時枝誠記における「対象の展開」論 7
時枝誠記の「意味作用」論について
ここで、時枝誠記の『国語学原論』における「意味作用」論を振り返っておこうと思います。
《…私はこれら(事物、表象、概念−−引用者)を言語表現の素材として、言語の存在条件の一とは認めるが、これを言語の構成要素とは認めなかつた(総論第五項第八項)。これを譬へていふならば、言語の音声によつて或る表象や概念を理解し、具体的事物を認知するといふことは、宛も橋によつて対岸に渡り得た様なものである。川の対岸は、橋にとつては欠くことの出来ない存在条件ではあり得ても、橋それ自体の内部的な構成要素ではあり得ない。言語は橋ではあるが、対岸は言語ではない。絵画についても同様なことがいひ得る。画家によつて描かれる処の景色や静物が絵の構成要素でなく素材であるならば、画家の想像的題材も亦同様に素材でなければならない。この様に考へて来るならば、言語の意味は、言語の外にある処のものであつて、言語の構成要素とは関係のないものと考へられるのである。若し意味といふものを、音声によって喚起せられる内容的なものと考へる限り、それは言語研究の埒外である。しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考へる。言語は、写真が物をそのまま写す様に、素材をそのまま表現するのでなく、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによつて聴手に素材を喚起させようとするのである。絵画の表さうとする処のものも同様に素材そのものでなく、素材に対する画家の把握の仕方である。意味の本質は、実にこれら素材に対する把握の仕方即ち客体に対する主体の意味作用そのものでなければならない》(時枝誠記『国語学原論』404~405頁。太字は引用者)
《…言語に於いて意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事物や表象を受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ方を理解することとなるのである。その様な把へ方を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることとなるのである》(同上。406頁。太字は引用者)
これは、『原論』の意味論において伝達過程論と関係する部分を引用したものですが、言語の構成要素から表象や概念を除外して、表現主体の「意味作用」を極端に重視したものとなっています。常識的に考えて、具体的な表現行為や理解行為そのものが言語であるならば、その行為過程に関係してくる表象や概念も言語に含まれるものと見なされそうなものですが、時枝はこれらを截然として言語から除外して、意味は主体による素材に対する把握の仕方すなわち「意味作用」であるというのです。1937年に発表された「心的過程としての言語本質観」(『文学』1937年6月7月。1937年2月8日脱稿)において時枝が《語の意味の理解は、必ずその語の表現過程に沿うて、その起点である具体的事物或は表象に迄遡らなければならない。そしてこの過程に参与した各の表象が即ちこの語の意味内容となるべきものである。かくして語の意味の把握に於いては、音声に対応する内容的意味よりも、先づ表現対象である具体的事物が対象として如何に把握されつつ表現されるかの展開過程の考察が重要である》と述べていたことを考えると、その見解のあまりの違いに愕然としてしまいます。ちなみに、時枝は「心的過程としての言語本質観」の7ヶ月後に脱稿された「文の概念について」においては、次のように述べています。
《…我々が若し意識に映ずる種々なる表象或は概念を文字或は音声に表現して、山、川、月、花、行く、見る、走る、等と云つた場合、それは意識の内容を表出したのであつて、これを思想の表現とは云ひ得ないであらう。それは思想の素材内容の表現であつて、未だ自我の活動を意味する思想そのものの表現ではない。人は或は反問するであらう。我々が表象し概念する処に、既に自我の表象作用或は概念作用が存在する故、それは即ち思想の表現ではないかと。勿論我々が「山」といひ、「行く」といふ時、具体的事象に加へられた概念作用の存在することは否定しない。論理学にいふ原始的判断とはそれである(速水滉氏論理学四一頁)。併し乍ら「山」「行く」と云ふ言語自体は、概念作用を表現して居るのではなくして、概念作用によつて素材化され、内容化されたものを表現して居るのである。従つてこれを思想の表現とはいふことが出来ない。若し、「山だ」「川だ」と云つた場合、そこに始めて、概念作用とその内容である概念とが表現されたので、これを思想の表現と云ふことが出来る。ここに思想と云ふ語が曖昧であるならば、意識と呼んでもよい。