時枝誠記における「対象の展開」論 6
「場面と敬辞法との機能的関係について」
「言語に於ける場面の制約について」において時枝は、表現における3つの要素(主体、場面、素材)について具体的な叙述を展開し、そのうち「場面」と「素材」については、その概念成立の背景に山内得立(やまうちとくりゅう)の著書による現象学理論が存在することはすでに見てきたとおりです。一方で、表現論の立場からする「主体」概念の構築も、これから紹介する日本語の敬語分析を展開する上できわめて有効な武器として機能するものでした。時枝は、現実の表現の主体および聞き手(場面)と、「私」「我」「あなた」「彼」または某(甲乙丙丁)など、観念的な人物とを区別と連関において把握することによって、ヨリ俯瞰した立場からから敬語的事象を立体的・構造的にとらえることに成功しています。三浦つとむ的にいうならば、現実の世界およびそこでの主体と、観念的世界およびそこでの主体とを区別と連関において分析することによって、唯物論的な敬語論を構築することに成功した、ともいえるでしょう。時枝は、「場面と敬辞法との機能的関係について」(『国語と国文学』1938年6月)において、表現における「3つの要素」を駆使して独自の敬語論を展開しています。
時枝誠記の語の分類・敬語論
すでに時枝は、「文の解釈上より見た助詞助動詞」(『国語と国文学』1937年3月)において、その独自の語の分類法を披露しています。語を表現過程の相違に基づいて「概念語」「観念語」とにニ大別します。
《第一の概念語とは、話者の意識内容を概念過程を経て表出したものであり、従つてかくして表出された対象は、話者に於いては、自我の外に置かれたものと考へられる対象の世界を構成する。「我は行かむ」の「我」は、自我を対象化して表出したもので、「汝」「彼」と全く同等の位置に置かれた「我」なのである。第二の観念語とは、右の様な概念過程を経ない、対象化せられない処の表出であつて、それは概念語によつて表出された対象世界に対する、話者の種々なる立場の表出である。此のニ種の語は、表現過程を異にすると同時に、対象世界と自我とのニの世界を示すものであり、解釈上からは、此の截然とした区別は常に実践的に要求される所のものなのである。所謂助詞助動詞の大部分は、かくして私の所謂観念語の中に包摂することが出来ると思ふのである》(「文の解釈上より見た助詞助動詞」)
こうして時枝は、概念過程をへて表現される・対象世界を表現する「概念語」と、概念過程をへない・自我を表現する「観念語」とに、語をニ大別します(1)。そうして、前者には「名詞」「動詞」「形容詞」が、後者には「助詞」「助動詞」「感嘆詞」などが分類されることになります。時枝は「場面と敬辞法との機能的関係について」の途中から、「概念語」は「詞」へと、「観念語」は「辞」へと言いかえています。本論文もそれにならい、「詞」「辞」と表記することとします。それでは、「場面と敬辞法との機能的関係について」における敬語論を少し見ておくことにしましょう。
《…敬意の表現と云はれて居る事実に、凡そ次の三者を区別することが出来ると思ふのである。
(一)は敬意をさし表す処の表現。換言すれば、観念内容の概念的表現である。或る思想内容を、一旦主観から切り離し、客観化し、対象化して、そのこととして表現するのである。私が或る人に対して持つ敬意を、「うやまふ」「たつとぶ」等と表現するのは即ちそれである。「君の意見を尊重する」などといふのは、対者の意見に対する敬意をさし表して表現したことになるのである。これは敬意の概念語(詞)的表現であるから、話手の敬意のみならず、第三者の敬意をも、「彼は君の意見を尊重する」と云ふ風に表現することが出来るのである。
(ニ)は敬意に基く表現。例へば、私が人の前を通らうとする時、私がこの人を敬ふ気持ちから、静粛に腰をかがめて通つたとするならば、この私の歩き方には敬意が表現されて居る。歩き方それ自身は敬意をさし表しては居ないが、敬意に基いて、私の歩き方が変容されたのである。私が人の馳走になつた時、「食ひます」とはいはないで、「いただきます」と云つたとしたならば、それは相手に対する敬意即ち自他の関係から、「食ふ」と云ふ事実を変容して表現したのである。敬意は、この語の概念内容に表現されて居るのではなく、この事実の表現過程に表されて居るのである。かくの如き敬意に基く表現は、語の発音過程にも表れるのであつて、「いただきまあす」と云ふ様な投げやりな発音法よりも、一音一音を慎重に表す処にも同様に敬意が表れるのである。これは要するに、敬意に基く丁寧な云ひ方なのである。
