言語と記号の差異について 1
○私独自の解釈︰言語と記号の差異について 1
言語と記号の差異についての議論は、20世紀半ば以降、欧米の学者によって様々に論じられてきました。たとえばフランスの言語学者、A.マルチネは「二重分節」があるかどうかというところに、言語と記号を区別する基準を見出しました。「二重分節」というのは、たとえば「音楽(おんがく)」という単語は、最初の分節において、「音(おん)」と「楽(がく)」という二つの面を持った最小単位を弁別することが出来ます。次に、これらはさらに「お」「ん」「が」「く」というより小さな弁別的な機能を持つ単位に分けることができます。マルチネは、最初の分節における最小単位を「形態素」、第二の分節におけるこれ以上分割できない最小単位を「音素」と呼んで、このような二重の分節はすべての言語に見られるものであり、これこそが言語と記号とを区別する基準である、と主張しました。
これに対して、三浦つとむは、日本語の現実が以上のようなマルチネの二重分節論が誤りであることを雄弁に物語っており、「二重分節」の有無が言語と記号の差異を特徴づけるものではない、と明確に反論しました。つまり、たとえば日本語の音韻「こ」には、「古」「小」「故」「濃」「庫」「湖」「個」…といったように、かなりな数の一重音節の語が存在しており、マルチネの考え方によると、これらは「言語」ではないことになってしまう、として、次のように述べています。
《……「二重分節」があろうとなかろうと、言語が音韻すなわち音の人工の種類において概念を表現していることに変りはない。それゆえ、「二重分節」の問題は語彙の数にかかわる問題で、言語と非言語との間に「明確な一線」を引く問題でも何でもない》(『言語学と記号学』p.67)(太線――原文)
では、言語と記号の区別に関する三浦自身の考え方は、どうなっているのでしょうか? 三浦は、言語と記号はそれぞれ言語規範と記号規範を媒介とする表現である点で共通するが、言語規範が「開かれた規範」であるのに対して、記号規範が「閉された規範」である点が違う、と述べています。
《言語規範は、言語の用いられる一定の集団にあって――国家とか民族とか地方とか――それぞれ普遍的な規範として社会化されている。職業集団たとえば遊廓の遊女たちが、廓言葉を使ったとしても、それはそれなりにこの社会として普遍的な規範であり、また語彙としていろいろ特殊なものが使われてはいても、外の社会と完全に断絶しているわけではなく、文法や文章法などの規範も外の社会のそれと本質的に同じものが使われたのである。犯罪者たちの使う隠語にしても、語彙としての特殊性以上に出ていない。これに対して記号は、個人が自分の覚えに使ったり、二人の間にその場限りの暗号として使ったり、閉された規範でしかない場合が多く、同じ種類の線でも、ある地図では私鉄一般に使いある地図ではロープウェイに使うというように、ひろく社会に提供される場合でも規範はその場限りのものである。元素記号を用いて物質の構造を示すような特殊の場合を除いて、記号相互を組み合せる文法的な規範を持っていない。規範の恣意性が、個人に任せられていて、地図の作者はそれぞれの地図に「凡例」の欄を設けてその地図としての独自の記号の内容を説明すればよいのであるから、とりもなおさず個人がその場限りの辞書を自由につくれるわけである。温泉マークや寺院を示す卍の記号などは、どの地図にも共通に使われているから、言語と同じく普遍的な規範であるかに思われるが、それらを使うように強制されているのではなく、別の記号を使っても「凡例」の中で説明しておけばよいのであって、規範の恣意性が個人に任せられていることに変りはない》(『言語学と記号学』p.131~132)(太字――原文、下線は原文では傍点)
このように、三浦は、言語と記号の差異を、それぞれの表現を媒介する規範の性質の差異に求めました。
以上、言語と記号の差異についての三浦つとむの考え方を紹介しました。これは別に、「私独自の解釈」ではなく、三浦の著書を読む誰もが認めるであろうと思われる三浦の見解です。この見解と違う見解をお持ちの方のご投稿を募集します。
(2001/6/18 脱稿)