三浦つとむの言語理論、その形成過程について 12

1951年2月 「なぜ表現論が確立しないか」(『文学』2月号)


 1950年9月30日に東大で行われたスターリン言語学に関するシンポジウムで発表をおこなった(1)三浦は、その報告の内容が岩波書店の『文学』(1951年2月号)に掲載されることになったので、当日の報告内容にとらわれることなく、「この際云うべきことを云おうと考えて」、論文を仕上げます(2)。シンポジウムの報告要旨(「スターリンの見解と私の見解とはどこがちがうか」)の内容がわりと控えめなスターリン批判であったことを考えると、シンポジウムの終了を機に、三浦は学者としての覚悟を決め、スターリンに遠慮せず、いいたいことを言う決心をしたようです。三浦はこの論文で、身ぶり言語を言語から除外し、言語を「用具」と規定し言語「材料」説を展開したスターリンを容赦なく批判しています。言語について論じるのであれば、まず表現一般について論じてそれから言語表現の特殊性について論じるべきだ、言語「材料」説やモンタージュ論は化学史におけるフロギストン説と本質的に同じ位置を占めるものである、と。そうして、スターリンの論文さえ理解すればマルクス・エンゲルス・レーニンの成果は全部わがものになるという考えはマルクス主義の発展を阻害するものであるとして、ここからマルクスの文献を紹介しつつ、観念的な自己分裂の理論の説明に入ります。

《 「ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである。」
一言一句冷静に検討するなら、マルクスはここで人間の認識の根本的なありかた、実践の論理の一端をのべていることが、おぼろげながらもつかめるだろうと思う。認識はあたかも鏡のような作用をしている。客観的な実在のすがたを写しとる、これがすなわち反映論であり、この立場がマルクス主義の認識論である -と、哲学者はオームのようにしゃべり立てた。こういうお説教をよむと、わきの下から冷汗が流れる思いである。何がマルクス主義なものか。そんな反映論なら、大昔からある俗流唯物論とすこしもちがっていないではないか。マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格を認めるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があることを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。これこそが生きた現実の人間の認識論なのである。対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば人間の観念を映し出すもの(表現)もある。「他の人間という鏡に自分を映す」事実を正しくつかまなければ、人間が自己を識る認識、すなわち主体的自覚についての正しい理論は出てこない。(中略)話をわかりやすくするために、普通のガラス製の鏡を例にとろう。顔を近づければ、その上に顔がうつる。これは映像であって、鏡のなかに顔があるわけではない。だが、われわれは、そこに顔があるもの、自分自身がいるもの、と考えることもできるし、現にそう考えている。自分はほかの人間(たとえば恋人)から見てどう見えるだろう、などと考えながら鏡に向うのは、誰でもやっていることである。鏡は、ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めることを可能ならしめる、そういった性質の道具である。鏡のなかに自分がいると考えても、鏡のそとの自分が現実に自分であることにはかわりはない。しかし自分自身の像を現実の自分であるかのように考えている以上、観念的には、現実の自分に現実の自分としての資格を持たせたままそれから分離して、恋人その他の立場に移行していることになる。このように、現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである》(三浦つとむ「なぜ表現論が確立しないか」【『文学』1951年2月 】傍線は原文では傍点)

 三浦はここで引用したマルクスの言葉および「人間は意識のなかで理知的に自分自身を二重化する」(『経済学・哲学草稿』)という言葉のなかに、人間の認識の根本的なありかたの一端をみます。ここから三浦は、人間が現実的な自己の立場から観念的に分裂して他者の立場に移行して、それからふたたび現実的な自己の立場に復帰してくることを、唯物論的な認識論として説明します。認識と対象との交互関係のなかで認識が発展し、拡大し、ついには観念的な自己が現実的な自己から分裂し、成立します。さらに観念的な自己が分裂をくり返すうちに、現実的な自己と観念的な自己との間に交互関係が定着し、人間の認識の爆発的な発展が可能となるというわけです。観念的な自己分裂という現象は、人間の認識にとって本質的なものであると三浦はいいます。ここで注意深く思い出さなければならないのは、認識はあくまでも精神であり、精神は脳細胞の働きであるとした三浦の認識です。ようするに、「自己分裂」するといってもあくまでもそれは観念的にの話なので、この原則を忘れるとすぐに観念論に堕してしまうので注意しなければならない、というわけです。


