論文一覧

「なので」と〈形式名詞〉論

三浦つとむの〈形式名詞〉論

 

 最近、というよりもう5年くらい前から、日常会話の中で、文頭に「なので」を使う表現のかたちが急速に一般化してきた印象があります。この表現は一部では、文字言語の中でも使われる傾向があります。先日、ネットのある掲示板を見ていたら、文頭の「なので」と「だから」を比べて、「なので」の方が因果関係が緊密でなければならないと主張している人がいて、かつて三浦つとむが取り上げていた永野賢氏の学説を思い出しました。

 

《 「から」は、後件に対する理由や根拠を主観的に説明するものであり、言わば、後件がテーマで、前件がその解決である。すなわち、「から」で結びつけられる前件・後件は、元来二つのものであって、それが話し手の主観によって原因結果、理由帰結の関係で結びつけられる、さらに言えば、その結びつきは話し手の判断作用によるものであるから、それについては話し手の主観が充分の責任をもつ、という意味あいのものである。

 

 これに対して、「ので」は、事がらのうちにすでに因果関係に立つ前件・後件が含まれていて、それをありのままに、客観的に描写する場合に使われる。因果関係に立つ事がらは二つのものであっても、その全体を一つの事態(一連の事件)として、なんの主観的な変更をも加えずに叙述する、裏から言えば、「ので」で結びつけられるものについては、主観の責任がない、という意味あいのものである。

 

 これをひと口に言えば、

 

 「から」は、表現者が前件を後件の原因・理由として主観的に措定して結びつける言い方、「ので」は、前件と後件とが原因・結果、理由・帰結の関係にあることが、表現者の主観を越えて存在する場合、その事態における因果関係をありのままに、主観を交えずに描写する言い方、 である。 》(太字は原文では傍点。永野賢『「ので」と「から」とはどう違うか』【『国語と国文学』昭和27年2月号】)

 

 たとえば、

 

 晴れているから、散歩に出た。

 晴れているので、散歩に出た。

 

という例文において、「から」は「話し手の主観によって原因結果、理由帰結の関係で結びつけられる」ものであり、「ので」は「事がらのうちにすでに因果関係に立つ前件・後件が含まれていて、それをありのままに、客観的に描写する」ものである、と考えられるでしょうか? むしろ、逆のように感じられるのではないでしょうか? 多くの人は、「から」は普通の助詞であり因果関係の表現で、「ので」は「だ」という判断辞(助動詞)の連用形「で」が使われており、話し手の主観が強く関わった表現のように感じられるのではないでしょうか?

 

 以上は、根本となる文法論の違いが、そのまま「から」論「ので」論の違いに出てきているといえます。永野氏の文法論=学校文法が形式重視の文法論であるのに対し、三浦の理論は内容重視の文法論です(現在では「ので」の内容的説明に関しては、永野氏の説が学校文法にとり入れられています)。三浦つとむは、話し手の主体的な感情や意志などの表現である主体的表現と、客体界の表現である客体的表現とを区別して、〈助詞〉〈助動詞〉などは前者、〈名詞〉〈動詞〉〈形容詞〉などは後者として規定しています(三浦の理論は時枝誠記の文法論を批判的に継承しているものです)。三浦の文法論で特徴的なのは、独特の判断辞論、〈形式名詞〉論などです。「ので」という表現は、〈形式名詞〉の「の」と判断辞(〈助動詞〉)の「で」が連結した表現であり、まさに三浦の得意分野であり、ここでもきわめて説得力のある叙述を展開しています。

 

 まずは三浦の〈形式名詞〉論から見てみましょう。

 

《 いま、〈普通名詞〉を使って表現するならば

 

 青いリンゴはすっぱく、赤いリンゴはあまい。(a)

 私が干渉した行為は、よくなかった。 (b)

 

というところを、初出以後はもっと抽象的に、〈形式名詞〉を使って

 

 青いものはすっぱく、赤いものはあまい。 (c)

 私が干渉したことは、よくなかった。 (d)

 

と表現することも多いし、さらには「もの」と「こと」との段階をも超えてもっと抽象的にとらえて

 

 青いはすっぱく、赤いはあまい。 (e)

 私が干渉したは、よくなかった。 (f)

 

とどちらも同じ形式の「の」で表現することすら、しばしば行われている。

 

 表現の直接の基盤は表現主体の認識なのだから、認識で比較してみればこの種の語のちがいも簡単に説明できる。「晩のおかずはどんなものにしようかな。」とまず〈形式名詞〉的に考えるところから出発して、「今晩はにするか。」「ひさしぶりにのさしみにしよう。」と、抽象的な発想をだんだん具体化していくのは、右の例のちょうど逆の場合であり、われわれの認識はこのようにある場合は抽象的なところへのぼったりある場合は具体的なところへくだったりする、のぼりくだりにおいて発展している。このようなダイナミックな展開の中で、〈形式名詞〉ないし〈形式名詞〉的な発想の役割を理解しなければならない。右の例では、対象それ自体のありかたは何ら変化していないのだが、認識がヨリ抽象的ヨリ普遍的になったために、次第にその具体性・特殊性が後にかくれてしまったのであり、その抽象的な概念を表現するために適当な言語規範がつくり出されて「もの」や「こと」が生れ、ついには「の」が使われることになったのである。

 

 (a)の「リンゴ」や(b)の「行為」ならば、誰でも口をそろえて〈名詞〉だというにちがいない。だとすれば、これらに代って使われる(c)の「もの」や(d)の「こと」も、具体と抽象とのちがいこそあれ、やはり〈名詞〉だと考えなければならない。通説も、先に山田が論じて以来、これらを〈名詞〉と認めて、いまでは〈形式名詞〉とよんでいるわけである(「山田」とは山田孝雄のこと。山田は、『日本文法論』の中で、「ほど」「ころ」「事」「物」など抽象的な意味内容の副詞的な、接続詞的な一連の語を「体言」として規定した−−−−引用者)。さらにすすんで、(e)(f)の「の」にしても、文法の教科書に縁のない素朴な人びとなら、これも「もの」や「こと」と同じ性格の語と受けとって、やはり〈名詞〉だというであろう。極度に抽象的で、対象がどんな実在かよくわからないけれども、客観的なものごとを扱った客体的表現であるぐらい、見当がつくのである 》(三浦つとむ「日本語の〈形式名詞〉----『の』とその使いかた」『日本語の文法』【勁草書房、1975】所収。傍線は原文では傍点。太字−−−引用者)

 

 ここでは、認識の発展に伴って〈普通名詞〉から〈形式名詞〉がつくり出される過程がわかりやすく述べられています。三浦は、ここでの「の」を、「もの」や「こと」と同じく〈形式名詞〉としてとらえていますが、学校文法では、〈格助詞〉の「の」から派生した〈準体助詞〉なるものだとされています。〈準体助詞〉とは、先行する表現を〈体言〉に準ずるものにする機能をもつという〈助詞〉です。学校文法では、単独で「文節」を作られる語を「自立語」、単独で「文節」を作ることができす、「自立語」に付いて「文節」を作る語を「付属語」と規定しており、〈名詞〉は「自立語」、〈助詞〉は「付属語」であり、両者は別々の種類のものであるとされています。しかも〈名詞〉は、文の先頭に来て主語になることができるものとされています。それで学校文法では、三浦のいう〈形式名詞〉の「の」は、文の先頭に来て主語になることもできないし、〈格助詞〉の「の」と同じ形式だということで、〈助詞〉の仲間にされてしまったのです。こうして、通説では、内容的に明らかに〈名詞〉であるはずの「の」が〈助詞〉とされており、さらには現在では、「ので」全体が〈接続助詞〉とされてしまっています。

 

 三浦の「の」という形式の語についての考え方をまとめると、「の」には〈格助詞〉と〈形式名詞〉とがあり、さらに〈形式名詞〉の「の」には(e)の系列に属する語と(f)の系列に属する語の2種類が存在します。(e)の系列に属する語とは、対象から直接に把握した実体概念を表現する語であり、(f)の系列に属する語とは、表現された対象をいま一度媒介的にとらえなおして実体的に表現する語です。

 

 スマホは日本製のを買う。 (e)系

 スマホを買うのは彼だ。 (f)系

 

   ここでいう(e)系の「の」はスマホという実体を抽象的に表現した語であり、(f)系の「の」は「スマホを買う」という行為を実体的にとらえなおして表現した語です(実際には、〈形式名詞〉の「の」はそのほとんどが(f)系です)。さらに三浦は、《この二種類の区別は、「のだ」「のです」「のである」などについても、〈接続助詞〉と解釈されている「ので」「のに」などについても、同じように問題にされなければならない》(同前。傍線は原文では傍点)といいます。

 


「で」について

 

 「ので」の「で」を〈格助詞〉と受けとるか〈助動詞〉と受けとるかによって、「ので」全体の解釈も大きく変わってきてしまうので、つぎに「で」について考えてみようと思います。

 

《 〈格助詞〉「で」について、国語調査委員会の編になる『口語法』(大正五年)はつぎのように四つの場合を区別した。

 

(一) 動作の行われる場所を示すもの

    うち仕事をする。

    こちらはじめて聞きました。

    切符を三ケ所買つてゐる。

 

(ニ) 動作をするときの道具・手段などを示すもの

    筆書く。

    これこしらえる。

    指二本もつ。

    木ばかり造る。

 

(三) 動作の行われる縁由を示すもの

    お蔭都合よくまいりました。

    これ難儀しました。

    試験いそがしかった。

    何やかやとりこんでゐた。

 

