三浦つとむの言語理論、その形成過程について 14

1954年6月
「言語における矛盾の構造 - マルクス主義における言語学 - 」


「種類としての表現」論


  この論文で三浦はまず、商品と言語を比較して、商品において労働のもつ矛盾を分析することが重要であるのと同じように、言語においては認識のもつ矛盾の分析、すなわち私的認識が社会的な形態を獲得する過程を分析することが重要であると指摘して、絵画と言語を比較することから分析をはじめます。

《 いま、絵画と文字とを用意し、それぞれに加工をほどこしてみよう。肖像画の首や手足を二倍に太くしたり、顔に用いられた曲線を直線に変えて長方形としたりすれば、原作はひどく歪められてしまう。ところが文字では、ペン字の太さを二倍にしようと、活字体に修正しようと、ネオン管で複製しようと、その内容には何の変化も起らない。これは重要な差別である。この事実は、言語の意味が表現形象の感性的な面と直接の関係をもたないことを示している。しかしまったく関係がないわけではなく、点の位置の移動(太←→犬)、点の加減(水←→氷)、線の長短(未←→末、甲←→申)などによって、原作はひどく歪められてしまう。言語学者はこのような事実を検討しようとはしない。表現形象を現実の事物と直接にくらべてその性格を論じるだけである。たとえば「花」「はな」(flower)などを事物とくらべて、次のように主張する。
「記号と記号で示されているものとの間には何の必然的な関連もない。」
たしかにそうだ、 --感性的な面にしがみついているかぎりでは。けれども、いまの加工の結果が証明しているように、言語の意味は感性的な面と直接の関係をもたないのだから、このテーゼをいくら強調したところで言語の本質をついたことにはならない》(三浦つとむ「言語における矛盾の構造」【『思想』1954年6月】。傍線は原文では傍点)

 先日、スペインで聖母マリアの絵画修復で出来上がった絵が元の絵と違う表情になっていたとして、国際的なニュースになっていましたが、絵画ではちょっとした線描のちがいであっても原作を歪めたことになってしまいます。一方、言語の複製では、それを活字で書こうが、手書きで書こうが、人文字で書こうが、アスキーアートで書こうが、それがある一定の種類に属していることが維持されていれば、内容を歪めたことにはなりません。ところが「間←→問」のように、少しの変更でも、それがある一定の種類に属していることを逸脱してしまえば、それは表現を著しく歪めたことになってしまいます。絵画と言語にはこのように表現としてきわめて大きな差異が存在するといえるでしょう。さらに三浦は、ここから次のように考察を深めていきます。

《 言語が直接表現するのは概念である。これは事物の感性的な面を捨象した認識であり、普遍性における認識である。従って、普遍的な認識を直接表現し模写するには、表現形象がそれに対応した普遍的な面をもっていなければならない。この普遍的な面の創造がすなわち表現でなければならない。符号や記号は、感性的な形象の面ではなく一定の種類に属しているという普遍的・超感性的な面で、概念の普遍的・超感性的な性格に対応し、その意味での模写として表現されているのである。だからこそ、その種類に属するかぎりでは感性的にどんなに大きな修正をほどこすことも許されるし、また感性的にいくら小さな修正でもそれによって他の種類に転化するような場合は許されないのである。また、わたしたちの創造した形象ではなく、自然にある形象であっても、それが一定の種類に属するという面に、言語の種類との結びつきさえあたえてやれば、この自然物は言語の代用品としての機能をはたすことができる。これが花言葉の本質である。


 言語ばかりでなく、すべて表現は感性的にして同時に超感性的な存在である。表現の意味・内容が商品の価値と同じように超感性的な関係として感性的な表現形象に結びついているからである。言語では、この表現形象自体がさらに二重化していて、超感性的な意味・内容が表現形象の超感性的な面において結びついている。この眼に見えぬ関係を追跡して眼に見えぬ二重性を見やぶることなくしては、言語の真の構造をあきらかにすることができない。見ぶりと見ぶり言語を正しく区別することができない。釣った魚の大きさを手真似で示すのは、対象の感性的な模写であって、いわば身体で描いた絵画であり、単なる見ぶりである。これに対して、親指と人差指で円をこしらえて紙幣を要求するのは、形象の種類の面で概念を表現したのであって、いわば身体で描いた文字であり、見ぶり言語である》(同上。傍線は原文では傍点。太字は引用者)

