「外来語」の〈転成〉について

はじめに


 日本の「国際化」や、IT関連用語の普及などに伴って、最近、「外来語」の濫用が一部で問題視されている。大野晋氏などは、《紀元二000年というのは、日本がカタカナ語化した、突出した区切りの時期になると思う》(1)とまで述べている。「外来語」に関する問題についてはすでにさまざまな意見が提出されているが、私は、「外来語」の種類および「外来語」の<転成>という現象について、三浦つとむの言語理論の立場から、言語および日本語の特質に言及しつつ論じてみようと思う。


<外来語>と<和製外来語>

 一般に「外来語」とよばれているものの中には、元となった外国の原語とほぼ同じ意味・用法・形式で使われているものと、元となった外国の原語とは異った意味・用法・形式で使われているものと、大きく分けて二種類がある。ここでは便宜的に、前者を<外来語>、後者を<和製外来語>と表記することにする。

 <外来語>には、「フォーク」「ナイフ」「スプーン」「ビール」「ワイン」「ステーキ」「タバコ」「カメラ」「レントゲン」その他多くの固有名があり、<和製外来語>には、「リフォーム」「オーダーメイド」「ナイター」「ワープロ」「ワイシャツ」「セクハラ」などがあるが、もちろん、両者の中間に位置するような語もたくさんある。両者の区別はあくまで相対的なものである。

 よく問題視されるのは、<和製外来語>の方である。次に紹介するのは、大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫の諸氏が故・小渕首相の私的諮問機関である「21世紀日本の構想」懇談会が提出した「英語第二公用語論」(『日本のフロンティアは日本の中にある』二000年一月)という報告書について、語り合った中からの抜粋である。


《 森本 僕は、この報告書を読んでいて、実に腹が立った。なぜ「日本には開拓すべき分野がまだたくさんある。と、だれもが一読してすぐ理解できる文章じゃいけないのか。「グローバル・リテラシー」だの「ガバナンス」だの、やたらにカタカナばかりの文章もひどい。まず第一に、「フロンティア」というのは、西部に未開の地があった西部開拓時代のアメリカにとってこそ、歴史的に意味を持つ言葉でしょう。タイトルからして、この報告書がいかにアメリカ的幻想から生まれたものであるかが、よくわかる。だから、タイトルそのものが、ということは主題自体がバカげているということですよ。

大野 僕にもわからない。(中略)……フロンティアという単語は知っていても、この文は、ほとんどの日本人が理解できない日本語ですよ。こういう表現を平気で使いながら、日本語が乱れているだの、日本人に英語を使えるようになれというのは、基本的な姿勢として間違っていると思う。

鈴木 いやもう、お二人が燎原の火のごとく怒られたのは、本当にその通り。この報告書にはいい点もあるんだが、いまお怒りになられたのは悪いほうですね。これは戦後の若い人たちの言葉の使い方によく似ていると思うんですよ。なんとなく気分としてわかるという表現です。みんなわかったような気になるけれど、具体的には何もわからない。こういうカタカナ英語が使われると、一番困るのは英米人なんですよ。多分、この「フロンティア」には、「夢」「将来」といった意味が込められているんじゃないかと、私は思うんですが……。

森本 だったら、そう日本語で言えばいい。だいたい「フロンティア」は「辺境」とか「未開拓の領域」という意味で、「夢」なんて意味はない。》(『日本・日本語・日本人』大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫著、新潮社、二〇〇一年九月)

 ここでは、原語にはない独特の意味を担わされた「フロンティア」という<和製外来語>がやり玉にあげられている。たしかに、「日本のフロンティアは日本の中にある」という表現は日本語としては不明瞭の感が否めない。かりに「フロンティア」に鈴木氏の言う「夢」とか「将来」とかいった意味が込められていたとするならば、それはまだ定着していない語の使用法であり、しかもそれが公の文書の中で使用されたとなっては、批判されても文句は言えないであろう。けれども、一方で、「リフォーム」「オーダーメイド」「イメージアップ」「ウィークポイント」「カルテ」「ポンプ」「オンエア」「バックミラー」「フロントガラス」「ルポライター」のようにすでに日本語の体系の中に定着している<和製外来語>があるというのも、事実である。私は、この種の問題を論じるときは、<和製外来語>のすでに定着したものとそうでないものとを相対的に区別して論じるべきだと思う。<和製外来語>のすべてが批判されるべき理由は何もない。巷には、両者を区別せずただ右のような不適切な事例を見て、「外来語一般の使用は好ましくない」とも取れる発言をする人がいるし、またすでに日本語の中に定着している<和製外来語>を取り上げこれが外国の原語の意味と違うということをわざわざ指摘して悦に入っている御仁などがしばしば見られる。彼らの言うがままにさせておくと、現在われわれが享受している言語表現の自由は侵害されかねない(2)。言語学者あるいは日本語学者は、「外来語」の問題に関して論理的な・明確な説明を示しておくべきであろう。