  (四) 指定の意味をあらわすもの、第一類の「で」と同じものであるが、ここでは、上のことを指定して下へ言い続けるだけの用をする。

      あれは桜、これは桃だ。

      売ったのは君、買ったのは僕だ。

      牛が一匹、馬が二匹だ。

 

 (一)(ニ)(三)と(四)とは意味に大きなちがいがあるが、〈名詞〉に結びつくという形式的な共通点から、これも同じく〈格助詞〉だと見ているわけである。ここで「第一類」の「で」というのは、「これは熊の皮である。」のように、「ある」「ない」に伴って使われる「で」であって、これも〈助詞〉と規定されている。山田文法や橋本文法も、ここにあげられた(四)の場合を、やはり〈助詞〉と説明している。

 

 これに対して松下文法は、(四)を断定の意味を持つものとして、〈動助詞〉の系列に入れた。一般のいいかたでは〈助動詞〉である。時枝文法も「で」に〈格助詞〉と〈助動詞〉の二種類を認めて、(四)の例に似た

 

 体は健康、性質は愉快だ。

 

の「で」と「だ」はどちらも「指定の助動詞」で、連用形と終止形とちがうだけだと規定する。私は、どちらも判断表現と見るから、時枝に賛成である 》(三浦つとむ、同前)

 

 三浦の言うように、明らかに(四)の「で」と(一)(ニ)(三)の「で」とは異質でしょう。(四)の「で」は、「あれは桜である」ことや、「売ったのは君である」ことや、「牛が一匹である」ことの話し手の判断を、それぞれ表現していると見るべきでしょう。ちなみに永野賢氏は判断辞を「だ」しか認めなかったため、「で」に判断辞の場合があることを想定することができず、このことがのちの「ので」論「から」論に大きく影響を及ぼすことになります。

 


「ので」について

 

 「ので」の「で」は、〈格助詞〉の場合もあれば、〈助動詞〉の場合もあります。山で出発したばかりのケーブルカーを見ながら、

  つぎに来る、行こう。

 

  という場合は、先に三浦が示した(e)系の「の」と上の(ニ)の場合の「で」であり、〈形式名詞〉と〈格助詞〉とが連結されたものです。

 

《 そんな風に、家のなかのことはすべてお内儀さんが切り盛りして行くので、汚い風采をして玄関の机に向って坐っている亭主はいわば飾り物みたいなものでしたが、これがまた無類の好人物、退屈しているせいかフランス語の稽古になるという口実、しきりに人をつかまえて話しこみたがるので、初めのうちは煩さくて閉口しましたが、だんだん気心が知れて見ると、話の仕方が少しくどくてもフランス人には珍らしく見え透いたお世辞や嘘は絶対に云わないし、なかなか親切にこっちの為を思ってくれるような所もあるので、暇なときにはなるべく相手になることにしました 》(中村光夫『戦争まで』中公文庫。傍線は引用者)

 

 これは文芸批評家中村光夫のフランスでの生活の一場面ですが、「切り盛りして行くので」の「の」は〈形式名詞〉の「の」、「で」は〈助動詞〉で、前件の結果当然後件のようなことになるという書き手の強い主観的な断定が感じられます。「飾り物みたいなものでしたが」の「もの」は〈形式名詞〉、「でし」は〈敬辞〉とよばれる〈助動詞〉で、「飾り物みたい」という低い評価を「もの」で実体的にとらえなおしてから、「でし」でこれまた断定を下し、過去をあらわす「た」に続いて〈接続助詞〉の「が」を使うことによって後件にまた前件の反対の意味内容が来ることをあらわしています。「無類の好人物」の「で」は、〈助動詞〉の「で」で、「亭主」の人物観についての著者の判断をあらわしています。

 

 「口実」の「で」は、先ほどの(三)に該当する、「動作の行われる縁由を示す」〈格助詞〉の「で」です。「話しこみたがるので」の「の」は〈形式名詞〉、「で」は〈助動詞〉で、前件の内容を実体的にとらえなおしてから「で」で前件を原因として強調して判断辞を加えて表現し、後件のさらに発展させた具体化した表現へとつなげています。「所もあるので」の「の」は〈形式名詞〉、「で」は〈助動詞〉で、これも前件を原因として重視・強調して後件のさらなる具体的な表現へとつなげるかたちとなっています(中村光夫は、「ので」を多用した文芸批評家として有名ですが、戦後のある時期から「です・ます」体を採用してこの「ので」を多用することになったのは、前件の思想内容を抽象的に大きくわくづけする意識で確認し強調し、それを原因として後件の具体的な思想内容へとつなげ、論理的整合性の強くとれたところの、ダイナミックな思想的展開を意図したためと思われます。また、日本語は判断辞がしばしば零記号化されることが規範化されているために判断表現が弱くなりがちですが、「です・ます」を採用すると判断辞がつねに言表化されることになり、強い明確な判断表現の実現が可能となり、論理的表現の充実につながリます。中村はある時期からそのことに気づいていた可能性があります。『風俗小説論』以降の彼の評論を読むと、『戦争まで』や青春論・幸福論あたりまでのいわば普通の「です・ます」体を脱皮して、明らかに彼が意識的に「エラボレートして」評論に適した独特の文体を構築したことが分かります。詳述はまた別の機会に行いたいと思います)。

 


「ので」と「から」の違いについて

 

 ここで、前に紹介した永野賢氏の「から」と「ので」の違いについての定義をもう一度読んで見ましょう。

《 「から」は、表現者が前件を後件の原因・理由として主観的に措定して結びつける言い方、

 「ので」は、前件と後件とが原因・結果、理由・帰結の関係にあることが、表現者の主観を越えて存在する場合、その事態における因果関係をありのままに、主観を交えずに描写する言い方 》(永野賢『「ので」と「から」とはどう違うか』【『国語と国文学』昭和27年2月号】)

 

 ここまで読んでこられた方であれば、以上の永野氏の定義が必ずしも正しいとは限らないことを理解していただけると思います。

 

 キャッチャーがボールをそらしたから私はホームへ走った。 (g)

 

 という例では、後件に対する理由や根拠を話し手が主観的に説明しているといえますが、たとえば、

 

 キャッチャーがボールをそらしたから彼はホームへ走った。 (h)

 

 という場合は、「彼」は話し手の主観を越えて行動していることは明らかで、話し手は前件の内容と後件の内容を結びつけただけにすぎません。明らかに永野氏の結論と異なっています。なぜこうなってしまったのかというと、やはりその〈助動詞〉論(=判断辞論)の弱さと形式主義的発想が影響しているものと思われます。彼は〈助動詞〉の「だ」のみが判断表現であると見なすことにより、「ので」の「で」を原因をあらわす〈格助詞〉と見なさざるをえなくなり、そのため「ので」の判断表現の側面を過小評価することとなり、ひいては判断表現の存在しない「から」にそれを押しつけることとなってしまったのです。「から」は本来、出発点・起点の意識を表現する〈格助詞〉と、そこから派生して二つの事柄を因果関係で結びつける〈接続助詞〉とに区別されます。さきの(h)は後者の例です。

 

 ここで、「から」と「ので」の認識構造に着目しつつ、その使いわけかたについて調べてみようと思います。

 

 Aという人が観客席から野球の試合を観戦していました。状況はツーアウト、ランナーなし。投手が投球モーションに入ったところ、打者はバントの構えをし、その直後、1塁手と3塁手は打者めがけて走ります。この場合、Aが1塁手と3塁手の心の動きがわからずに現象的にとらえれば、「打者がバントの構えをして、それから1塁手と3塁手は走った」と、二つの別の事実を単なる時間の流れにそって結びつける〈格助詞〉を使うことになるでしょう。けれども、1塁手と3塁手の立場に立ってみれば、打者がバントの構えをしたことで二人とも走る意志が出てきたので、二つの事実の間には因果関係があります。ただし、ツーアウト、ランナーなしという状況から考えてみても、それはどうしても走らなければならないという理由があってのことではありません。走る構えだけをしてバスターエンドランに備えるという選択肢もあるでしょうし、走る走らないはそれぞれの意志でどちらにも決められることです。が、実際には二人とも走ったので、別の話し手であるAが、これを単なる継起ではなく原因であったという意識で、

 

 打者がバントの構えをしたから、1塁手と3塁手は走った。 ( i )

 

 と、〈接続助詞〉の「から」を使って因果関係を表現しても違和感はないでしょう。

 

 次に、状況はノーアウト、ランナー3塁、バントが成功すれば得点が入ってしまう場面を考えます。しかも同点で迎えた9回裏の場面とします。この場合も、打者がバントの構えをしたことが1塁手と3塁手が走る契機になるので、二つの事柄の間には因果関係があるといえます。けれどもこれは( i )とはちがい、下手をすれば得点が入り試合に負けてしまうという現実からの強制を受けていて、走るか否かを二人の意志で勝手に決められるものではありません。バントの構えをして1塁手3塁手が走るという関係は必然的ともいえるでしょう。この場合、打者がバントの構えをしたら二人とも走るということはあまりにも当たり前のことなので、あえて因果関係を表現する必要もない、別の話し手であるAが、その意味で( i )とちがった意識で、

 

 打者がバントの構えをしたので、1塁手と3塁手は走った。 ( j )

 

 と、原因それ自体を重視・強調して打者の行動をとらえなおし判断辞を加え、「ので」と表現しても、不思議はないでしょう(以上、(g)〜( j )の例示とその説明は、三浦の『日本語の文法』【118頁〜121頁】における内容を私なりに表現し直したものです)。