 ここで三浦がいうような、言語においては超感性的な意味・内容が表現形象の超感性的な面において結びついているという事実は、関係概念でしか説明できないので、おそらく物質の論理で証明することは不可能でしょう(1)。けれども、この事実は、多くの場合、言語理解の実践の結果をもって証明することは可能です。たとえば、私が「私はきのう、午後5時に夕食を食べました」と書いた紙を渡して、その意味を人にたずねた場合、おそらく小学生以上のほとんどの人がこの言語表現の意味を正しく理解することができるでしょう。そして、私が、この人びとの言語理解が正しいことを確認したならば、その時点で、私の言語表現すなわち私が紙に書いた一連の文字の連なりの背後の「対象→認識→表現」の各過程は正確に反映し合っているということ、すなわち各過程は超感性的につながり合っているということの、実践的な証明となることでしょう。目には見えないけれども、「対象→認識→表現」の間には、実践が証明するとおり、関係がある、つながりがあるのはたしかです。日々のみずからの言語実践の結果を鑑みても、このことを否定する人はいないでしょう。そこで、次に問題となるのは、この事実をどのように説明するか、ということです。多くの言語学者は、「記号と記号で示されているものとの間には何の必然的な関連もない」という言語学的不可知論を展開するか、それは哲学や認知科学、心理学の問題であるとして説明を放棄してしまっているか、のどちらかの場合がほとんどです。このあと、言語表現と不可分の非言語表現についての三浦の説明をひと通りみたあとで、この事実の三浦の説明をいま一度私なりにまとめて提示しておこうと思います。

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言語表現と非言語表現

 音声や文字や手のかたちに感性的な面が存在することは自明ですが、この感性的な面は超感性的な面から相対的に独立して存在しており、独自に発展する可能性が与えられています。種類としての超感性的な面の表現が言語表現であるならば、感性的な面の表現は非言語表現であると三浦は規定して、この両者を統一してとらえるべきことを主張しています。

《 言語の表現形象は、感性的でなければならない。そうでなければ相手に訴えることも、一定の種類に属するものを他の種類から区別することもできない。この区別のために感性的な「分節」が必要になる。このように、感性的な面は否応なしについてまわるのであるが、だからといって決して無用の長物ではなく、二義的ではあるが、感性的な面も表現としての性格をもっていることに注意しなければならない。この感性的な面での表現は超感性的な面に対立しており、質的に異ったものであるが、内容においては相互に浸透しあっている。そのために、表現形象の二重性を見やぶることのできなかったこれまでの理論では、この対立を抹殺し相対的な独立を無視して、すべてを言語表現として一しょくたに扱ってきた。わたしたちは、日常の会話において、声を大きくして強い感情を表現し、テンポをおそくして落ちつきを表現し、抑揚をあたえて部分を強調するなどの方法をとっているが、これらはすべて感性的な面での感性的な表現であり、本来の言語表現に伴ってはいてもこれと区別しなければならないものである。この区別は、文学理論ことに詩歌の理論にとって重要な意義をもつ。詩歌におけるリズムや押韻や定型の問題は、一部の人たちが考えているような形式上の問題ではなくて、感性的な面での表現の問題として考えられなければならないからである。感性的な面での表現内容は、超感性的な面での表現内容と相互浸透はしているが、そこには独自性があり、相対的な独立を有しているからである》(同上)


 言語表現が超感性的な概念の表現それ自体による認識の表現であるのに対し、非言語表現は概念に結びついている感性的な面、すなわちたとえば声音や字体などによる認識の表現であり、このように言語に言語表現と非言語表現とが統一されている事実を、三浦は「言語表現の二重性」あるいは「言語で表現される認識の二重性格」と名づけています(2)。この非言語表現の側面も時代とともにさまざまな発展を遂げています。現代では、WordやExcelなどのアプリケーションを使うことによって、字体の大きさや色や種類を誰でも簡単に操ることができるようになり、事実ブログのなかにはこの非言語表現の面で独創性を発揮して人気を博しているものも多数存在します(3)。