 

「外来語」の転成と言語の内的構造

 「外来語」が日本語に移入されるときに不可避に起る現象のひとつに、品詞の〈転成〉という現象がある。「エコロジカルな」「フィジカルな」「アクシデンタルな」「スリリングな」「ファジーな」「ポジティブな」などのように<助動詞>の「連体形」「な」が連結されて表現される語は、日本語特有の品詞である<静詞>に転成した語であるし、「アピールする」「ファックスする」「リフォームする」「イメージアップする」「オンエアする」「リストラする」などのように<抽象動詞>の「する」が連結されて表現される語は、上田博和氏言うところの<無活用動詞>に転成した語である(3)。これらは、すでに日本語の体系の中に組み込まれた語群であり、たんに<意義>が違うだけでなく品詞としてもすでに原語とは違うものとなってしまっている。

 なぜこういうことが起るのかと問われるならば、ここから先は言語の内的構造に立ち入った議論が必要になってくる。

 現実に言語として表現された個々の語の背後には、それぞれ異った内的な過程的構造が存在している。その内的な過程的構造には単純なものもあれば、複雑で容易に理解しにくいものもある。日本語では、実体概念を表現するのは<名詞>、属性概念を表現するのは<動詞><形容詞>、判断概念を表現するのは<助動詞>、語と語の間の関係概念を表現するのは<助詞>というように文法で定められている。また、同じ属性概念の表現でも、表現主体が対象の属性を運動し変化するものとして把握して表現した場合は<動詞>となり、対象の属性を静止し変化しないものとして把握して表現した場合は<形容詞>となるということは、山田孝雄や三浦つとむがつとに明らかにしたところである。さらに、「山」「走る」「美しい」などのように実体概念・動的属性概念・静的属性概念がそのまま表現された単純な内的な構造を持つ語もあれば、「勉強する」「打倒する」などのように、一見<名詞>と見えるが実は動的属性概念のあらわす<動詞>(<無活用動詞>)である「勉強」「打倒」のような語も存在するし、「カール・ルイスの走りの美しさ」という場合の「走り」「美しさ」のように<動詞><形容詞>を<名詞>に転成させて表現した語もある。

 言語はすべて表現であり、そこには表現主体の頭脳における内的な過程的構造が存在する。その過程的構造には、かくかくしかじかの概念にはかくかくしかじかの形式を割り当てるということに関する一種の法則である言語規範、この言語規範による概念の媒介過程が存在する。言語規範は永遠不変のものではない。言語規範はあくまでも人間の頭脳の中で対象化された認識として存在し保持されているものであるから、表現主体の対象認識が変化すればそこに登録されている語彙の内容も当然変化することになる。そこで、語の<転成>が生じることになるのである。語の転成には、品詞の転成だけでなく、(経験上誰でも知っていることだが)<意義>の転成(転化)もある。これら語の<転成>は、「外来語」の移入の際にも当然起るべくして起る現象であるといえよう。

 ところで、文法を論じるときと同じように「外来語」の問題を論じるときにも、日本語の特質である「裸体的」性格を考慮する必要があろう。日本語は、西欧の諸言語とちがって、個々の語それ自体は比較的単純な・平面的な内容のものが多い。それで、<助詞><助動詞>とよばれる語が数多く存在し、これらが<名詞><動詞><形容詞>に連結して判断の認識や関係の認識などを表現し複雑多様な現象や思想も表現することが可能となっている。日本語の<名詞>の多くは純粋に実体概念を表現するにとどまっており、<格>や<性>や<数>を含ませることはできないし、また<冠詞>がつくこともない。そこで、<名詞>に<助詞>や<接尾語><接頭語><代名詞>を連結させることが必要になってくる。三浦のいうように、日本語は、まさに《内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態》(4)なのである(太字−−−引用者)。