 

 ここまで「から」と「ので」の背後にある認識の構造についてみてきましたが、最後にまとめとして三浦のつぎの言葉を引用しておきます。

 

《 永野の論文のまえおきには、

 

 空気がきれいだから、健康によい。

 空気がきれいなので、健康によい。

 

 という例があげられている。たしかにこの種の例は、「から」と「ので」とが大体同じ意味だと結論づけるにふさわしい。けれども前者は「だ」というだけなのに、後者は「な」「で」と判断辞が重加され、ヨリ強調されていることを見なければならない。どちらも因果関係をとりあげている点では同じなのだが、前者はいわば常識的な知識として説いているのに対して、後者は自分や家族の経験から得られた確信であるとか、科学的な調査で得られた結論であるとか、そこに必然的な関係のあることを把握し強調する場合に使われることを、反省する必要があろう》(三浦つとむ『日本語の文法』122頁〜123頁。太字は原文では傍点)

 


「なので」について

 

 以下、『TRANS.Biz』というwebマガジンに載っていた記事です。

 

《 最近、若い層の人を中心に、「なので」を文頭の接続詞として使う人が増えています。また、ビジネスメールで「なので、〜です」と「なので」を使うことも増えています。

 年代によっては昨今の「なので」の使い方に違和感を覚える人も多いようです。「なので」の正しい使い方について紹介します。参考にして下さい。

 そもそも「なので」はどのような意味なのでしょう?

 (中略)

 古くは「なので」の意味は、断定の助動詞「だ」+接続助詞「ので」ので2つので語が連結した「連語」とされており、接続詞としては認められていませんでした。(中略)

 「なので」の意味は、接続詞「だから」と同じ意味です。「だから」は「前に述べたことを原因・理由として、あとに述べる事がらが結果・結論となることを示す」順接の接続詞です。(中略)

 従来の文法では「なので」は接続詞とされていませんでしたが、近年は接続詞の現代用法として、辞書などで解説される事例も出てきました。次のような使い方です。

◯「昨日は遅くまで残業をした。なので、今朝は寝坊をしてしまった。」

○「デスクワークは運動不足になりがちです。なので駅まで歩くようにしましょう。」 》(lismIle「『なので』の敬語と言い換えは? ビジネスでの使い方を例文で紹介」。【2019.8.31】。傍線は引用者)

 

 ここでは、「なので」はもともとは《指定の助動詞「だ」+接続助詞「ので」》の連結したものであったと説明されていますが、実際は〈助動詞〉「だ」の「連体形」「な」と、( f )系の〈形式名詞〉「の」、および〈助動詞〉「だ」の「連用形」「で」が結びついたものです。「の」の前にご丁寧に「連体形」の「な」がついているというのに、なぜ素直に「の」を名詞として認めない人が多いのでしょう? ともかく、「なので」は、名詞に直接「で」を結びつけるのではなく、判断辞プラス( f )系の〈形式名詞〉から成る「なの」を加え、対象を実体的にとらえなおして「な・で」のかたちの判断の重加表現が可能となっています。《つまり、独自の対象を持たない「の」を媒介することで、判断をさらに強調したり、主体的意識が生れた根拠の断定を行ったり、している》(三浦つとむ『日本語の文法』138頁。傍線は原文では傍点)のです。ここでは「なので」は「だから」と同じ意味だとされていますが、すでに指摘したように、「なので」は主体的意識に基づいた表現、判断が重加されて判断それ自体が重視・強調された表現であり、客観的な因果関係の表現である「から」に判断辞が一つついた「だから」とはその内容を異にするものです。

 

 一方、冒頭の「なので」が近頃口語的場面でよく使われているということは、私もテレビやラジオなどをとおしてよく知っています。たしかに以前に比べて、「なので」の使用頻度は高まっていると思います。これは、インターネットやスマホなど、さまざまなコミュニケーションツールの発展とともに、おのおのが自らの見解を明確な根拠とともに強調して伝える必要から徐々に浸透してきたのではないかと思われます。

 

 先の記事は、次のようにまとめられています。

 

《「なので」は、(中略)文頭に使う用法はのぞましくないものの、間違いではないという見解も出ています。また、ビジネスシーンや履歴書などでの文語表現では、他の表現に言い換え、さらに状況に応じて、言い換え方の配慮も必要でした 》

 

 「なので」を文頭に使うのは望ましくないというのは、文語的場面ではたしかにそうでしょう。けれども、口語的場面では、たとえば会社でプレゼンをするときなどは、重宝する言葉だと思います。すでに表現された事柄を、「なので」と続けることにより、その内容をいま一度媒介的にとらえなおして、そのこと自体を重視・強調しながら、次の展開へ向けてダイナミックに入っていくことができます。ただし、ここでも指摘されていますが、文語的場面でも口語的場面でも、かしこまった場面・目上の相手の場面では、冒頭でのこの種の表現は他の表現に言いかえることが望ましいと思います。まだそれほど定着した表現ではないからです。ただし、自分の意見を主張することが善とされる場面、たとえばプレゼンなどの場面では許されるのではないでしょうか。

 

 今回、「なので」について調べるために、インターネットていろいろ調べていると、「なので」を論じる際についでに「ですので」と「ですから」のちがいについても触れているものが少なくなく、しかもそのほとんどが学校文法的理解なのには驚かされました。実際、いまとりあげたwebサイトでも、「ですので」を使った表現は、「曖昧」な「柔らかい」であり、「ですから」は、「曖昧さが」ない「断固とし」た表現、「明確な意思を伝え」る表現だとしています。一度定説になってしまうと固定してしまってなかなか訂正することができないのだなあ、とつくづく思った次第です。最後に、これもネット上ですが、一応書き言葉の記事として、堂々と使われている冒頭の「なので」を紹介して、とりあえず終わりにしようと思います。

 

 《 ・・・ではなぜ他国との条約を、本来の担当である国務省ではなく、軍人が書くことになったのか。その理由は旧安保条約が調印された1951年の、前年(1950年)6月に起きた朝鮮戦争にあった。

  この突如始まった戦争で米軍は当初、北朝鮮軍に連戦連敗する。その後も苦戦が続くなか米軍は、それまで一貫して拒否していた日本の独立(=占領集結)を認める代わりに、独立後の日本との軍事上の取り決め(安保条約)については、本体の平和条約から切り離して軍部自身が書いていい、朝鮮戦争への協力を約束させるような条文を書いていいという、凄腕外交官ジョン・フォスター・ダレスの提案に合意したのだ。 

  なので先の(1)【なぜ、これほど異常な(日米間の)状況が生まれたのか】への答えは非常に簡単だ。日米安保条約や地位協定は、もともとアメリカの軍部自身が書いたものだった。しかも平時に書いたのではなく、戦争中に書いた。だから米軍にとって徹底的に都合の良い内容になっているのは、極めて当然の話なのだ 》(矢部宏治「対米従属から脱却するために、いま日本がやるべき『3つのこと』」【2019.5.19】講談社オフィシャルウェブサイトより。太字は引用者)

 

※新型コロナで「巣籠っている」間に書いたもので、いわば「巣籠もり論文」ともいえるものです。よって、家から一歩も出ておらず、資料も持っている本と、あとはネットを利用して書いたのでそのへんはご容赦ください。 (2020-05-12 脱稿)

 

※中村光夫の文章の引用部分の内容を分析している部分について、誤りがあったので修正を加えました。(2023/12/26 更新)

2023年12月26日

「外来語」の〈転成〉について

はじめに


 日本の「国際化」や、IT関連用語の普及などに伴って、最近、「外来語」の濫用が一部で問題視されている。大野晋氏などは、《紀元二000年というのは、日本がカタカナ語化した、突出した区切りの時期になると思う》(1)とまで述べている。「外来語」に関する問題についてはすでにさまざまな意見が提出されているが、私は、「外来語」の種類および「外来語」の<転成>という現象について、三浦つとむの言語理論の立場から、言語および日本語の特質に言及しつつ論じてみようと思う。


<外来語>と<和製外来語>

 一般に「外来語」とよばれているものの中には、元となった外国の原語とほぼ同じ意味・用法・形式で使われているものと、元となった外国の原語とは異った意味・用法・形式で使われているものと、大きく分けて二種類がある。ここでは便宜的に、前者を<外来語>、後者を<和製外来語>と表記することにする。

 <外来語>には、「フォーク」「ナイフ」「スプーン」「ビール」「ワイン」「ステーキ」「タバコ」「カメラ」「レントゲン」その他多くの固有名があり、<和製外来語>には、「リフォーム」「オーダーメイド」「ナイター」「ワープロ」「ワイシャツ」「セクハラ」などがあるが、もちろん、両者の中間に位置するような語もたくさんある。両者の区別はあくまで相対的なものである。

 よく問題視されるのは、<和製外来語>の方である。次に紹介するのは、大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫の諸氏が故・小渕首相の私的諮問機関である「21世紀日本の構想」懇談会が提出した「英語第二公用語論」(『日本のフロンティアは日本の中にある』二000年一月)という報告書について、語り合った中からの抜粋である。


《 森本 僕は、この報告書を読んでいて、実に腹が立った。なぜ「日本には開拓すべき分野がまだたくさんある。と、だれもが一読してすぐ理解できる文章じゃいけないのか。「グローバル・リテラシー」だの「ガバナンス」だの、やたらにカタカナばかりの文章もひどい。まず第一に、「フロンティア」というのは、西部に未開の地があった西部開拓時代のアメリカにとってこそ、歴史的に意味を持つ言葉でしょう。タイトルからして、この報告書がいかにアメリカ的幻想から生まれたものであるかが、よくわかる。だから、タイトルそのものが、ということは主題自体がバカげているということですよ。