  以上の三浦の非言語表現論を含む言語表現論をいま一度私なりにまとめて、以下に提示しておこうと思います。


【 言語は表現の一種であり、言語表現には、概念すなわち対象の種類としての認識すなわち超感性的な認識が表現されており、これが表現形象の超感性的な側面に関係として結びついている。言語表現は、この超感性的な表現の系列と、音声や文字の感性的な表現形象における表現すなわち感性的な表現の系列との統一として現象している。すなわち言語では、概念の表現という特殊な形態ゆえに、感性的な表現の系列と超感性的な表現の系列とが相対的な独立として現象しており、かつこれらが不可分に統一されている。すべて表現は、背後に「対象→認識→表現」という過程的構造が関係として存在する。言語では、対象と表現との間には、形式的に一見なんの関係もないように思われる場合が多いが、個々の具体的な言語表現の背後には、この各過程が超感性的な種類の面において相互に結びついているのである。ただし、この「対象⇔認識」や「認識⇔表現」という各過程には矛盾が存在し、「表現」として現象していないのに、「認識」や「対象」が存在する場合(時枝のいう零記号)もあれば、「認識」や「対象」が存在しないのに「表現」が存在する場合(猫のタイピングなど)もあるので、注意しなければならない 】

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「対象→認識→表現」という図式

 三浦は、この論文ではじめて、言語表現行為の具体的な過程の図解を示しています(4)。これは、2年後すなわち1956年に発表する『日本語はどういう言語か』でも採用された図解と同じものです。この図解の優れているのは、「対象→認識→表現」という言語表現の過程的構造をたんに図示しているだけでなく、過去の言語表現から抽象された社会的な約束に関する認識が個々の具体的な言語表現を媒介する過程も描かれている点です。これによって、「対象→認識→表現」の各過程がそれぞれ個別的な面を維持しつつ、同時に普遍的な面すなわち種類としての側面すなわち超感性的な面において相互につながり合っていることを合法則的に理解することができます。「対象→認識→表現」という図式それ自体は表現一般に該当するものですが、ここでは三浦は言語表現の場合の認識の矛盾を図解することによって、言語の社会性という特徴を合法則的に表現することに成功しているといえるでしょう。また、言語表現の背後にこの基本図式を想定しておかないと、概念をアプリオリなものとして扱ったり、言語表現行為の過程から対象の存在を除外してしまったり、「記号と記号で表されるものとの間には必然的な関係は何もない」という不可知論の跋扈につながったりするので要注意です。ちなみにここでいう「対象」は、現実の世界の実在物である場合もあれば、認識の場合もあるし、表現が対象となる場合もあります。しかも「対象→認識」という過程も、実際には「対象⇔認識」というように往復運動的過程である場合が多くあり、「認識→表現」の過程もまた然りです。また、「対象→認識→表現」の物質的基礎についてもう一度確認しておくことも重要です。「対象」は認識の対象であり、現実の世界の事物であることもあれば、認識のとらえなおしや規範の概念のスライドによって認識が対象になることもあれば、表現(物質)が対象になることもあります。いうまでもなく認識の基盤は脳細胞にあります。表現の物質的基礎は音声や紙や手のかたちや点字盤などになります。

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「ラング」と辞書

 第3節「ソシュール理論の認識論的性格」では、ソシュールのいうラングが個々の具体的な言語といかにかけ離れた存在であるかについて、くわしく論じられます。たとえば、文字を知らない幼児がたまたまパソコンをいじってわれわれに理解可能な言葉をタイピングしたり、日本語をまったく知らない外国人が日本語の音声をまねて発音した場合、これらの記号を言語と呼ぶことができるでしょうか? 三浦は否といいます。なぜなら、《すべて表現活動は作者の認識を物的な形象によって模写し外面化すること》(同上)だからです。三浦にとって、個々の具体的な言語とは、すべて「対象→認識→表現」という具体的な過程をへて表現されたところのものなのです。


