第にそれが移入された西欧の新しいものに何でもかんでも過剰な評価を与える習性となり、そして《たえず外国のもっとも新しいものをできるだけ素早くとり入れるために、見逃すまいとしている精神が、いつのまにかその内面を空虚にし、生活との間に不思議な断層をつくってしまった》といいます。

 この無私で卑屈な精神的特性の端的な例を、ぼくらは今日も欧米人だけを特別扱いするいわゆる「とりまき連」に見ることができます。白人の異性のみをセックス・シンボルとしてむやみに崇拝する人たちや、欧米のファッションや音楽や絵、あるいは学問の世界でいえば学説・理論を崇拝し、それとは対照的に日本のものは一顧だにしない、軽蔑するという態度をとる人たちのことです。その多くが無意識にそうしているというところが、これらの人びとに共通してみられる特性であり、それがこの問題をさらにやっかいなものにしています。しかもそうした人びとが社会のなかで過半数を占めているといったら、それは誇張になるでしょうか、ぼくはおそらくならないと思います。

 たとえばファッション雑誌を見てみましょう。洋服の広告に意味もなく欧米人を使っているものがたくさんあります。日本人に売る洋服を宣伝するのに、体格の違う欧米人をモデルに使うということ自体、本来ならば疑問に思って当然のことなのに、今日の消費者のなかでそうした問題意識を持つ人はむしろ少数派でしょう。なかには、子供服の広告にまで白人の子供を使っているものがあります。

 おそらく一部の人には、ぼくのこうした物言いが日本主義的な危険なものと映るでしょう。けれどもぼくに言わせると、逆に、当然のことをいって右翼扱いされるほど、日本社会の無意識の欧米崇拝癖は常識化してしまっているということになるのです。そしてぼくには、おそらくそうした常識と、さきに紹介した45年前の重光元外相の卑屈な演説とは、決して無縁のものではないと思われるのです。

 このエッセイの最後で中村は、次のように、戦後特に顕著になったという外国人に媚び外国人にとりまく人たちを分析しつつ、「はにかめるリス」たる重光氏の発言を皮肉っています。

《 彼等は植民地の白人から無知な原住民の召使が狡知と我欲によつて獲得する人間としての最低の尊敬、すなはち不信と警戒の念さへ得られぬほど、相手に従属してしまふので、このやうに高尚な、いはば無償の卑屈さが、長年にわたる文化的地盤の準備なくしてあり得ないことは明かです。

 事実、彼等のなかには、学問その他の才能ではかなりすぐれた人も居り、日本人同士のつきあひではそれほどそれほど下劣でも卑屈でもない人が多いのです。ただ彼等は外国人と接触すると相手をあまり「理解」できすぎ、それによつて自分も文化的に向上したやうな気持になるために、人間対人間の関係をこえた、(あるいはそこまでゆかぬ)無私の従属をもとにした「平和的共存」を謳歌することになるのです。

 かう考へると、重光氏の比喩は、つまらぬ駄洒落どころか、今日の日本文化の特質を実に正確に射抜いた批評と云へませう》(同上)


 今日、アメリカはイラク侵略を強引に遂行しつつありますが、小泉首相はそのアメリカを支持しイラクに自衛隊を派遣することについて、ひとことも国民にその是非を問う場を持つもことなく、また必死の説明責任を果すということもなく、ただやみくもにブッシュ大統領支持を表明し続けています。今日の小泉首相も、本質的には重光元外相と同じ「無私の従属」派に属する人だといえるでしょう。