大野 僕にもわからない。(中略)……フロンティアという単語は知っていても、この文は、ほとんどの日本人が理解できない日本語ですよ。こういう表現を平気で使いながら、日本語が乱れているだの、日本人に英語を使えるようになれというのは、基本的な姿勢として間違っていると思う。

鈴木 いやもう、お二人が燎原の火のごとく怒られたのは、本当にその通り。この報告書にはいい点もあるんだが、いまお怒りになられたのは悪いほうですね。これは戦後の若い人たちの言葉の使い方によく似ていると思うんですよ。なんとなく気分としてわかるという表現です。みんなわかったような気になるけれど、具体的には何もわからない。こういうカタカナ英語が使われると、一番困るのは英米人なんですよ。多分、この「フロンティア」には、「夢」「将来」といった意味が込められているんじゃないかと、私は思うんですが……。

森本 だったら、そう日本語で言えばいい。だいたい「フロンティア」は「辺境」とか「未開拓の領域」という意味で、「夢」なんて意味はない。》(『日本・日本語・日本人』大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫著、新潮社、二〇〇一年九月)

 ここでは、原語にはない独特の意味を担わされた「フロンティア」という<和製外来語>がやり玉にあげられている。たしかに、「日本のフロンティアは日本の中にある」という表現は日本語としては不明瞭の感が否めない。かりに「フロンティア」に鈴木氏の言う「夢」とか「将来」とかいった意味が込められていたとするならば、それはまだ定着していない語の使用法であり、しかもそれが公の文書の中で使用されたとなっては、批判されても文句は言えないであろう。けれども、一方で、「リフォーム」「オーダーメイド」「イメージアップ」「ウィークポイント」「カルテ」「ポンプ」「オンエア」「バックミラー」「フロントガラス」「ルポライター」のようにすでに日本語の体系の中に定着している<和製外来語>があるというのも、事実である。私は、この種の問題を論じるときは、<和製外来語>のすでに定着したものとそうでないものとを相対的に区別して論じるべきだと思う。<和製外来語>のすべてが批判されるべき理由は何もない。巷には、両者を区別せずただ右のような不適切な事例を見て、「外来語一般の使用は好ましくない」とも取れる発言をする人がいるし、またすでに日本語の中に定着している<和製外来語>を取り上げこれが外国の原語の意味と違うということをわざわざ指摘して悦に入っている御仁などがしばしば見られる。彼らの言うがままにさせておくと、現在われわれが享受している言語表現の自由は侵害されかねない(2)。言語学者あるいは日本語学者は、「外来語」の問題に関して論理的な・明確な説明を示しておくべきであろう。

 

「外来語」の転成と言語の内的構造

 「外来語」が日本語に移入されるときに不可避に起る現象のひとつに、品詞の〈転成〉という現象がある。「エコロジカルな」「フィジカルな」「アクシデンタルな」「スリリングな」「ファジーな」「ポジティブな」などのように<助動詞>の「連体形」「な」が連結されて表現される語は、日本語特有の品詞である<静詞>に転成した語であるし、「アピールする」「ファックスする」「リフォームする」「イメージアップする」「オンエアする」「リストラする」などのように<抽象動詞>の「する」が連結されて表現される語は、上田博和氏言うところの<無活用動詞>に転成した語である(3)。これらは、すでに日本語の体系の中に組み込まれた語群であり、たんに<意義>が違うだけでなく品詞としてもすでに原語とは違うものとなってしまっている。

 なぜこういうことが起るのかと問われるならば、ここから先は言語の内的構造に立ち入った議論が必要になってくる。

 現実に言語として表現された個々の語の背後には、それぞれ異った内的な過程的構造が存在している。その内的な過程的構造には単純なものもあれば、複雑で容易に理解しにくいものもある。日本語では、実体概念を表現するのは<名詞>、属性概念を表現するのは<動詞><形容詞>、判断概念を表現するのは<助動詞>、語と語の間の関係概念を表現するのは<助詞>というように文法で定められている。また、同じ属性概念の表現でも、表現主体が対象の属性を運動し変化するものとして把握して表現した場合は<動詞>となり、対象の属性を静止し変化しないものとして把握して表現した場合は<形容詞>となるということは、山田孝雄や三浦つとむがつとに明らかにしたところである。さらに、「山」「走る」「美しい」などのように実体概念・動的属性概念・静的属性概念がそのまま表現された単純な内的な構造を持つ語もあれば、「勉強する」「打倒する」などのように、一見<名詞>と見えるが実は動的属性概念のあらわす<動詞>(<無活用動詞>)である「勉強」「打倒」のような語も存在するし、「カール・ルイスの走りの美しさ」という場合の「走り」「美しさ」のように<動詞><形容詞>を<名詞>に転成させて表現した語もある。

 言語はすべて表現であり、そこには表現主体の頭脳における内的な過程的構造が存在する。その過程的構造には、かくかくしかじかの概念にはかくかくしかじかの形式を割り当てるということに関する一種の法則である言語規範、この言語規範による概念の媒介過程が存在する。言語規範は永遠不変のものではない。言語規範はあくまでも人間の頭脳の中で対象化された認識として存在し保持されているものであるから、表現主体の対象認識が変化すればそこに登録されている語彙の内容も当然変化することになる。そこで、語の<転成>が生じることになるのである。語の転成には、品詞の転成だけでなく、(経験上誰でも知っていることだが)<意義>の転成(転化)もある。これら語の<転成>は、「外来語」の移入の際にも当然起るべくして起る現象であるといえよう。

 ところで、文法を論じるときと同じように「外来語」の問題を論じるときにも、日本語の特質である「裸体的」性格を考慮する必要があろう。日本語は、西欧の諸言語とちがって、個々の語それ自体は比較的単純な・平面的な内容のものが多い。それで、<助詞><助動詞>とよばれる語が数多く存在し、これらが<名詞><動詞><形容詞>に連結して判断の認識や関係の認識などを表現し複雑多様な現象や思想も表現することが可能となっている。日本語の<名詞>の多くは純粋に実体概念を表現するにとどまっており、<格>や<性>や<数>を含ませることはできないし、また<冠詞>がつくこともない。そこで、<名詞>に<助詞>や<接尾語><接頭語><代名詞>を連結させることが必要になってくる。三浦のいうように、日本語は、まさに《内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態》(4)なのである(太字−−−引用者)。

 この日本語の「裸体的」な性格が「外来語」の膨大な移入を可能にしているひとつの大きな原因であることは事実であろう。ある統計によれば、世界で<外来語>を多用する国の1位と2位が日本と韓国であるらしい(5)。実はこれは、朝鮮語も日本語と同じ膠着語であり「裸体的」性格を持っている言語であるから、うなずける話である。なぜ膠着語においては「外来語」の移入が比較的簡単に行われうるかというと、日本語や朝鮮語における<名詞>の多くは実体概念のみを表現する語であり、<数>や<性>や<格>のような内容が<名詞>と結びついて表現されるということが文法化されていないことがひとつの原因であろうし、また属性概念を表現する語と判断概念を表現する語とが明瞭に分かれている点も「外来語」の移入に有利に働いているものと思われる。「する」とか「ハダ」といういわゆる<抽象動詞>とよばれる語が独自に発達しているところも日本語や朝鮮語の特徴を論じるときに見逃してはならない点であろう。<無活用動詞>化した「外来語」であれば、それらはすべて「する」「하다(ハダ)」を連結させて「アルバイトする」「ファイトする」「プレゼントする」「쇼핑한다(ショッピングする)」「샤워한다(シャワーする)」「컘프한다(キャンプする)」などのように<動詞>化して表現することができるのである。また、「大変な」「殊勝な」「神妙な」「高尚な」などのように漢語でできた<静詞>に<助動詞>の「連体形」「な」を連結させて表現することも文法として定着したかたちであるから、<外来語>もそれが<静詞>化したものであれば「ナイーブな」「ハイセンスな」「ブリリアントな」と比較的抵抗なく表現することが可能なのである。

 このように、日本語(および朝鮮語)には、もともと言語の性質上、「外来語」を比較的容易に受け入れる下地が存在したのである。「外来語」の濫用の原因を役人や若者の節操のなさにのみに求めることは一面的にすぎるといえよう(6)。

 

「外来語」の<転成>にも二種類ある

 以上論じてきたことから、「外来語」の転成のあり方にも二種類あることが分るであろう。一つは、品詞としての転成である。英語では<名詞>としての用法しかない「meeting」が日本語では「ミーティングする」というように<名詞>のほかに<無活用動詞>としての用法もある(7)といった例はいうまでもないが、それだけではなくたとえば英語の「reform」と日本語の「リフォーム」は一見同じ<名詞>と<動詞>の用法があると思いがちであるが、同じ<名詞><動詞>でも日本語のそれらはそれぞれ純粋な実体概念および純粋な動的属性概念の表現であり、すでに英語のような屈折語における多面的な内容を持った<名詞><動詞>とは違う性格を帯びているのであり、これも一種の品詞の<転成>といえるであろう。「外来語」の<転成>のもう一つは、<意義>の転成(転化)である。この<意義>の転成にもさまざまな種類がある。最初に述べたように、この<意義>の<転成>によって成立した「外来語」が、いわゆる<和製外来語>とよばれる語群である。