(三)は敬意の直接的表現。私が長上の前に出た時、帽子をとつて頭を下げたとすれば、それは敬意そのものの直接的表現であつて、かかる行為が敬意をさし表して居るのでもなければ、敬意に基いてかかる行為が実現したのでもない。頭を下げるのは、敬意の表現以外別に何等の目的もないのである。「暑うございますね」と云ふ時の「ございます」は、「暑いね」と云ふ表現に比して、私が相手に対して敬意を持つて居ると云ふことを直接的に表現したことになる。観念内容の直接的表現は、観念語(辞)的表現であるから、話手の持つ敬意以外の第三者の敬意を表現することが出来ない。「お淋しうございませう」の「お淋しう」は第三者の感情を表現して居つても、「ございませう」は話手の敬意であつて、断じて第三者の持つ敬意を表現することは出来ないのである》(時枝誠記「場面と敬辞法との機能的関係について」)
時枝は、(一)の例を敬語とすると、「あがめる」「重んずる」「敬礼する」なども同じように敬語として扱わなければならなくなり、常識的に考えてこれらを敬語とよぶことはできない、とします。
また、(三)は、場面の制約に基づき、変容をうけた辞的表現である、とします。
《 暑いね……暑いですね……暑うございますね
右の三の対立は、即ち聴手の相違であり、聴手の相違は即ち場面的相違である》(同上。傍線は原文では圏点)
この「です」「ございます」は聞き手に対する敬意の直接的表現であり、それは同時に「場面的志向関係の表現」であり、これらは「敬辞」と命名されます。この場合だと、零記号の「場面的変形」の表現であるということになります。これら「敬辞」は、話し手の聞き手に対する敬意を表現するものであり、第三者の敬意を表現することはできないと時枝は述べています。「敬辞」は、今日一般に「丁寧語」とよばれているものです。
(二)の場合について、時枝は次のように述べています。
《…第二の場合に就いて、敬意の対象が明瞭に観取出来るのは、これらの語が、話手に関して用ゐられた場合である。例へば、
貴方に差上げます
お宅に明日あがります
等の「差上げる」「あがる」は、話手の聴手に対する敬意の表現の如く考へられるのであるが、実はそれは誤認であつて、話手の敬意は、「ます」によつてこそ表現されて居るであらうが、「差上げる」「あがる」によつては表現されて居ないのである。事実これらの語が、第三者の行為に就いて用ゐられて、
甲は乙に差上げたでせうか
甲は乙の処にあがつたでせうか
などと表現された時、話手が乙に対して敬意を払つて居ることを必しも表現したことにはならないのである。これらの語の本質が如何なるものであるかに就いては、次の項に於いて詳細に論ずる積りであるが、これらの語については敬意の対象の所在を問題にすることは甚しい見当違ひであると云ふことを、先づ明らかにして置きたいと思ふのである。例へば、母が子供に向つて、
さあ、御飯をいただきなさい
と云つたとする。敬意の対象を話手である母自らに置くことも不合理であるし、謙譲の表現と考へても、誰が誰に対する謙譲かも分らない。かくの如き不合理は、敬意に基く表現を、敬意そのものの表現であるかの如く誤認する処から起こるのである》(同上。傍線は原文では圏点)
時枝はこのように、誰の誰に対する敬意か分からないという理由から、これら「差上げる」「あげる」「いただく」などの語は、《敬意の表現ではなくして、事物のありかたに対する特殊なる把握の表現である》(同上。傍線は原文では圏点)と一般化して規定しています。けれども、たとえば時枝は上の「貴方に差上げます」「お宅に明日あがります」の「差上げる」「あがる」は話し手の聞き手に対する敬意の表現ではないといいますが、本当にそうでしょうか。私たちの常識的な言語意識からすると、これらは話し手の聞き手に対する敬意の表現であるように感じられます。「甲は乙に差上げたでせうか」「甲は乙の処にあがつたでせうか」の「差上げる」「あがる」は、たしかに話し手の乙に対する敬意の表現ではありませんが、甲の乙に対する敬意の表現と考えれば、違和感はないでしょう。ただ、この場合、表現の主体が甲ではない別人であることで、違和感が感じられてしまうということでしょう。「さあ、御飯をいただきなさい」の「いただく」も、たしかに話し手の自分に対する敬意の表現と考えれば違和感が感じられますが、子供の母親に対する敬意の表現と考えれば違和感はありません。では仮に、いま母親が観念的に子供の立場になって表現を行なっていると考えてみると、どうでしょう。
