時枝誠記における「対象の展開」論 4
時枝誠記の言語本質観と伝達過程論
時枝誠記が伝達過程論において模写論を排して主体の「意味作用」を重視する機能主義を採用するに至った経緯について、これから見ていこうと思うのですが、その前に、そもそも時枝誠記がどのような言語本質観を持っていたのか、ということについて簡単に振り返っておこうと思います。
時枝は1924年に書き上げた卒業論文のなかで、すでに言語を絵画や音楽などと同じく表現活動のひとつとしてとらえ、《思想を音に表はし、文字に表はす、その手段こそ言語の本質といふべきではなからうか。言語学の対象は、実にその
process を研究すべきものではなからうか。(中略)言語学者が音声を取扱ふのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表はさるる
process である》(1)と述べています。時枝にとって言語とは、ソシュール言語学におけるラングのような、静的な対象ではなく、表現や理解の過程を重視するところの動的な対象でした。
また、1933年発表の「国語学の体系についての卑見」(2)という論文のなかで、時枝は次のように述べています。
《菊沢氏は、言語をその要素−−音声と意義−−に分析して、研究の根本とされようとします。それも一の見方であり、一の方法でありませう。併し私には、言語が一の表現活動であり、理解活動であるといふ本質観が先づ頭にこびりついて居るのを感ずるのであります。此の本質観は私に音声意義といふ言語の二面観をとらせることを躊躇させます。言語はさういふ出来上つた「もの」でなく、「こと」でありませう。宛も「波」が風と水との合成になる「もの」でなく、水が風によつて起される一の「こと」である様に、言語は、文字や音声と意義とに分析せられる「もの」でなく、文字や音声と意義とを連鎖する一の表現理解の活動であり、「こと」でありませう。かう一言に簡単に決めてしまふことは恐らく随分問題がありませう。金田一氏の国語音韻論第二節言語と国語の条を見ても私の考は誤の様に思はれます。併し私の理解の不敏な為か、私には言語を一の「もの」と見ることが納得出来ない不安があるのであります。金田一氏の説に従へば、「こと」としての言語には歴史がない単なる繰返しの活動の様に説かれてあります。併し「こと」としての言語ははたしてさう云ふものでありませうか。A
といふ観念が a といふ音に結び付く此の言語の表現の働は、常に同一なる「こと」と考へられませうか。a といふ音に結び付くと云ふ概念は、常に動いて居るとは見られないでせうか。従つてその「こと」としての言語は異らねばなりますまい。宛も大洋の波が風の強弱により、波長を異にし高低を異にし変化して居ると同様でせう。波そのものとしては同じであらうとも波の運動としては相違して居ると思ひます。言語が一の「もの」と見える場合にも、それは依然として一の「こと」であると私には思はれます》(時枝誠記「国語学の体系についての卑見」。太字は引用者)
《そこで問題は国語学の研究部門の展開は、国語の中から音声や意義を分析して一の研究部門を立てることでなくて、音声や意義が言語の中に占むべき位置を明にし決定することに寧ろ存するのではないでせうか。言語を観察するに当つて、我々が公理として認めてよい只一つのものは、それが表現理解の一形態であると云ふこと以外には私には考へ得られないと思ひます。言語を音声と意義とに分析して考へることは、宛も「波」を水と風とに分析して考へる様なもので、遂にそれは「波」の本質的考察を逸脱するのではないかと云ふ不安が私には付き纏ふのであります。(中略)国語研究の私の方法は、国語に現はれた諸現象を大小となく拾ひ集めて、それを表現理解の働と云ふ言語の本質観を枢軸に置いて、考へて見ようといふのが、私の今持ち合はせて居る国語研究のプランであります》(同上)
《私が言語を経験し得るのは、私一個の日常生活に於ける表現理解の精神的活動それ以外にはないと思ひます。私は此の第一経験を先づ大切に持つて居なければならないと思ひます。そこが国語研究の出発点だと思ひます》(同上)
つまり、「こと」としての言語を見た場合、ひとつひとつの物質的な音という表現の背後の「概念」は、《常に動いて居る》、ひとつひとつ違っている、このような言語本質観を《国語研究の出発点》としたい、と時枝は述べているのです。いいかえれば、ひとつひとつの言語表現の背後の概念は異なっている、このことを合法則的に説明しうる言語理論を構築しなければならない、ということです。さらに分かりやすくいうと、合法則的な伝達過程論をそのうちに含むところの、言語本質論を構築しなければならない、ともいえるでしょう。この「合法則的な伝達過程論」というのは、いいかえると言語表現(および言語理解)の過程的構造についての理論ということになります。