(A) 先に挙げた「フロンティア」のように、原語の<意義>の上にさらに独特の意義・用法を含ませたもの。あるいはまた「何某と何某がニアミスした」という場合の「ニアミス」などのように、原語の<意義>からスライドさせて原語における場面とは異なる場面での用法を含ませたもの。

(B) 「プロポーズする」(英語の propose は結婚以外の様々な提案をする場合にも使われる)のように、原語の<意義>の一部分だけを<意義>として使用しているもの。

(C)「フォローする」や「アベック」(フランス語の avec の転)「バイク」(英語では motorcycle )「ハンドル」(英語では wheel あるいは handlebars )のように、原語とはまったく違う<意義>で使われているもの。

(D)「ナイター」「フリーター」(freeとドイツ語のArbeiterの合成語)のように外国の単語を借用して作り上げたほぼ完璧な造語となっているもの。


 (A)の語群は、われわれが実際に表現を行う際、もっとも注意深く使い方に気をつけなければならない語群である。なぜなら、(A)の語群は、(C)や(D)の語群のように、たとえ原語からかけ離れたものであってもその使用法が割と定着しているものとは違って、原語の<意義>を保持したまま、その上にさらに日本語特有の<意義>を含ませ、それが定着しつつある語群であるからである。もちろんその「定着」の度合いは個々の語によってさまざまである。先の「日本のフロンティアは日本の中にある」という表現における「フロンティア」は、「夢」や「将来」という意味が含まれているように思われるが、この用法は、たしか若者向け雑誌を中心にわりと定着しつつあったものなのかもしれない(おそらく「フロンティア・スピリット」からの転化であろう)。だが、少なくとも、まだ公の文書においては、このような用法を用いることは差し控えるべき段階であったと思われる。

 (B)の中には、よく「酒場」の意味で使われる「バー」( bar )があるが、英語では「棒」「弁護士」「牢獄」といった多様な使い方があることは周知のとおりである。

 (C)の中には、たとえば「ナイーブ」という<静詞>も挙げることができるであろう。英語の「naive」は、「愚かな、世間知らずな」といった侮蔑的な意味で使われる語であるが、日本語の「ナイーブな」は、たいてい「うぶな、純真な」といった肯定的な意味で使われることが多い。また、「リフォーム」という語も、英語の「reform」のように「改革する、改善する」といった意味で使われることは稀で、ほとんどが「住宅を増改築する」という意味で使われる(すなわち英語の「remodel」)ので、これもこの類の語といえるであろう。

 (D)の中には、「リストラ」(英語の restructuring を約めたかたち)・「アフレコ」(英語の after と recording を繋げたものを約めたかたち)のように、原語( after recording のように<和製原語>も含めて)を省略した語も含めることができる。これらの語の多くは、その成立のあり方からみてもまさに日本語特有の語であるから、その使用法も確立されており、(A)のように使用法を間違えて混乱を招くようなことは比較的少ないといえるであろう。

 ――以上見てきたように、日本語の体系に組み込まれた「外来語」の中でも、<外来語>と<和製外来語>とは区別して論じうるし、またその両者の中にもさまざまな異る性質のものがあり、それらも個々に区別して論じることが可能である。また、「外来語」の転成にも品詞の<転成>と<意義>の<転成>(転化)という2種類のあり方がある。私は、「外来語」の問題は、われわれの言語表現上の自由を守るためにも、そうしたさまざまな区別と性質を考慮した上で慎重に論じられてしかるべきであると考えている。

 

 




(注)
(1) 大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫著『日本・日本語・日本人』(二○○一年、新潮選書、一八五頁)。
(2) すでに定着した<和製外来語>でなおかつそれが原語と意義が違っていてわずらわしいというのであれば、辞書などで<和製外来語>の項目を設けて、それぞれの日本語独特の意義を明確に記しておけばよいであろう。また、しばしば、「外来語」ではなく日本語の単語を取り上げ、その古語における<意義>に関する薀蓄を述べつつ「この言葉はこういう使い方をするのが望ましい」と結論づける人を見かけるが、この手の主張にも正当な場合と眉唾の場合と二通りあるので注意が必要である。個々の単語の<意義>は、その時代において、その言語を共有する共同体の圧倒的多数の人びとの言語規範が規定しているところの<意義>が基準となるのである。たとえ過去の人びとの多数が認めた<意義>であっても、現在そうでなければ、誰もわれわれに過去の<意義>を強制することはできないのである。
(3) かつて三浦つとむは、活用の有無に関らず静的属性概念を表現する語を<静詞>と名づけ、その中の活用のある語を<形容詞>とした。上田博和氏は、活用の有無に関らず動的属性概念を表現する語を<動詞>と名づけ、その中の活用のある語を<活用動詞>(あるいは単に<動詞>)、活用のない語を<無活用動詞>とした。「運動(する)」「労働(する)」「結婚(する)」「反対(する)」「祝福(する)」「スリップ(する)」「ペイ(する)」「ドライブ(する)」「スタート(する)」「ファイル(する)」など、多くの「漢語」「外来語」が<無活用動詞>に相当する(もちろん、「はっきり(する)」「大慌て(する)」「うつらうつら(する)」などの「和語」もこれに相当する語であることはいうまでもない)。上田博和「『無活用動詞』論」(「第一回LACE研究会」所収、一九九六年)参照。
(4) 三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、一九七二年、一○四~一○五頁)
(5) 井上史雄『日本語は生き残れるか』(PHP新書、二○○一年、一四一頁)
(6) もっとも、日本のポップスに代表されるように、日本の若者が「外来語」を曖昧に使うことによって「クール」さ(かっこよさ)を表現しようとしていることはある程度は事実であろう。もしかすると役人は、そういった若者の風潮を利用して「外来語」を多用し、国家意志の間接的な・目立たない表現を企図しているのかもしれない。
(7) 韓国では、「meeting」(미팅)が日本語の「コンパ」と同じような意味で使われている。

 


(2002/3/19 脱稿)

 

2024年07月17日

言語と記号の差異について 1

○私独自の解釈︰言語と記号の差異について 1


 言語と記号の差異についての議論は、20世紀半ば以降、欧米の学者によって様々に論じられてきました。たとえばフランスの言語学者、A.マルチネは「二重分節」があるかどうかというところに、言語と記号を区別する基準を見出しました。「二重分節」というのは、たとえば「音楽(おんがく)」という単語は、最初の分節において、「音(おん)」と「楽(がく)」という二つの面を持った最小単位を弁別することが出来ます。次に、これらはさらに「お」「ん」「が」「く」というより小さな弁別的な機能を持つ単位に分けることができます。マルチネは、最初の分節における最小単位を「形態素」、第二の分節におけるこれ以上分割できない最小単位を「音素」と呼んで、このような二重の分節はすべての言語に見られるものであり、これこそが言語と記号とを区別する基準である、と主張しました。

 これに対して、三浦つとむは、日本語の現実が以上のようなマルチネの二重分節論が誤りであることを雄弁に物語っており、「二重分節」の有無が言語と記号の差異を特徴づけるものではない、と明確に反論しました。つまり、たとえば日本語の音韻「こ」には、「古」「小」「故」「濃」「庫」「湖」「個」…といったように、かなりな数の一重音節の語が存在しており、マルチネの考え方によると、これらは「言語」ではないことになってしまう、として、次のように述べています。

《……「二重分節」があろうとなかろうと、言語が音韻すなわち音の人工の種類において概念を表現していることに変りはない。それゆえ、「二重分節」の問題は語彙の数にかかわる問題で、言語と非言語との間に「明確な一線」を引く問題でも何でもない》(『言語学と記号学』p.67)(太線――原文)

 では、言語と記号の区別に関する三浦自身の考え方は、どうなっているのでしょうか? 三浦は、言語と記号はそれぞれ言語規範と記号規範を媒介とする表現である点で共通するが、言語規範が「開かれた規範」であるのに対して、記号規範が「閉された規範」である点が違う、と述べています。

《言語規範は、言語の用いられる一定の集団にあって――国家とか民族とか地方とか――それぞれ普遍的な規範として社会化されている。職業集団たとえば遊廓の遊女たちが、廓言葉を使ったとしても、それはそれなりにこの社会として普遍的な規範であり、また語彙としていろいろ特殊なものが使われてはいても、外の社会と完全に断絶しているわけではなく、文法や文章法などの規範も外の社会のそれと本質的に同じものが使われたのである。犯罪者たちの使う隠語にしても、語彙としての特殊性以上に出ていない。これに対して記号は、個人が自分の覚えに使ったり、二人の間にその場限りの暗号として使ったり、閉された規範でしかない場合が多く、同じ種類の線でも、ある地図では私鉄一般に使いある地図ではロープウェイに使うというように、ひろく社会に提供される場合でも規範はその場限りのものである。元素記号を用いて物質の構造を示すような特殊の場合を除いて、記号相互を組み合せる文法的な規範を持っていない。規範の恣意性が、個人に任せられていて、地図の作者はそれぞれの地図に「凡例」の欄を設けてその地図としての独自の記号の内容を説明すればよいのであるから、とりもなおさず個人がその場限りの辞書を自由につくれるわけである。温泉マークや寺院を示す卍の記号などは、どの地図にも共通に使われているから、言語と同じく普遍的な規範であるかに思われるが、それらを使うように強制されているのではなく、別の記号を使っても「凡例」の中で説明しておけばよいのであって、規範の恣意性が個人に任せられていることに変りはない》(『言語学と記号学』p.131~132)(太字――原文、下線は原文では傍点)