観念的に子供になっていると考えれば、その立場から母親に対して敬意を表現することはある意味自然なことです。もうお気づきでしょうが、この問題は、三浦つとむの観念的な自己分裂の理論を使えば、合理的に理解することが可能なのです(2)。
〜〜〜
(1)三浦つとむは、主体的表現の語(=観念語)について、「ここで表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう」(『日本語はどういう言語か』【講談社学術文庫版、1976年】77頁)と述べています。私も、語はそれが表現であるかぎり、すべて「概念過程」をへていると考えているので、「概念過程」の存否が分類の基準とはなりえないと考えています。客体的表現の語(=概念語)は対象世界・客体界の表現であり、主体的表現の語は主観の世界・自我の表現である(両者ともに概念の表現であることは前提条件である)という定義でよいのではないかと考えています。
(2)三浦つとむ『言語過程説の展開』(勁草書房、1983年)参照。
〜〜〜
観念的な自己分裂の理論と敬語論
三浦つとむの観念的な自己分裂の理論は、唯物論的認識論の立場からする主体の分裂に関する理論であり、人間が現実的な自己を基礎としつつ、そこから観念的な自己を分裂させてさまざまに認識を発展させている事実を法則的にとらえたものです。簡単にいうと、人間は観念的な自己分裂と復帰とをくり返すことにより、認識を発展させているという理論です。「甲は乙に差上げたでせうか」では、話し手は観念的に甲になって、その立場から乙に対して「差上げて」いるのであり、「甲は乙の処にあがつたでせうか」では、話し手は観念的に甲になって、その立場から乙の処に「あがつて」いるのです。両表現とも、話し手は「た」でそれらが過去の行為であることを示して、その次の「で」で現実的な自己の立場に戻ってきています。このように、日本語においては、表現の主体が観念的に他者になって他者の立場から敬意を表現することがすでに敬語の体系として定着してしまっているといえるでしょう(もちろんそのような敬語的体系の深度は時代よって異なるものであり、最近はそのような体系の表現に対する規定の仕方はだいぶ緩くなってきているようです)。時枝には、観念的に分裂して他者の立場から敬意を表現するという三浦理論的発想は当然ないので、誰の誰に対しての敬意か分からない表現が多い客体的表現における敬語について、《上下尊卑の識別に基く事物の特殊なるありかたの表現である》(1)と規定せざるをえなかったものと思われます。明らかな敬意の表現であるにもかかわらず、対象たる実体や行為が誰の誰に対する敬意の表現なのか判然としない場合が多々あるので、それらを「事物の特殊なるありかたの表現」としたわけです。けれどもひとつひとつ確かめてみると、実際は、表現の主体が観念的に分裂して、観念的な他者の立場から特定の人や物や行為に対して敬意を表している場合が多々あるのであり、ほとんどの場合合理的に理解することが可能なのです。本稿は伝達過程論がテーマなので、敬語論についてこれ以上深く掘り下げるようなことはしないでおこうと思います。また別の場所で論じられればと思います。
〜〜〜
(1)時枝誠記「敬語法及び敬辞法の研究」(京城帝大文学会論纂第八集、1939年2月。傍線は原文では傍点)
〜〜〜
敬語論における時枝誠記の図解
時枝は観念的な自己分裂の理論は知りませんでしたが、けれどもすでに述べたように、現実の表現の主体および聞き手(場面)と、観念的な人物とを区別と連関において把握することによって、ヨリ俯瞰した立場からから敬語的事象を立体的・構造的にとらえることに成功しています。