 この日本語の「裸体的」な性格が「外来語」の膨大な移入を可能にしているひとつの大きな原因であることは事実であろう。ある統計によれば、世界で<外来語>を多用する国の1位と2位が日本と韓国であるらしい(5)。実はこれは、朝鮮語も日本語と同じ膠着語であり「裸体的」性格を持っている言語であるから、うなずける話である。なぜ膠着語においては「外来語」の移入が比較的簡単に行われうるかというと、日本語や朝鮮語における<名詞>の多くは実体概念のみを表現する語であり、<数>や<性>や<格>のような内容が<名詞>と結びついて表現されるということが文法化されていないことがひとつの原因であろうし、また属性概念を表現する語と判断概念を表現する語とが明瞭に分かれている点も「外来語」の移入に有利に働いているものと思われる。「する」とか「ハダ」といういわゆる<抽象動詞>とよばれる語が独自に発達しているところも日本語や朝鮮語の特徴を論じるときに見逃してはならない点であろう。<無活用動詞>化した「外来語」であれば、それらはすべて「する」「하다(ハダ)」を連結させて「アルバイトする」「ファイトする」「プレゼントする」「쇼핑한다(ショッピングする)」「샤워한다(シャワーする)」「컘프한다(キャンプする)」などのように<動詞>化して表現することができるのである。また、「大変な」「殊勝な」「神妙な」「高尚な」などのように漢語でできた<静詞>に<助動詞>の「連体形」「な」を連結させて表現することも文法として定着したかたちであるから、<外来語>もそれが<静詞>化したものであれば「ナイーブな」「ハイセンスな」「ブリリアントな」と比較的抵抗なく表現することが可能なのである。

 このように、日本語(および朝鮮語)には、もともと言語の性質上、「外来語」を比較的容易に受け入れる下地が存在したのである。「外来語」の濫用の原因を役人や若者の節操のなさにのみに求めることは一面的にすぎるといえよう(6)。

 

「外来語」の<転成>にも二種類ある

 以上論じてきたことから、「外来語」の転成のあり方にも二種類あることが分るであろう。一つは、品詞としての転成である。英語では<名詞>としての用法しかない「meeting」が日本語では「ミーティングする」というように<名詞>のほかに<無活用動詞>としての用法もある(7)といった例はいうまでもないが、それだけではなくたとえば英語の「reform」と日本語の「リフォーム」は一見同じ<名詞>と<動詞>の用法があると思いがちであるが、同じ<名詞><動詞>でも日本語のそれらはそれぞれ純粋な実体概念および純粋な動的属性概念の表現であり、すでに英語のような屈折語における多面的な内容を持った<名詞><動詞>とは違う性格を帯びているのであり、これも一種の品詞の<転成>といえるであろう。「外来語」の<転成>のもう一つは、<意義>の転成(転化)である。この<意義>の転成にもさまざまな種類がある。最初に述べたように、この<意義>の<転成>によって成立した「外来語」が、いわゆる<和製外来語>とよばれる語群である。

(A) 先に挙げた「フロンティア」のように、原語の<意義>の上にさらに独特の意義・用法を含ませたもの。あるいはまた「何某と何某がニアミスした」という場合の「ニアミス」などのように、原語の<意義>からスライドさせて原語における場面とは異なる場面での用法を含ませたもの。

(B) 「プロポーズする」(英語の propose は結婚以外の様々な提案をする場合にも使われる)のように、原語の<意義>の一部分だけを<意義>として使用しているもの。

(C)「フォローする」や「アベック」(フランス語の avec の転)「バイク」(英語では motorcycle )「ハンドル」(英語では wheel あるいは handlebars )のように、原語とはまったく違う<意義>で使われているもの。

(D)「ナイター」「フリーター」(freeとドイツ語のArbeiterの合成語)のように外国の単語を借用して作り上げたほぼ完璧な造語となっているもの。


 (A)の語群は、われわれが実際に表現を行う際、もっとも注意深く使い方に気をつけなければならない語群である。なぜなら、(A)の語群は、(C)や(D)の語群のように、たとえ原語からかけ離れたものであってもその使用法が割と定着しているものとは違って、原語の<意義>を保持したまま、その上にさらに日本語特有の<意義>を含ませ、それが定着しつつある語群であるからである。もちろんその「定着」の度合いは個々の語によってさまざまである。先の「日本のフロンティアは日本の中にある」という表現における「フロンティア」は、「夢」や「将来」という意味が含まれているように思われるが、この用法は、たしか若者向け雑誌を中心にわりと定着しつつあったものなのかもしれない(おそらく「フロンティア・スピリット」からの転化であろう)。だが、少なくとも、まだ公の文書においては、このような用法を用いることは差し控えるべき段階であったと思われる。