 このように、三浦は、言語と記号の差異を、それぞれの表現を媒介する規範の性質の差異に求めました。


 以上、言語と記号の差異についての三浦つとむの考え方を紹介しました。これは別に、「私独自の解釈」ではなく、三浦の著書を読む誰もが認めるであろうと思われる三浦の見解です。この見解と違う見解をお持ちの方のご投稿を募集します。


 


(2001/6/18 脱稿)

 

2024年07月28日

言語と記号の差異について 2

〇言語と記号における「場の表現」について

 


小川さんの問題提起


 以前、私は、言語と記号の差異に関する三浦つとむの見解を「言語と記号の差異について1」において紹介しました。それは、言語表現と記号表現はともに規範を媒介とする概念の表現である点で共通しているが、言語規範が「開かれた規範」であるのに対して、記号規範が「閉ざされた規範」である点が異なる、というものでした。

 ところが去年の夏、ある研究会で小川文昭さんは、この問題に関連した次のような見解を発表されていました。ここに、その見解の一部を掲載します(小川さんからの承諾は得ています)。


《3.場の表現の意義

 記号表現では、「場の表現」なしには、個別の対象を表現することができない。表現内容の個別性は「場の表現」としてしか現れない。

 言語表現では、文の場合は、主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現されるから、「場の表現」が目立たない。「場の表現」がはっきりするのは語の場合で、語順による表現は、語の「場の表現」である》(小川文昭氏「場の表現の意義」第6回LACE研究会、2002.8)

 ここには、言語と記号の差異に関するきわめて示唆に富んだ見解が示されているように思われます。たしかに、記号表現は、それだけをとってみると、記号規範に媒介された概念が表現されているだけであり、そこから全体的な「意味」を把握することは困難であるように思われます。「場の表現」を伴ってはじめて、われわれは個々の記号の個別性をも含めた全体的な「意味」を理解することが可能なのではないでしょうか。

 たとえば、「車両進入禁止」という意味の交通標識(○の中に太い横線を1本引いただけのもの)がありますが、この記号の意味は運転免許を持っている人であるならば誰でも知っていることですが、ただ現実の記号表現では、それは必ずどこか特定の場所に設置されているものです。そして、そうでないならば、この記号表現はそれ自体意味をなさないということができるでしょう。いいかえれば、記号表現は、その表現がどこか特定の場所に置かれることによってはじめてその表現が完成する、ということができるのではないでしょうか。ちなみに、「場の表現」とは、三浦によると、次のような表現のことをさします。


《……ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている場合はすくなくない。たとえば、死骸を埋めた場所に死者の持ち物や石塊や木片の十字架を置いて墓標にするとか、幼児が事故のために死んだ場所に石の地蔵を置くとか、偉人の生誕の地に銅像を立てるとか、作家が好んで遊んだ名勝の地に歌碑や句碑を立てるとかいう行為は、それらの事物自体にどんな思想が表現されているかということと直接関係なしに、それらを他の場所ではなくその場所に置くということ自体が一つの認識を示すことであり、一つの表現になっている。これらを<場の表現>とよぶことにしよう》(三浦つとむ『言語学と記号学』p.9)(太字は原文では傍点)

 もちろん、「場の表現」は、記号にだけ伴うものではありません。言語にも「場の表現」は伴う場合があります。たとえば、隊列を組むためにその基点となる人が手を挙げて「集合!」と叫ぶ際、その叫んだ人はただ単に「集合せよ」と要求しているのではなく、自分のいる場所を起点にして隊列を組め、ということも要求しています。文字言語でいうならば、トイレのドアに掛けてある「使用中」という札は、まさに目の前のその特定のトイレが「使用中」であることを示しています。これらはいずれも言語表現と「場の表現」との複合表現であるということができるでしょう。

 ここでは、上のような小川さんの問題提起をもとに、言語と記号の差異について、「場の表現」という概念を中心に論考を進めてみようと思います。



広義の「場の表現」と狭義の「場の表現」

 まずはじめに、「場の表現」の定義を明確にしておこうと思います。なぜなら、およそ表現とよばれるものは、見方によってはすべてある意味「場の表現」であるということができるからです。表現とは、表現主体が自らの認識を外部の物質的な実体に<像>として固定化したもののことをさします。ということは、表現はすべて、表現主体が或る時、或る場所で、或る物に対して為すものですから、それらはすべて広い意味で「場の表現」であるともいえるのです。たとえば、音声言語のほとんどすべては、言語規範に媒介された認識を表現していると同時に、その言語を表現しているの表現主体は今まさにそこでそうして物理的な音声を発しているところのその人ですよ、ということも表現しています。面と向って話しているのではない場合、たとえば放送で不特定多数の人間に対して音声言語を表現するときなどは、一見「場の表現」と縁がなさそうですが、これも実はよく考えてみると、その放送内容を表現しているのが放送の係りの人間であり、放送室や受付からその言語を表現している、ということを放送内容と同時に表現しています。これらは、広義の「場の表現」ということができるでしょう。

 先に紹介した三浦つとむの定義は、これら広義の「場の表現」とは異なります。それは、《…ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている場合》(三浦つとむ『言語学と記号学』、太字――川島)のことをさします。ですから、先に挙げた「集合!」の例やトイレの「使用中」の例はまさにこれに当てはまりますが、あとに挙げた広義の「場の表現」の例はこれに当てはまりません。この三浦のいう意味での「場の表現」、つまりある事物をある特定の場所に置くということそれ自体が「目的的な行為」となっており、その結果として表現された「場の表現」は、狭義の「場の表現」ということができると思います。ここでは、この狭義の「場の表現」について、考えてみようと思います。以下、特に断り書きのないかぎり、「場の表現」とは、このような狭義の「場の表現」をさすものとします。

言語と記号における「場の表現」

 記号の多くは、先の交通標識の例のように、「場の表現」を伴っているといえます。酒や清涼飲料水の商標は瓶やペットボトルに貼りついており、その中の物がそれら特定の企業の商品であることを示しています。また、地図や図表の中で使われる諸記号も目的的な「場の表現」といえるでしょう。郵便局やお寺や神社を示す記号は決して図の中のどこでもよい場所に記されているのではなく、それらはある特定の図の中においてそれらが占めるべき場所に記されています。つまりそれらの記号は、現実の空間的配置の近似的な反映として地図の中のしかるべき場所に配置されているのです。

 「場の表現」を伴っていない記号としては、数式における記号や化学の構造式における記号を挙げることができるでしょう。これらは、他の諸記号のように、その場所にあること自体がある特定の対象を指し示すことになっているわけではありません。ですから、これらは数少ない例外であるということができます。けれども、ほとんどの記号が「場の表現」を伴っているという事実に変りはありません。

 言語においても、先の「集合!」やトイレの「使用中」の例のように「場の表現」を兼ね備えているものはたくさんあります。教室で教師が出席をとる際に、呼ばれた生徒が発する「はい」という表現は、主体的表現に属する<応答詞>の表現ですが、これも個々の生徒がそのときその場所で(教室内というある限られた場所で)表現することそれ自体が、「今日私は出席しています」というある特定の認識を表現することになっており、「場の表現」の性質を備えています。けれども、その他多くの言語表現は、そのときその場で表現することそれ自体が目的的な行為となっているというようなものではなく、先に説明したようなたんなる広義の「場の表現」であることが多いものと考えられます。その原因は、言語では、文法体系が高度に発達しており、個別の対象でも<代名詞>を使ったり、主体的表現と客体的表現を組み合せて表現することによって、比較的容易に表すことができるからだと思います。言語は、表現主体の思惟の働きをそのまま近似的に表現することが可能なので、個別の対象を表すのに対象そのものに密着して表現する必然性がないのです。ですから、言語においては、「場の表現」を伴うものより、むしろ「場の表現」を伴わない表現の方が多いのです。

 もっとも、より巨視的な立場からいうならば、記号は、言語のように必ず継時的に読まなければならないわけではなく、ぱっと見てすぐに理解できるものが多いので、てっとり早くある特定の事物や事柄の性質が何であるかを受け手にひと目で理解させるためにきわめて便利な表現だから、その表現が個別の対象と密着したかたちで表現されることが比較的多いのだ、ということができましょう。

 以上のことから言えることは、記号においては、ほとんどの場合「場の表現」が伴っているのに対して、言語においては、「場の表現」の伴わない表現が比較的多い、ということがいえるでしょう。小川さんの指摘されたように、これも、言語と記号の境界線を分つ重要な要素ということができます。


言語と記号における主体的表現・客体的表現

 ここで私は、小川さんにひとつお聞きしたいことがあります。先に引用した小川さんの記述の中に、《言語表現では、文の場合は、主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現されるから、「場の表現」が目立たない》とありましたが、《主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される》とは、いったいどのようなことを言い表しているのでしょうか? 具体的な例を出して説明していただけないでしょうか? 