《表現素材の概念的把握に際して、これを上下関係或は自他関係に於いて規定すると云ふことは、素材的事項が多くなるに従つて次第に複雑な様相を呈して来る。今甲を話手、乙を聴手、丙丁を素材的事項とする時、この関係は次の如き四辺形を以て表すことが出来る。
右の如き関係に於いて、丙の或る動作が、丁に対して上向関係の時、例へば物を呈上する様な時、かかる事実を「差上げる」と云ふ様に概念することが出来る。併し乍らこの概念的把握は、単に丙丁間の上下関係のみを顧慮したので、未だ、乙或は甲との関係に於いては規定されない。点線は丙丁の関係に対する乙甲関係の関与を示すもので、丙が乙よりも下位の場合は、「差上げる」でよいのであるが、丙が乙より上位の場合は、「差上げなさる」と表現されねばならない。同様にして、「丁が丙を御覧なさる」と云へば、甲の関与は希薄であるが、「丁が丙を御覧下さる」と云へば、丁丙の間が下向関係であると同時に、丁甲の間も下向関係が著しくなつて来る。これはごく一班を示したに止る》(「場面と敬辞法との機能的関係について」)
ここで時枝が示した図解は、甲と乙のラインは現実の世界の人物、丙と丁のラインは甲と乙の会話に出て来る観念的な世界の人物(本当は二人とも現実の世界の人物ですが、ここでは言語表現=会話には出てくるけれどもその場にはいない人物、というほどの意味です)だと思ってください。時枝はこの図を使うことによって、さまざまな敬語的表現を合理的に説明することに成功しています(1)。たとえば、今、架空の会社員である「私」が話し手で甲、その架空の会社の部長が聞き手で乙、会社における「私」の後輩であるAが丙、「私」やAから見て上司にあたる課長が丁、だとします。この状況で、「私」が部長に対して、「Aが課長に指示を仰いだのは1時間前でございます」と報告したとします。上の時枝の図解を以てすれば、ここでの敬意の表現が誰の誰に対するものなのか、一目瞭然です。「請う」という意味の敬語「仰ぐ」は、Aの課長に対する敬意の表現であり、「ございます」は話し手甲の聞き手乙に対する敬意すなわち「私」の部長に対する敬意の表現ということになります。「課長がAに指示を出されたのは1時間前でございます」の場合、「出された」の敬意の表現「れる」は、点線で示された「私」(甲)の課長(丁)に対する敬意の表現ということになります。このように、ここで時枝が提示した図解は、日本語の複雑な相対敬語の体系を理解するのにきわめて役立つ武器として今なお光り輝いています。
〜〜〜
(1)萩野貞樹『みなさん これが敬語ですよ』(リヨン社、2001年)には、時枝のこの図を参考にしたものと思われる、きわめて分かりやすい敬語分析の図解(「伝達」の世界と「話題」の世界とを分けて、その区別と連関を法則的に図示したもの)が示されています。この著書は萩野氏の時枝に対する「あこがれと尊敬」によって書かれたものであるという萩野氏自身の述懐が付記されています。
〜〜〜
敬語論を通して見えてきた時枝誠記の「素材」論
《所謂敬語なるものは、敬意の表現と考へられる場合もあるにはあるが、それは聴手に対する敬意の表現でなく、表現素材に対する処のものである》(「場面と敬辞法との機能的関係について」)
《それ(「敬語」−−引用者)は一般に辞が素材に志向する判断感情意志を表現するのと異り、敬意を基調とする事物の関係の認識に基く概念的把握である》(同上)
《それ(「敬語」−−引用者)は辞の領域に属するものでなく、詞即ち客観界対象界のありかたの表現に属するものである》(同上。傍線は原文では圏点)
このように、時枝は敬語論をとおして、「素材」から辞的な要素を取り除き、そこに詞(客体的表現)の素材としての側面を重視するようになったものと思われます。この延長線上に、1941年1月発表の論文「言語の存在条件」があるのであり、そこでは、「素材」は「事物・表象・概念」として規定され、さらにそれらは言語の「構成要素」から除外されることになります。時枝の敬語論は、「素材」の客体的把握に大きく貢献している側面があると同時に、それは伝達過程論における「作用」重視の理論への傾倒につながるものとも考えられます。
(続く)
(2020/9/21 脱稿 2025/9/24 更新し、gooブログより転載)