 つぎに三浦は、時枝誠記が「自分自身の二重化の問題」について語った箇所を『国語学原論』から引用します。具体的には、「表現の主体」と「客体化された主体」の区別の必要性を説いた箇所です(3)。これについて、三浦は次のように論評します。

《 時枝氏は、言語における「主体の客体化」を、自画像を描く場合と本質的に一致するものと見た。自画像を描く場合、われわれはどういう方法をとるだろうか? 鏡にむかってそこに映った自分のすがたを描きとるのである! 鏡のなかの自分を「もはや主体の外に置かれたもの」として扱うのである。前に説明したように、これを描いているのは「自画像を描く画家彼自身である」が、それと同時に、観念的には彼自身でなく、傍観者としての他人の立場に移行しているのである。時枝氏は表現の主体が客体化された主体と区別されなければならないことを「極めて重要」であると力説し、またこの主体が同時に現実の話し手自身であることをも認めているが、客体化された主体に対する表現の主体が、観念的な自分自身の二重化であることを論理的に明白に打ちだしてはいない。この二重化が確固として把握されれば、表現の主体は現実の主体の場合もあり、また観念的な主体にもなり、観念的な主体としてさらに無限に変化し(小説や戯曲の文章や会話のように、作者は登場する各人物それぞれの主体につぎからつぎへと移行していく)、ひとつの文のなかにおいてさえ主体が観念的に移行しあうことも、理論的にハッキリと示すことができたはずである。「主体の客体化」という言葉だけをながめると、観念論のようにみえるからわからずやの非難をうけやすいし、またここで誤ると観念論に顛落することにもなるのだが、何をのべてあるかを理解してそれを正しく仕上げることが必要なので、表現の主体を客体化された主体と区別したこと、言語理論にこのような主体の概念を導入し「展開の重要な基礎」としたことは、時枝言語学の功績の一つである》(同上。傍線は原文では傍点)

  時枝自身は現実的な自己から観念的な自己が分裂して認識の発展が行われるという認識論としての理解に到達してはいないものの、二種類の主体の区別の必要性を認識し、これを文法論に積極的に活用したことを、三浦は素直に評価しています。三浦自身は、5年後に発表する『日本語はどういう言語か』のなかで、この観念的な自己分裂の理論を、時の表現の構造・想像の表現の構造・助動詞論・判断辞論・代名詞の認識構造・文章論などの説明の際に具体的に援用し、理論を発展させています。このように、この論文において、観念的な自己分裂の理論の骨格はだいたい定まったものとみてよさそうです。


 ところで、三浦がこの観念的な自己分裂の理論の唯物論的な基礎をマルクスの文献に求めていたことは以上見てきたとおりですが、そもそも三浦がこの理論を構築するきっかけとなったのは、エドガー・アラン・ポーの小説でした。

《 絵画でも映画でもあるいは言語でも、その表現の場合に、そしてまたそれらを鑑賞や理解するという追体験の場合に、現実の自分から「もう一人の自分」が分裂するという観念的な自己分裂が行われることは、少年の時に経験的にわかっていたけれども、言語学や芸術学の本をいくら見ても、ソ連でミーチンたちがつくった哲学の教科書を見ても、このことについてはどこにも一言も述べてありませんでした。ところがただ一つ、ポオの『モルグ街の殺人事件』の中に、 C. August Dupin が散歩中に不思議な分析的才能を発揮した事実を記したあとに、こう書いてある。 I often dwalt meditatively upon the old philosophy of the Bi - Part Soul , and amused myself with the fancy of a Double Dupin -- the creative and the resolvent. 分析活動を行ってその結果を脳中に描くということになると、これは観念的な自己分裂を行っての活動だから、 Double - Dupin と呼ばれるのも当然であろう。そこで私は、ここでポオが古代哲学とよんでいるものを自己分裂の理論だろうと予想して、さがしはじめました。恐らくアリストテレスだろうと見当をつけて、シュヴェグラーの『西洋哲学史』を見たら、思った通りでした。しかしこれでは観念論的な解釈でもあるし、このままでは使いものになりません。それで私は自分自身で「人間の自己分裂」の理論をこしらえて、『日本語はどういう言語か』で、過去の回想や未来の予想など時の表現における主体の移行をこれで説明しました。『モルグ街』を読んだ者は世界に数多いだろうが、私のような理論作業へ進んだ者は居なかったのであろう》(三浦つとむ『言語過程説の展開』【勁草書房、1983年8月】巻頭言)