表象や概念は意識内容であつても、意識作用自体ではない。語は一般に概念作用を経過する表現であるが故に、それは意識内容として客観化され、対象化された思想の一面的表現であると云ふことが出来る。以下私は思想と云ふ語を、意識内容と意識作用との融合した意識した意識状態を指すことにするであらう。右述べた「山」「行く」の如き表象或は概念のみの言語表現は、思想の一面的表現であつて、実は極めて抽象的にのみ考へ得られる事実であり、或は時として脳神経の病的状態に於いてのみ現れる現象であつて、現実的な我々の思想は、常に、意識に現れる内容的な表象或は概念と同時に、それらに対する判断、感情、意志、立場の如き自我の活動を伴ふものであつて、両者合体して始めて思想表現となるのである》(時枝誠記「文の概念について」【『國語と國文学』1937年11月12月。1937年9月21日脱稿】)
時枝はここで、「概念作用」のありかたにも二種類あることを述べています。すなわち、対象から内容を表象し概念して語そのものを成立させる「概念作用」と、思想を表現する際の意識内容と融合されるところの「概念作用」です。その上で言語表現の実際は、後者の詞辞の融合的表現が一般的であり、意識内容と意識作用とは統一的にとらえるべきであるという考え方がうかがえます。つまり、ここではまだ、「内容」と「作用」とは平等の関係にあります。
〜〜〜
「敬語法及び敬辞法の研究」
ところが、「文の概念について」の脱稿から約1年後に脱稿された「敬語法及び敬辞法の研究」において、時枝は次のように述べています。
《…事物が観念として或は表象として与へられた時には、それは全く無規定のものである。これらの事物が表現の素材として概念的に把握される時に、ここに夫々意味が付与される。語が意味を持つとは、語が表象を表現するが為ではなくして、表現的素材が意味的志向作用によつて規定されるが故に云ひ得ることである。概念とは客体的に見れば語の内容の様に考へられるが実は主観の規定に他ならない。故に客観的には同一物と考へられるものでも、意味的志向作用換言すれば概念規定の異るに従つて異つた語として表現されるのは当然である。一の天変地異でも、甲はこれを禍として把握し、乙はこれを福と概念するかも分らない。又天変地異と概念することそれ自身、これを自然現象と概念することとは、同一事象に対する意味的志向作用の相違と見るべきである》(時枝誠記「敬語法及び敬辞法の研究」【『京城帝大文学会論纂第八集』1939年2月。1938年9月8日脱稿】。太字は引用者)
これは、時枝の伝達過程論および意味論における機能主義の初出といってよいでしょう。ここで時枝は、事物や観念や表象が「意味的志向作用」によって概念規定されるがゆえに語が意味を持つと述べています。また、「語が意味を持つとは、語が表象を表現するが為ではな(い)」とか、「概念とは客体的に見れば語の内容の様に考へられるが実は主観の規定に他ならない」と述べているところからして、どうやら時枝はこの時点で、語の内容としての表象や概念の存在を否定してしまっているようです。私の考えるところでは、概念は表現内容を形成する実体であると同時に、「主観の規定」でもあります。表現主体による、表現主体の脳内における〈概念の二重化〉の過程は、観念的に対象化された意志の一形態である言語規範による媒介過程を含むけれども、その過程はあくまでも表現主体の意志の統御による過程であり、それゆえ語は内容=概念を表現しているということと語の内容は主観の概念規定によるという考え方は、時枝のようにあれかこれか的発想で切り離す必要はなく、両立は可能なのです。また、表現主体による概念規定について言及するならば、その概念規定はどのように行われるのか、あるいはそもそも、概念はどのように成立するのか、ということをさらに論理的に追究しなければならないでしょう。三浦つとむは概念規定のありかたについて、言語規範の媒介を含む〈概念の二重化〉現象として具体的にして説明しています(1)。また、概念の成立については、認識における対象の一般化において過程的構造を含みつつ成立する旨を述べています(2)。
時枝がこのように意味論や伝達過程論において「意味作用」や「概念作用」重視の考え方に陥ってしまったことの背景には、敬語論において「敬語を、話者の敬意の表現としてでなく、概念的把握の仕方に関するものとして考へ(た)」(3)こと(ようするに、概念的把握すなわち概念作用によって「敬語」が「敬語ならざる語」の代わりに選択されるという考え方)も影響しているでしょうが、言語を構成する音声や意味(概念)に意味を求めるというソシュール的・言語構成観的な考え方に陥らないようにしなければならないという論理的な強制もあったものと思われます。また、山内得立著『現象学叙説』のなかの意味の規定に関する次のような論述も、時枝に対してなにがしかの影響を及ぼした可能性はあります。