これまで一般的に理解されてきた時枝の伝達過程論(それはおもに『原論』に拠るものです)は、はじめに具体的事物あるいは表象が「第一次過程」において概念化され、「第二次過程」においてそれに「聴覚映像」が連合し、「第3次過程」において音声が、「第四次過程」において文字が表出される、というものです。すでに述べたように、この図式には三浦つとむいうところの言語規範、ソシュールいうところのラングに該当するものが含まれていないので、言語のもつ社会的な性格をうまく説明できていません。時枝はそこで、言語の表現過程については表現主体による「概念作用或は意味作用」(3)という概念や、理解過程については表現主体による「受容的整序の能力」(4)という概念を導入して、機能主義的な解決を与えています。時枝はラング的なものを伝達過程論に含めると言語の過程的構造を重視する自らの言語理論が破綻してしまうと考えていたようですが、実際は三浦つとむのように、観念的に対象化された意志のひとつの形態である言語規範を表現主体が独自の意志をもって運用することにより、対象から認識、認識から表現(5)へと言語表現における一貫した反映関係が成立するものとしてとらえるべきだったのです。
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(1)時枝誠記『国語学への道』(三省堂、1957年)29頁。
(2)時枝誠記「国語学の体系についての卑見」(『コトバ』1933年12月)。
(3)時枝誠記『国語学原論』55頁および418頁。
(4)『国語学原論』78頁。
(5)この部分、「認識から対象」となっていたものを「認識から表現」へと訂正しました(2020/10/14)。
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「心的過程としての言語本質観」と『原論』の間のギャップ
「心的過程としての言語本質観」は『国語学原論』より4年6ヶ月も前に発表された論文ですが、この論文における伝達過程論は、言語規範についての認識論的な理解はないけれども、すでに見たように、具体的事物や表象から概念への発展過程を「過程的区別」ととらえ、表現過程における概念の変化という現象をも射程に収めたところの、優れた反映論的伝達過程論でした。ここでは時枝はまだ、「概念作用」や「意味作用」という用語は使っておらず、また表象や概念などを言語の内容的なものとして認めています。そうして、意味の理解においては、対象や表象の展開過程の考察が重要であると述べていました。これは、言語理論における正しい反映論的アプローチに限りなく近づいているといえるでしょう。
ところが、それからわずか4年6ヶ月後の『国語学原論』において、時枝は《意味は事物に対する主体的な把握の仕方と考へることによつてその本質を理解することが出来るのである》(1)と大胆な機能主義を導入し、かつ《言語は宛も思想を導く水道管の様に考へられ、全く無内容な形式のみのものと理解される》(2)とされ、表象や概念が内容的なものから外されてしまっています。
《…表象や概念が心的内容であるからとて、言語の内部的要素と見ることは出来ないのであつて、言語主体から見ればやはりこれに対立した外のものと考へなくてはならない》(3)
《…意味を言語の外形である音声に対応する内容として、表象的なものと考へるのは、言語構成観による意味の考方であつて、「言語(ラング)」に於ける語の意味が、「言(パロル)」に於いて限定されるといふ考方もそこから出て来るのであるが、それでは、具体的な言語に於ける忌詞、比喩或は皮肉な語の使用法といふ様なものを説明することが出来ない》(4)
時枝はなぜ、表象や概念を言語の内容として認めることができなくなってしまったのでしょう。どうやらそういう考え方は、ソシュール的な「言語構成観」的な考え方であると理解しているようですが、本当にそうなのでしょうか。上の時枝の説明を読むかぎり、観念的な存在と物質的な存在の区別をはっきりとしていないように思われます。私は三浦つとむの理論を支持する者ですが、その立場からいうと、たしかに概念は意味を形成する実体的な存在といえますが、それは表現過程においては一回一回言語規範の媒介をうけ、ひとつひとつの概念はすべて異なる過程的構造を担っています。このような過程的構造を担う概念が物質的な音声や文字などの超感性的な側面に関係づけられたときに、言語の意味は成立します。物質的な表現における「関係」が意味なのですから、観念的な表象や概念を言語の内容として認めてもなんら問題はないということになります。それらは表現において止揚されているのです。忌詞や比喩表現の背後には、目に見えないけれども、概念や表象の移行に関する複雑な過程的構造が隠れているというわけです。
これから、「心的過程としての言語本質観」から『原論』に至るまでの、時枝における言語本質観や伝達過程論上の考え方の推移について、具体的に見ていこうと思います。
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(1)『国語学原論』420頁(太字は引用者)。
(2)『国語学原論』53頁。
(3)『国語学原論』52頁。
(4)『国語学原論』420頁。
(続く)
(2020/9/9 脱稿 2025/9/24 gooブログより転載)