 私は、言語において認識の個別的な側面が比較的容易に理解できる理由は、言語が特定の事物や事象を<代名詞>を用いて表現できることが大きいと考えています。また、言語においては、受け手が個別の言語の背後に存在する――時枝誠記いうところの――「場面」(注1)を理解することによって、言語によって表現される抽象的な概念の個別性を正確に理解する道が開かれているとも考えます。たとえば、同じ部屋の中にいるAさんがBさんに「万年筆とってもらえます?」と言う場合、Bさんは同じ部屋の中にいるAさんが自分に対してそういうお願いをするのだから、必ず自分の近くにある特定の万年筆があるはずだ、とAさんの立場に立って推測をめぐらせるでしょうし、また多くの場合、表現主体であるAさんもBさんの近くにある特定の万年筆が存在することを確認してから表現することにもなるでしょう。このように、言語においては、<代名詞>の存在や、受け手が言語の「場面」を逆推することによって、対象の個別性を理解する道が大きく開かれている、ということができると思います。また、先に少し述べたように、言語においては、表現主体の思惟の働きを、対象・判断・意志・感情も含めてすべてを総合的に近似的な反映として表現することができる、ということも言語が個別性の表現に適していることの一因になっていると思います。

 もっとも、受け手が言語の「場面」を理解できることの背景には、言語が主体的表現と客体的表現とを統一して表現することができるということがあるので、その意味で対象の個別性を理解する上で主体的表現が大きな役割を果している、ということはたしかに言えるでしょう。また、小川さんの問題提起から私がここで認識を新たにしたことは、記号それ自体では主体的表現をすることができず、それはつねに客体的表現しか表現することができない、ということです。先の交通標識の例でいうならば、この記号それ自体は、「車両進入禁止」という客体の反映としての認識しか表現することができず、表現主体の「意図」や「判断」も含まれた総合的な認識は表現することができません。小川さんのいうように、記号では、そうした総合的な認識の表現は、記号をある特定の場所に置くことによって、すなわちそれが「場の表現」と融合することによって、初めて可能になるのだと思います。たとえば、「車両進入禁止」という記号は、ある特定の物質的な媒材に付着して、どこかある特定の場所、すなわちある具体的な道の入り口に置かれることによって、初めて受け手は表現主体の全体的な認識、すなわち「ここから先は車両進入禁止ですよ」という認識を理解することができる、ということができるでしょう。

 以上のことから、言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号それ自体としては客体的表現しか表現することができない、記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには「場の表現」と融合しなければならない、ということができるでしょう。これも、言語と記号を分つ重要な指標の一つであるといえましょう。

まとめ

 以上のことをまとめると、次のようになります。
1.記号においては、数式や化学の構造式のような数少ない例外を除いて、ほとんどの場合「場の表現」を伴うが、言語においては、「場の表現」を伴わない場合が比較的多い。
2.言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号はそれ自体としては客体的表現しか表現することができない、記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには、「場の表現」と融合しなければならない。

 これに、「言語と記号の差異について1」で私が紹介した三浦の見解である、

3.言語規範は「開かれた規範」であるのに対して、記号は「閉ざされた規範」である。
という説を加えると、ほぼ言語と記号の差異に関する説は言い尽したことになるのではないでしょうか。

 ――ちなみに、いうまでもないことですが、上の「1」「2」は、どちらも小川さんの見解を私なりに表現したものです。小論は、小川さんの問題提起に基いて、それを私なりに敷衍して論を展開したものです。よろしければ、小論に対する小川さんのご意見をうかがいたく思います。もちろん、その他一般の方でも、何かご意見・ご感想等ありましたら、投稿を歓迎いたします。

【注1】 時枝誠記は、主著『国語学原論』において、言語が現実に表現されるためには、必ず「主体」「場面」「素材」の三要素が存在しなければならない、と主張しています。その理由は、言語は、《誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)かについて語ることによつて成立するものである》(p.40)からです。時枝は「場面」について、次のように説明しています。

《……場面の意味は、例へば、「場面が変る」「不愉快な場面」「感激的場面」などと使用される様に、一方それは場所の概念と相通ずるものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的なものであるのに対して、場面は場所を充す処の内容をも含めるものである。この様にして、場面は又場所を満たす事物情景と相通ずるものであるが、場面は、同時に、これら事物情景に志向する主体の態度、気分、感情をも含むものである。(中略)……我々は、常に何等かの場面に於いて生きてゐるといふことが出来るのである。例へば、車馬の往来の劇しい道路を歩いてゐる時は、我々はこれらの客観的世界と、それに対する或る緊張と興奮との融合した世界即ちこの様な場面の中に我々は歩行して居るのである。従つて我々の言語的表現行為は、常に何等かの場面に於いて行為されるものと考へなくてはならない。言語に於ける最も具体的な場面は聴手であつて、我々は聴手に対して、常に何等かの主体的感情、例へば気安い感じ、煙たい感じ、軽蔑したい感じ等を以て相対し、それらの場面に於いて言語を行為するのである。しかしながら、場面は只単に聴手にのみその内容が限定せらるべきものではなくして、聴手をも含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるものを含むものである。例へば、我々が厳粛な席上で一人の友人と相対する時と、他の打寛いだ席上で相対する時とは、聴手は同じでも、言語的場面としては著しく相違してゐると考へなければならない。以上の様に、場面は必ず主体の存在を俟つて始めて成立するものであつて、主体を離れて言語の場面を考へることが出来ないと同時に、場面が言語にとつて、不可欠のものであることは、言語が常に我々の何等かの意識状態の下に表現せられるものであることによつても明かである》(時枝誠記『国語学原論』p.43~45)

 三浦つとむが「場の表現」というときの「場」とは、その表現が行われるある特定の地点・場所をさしますが、時枝のいう「場面」は、このように、その表現が行われるある特定の場所の意味のほかに、その場所にいる人や事物や景色なども含み、またそれらに対する表現主体の抱く観念的なあり方をも含むものです。私たちは、このような表現主体の「場面」を追体験することによって、個々の表現の意図の全体像を理解するという作業を普段から無意識のうちに行っているといえるでしょう。



 


(2002/3/13 脱稿)

 

2024年07月28日

言語と記号の差異について 3

〇小川文昭さんより(2002/3/21)

 


川島 正平 様

 今回は、わたくしの「場の表現」論を取りあげてくださり、ありがとうございます。おかげでわたくしも、半年以上眠らせてきた問題を、あらためて考えなおすことができました。

 「場の表現」の全貌はまだつかめませんが、考えていることをまとめてみました。また御意見をうかがえればありがたく思います。

 川島さんから、「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」とはどのようなことかという問いかけをいただきました。

 これは、具体的な問題としては、日記に「快晴」と書くのと「○」の記号を書くのとはどう違うのかということがはじまりです。実際には、どちらでも同じことなのですが、理論的には違いが説明できなければならないと思い、話はすぐに、言語と記号の区別の問題に飛躍しました。

 「快晴」と「○」の違いは、言語と記号の違いであり、その違いとは、零記号の主体的表現(判断辞)の有無だけではなかろうか、だとすれば、主体的表現の有無が意味するところのものは何か、ということを考えた結果、先の「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」ところに違いがあるのであろうということになりました。具体的には、下に引用した時枝誠記の詞辭論の、わたくし流の解釈です。

 そもそも、対象の普遍性を把握・表現する点では、言語と記号は同じです。

 しかし、言語は「普遍性を把握している個別」である話し手の認識が、対象の普遍性を把握したものでありながら、それ自体は話し手個人の個別の概念であるものとして、そのまま表現されるということです。

 この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透しているのですが、辭は、はじめから話し手の個別に属する表現として特殊です。

 記号には、言語の辭に相当する表現がありません。しかし、記号表現も個別の表現であるわけで、言語の辭に相当する内容がどこかにあるはずです。

 それは、記号表現自体に潜在的にあるのだと思います。記号表現の、それが特定の個人により作りだされたものであるという側面に、個別性は結びついているのだと思います。

 「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」のではあるが、しかしだからといって、「記号では、認識の個別的側面が個別性として表現されない」のではないかと考えたのは、いきすぎでした。

 記号表現における「認識の個別性」の表現は潜在的なものにとどまっていて、その記号表現が特定の個人が作り出した個別の形であるという側面は、「認識の個別性」が結びついている、しかし、具体的な内容としては「認識の個別性」の表現は、記号表現そのものには存在しない、こういうことではないかと思います。

 そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います。

 結論としては、言語と記号との区別は、記号規範においては、潜在的であるにすぎない・認識の個別性の表現が、言語規範においては、詞辭の表現構造として顕在的なものとなっているということではないかと思います。

 次に、時枝誠記『國語學原論』から、辭は、話し手の認識の個別性の表現であるということに関連する部分をいくつか引用します。

 《言語が、特定個物を、一般化して表現する過程であるといふことは、言語の本質的な性格である。こゝに於いて、一般的表現を以て如何にして特定個物を表現することが出来るかの表現法の問題と、一般的表現より、如何にして特定の個物を認知し得るかの理解上の問題が起つて来る》(88頁)

 《言語は如何なる場合に於いても一般的、概念的表現しか爲すことが出来ない。たとへ特定の現場或は文脈に於いても、「今、子供が死にました」といふ様な切實な表現すらが、概念的一般的表現に過ぎない。聽手が話手の氣持に同情の念を起こすことが出来るのは、これらの一々の語が、特定の意味に限定されてゐる爲でなく、かゝる一般的概念的表現を通して、話手の具體的な感情を理解するからである。理解は、現場や文脈によるのであつて、これらの語自身が限定されてゐる爲ではない》(89頁)

 《辭によつて表現される處のものは、主體的なものの直接的表現であるから、それは表現主體の主觀に属する判斷、情緒、欲求等に限られてゐる。即ち話手の意識に關することだけしか表現し得ないのである。例へば、「嬉し」といふ詞は、主觀的な情緒に關するものであるが、それが概念過程を經た表現であるが故に「彼は<嬉し>」といふ風に第三者のことに關しても表現することが出来る。處が推量辭の「む」は、「花咲か<む>」といふ風に、言語主體の推量は表現出来ても、第三者の推量は表し得ない。「彼行か<む>」といつても、推量してゐるものは「彼」ではなくして、言語主體である「我」なのである》(<*>は原文では傍線)(234~235頁)