《全きノエマ( volle Noema )に於て我々は志向的客体と捕捉せられたる客体とを二つの象面( Schicht )として明別する。さうして前者をノエマ的意味( noemaTISche )と名づけ、後者をノエマ的核( noematische Kern )と呼ぶ。ノエマ的意味とはノエマ的核を或性質に於て規定せられたるもの、或規定の仕方に於て与へられたところの対象( Genenstand im Wie seiner Bestimmtheit )に外ならぬのである。我々はこの関係を種々なるノエマ的意味の下に同一のノエマ的核があるとも、又は同一なる核が種々なる意味に於て自らを表はすとも言ふことができるであらう。意味とは対象を意識すべき種々なる志向の仕方を与へるものであり、対象がそれ自らを表現するためにとるべき種々なる現象の仕方であるにすぎない。ノエマ的核は其故に一にして常に同一( das Identische )であるが、ノエマ的意味は多にして群属的である。我々が一つの花を赤いと見、次に美しいと感ずるとき、同一なる花は時として一つの意味に、時としては他の意味に規定せられるであらう。赤いといふ意味、美しいといふ意味は一つの花をそれぞれに規定するところの規定の仕方の差別であるにすぎない。一つの花は此等の種々なる規定の仕方を通してそれ自らを表現するのであり、此等の孰れかの規定によることなしには現象することができないのである》(山内得立『現象学叙説』【岩波書店、1929年】323頁)
このようなフッサールの、主体による意味の規定の仕方重視の考え方も、時枝の言語理論になにがしかの影響を与えた可能性はあるでしょう。
いずれにしろ、ここでは、この「敬語法及び敬辞法の研究」において初めて、時枝が伝達過程論および意味論における「意味作用」重視の考え方を公にしたということを、確認しておきたいと思います。
〜〜〜
(1)三浦つとむ『言語過程説の展開』(勁草書房、1983年。【第二部 言語の理論 第二章 言語表現の二重性 「五」概念の要求する矛盾】)参照。
(2)同『言語過程説の展開』(【第二部 言語の理論 第二章 言語表現の二重性 「四」言語における「一般化」】)参照。
(3)時枝誠記「場面と敬辞法との機能的関係について」(『國語と國文学』1938年6月)
〜〜〜
(続く)
ここで、時枝誠記の『国語学原論』における「意味作用」論を振り返っておこうと思います。
《…私はこれら(事物、表象、概念−−引用者)を言語表現の素材として、言語の存在条件の一とは認めるが、これを言語の構成要素とは認めなかつた(総論第五項第八項)。これを譬へていふならば、言語の音声によつて或る表象や概念を理解し、具体的事物を認知するといふことは、宛も橋によつて対岸に渡り得た様なものである。川の対岸は、橋にとつては欠くことの出来ない存在条件ではあり得ても、橋それ自体の内部的な構成要素ではあり得ない。言語は橋ではあるが、対岸は言語ではない。絵画についても同様なことがいひ得る。画家によつて描かれる処の景色や静物が絵の構成要素でなく素材であるならば、画家の想像的題材も亦同様に素材でなければならない。この様に考へて来るならば、言語の意味は、言語の外にある処のものであつて、言語の構成要素とは関係のないものと考へられるのである。若し意味といふものを、音声によって喚起せられる内容的なものと考へる限り、それは言語研究の埒外である。しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考へる。言語は、写真が物をそのまま写す様に、素材をそのまま表現するのでなく、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによつて聴手に素材を喚起させようとするのである。絵画の表さうとする処のものも同様に素材そのものでなく、素材に対する画家の把握の仕方である。意味の本質は、実にこれら素材に対する把握の仕方即ち客体に対する主体の意味作用そのものでなければならない》(時枝誠記『国語学原論』404~405頁。太字は引用者)
《…言語に於いて意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事物や表象を受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ方を理解することとなるのである。その様な把へ方を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることとなるのである》(同上。406頁。太字は引用者)