今なお残るリスの群れ

 中村光夫の日本の近代観を見てゆくうちに、話が現代にまで広がってしまいましたが、それだけ今日でもこの問題は語る価値があるということです。

 何年か前、ロック系の歌手の浜田省吾が久しぶりに出たテレビの中で、「もともとロックやブルースというのは、アメリカで黒人が始めた音楽を白人が真似して一般化したジャンルであり、自分たちはさらにその白人たちを真似しているわけで、30代の半ば頃、そうした真似をしているということについてかなり悩んだことがある。けれども、結局、だからといっていまさら伝統的な邦楽に戻る気もしないし、今はもうその問題では悩んでいない」と言っていました。彼の創る楽曲は、いうまでもなく日本人特有の・もしくは彼独特のメロディが基調となっているものが多く、決してたんなる「外タレ」の真似でないことは自明のことですが、それでもこうして日本人の精神的な偏向について真剣に悩んだ経験があるということは、彼が一流の音楽家だということを傍証しています。
 学問の世界でも、日本発の学説・理論は、日本の外国理論の崇拝者たちからつねに攻撃、というより無視の標的とされています。日本で初めて独自の言語本質論を発表した時枝誠記は、その学説を科学的に吟味されるのではなく、一部の学者たちから戦中の言動を過大に問題視され国粋主義者として扱われてしまう傾向があります。また、ある分野で日本人が唱えた独創的な理論が、日本では見向きもされなかったのに、欧米で評価されて逆輸入されたという例は枚挙にいとまがありません。


 ――こういうことをあまりくどくどいうと、国粋主義者扱いする人がいるで本当はあまり言いたくないのですが、以上述べたような日本人の精神的な偏向は、おそらく多くの人が薄々感じているところなのではないでしょうか。薄々感じてはいるけれども、ことさら表立って言うことでもあるまい、と思っている人が多いのではないでしょうか。ぼく自身は、はっきりいって、そういうことを表立って言いたいほど日々の生活から嫌な感じを受けているので、こうしてエッセイの題材にしているわけです。

 一方、たしかに、現代の日本は、昭和の時代ほど欧米崇拝の風潮が蔓延しているというわけではありません。今日のように、誰でも気軽に海外に行ける時代では、昔のように西欧をたんなる「偶像崇拝」の対象として祭り上げているだけでは、どの専門領域でもその専門家としての能力を疑われてしまうだけでしょう。西欧では、自分のアイデンティティをしっかり主張する人の方が、自分の国に関心を持たない人よりも尊敬されます。実際、ぼく自身も、アメリカに1年間住んでみて、アメリカ人の真似をしている日本人は軽蔑されてしまうということを実感させられました。

 ぼくなどはその反動で、帰国してから能楽関係の出版社に入社したわけですが、この日本の伝統芸能の世界での数年の体験は、ぼくに上記の中村の思想を真剣に考え直す契機を与えてくれました。というのは、能狂言の世界は、中世の芸能をそのままに保存するという名目のもとに、ぼくらの一般社会の生活とは別のところに隔離されたかたちでほそぼそと営まれており、そこに存在する演者たちは、斬新な・現代にマッチした演目を試みることは邪道であるという見えない規範のもとに、世阿弥らの作った演目をただ忠実に演じているだけなのです。某社団法人が能の世界を仕切っているところからみて、全般的に、役人の支配する堅苦しい世界だといってよいでしょう。どうして、この本来は素晴らしいはず芸術を、今日のぼくらの生活に近づけるかたちに改良することが禁じられているのか、今日のぼくらには、生活と芸術の幸福な調和は無理なのか、ということをしみじみと考えさせられました(令和8年の現在は、新作能を作ったり、現代風なアレンジ採用の試みなど、徐々に行われつつあります。2026年5月10日 追記)。

 今日の日本の状況は、安易な欧米崇拝が駄目なのはわかるが、かといってほかに拠りどころとするべきものがみつからない、だからもうどうでもいいではないか、といったあきらめの風潮が社会全体を覆っているような気がします。もちろん地方では、伝統的な風習や独自の神楽などを大切にし、それらを生き生きと生活の中に楽しんでいる人たちがいるのも事実です。やはり地方から中央を変えて行くよりほかに方法がないのかもしれません。――うかつにも、ここまで書いてきて、結論らしきことが書けないことに気づきました。今の日本のいびつなニュートラルさは、てこでも動きそうにないし、動かそうとすると危険人物扱いを受けるであろうと思われるので、はっきりしたことが言いにくいということもあるかもしれません。最後に、以上述べてきたことを概括するにふさわしい中村の言葉を引用して、終りにします。

《 近代が自己を特色づける文化の生産力を持つのは、その内発性によるものであり、我国にはそれが欠けてゐたことは、前述しましたが、明治大正時代には、その内発性の欠如は、近代化が社会の一部分にしか行はれてゐないこととひとつの均衡を保つてゐました。