 このように、三浦が観念的な自己分裂の理論をつくる元々のきっかけとなった文献は、実はポーの小説『モルグ街の殺人事件』でした(4)。この小説において「私」がデュパンの分析的才能について語った場面に続いて、《 私はよく二重霊魂という昔の哲学について考えふけり、二重のデュパン - 創造的なのと分解的なのと - ということを考えて面白く思うのであった》とあった部分に三浦は着目し、シュヴェーグラーの『西洋哲学史』をしらべて「昔の哲学」がアリストテレスのヌース(理性)論であり、ここで説かれている「能動的理性」(永遠で肉体から分離しうるもの)が「創造的なデュパン」に該当し、「受動的理性」(有限で個人的なもの)が「分解的なデュパン」に該当するのだろうと見当をつけます。若かりしころ(戦前の)の三浦は、ポーがアリストテレスのこの「能動的理性」を唯物論的に創造的な立場にいる人間の精神活動と見ぬいたことに驚嘆します(5)が、そこからすぐに理論の構築に進んだわけではありませんでした。1950年にスターリン言語学の批判を行ったことをきっかけとして、かねてから興味のあった「人間の自己分裂」の理論の構築に着手したというわけです。

 


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(1)このシンポジウムは、当時の左派系学者の集まりである民主主義科学者協会(通称「民科」)主催で行われたものです。三浦のほかは、大島義夫、石母田正(いしもたしょう)の二人が報告者となっています。

(2)三浦はこのあと、1951年中には、「言語における矛盾の構造」の元となる諸論考をも収めたガリ版製の「言語過程説の展開」を書き上げます(三浦は後年、《 スターリンの言語学論文を批判した後に、私は自分の言語理論を体系的にまとめる仕事をはじめました》[『言語過程説の展開』巻頭言]と述べています)。


 『国語学原論』の元となる論文を矢継ぎばやに書き連ねた1937年における時枝誠記のように、1951年における三浦は共産党を除名になることをも恐れずに、矢継ぎばやに自分の書きたいように論文を書き連ねます。時枝は、1937年から1941年にわたる自分のことを《 堤の水は、遂に切って落された。もはや私は敢然として、この激流を泳ぎ切るより外に生きる道がないことを自覚した》、そしてその姿は《 死出の装束を纏った獅子奮迅の姿》とまで述べています( 時枝誠記『国語学への道』【三省堂、1957年10月】93~94頁。この自伝的回想録によると、時枝は背水の陣を布いて1937年3月、通説とまったく異なる独自の品詞論[ 詞辞論]を展開した「文の解釈上より見た助詞助動詞」【『文学』3月号】を発表し、続いてその流れからまた独自の言語本質観を説いた「心的過程としての言語本質観」【『文学』1937年6月号、7月号】を発表します。この一連の流れについて、《 堤の水は、遂に切って落された。…》という表現が使われています )が、このときの三浦も同じような心境だったのではないでしょうか。三浦の場合は案の定共産党を除名になり、論文発表の場も奪われることになったので、時枝以上に大変だったと思われます。いずれにせよこの論文は、ひとりの学者として引くにひけなくなった三浦が、スターリンやスターリンを担ぐ哲学者たちに対する本格的な批判に踏みきった記念碑的な論文だったといえるでしょう。

(3)時枝誠記『国語学原論』(岩波書店、1941年12月)41~43頁。
(4)三浦が『モルグ街の殺人事件』のこの部分に着目し、シュヴェーグラーの『西洋哲学史』をしらべたのは、戦前の話でした(三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』【勁草書房、1972年11月】66頁)。
(5)三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』63頁。





(2020/6/17 脱稿  2026/5/6 更新、再掲)

 

2026年05月06日