これは、『原論』の意味論において伝達過程論と関係する部分を引用したものですが、言語の構成要素から表象や概念を除外して、表現主体の「意味作用」を極端に重視したものとなっています。常識的に考えて、具体的な表現行為や理解行為そのものが言語であるならば、その行為過程に関係してくる表象や概念も言語に含まれるものと見なされそうなものですが、時枝はこれらを截然として言語から除外して、意味は主体による素材に対する把握の仕方すなわち「意味作用」であるというのです。1937年に発表された「心的過程としての言語本質観」(『文学』1937年6月7月。1937年2月8日脱稿)において時枝が《語の意味の理解は、必ずその語の表現過程に沿うて、その起点である具体的事物或は表象に迄遡らなければならない。そしてこの過程に参与した各の表象が即ちこの語の意味内容となるべきものである。かくして語の意味の把握に於いては、音声に対応する内容的意味よりも、先づ表現対象である具体的事物が対象として如何に把握されつつ表現されるかの展開過程の考察が重要である》と述べていたことを考えると、その見解のあまりの違いに愕然としてしまいます。ちなみに、時枝は「心的過程としての言語本質観」の7ヶ月後に脱稿された「文の概念について」においては、次のように述べています。
《…我々が若し意識に映ずる種々なる表象或は概念を文字或は音声に表現して、山、川、月、花、行く、見る、走る、等と云つた場合、それは意識の内容を表出したのであつて、これを思想の表現とは云ひ得ないであらう。それは思想の素材内容の表現であつて、未だ自我の活動を意味する思想そのものの表現ではない。人は或は反問するであらう。我々が表象し概念する処に、既に自我の表象作用或は概念作用が存在する故、それは即ち思想の表現ではないかと。勿論我々が「山」といひ、「行く」といふ時、具体的事象に加へられた概念作用の存在することは否定しない。論理学にいふ原始的判断とはそれである(速水滉氏論理学四一頁)。併し乍ら「山」「行く」と云ふ言語自体は、概念作用を表現して居るのではなくして、概念作用によつて素材化され、内容化されたものを表現して居るのである。従つてこれを思想の表現とはいふことが出来ない。若し、「山だ」「川だ」と云つた場合、そこに始めて、概念作用とその内容である概念とが表現されたので、これを思想の表現と云ふことが出来る。ここに思想と云ふ語が曖昧であるならば、意識と呼んでもよい。表象や概念は意識内容であつても、意識作用自体ではない。語は一般に概念作用を経過する表現であるが故に、それは意識内容として客観化され、対象化された思想の一面的表現であると云ふことが出来る。以下私は思想と云ふ語を、意識内容と意識作用との融合した意識した意識状態を指すことにするであらう。右述べた「山」「行く」の如き表象或は概念のみの言語表現は、思想の一面的表現であつて、実は極めて抽象的にのみ考へ得られる事実であり、或は時として脳神経の病的状態に於いてのみ現れる現象であつて、現実的な我々の思想は、常に、意識に現れる内容的な表象或は概念と同時に、それらに対する判断、感情、意志、立場の如き自我の活動を伴ふものであつて、両者合体して始めて思想表現となるのである》(時枝誠記「文の概念について」【『國語と國文学』1937年11月12月。1937年9月21日脱稿】)
時枝はここで、「概念作用」のありかたにも二種類あることを述べています。すなわち、対象から内容を表象し概念して語そのものを成立させる「概念作用」と、思想を表現する際の意識内容と融合されるところの「概念作用」です。その上で言語表現の実際は、後者の詞辞の融合的表現が一般的であり、意識内容と意識作用とは統一的にとらえるべきであるという考え方がうかがえます。つまり、ここではまだ、「内容」と「作用」とは平等の関係にあります。
〜〜〜
「敬語法及び敬辞法の研究」
ところが、「文の概念について」の脱稿から約1年後に脱稿された「敬語法及び敬辞法の研究」において、時枝は次のように述べています。
《…事物が観念として或は表象として与へられた時には、それは全く無規定のものである。これらの事物が表現の素材として概念的に把握される時に、ここに夫々意味が付与される。語が意味を持つとは、語が表象を表現するが為ではなくして、表現的素材が意味的志向作用によつて規定されるが故に云ひ得ることである。概念とは客体的に見れば語の内容の様に考へられるが実は主観の規定に他ならない。故に客観的には同一物と考へられるものでも、意味的志向作用換言すれば概念規定の異るに従つて異つた語として表現されるのは当然である。一の天変地異でも、甲はこれを禍として把握し、乙はこれを福と概念するかも分らない。又天変地異と概念することそれ自身、これを自然現象と概念することとは、同一事象に対する意味的志向作用の相違と見るべきである》(時枝誠記「敬語法及び敬辞法の研究」【『京城帝大文学会論纂第八集』1939年2月。1938年9月8日脱稿】。太字は引用者)