 続いて三浦は、ソシュールのいうラングの辞書的な性質、すなわちそのアプリオリな概念集合体としての性質について語ります。

《 いま、手もとにある辞書から、手あたりしだいに一行をひろいだしてみよう。
「混然(コンゼン)入りまじっていずれとも明瞭でないこと」
常識では「混然」があつめられのせられた言語と考えられ、「入りまじって……」はその説明と見られている。ソシュール的に考えれば「混然」が「言語(ラング)」の表出である。たしかに外観は言語とかわりがないが、普通の言語のときは事物のありさまが認識の対象であるのに、辞書の原稿の筆者にとっては「混然」と書かれあるいは印刷された表現形象そのものが認識の対象であることを考えなければならない。彼は、事物のありさまを概念として認識し表現したのではなく、文字についての表象を模写し表現したにすぎないのである。これは一種の絵画である。そのつぎの「コンゼン」も、音声の表象を表現したものである。それぞれの音を表現するために個々の表音文字をならべてあり、その意味での言語表現が行われていることは、全体が一概念の表現としての言語であることを意味するものではない。(言語であり且つ言語でないという矛盾! 楽譜と文学とのちがいもこれと同じことである。) それゆえ、このなかでは「入りまじって……」だけが言語なのである。(中略)
…ソシュールの学派の説明では、言語活動はまず概念から始められ、頭のなかで概念をよびさますと、これとかたく相連結している聴覚映像がよびさまされ(すなわち「言語〔ラング〕」のはたらき)て発音器官の運動神経を刺戟し、音波がおこって相手の耳に伝わるということになっている。認識の対象はまったく切りすてられており、対象なしの概念が出発点となっている。たしかに、想像や記憶で語っている場合は現実に眼の前に対象がないから、概念を出発点とするのが正しいようにも思えるかも知れないが、野球の実況放送などはどう説明するのであろうか。
「あッ……、打ちました、球がグングンのびています……スタンドにはいりました、ホームランです……満場総立ち……」と叫んでいるのを、対象を無視してとりあげてよいのであろうか。このような、対象の現実に存在する場合こそ、言語表現の基本的なありかたであって、想像や記憶の表現はこの変容として検討しなければならないにもかかわらず、ソシュール学派の人たちは対象の存在を無視している》(同上。傍線は原文では傍点)

 辞書における「見出し語」は文字についての表象を表現したものにすぎず、ソシュール的にいえば「ラングの表出」でしょうが、あくまでもこれは具体的な言語ではありません。表現の背後に「対象→認識→表現」という過程が存在しないからです。なぜソシュール理論が具体的な言語表現から離れた「記号の体系」を研究の中心にすえるようになってしまったのかというと、認識の対象を切りすててしまったからであると三浦はいいます。認識の対象を切りすててしまうと、概念をアプリオリにもってくるしかなくなります。概念をアプリオリにもってくると、現実の具体的な言語からはどんどん離れていってしまうというわけです。言語表現の基本形は、三浦のいうように、目の前の対象をとらえて表現する態のものであり、記憶や想像の表現はこの基本形の変容として理解すべきでしょう。

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「言語規範による表現の媒介」論

 三浦は第4節「いわゆる『ラング』なるものの正体 -- 直接表現される認識と媒介する認識との分離」において、はじめて、「言語規範による表現の媒介」論を具体的に展開します。それについて紹介する前に、まず、三浦が「ラング」の正体について語った部分を引用します。