 《詞は「山」「川」「犬」「馬」「喜び」「悲しみ」等の様に、客觀的なるもの、主觀的なるものの一切を客體化して表現するのであるが、それのみを以てしては思想内容の一面しか表現し得ない。これに對して、辭は、これ亦主體的なものしか表現出来ないのであつて、具體的な思想は常に主客の合一した世界であるから、詞辭の結合によつて始めて具體的な思想を表現することが出来るのである》(238~239頁)



 時枝は辭を概念の表現とは考えませんでした。しかし、三浦つとむの、それを概念の表現と考える立場からいっても、上に引用した、時枝がいう辭の内容の特徴については、大きな異論はないのではないかと思います。

 三浦つとむの考え方によれば、辭も、概念の・規範を媒介にした表現であって、「概念的一般的」な表現の一種になるはずです。

 しかし、話し手の認識の個別性が「概念的一般的」にとらえかえされるとはいえ、それが「話し手の認識の個別性の表現」であることがはじめから決っているのが、辭の特徴です。

 つまり、辭も、詞と同様に記号的な性質を持つものではあるが、辭は、話し手の認識の個別性のみの表現という条件をはじめからせおって規範化された表現であるということがいえます。

 それから、川島さんによる「場の表現」の「広義」と「狭義」の区別を読み、言語がすべて広義の「場の表現」であるということは、重要な把握であると思いました。

 たとえば、英語では、助けを求める「Help ! 」のような文に「主語」は要りません。言語表現がすべて広義の「場の表現」であることを、英語では、このような場合に利用することができるということができると思います。

 また、「賛成!」と声をあげるだけで、その発言者が「賛成」なのだと想像できるのですから、日本語のように、話し手が、自分自身の動作について「主語」を表現しなくとも許されるというのは、それなりに合理的だということになります。

 さらに、わたくしが考えたのは、滝村隆一の真似ですが、<表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>の区別です。

 交通標識の「場の表現」のようなものは<表現―即―「場の表現」>ですが、わたくしが、文の中の語順は、語から見れば「場の表現」であるといったのは、<表現―内―「場の表現」>です。

 また、数式や記号でも、分数のように、横線の上下に数字を書くのは<表現―内―「場の表現」>を含んだ表現であり、化学のベンゼン基の構造式も、六角形に記号を結びつけて書きますから、ここにも<表現―内―「場の表現」>があると思います。



〇筆者の応答(2002/3/26)


私の質問の意図

 小川さん、久ぶりのご投稿、ありがとうございます。私の拙い問いかけに丁寧に答えてくださり、恐縮です。実は私自身、「言語と記号の差異について 2」で行なった小川さんに対する問いかけの仕方があまり適切でなかったのではないか、とあとで少々後悔しておりました。あの問いかけでは、私の意図するところを理解するのは難しいのではないかと自分でも感じたのです。ですから、私の問いかけの意図をまず最初に確認しておこうと思います。



《…「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」とは、いったいどのようなことを言い表しているのでしょうか》(「言語と記号の差異について 2」)という私の問いかけは、そもそも言語表現においては、主体的表現だけでなく、表現全体に個別性が一般性とともに浸透している、という言語本質論上の認識が前提として私の中にあったからです。ですから、主体的表現のみが個別性を表現している、とも取れる小川さんの言葉に対して、少し違和感を感じたのです(もちろん、ああいった短いレジュメなので仕方ないと思いますが)。そこで、あの問いかけが出てきたというわけです。けれども、今回の小川さんのご投稿の中の《この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透している…》というくだりを読んで、小川さんも基本的には私と同じ認識を持っておられることがよく分りました。



言語における一般性と個別性

 言語学の領域における時枝理論・三浦理論のおもな功績のひとつに、「言語の普遍性」を追究することに偏った構造言語学の過ちから脱して、言語の普遍性・個別性を統一して理解しようとしたという側面を挙げることができると思います。一般の人にも分りやすく言いますと、つまり、時枝理論・三浦理論には、構造言語学の陥った過ち、すなわち「言語に関わる領域においては、個別的なもの・個物にかかずらっていては、言語の普遍性に到達することができない。それでは、言語学はいつまでたっても科学となることはできない…」といった謬見を一撃のもとに打ち砕いて、新しい理論的なモデルを打ち出したという実績があります。それはどういうことかと言いますと、時枝理論・三浦理論は、具体的・個別的な表現行為そのものを論理的・過程的に分析しているのです。つまり彼らは、言語表現行為・言語理解行為を本質的に個別的な行為でしかありえない行為としてとらえ、そうしてその個別的な行為そのものの普遍性を分析・追究すべきことを主張して、これらの行為の背後に存在する過程的構造を理論的に取り上げたのです。その結果、――もちろん、理論の細部においては時枝と三浦はその見解を異にしていますが――、言語には表現主体の認識の一般性と個別性が統一して表現されていることを正しく喝破しえたのです。



言語と記号における主体的表現の特質


 さて、言語と記号はともに表現の一種ですから、両者ともに主体的表現と客体的表現とを併せ持っていることは自明でしょう。言語における主体的表現の特質は、小川さんのおっしゃるとおりだと思います。



《そもそも、対象の普遍性を把握・表現する点では、言語と記号は同じです。

 しかし、言語は「普遍性を把握している個別」である話し手の認識が、対象の普遍性を把握したものでありながら、それ自体は話し手個人の個別の概念であるものとして、そのまま表現されるということです。

 この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透しているのですが、辭は、はじめから話し手の個別に属する表現として特殊です

《 時枝は辭を概念の表現とは考えませんでした。しかし、三浦つとむの、それを概念の表現と考える立場からいっても、上に引用した、時枝がいう辭の内容の特徴については、大きな異論はないのではないかと思います。

 三浦つとむの考え方によれば、辭も、概念の・規範を媒介にした表現であって、「概念的一般的」な表現の一種になるはずです。

 しかし、話し手の認識の個別性が「概念的一般的」にとらえかえされるとはいえ、それが「話し手の認識の個別性の表現」であることがはじめから決っているのが、辭の特徴です

 つまり、辭も、詞と同様に記号的な性質を持つものではあるが、辭は、話し手の認識の個別性のみの表現という条件をはじめからせおって規範化された表現であるということがいえます》(太字――川島)

 このような、辭、すなわち言語における主体的表現が個別性のみを表現するものであるという小川さんのご指摘は、私もそのとおりだと思います。言語における主体的表現は、表現主体の判斷・意志・感情など能動的な・個別的な認識を概念として表現したものです。

 問題は、記号における主体的表現はどのように表現されるかということです。小川さんは、次のように述べておられます。

《 記号には、言語の辭に相当する表現がありません。しかし、記号表現も個別の表現であるわけで、言語の辭に相当する内容がどこかにあるはずです。

 それは、記号表現自体に潜在的にあるのだと思います。記号表現の、それが特定の個人により作りだされたものであるという側面に、個別性は結びついているのだと思います。(中略)

 記号表現における「認識の個別性」の表現は潜在的なものにとどまっていて、その記号表現が特定の個人が作り出した個別の形であるという側面は、「認識の個別性」が結びついている、しかし、具体的、具体的な内容としては「認識の個別性」の表現は、記号表現そのものには存在しない、こういうことではないかと思います。

 そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います》(太字――川島)

 非常に分りやすい、明快なご説明で、ようやくこれで小川さんのお考えの全体像を把握することができました。私はもともと、記号表現は、――それがたとえ言語と同じように規範の媒介を受けた概念の表現であるにしろ――、絵画や彫刻や音楽などと同じように、主体的表現と客体的表現が未分離の・両者が融合した表現ではないか、と考えていたのですが、上の小川さんの解釈もだいたいそれと同じことを言い表しているのではないかと思います。ようするに、記号には、主体的表現も客体的表現とともに内在しているが、主体的表現そのものが表面化してはいない、と。さらに小川さんは、記号においては、「場の表現」が、主体的表現が顕在化する形である、と主張されておられます。これは、卓見だと思います。

 記号は多くの場合、「場の表現」を伴っていますが、これによって受け手は、記号における主体的表現を顕在的なかたちで容易に追体験することが可能となっています。これはなぜなのかというと、やはり、記号は、言語(とくに実用的表現)と同じように、伝達の手段として、あるいはコミュニケーションの手段として、利用されることが多いので、概念のほかに、受け手に強く訴えかける面が現実的に必要とされているためでしょう。そして、小川さんのおっしゃるとおり、この記号における「場の表現」は、言語における辭に相当するものなのではないかと思います。

 ――小川さんは、以上のような解釈を、《下に引用した時枝誠記の詞辭論の、わたくし流の解釈です》と述べておられますが、少なくとも、記号における「場の表現」が言語における辭(主体的表現)に相当する役割を果しているのではないか、ということを指摘したのは、小川さんがはじめてだと思います。私も、非常に勉強になりました。



<表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>


 <表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>という区別も、小川さんの独創に属する・優れた見解だと思います。<表現―内―「場の表現」>には、ほかに、言語における記号表現の浸透の一形態である句読法も含めることができると思います。こうしてみると、実際、記号はすべて「場の表現」を伴っているということがいえるのではないかと思います。

 ――今回も、小川さんのご投稿から、いろいろと学ばせていただくことができました。今後とも、よろしくお願いいたします。


おたより、ありがとうございました。


 


(2002/3/26 脱稿)

 

2024年07月28日