これは、時枝の伝達過程論および意味論における機能主義の初出といってよいでしょう。ここで時枝は、事物や観念や表象が「意味的志向作用」によって概念規定されるがゆえに語が意味を持つと述べています。また、「語が意味を持つとは、語が表象を表現するが為ではな(い)」とか、「概念とは客体的に見れば語の内容の様に考へられるが実は主観の規定に他ならない」と述べているところからして、どうやら時枝はこの時点で、語の内容としての表象や概念の存在を否定してしまっているようです。私の考えるところでは、概念は表現内容を形成する実体であると同時に、「主観の規定」でもあります。表現主体による、表現主体の脳内における〈概念の二重化〉の過程は、観念的に対象化された意志の一形態である言語規範による媒介過程を含むけれども、その過程はあくまでも表現主体の意志の統御による過程であり、それゆえ語は内容=概念を表現しているということと語の内容は主観の概念規定によるという考え方は、時枝のようにあれかこれか的発想で切り離す必要はなく、両立は可能なのです。また、表現主体による概念規定について言及するならば、その概念規定はどのように行われるのか、あるいはそもそも、概念はどのように成立するのか、ということをさらに論理的に追究しなければならないでしょう。三浦つとむは概念規定のありかたについて、言語規範の媒介を含む〈概念の二重化〉現象として具体的にして説明しています(1)。また、概念の成立については、認識における対象の一般化において過程的構造を含みつつ成立する旨を述べています(2)。
時枝がこのように意味論や伝達過程論において「意味作用」や「概念作用」重視の考え方に陥ってしまったことの背景には、敬語論において「敬語を、話者の敬意の表現としてでなく、概念的把握の仕方に関するものとして考へ(た)」(3)こと(ようするに、概念的把握すなわち概念作用によって「敬語」が「敬語ならざる語」の代わりに選択されるという考え方)も影響しているでしょうが、言語を構成する音声や意味(概念)に意味を求めるというソシュール的・言語構成観的な考え方に陥らないようにしなければならないという論理的な強制もあったものと思われます。また、山内得立著『現象学叙説』のなかの意味の規定に関する次のような論述も、時枝に対してなにがしかの影響を及ぼした可能性はあります。
《全きノエマ( volle Noema )に於て我々は志向的客体と捕捉せられたる客体とを二つの象面( Schicht )として明別する。さうして前者をノエマ的意味( noemaTISche )と名づけ、後者をノエマ的核( noematische Kern )と呼ぶ。ノエマ的意味とはノエマ的核を或性質に於て規定せられたるもの、或規定の仕方に於て与へられたところの対象( Genenstand im Wie seiner Bestimmtheit )に外ならぬのである。我々はこの関係を種々なるノエマ的意味の下に同一のノエマ的核があるとも、又は同一なる核が種々なる意味に於て自らを表はすとも言ふことができるであらう。意味とは対象を意識すべき種々なる志向の仕方を与へるものであり、対象がそれ自らを表現するためにとるべき種々なる現象の仕方であるにすぎない。ノエマ的核は其故に一にして常に同一( das Identische )であるが、ノエマ的意味は多にして群属的である。我々が一つの花を赤いと見、次に美しいと感ずるとき、同一なる花は時として一つの意味に、時としては他の意味に規定せられるであらう。赤いといふ意味、美しいといふ意味は一つの花をそれぞれに規定するところの規定の仕方の差別であるにすぎない。一つの花は此等の種々なる規定の仕方を通してそれ自らを表現するのであり、此等の孰れかの規定によることなしには現象することができないのである》(山内得立『現象学叙説』【岩波書店、1929年】323頁)
このようなフッサールの、主体による意味の規定の仕方重視の考え方も、時枝の言語理論になにがしかの影響を与えた可能性はあるでしょう。
いずれにしろ、ここでは、この「敬語法及び敬辞法の研究」において初めて、時枝が伝達過程論および意味論における「意味作用」重視の考え方を公にしたということを、確認しておきたいと思います。
〜〜〜
(1)三浦つとむ『言語過程説の展開』(勁草書房、1983年。【第二部 言語の理論 第二章 言語表現の二重性 「五」概念の要求する矛盾】)参照。
(2)同『言語過程説の展開』(【第二部 言語の理論 第二章 言語表現の二重性 「四」言語における「一般化」】)参照。
(3)時枝誠記「場面と敬辞法との機能的関係について」(『國語と國文学』1938年6月)
〜〜〜
(続く)
(2020/9/25 脱稿 2025/10/1 gooブログより転載)