 近代のある部門は、外国のものであるが、とり入れなくてはならない、他の部門は、外国のものであるから、とり入れない方がよいと判断する主体が(たとへその判断が間違つてゐても)まだのこつてゐたわけです。

 それが戦後のやうに、外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれると、近代の外発性は、日本文化そのものの性格になり、いはばひとつの完成に達します。

 今日の日本文化の特色はここにあり、僕等はここで世界のどの国も経験しなかつた事態に生きてゐると云へます。

 近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性である以上、僕等の周囲で、近代の価値がすべて裏目にでてゐても不思議ではありません。

 ここで、人々は独立してゐるのではなく、社会から隔絶した孤独を強ひられてゐるだけです。青年たちは自分の人生を選ぶ自由を与へられてゐるのでなく、ただ欲望を刺戟され、それをみたす順序も手続も知らされずに野放しにされてゐます。近代の、安定と均衡を失つた、変化と過度の時代といふ性格は、ここでは他の何処よりはつきりでるので、世相や風俗の変転は、それが根のない輸入品であるだけに速やかなのです。贅沢と貧乏、繁忙と怠惰などの対照も、社会が自己を異質の観念に支配されてゐる度合ひに比例して大きいのです。

 生きる手段はすべて過剰であり、何故生きるのかが曖昧になつてきます。今日、自殺を企てる者と正面からむかひあつて、彼に何故生きなければならないかを説得することは、おそらく誰にもできないのです。

 しかし、このことは、事態がここまで来て、僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます。

 これは、僕等にとつていはば自業自得のものであり、前例のない難問である点で、僕等にいやでも近代人として思索を強ひる筈です。

 眼前のレッテルや通念にだまされず、いつでも現状を合理化しようと構へてゐる政治家のかけ声をはなれて、僕等の心の歴史を言葉にすることがもしできたら、これまでの近代謳歌の文学とはまつたく別物の、同時代にたいする批判の形をとつた近代思想が生れるでせう》 (中村光夫「『近代』の借り着」、【『批評』1967年4月】、太字は引用者)


 ※「『近代』への疑惑」「はにかめる栗鼠」はともに『中村光夫全集 第十二巻』より、「『近代』の借り着」は『同 第十三巻』より、引用しました。


※ 重光葵(しげみつまもる)外相のアメリカでの演説は、ウィキペディアで調べたところ、1955年9月1日のワシントン(ナショナル・プレス・クラブ)での演説だと思われます。重光葵という人物はウィキペディアを読むかぎり、一本筋の通った、それなりに有能な政治家だったと思われます。少なくとも、売国的な政治家でなかったことはたしかです。戦時中、日本が東南アジア方面へ侵略を開始した際、欧米の国々のようにアジア人を見下してぞんざいに扱うようなことは厳に慎むべきと主張していた面もあります。いま考えると、「はにかめる栗鼠」演説は役人が書いた草稿を読んだものであり、重光本人にそういう卑屈な考えがあったかどうか、甚だ疑問だと思います。今はアメリカの公文書公開により、1956年にソ連と平和条約を結ぶために2島返還で合意しようとしたところ、アメリカのジョン・フォスター・ダレスから「4島一括返還」でなく2島返還で妥協するんだったら沖縄は返さないぞ、と恫喝された人としても有名です。(2020年2月3日 追記)

※先日、TBSラジオの「赤坂タイムズ」というラジオを聴いていたところ、ラッパーのダース・レイダーさんが興味深いことを指摘していました。高市首相が「X上」でオーストラリアのアンソニー・アルバニージー首相のことを「アンソニー」とファースト・ネームで呼んでいたのに対し、ベトナムのレ・ミ・フン首相のことは「フン首相」と呼び、一方でトランプ大統領やマクロン大統領のことは「ドナルド」「エマニュエル」などとやはりファースト・ネームで呼んでいることから、白人の男性を特別視している考えが透けて見えるとのこと。やはり「とりまき連」「リス」的な匂いがしますね(2026年5月10日)。




(2004年11月28日記す、2026年5月10日更新、再掲)

 

 

 


2026年05月10日