《 長い文章のなかで一つくらいわからない単語があっても、何とか想像できないわけではない。「ロングフェロー・ディーズ氏は、tube を演奏するのが趣味である。」と書かれているなら、tube とは演奏の道具すなわち楽器の一種らしいことは想像できる。tube は「管」であることを知っているなら、それから推してこれが恐らく管楽器であろうというところまでつかめるはずである。英和辞書をひくと「一種のラッパ」という説明文がついている。これだけでもわからなくはないが、これでは楽器の大きさや形まで知ることはできない。もっと具体的なイメージを思いうかべるために、絵か写真を見たいという気持も出てこよう。それゆえ、挿画入りの辞書は辞書の機能をヨリ高めるばかりでなく、また辞書の本質を見ぬくために重要な存在である。そこには、ソシュールのいうように「言語(ラング)」そのものが表出されているのでは決してない。対象について理解するための文章があり、その対象を一概念としてとらえて表現するときの表現形象はこういうものだとそのかたちの見本を示してあるにすぎないのである。辞書は社会的な約束そのものを直接に示すことができないので(超感性的だから ! )対象についての理解を媒介としてそれを推察させる(矛盾 ! )のである。従って説明文がまちがうと対象について誤解し、社会的な約束をもまちがって推察することになる。認識から対象をきりはなすソシュール学派の考えかたでは、この辞書の構造をつかめなかったのも当然である。
辞書を引いて一度 tube の意味を理解できた人は、それ以後、同じ種類の対象なら、楽器店のウインドにあろうと、NHKのスタヂオにあろうと、同じく tube と表現することができる。なぜか?同じ種類に属する対象には同じ種類の表現形象を使うという社会的な約束を自分のものにしたからである。母親が幼児に対象を指さしながら、「これ、ネコよ、いってごらんなさい、ネ、コ……」と語りかけるのも、対象と表現形象の結びつきを示して、社会的な約束を教えようとするのである。幼児は、生活のなかで多くの言語表現に接することによって、このとき指さされた一個の対象ばかりでなく、同じ種類の動物でありさえすれば同じ種類の形象を使うということを会得していく。このように、個々の具体的な言語が持っている対象→認識→表現の具体的な結びつきのなかには、社会的な約束に基いた普遍的な関係がふくまれており、この普遍的な関係を抽象して認識しその後の言語表現を媒介させるのがいわゆる言語の習得である。この抽象的な認識こそ、ソシュールのいう『言語(ラング)』の正体である》(同上。傍線は原文では傍点)

 このように、言語の習得に利用される社会的な約束に関する抽象的な認識の総体がソシュールのいう「ラング」であると三浦はいうのです。つまり、「ラング」とは、具体的な言語でもなんでもないのです。「対象→認識→表現」という具体的な言語実践の結果、抽象され蓄積された社会的な約束の総体であり、三浦は後年本格的な意志論を展開して、そのなかでこの社会的な約束を観念的に対象化された意志のひとつのありかたであるとして、「言語規範」と呼んでいます(5)。言語規範は実際に物質的に表現される具体的な音声や文字や手のかたちではなく、あくまでも観念的に対象化された意志のひとつのありかたであり、言語に関する社会的な約束の総体です。一般には、この社会的な約束を獲得することを言語の習得と呼んでいます。ヘレン・ケラーがサリバン先生の導きで「water」という指文字の表現形象と水という現実の対象との結びつきを理解した際の逸話は有名ですが、彼女はこのとき、「水」という対象の種類としての側面と、「water」という指文字の種類としての側面とが、みずからの認識を媒介として結びついていることを自覚したのです。そして同時に彼女は、この種の「言語の習得」がいろいろな対象について行えることを自覚して、一気に世界が開けたように思えて喜びに満たされたのです。


 一方で、この社会的な約束すなわち言語規範は、個々の具体的な言語表現行為の際にも関わってきます。

《 ……認識を相手に伝えるには、まず感性的な物質を通じて相手の感覚に訴えなければならない。それで言語も音声(聴覚)文字(視覚)点字(触覚)などの感性的な形象を用いている。この、超感性的な認識を感性的な形象によって伝えなければならないという事実、これを言語表現に独自の客観的な矛盾としてとらえ、この矛盾がもって自らを実現すると共に解決するところの運動形態を認識と表現とのなかにたぐっていくことこそ、弁証法的唯物論の立場からの言語の分析である。矛盾はまず存在しそれから解決に媒介されるものとばかり思いこむのは形而上学であって、矛盾の実現自体が直接に解決でもあるような運動形態の存在をも自覚するのが解決についての弁証法的な理解であり、これを欠いたのでは言語の矛盾は分析しえない。これまでマルその他がマルクス主義言語学者と称しながら言語の矛盾の分析を全く行わなかった理由も、一つは矛盾の形而上学的な理解にもとづいていることを指摘したい。