 (B)の中には、よく「酒場」の意味で使われる「バー」( bar )があるが、英語では「棒」「弁護士」「牢獄」といった多様な使い方があることは周知のとおりである。

 (C)の中には、たとえば「ナイーブ」という<静詞>も挙げることができるであろう。英語の「naive」は、「愚かな、世間知らずな」といった侮蔑的な意味で使われる語であるが、日本語の「ナイーブな」は、たいてい「うぶな、純真な」といった肯定的な意味で使われることが多い。また、「リフォーム」という語も、英語の「reform」のように「改革する、改善する」といった意味で使われることは稀で、ほとんどが「住宅を増改築する」という意味で使われる(すなわち英語の「remodel」)ので、これもこの類の語といえるであろう。

 (D)の中には、「リストラ」(英語の restructuring を約めたかたち)・「アフレコ」(英語の after と recording を繋げたものを約めたかたち)のように、原語( after recording のように<和製原語>も含めて)を省略した語も含めることができる。これらの語の多くは、その成立のあり方からみてもまさに日本語特有の語であるから、その使用法も確立されており、(A)のように使用法を間違えて混乱を招くようなことは比較的少ないといえるであろう。

 ――以上見てきたように、日本語の体系に組み込まれた「外来語」の中でも、<外来語>と<和製外来語>とは区別して論じうるし、またその両者の中にもさまざまな異る性質のものがあり、それらも個々に区別して論じることが可能である。また、「外来語」の転成にも品詞の<転成>と<意義>の<転成>(転化)という2種類のあり方がある。私は、「外来語」の問題は、われわれの言語表現上の自由を守るためにも、そうしたさまざまな区別と性質を考慮した上で慎重に論じられてしかるべきであると考えている。

 

 




(注)
(1) 大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫著『日本・日本語・日本人』(二○○一年、新潮選書、一八五頁)。
(2) すでに定着した<和製外来語>でなおかつそれが原語と意義が違っていてわずらわしいというのであれば、辞書などで<和製外来語>の項目を設けて、それぞれの日本語独特の意義を明確に記しておけばよいであろう。また、しばしば、「外来語」ではなく日本語の単語を取り上げ、その古語における<意義>に関する薀蓄を述べつつ「この言葉はこういう使い方をするのが望ましい」と結論づける人を見かけるが、この手の主張にも正当な場合と眉唾の場合と二通りあるので注意が必要である。個々の単語の<意義>は、その時代において、その言語を共有する共同体の圧倒的多数の人びとの言語規範が規定しているところの<意義>が基準となるのである。たとえ過去の人びとの多数が認めた<意義>であっても、現在そうでなければ、誰もわれわれに過去の<意義>を強制することはできないのである。
(3) かつて三浦つとむは、活用の有無に関らず静的属性概念を表現する語を<静詞>と名づけ、その中の活用のある語を<形容詞>とした。上田博和氏は、活用の有無に関らず動的属性概念を表現する語を<動詞>と名づけ、その中の活用のある語を<活用動詞>(あるいは単に<動詞>)、活用のない語を<無活用動詞>とした。「運動(する)」「労働(する)」「結婚(する)」「反対(する)」「祝福(する)」「スリップ(する)」「ペイ(する)」「ドライブ(する)」「スタート(する)」「ファイル(する)」など、多くの「漢語」「外来語」が<無活用動詞>に相当する(もちろん、「はっきり(する)」「大慌て(する)」「うつらうつら(する)」などの「和語」もこれに相当する語であることはいうまでもない)。上田博和「『無活用動詞』論」(「第一回LACE研究会」所収、一九九六年)参照。
(4) 三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、一九七二年、一○四~一○五頁)
(5) 井上史雄『日本語は生き残れるか』(PHP新書、二○○一年、一四一頁)
(6) もっとも、日本のポップスに代表されるように、日本の若者が「外来語」を曖昧に使うことによって「クール」さ(かっこよさ)を表現しようとしていることはある程度は事実であろう。もしかすると役人は、そういった若者の風潮を利用して「外来語」を多用し、国家意志の間接的な・目立たない表現を企図しているのかもしれない。
(7) 韓国では、「meeting」(미팅)が日本語の「コンパ」と同じような意味で使われている。

 


(2002/3/19 脱稿)

 

2024年07月17日