 第二節でのべたように、超感性的な認識を感性的な形象によって伝えなければならないという矛盾は、表現形象の二重化として、超感性的な面での表現との対立の直接的な統一として、現象している。弁証法について通じている読者は、直接性と媒介性とが不可分であることから、この直接的な統一の背後に、認識における媒介運動の存在を推定されるであろう。まさにそうなのだ。そして、ここから、ソシュールの「言語(ラング)」や言語の「材料」と呼ばれているものが、言語表現に独自の矛盾がうみだした特殊な認識であることや、それ自体は言語の基盤でも材料でもなく言語表現の媒介者であることや、この特殊な認識の形態ゆえにあやまって認識そのものが言語であるかのように解釈されたことまでも、おぼろげながら想像することもできるはずである。弁証法は、こうして言語の謎を解いていく》(同上、傍線は原文では傍点。太字は引用者)


《 具体的な言語は、特定の語り手が特定の時刻に特定の場所で特定の対象について語ったものであるから、対象→認識→表現はこの意味での特殊性をもっている。概念は対象の普遍的な面をとらえていても、その背後には特定の感性的な認識がかくれており、また特定の個人の認識として存在している。表現形象が特定の感性的な面をもつことはいうまでもない。ここから普遍的な関係を抽象するのであるから、認識においても、表現においても、当然個人的な性格は捨象されてしまう。ソシュール的にいえば、「物理的な部分は雑作なく取除けられ」てしまう。まさにそのために、この抽象的な認識を、ソシュールは個人以外に存在する実体であるかのように歪めて解釈して、「言語(ラング)」は「個人を外」にした部分と説明することにもなったのである。これは、幾何学で「線」や「面」を抽象して扱うのを、これらがそのままのかたちで個人と無関係に客観的に存在するかのように思いこむのと似ている。

 時枝氏は、「言語(ラング)」の正体を、「個物を通し帰納せられた普遍的概念に相当するもの」と見た。これは正しかったのだが、惜しいことに検討がここで挫折して、あとは個人の整序能力であると解釈されてしまっている。すでに「辞書は……言語的表現行為、或いは言語的理解行為を成立せしめる媒介となるもの」と見たからには、ここから「言語(ラング)」の正体が媒介のための認識ではないか、具体的な表現のための具体的な概念とは別に「普遍的概念」が存在するのではないか、を疑うべきだったのである。この概念の二重化は、実に、超感性的な認識が感性的な形象によって表現されなければならないという矛盾を原動力として媒介されつくりあげられた、言語表現に特有の概念形態である。この二重化を発見してその過程を説明できなかったところに、これまでの形而上学的なソシュール批判の限界があり、克服することのできなかった原因がある》(三浦つとむ「言語における矛盾の構造」。傍線は原文では傍点。太字は引用者)

 概念という超感性的な認識を感性的な形象によって伝えなければならないという矛盾を、三浦は言語表現に独自の客観的な矛盾としてとらえ、《この矛盾がもって自らを実現すると共に解決するところの運動形態を認識と表現とのなかにたぐっていく》ことが重要だと指摘します。三浦はこの種の矛盾の実現が同時に解決でもあるような矛盾について、マルクスの『資本論』に含まれる記述(6)からヒントをえて、これを「調和する矛盾」あるいは「非敵対的矛盾」と呼んでいます。すでに見てきたように、表現としての具体的な音声や文字には概念の種類としての側面が反映しており、表現形象は明らかに感性的かつ超感性的というように二重化しています。では、その表現の元となった認識の段階において、超感性的なものと感性的なものとを結ぶ媒介運動がすでに存在していたはずです(7)。三浦はこの媒介運動を、ソシュールのいうラングに相当する「特殊な認識」による媒介運動であるとしました。この媒介運動をヨリ具体的にいうと、具体的な表現のための具体的な概念を、言語規範における感性的な形象と不可分の「普遍的概念」が媒介し、これによって具体的な概念の表現形象を決定させ、表現へとつなげているのです(8)。

 個々の具体的な言語表現においては、まず対象についての概念が成立し、これに言語規範の「普遍的概念」が関係することによって観念的な形象が決定し、それから認識における概念が止揚され、物質的な表現形象としての言語が成立するというわけです。このように、「言語規範による表現の媒介」論は必然的に「概念の二重化」論を含みます。私はこのブログの『〈概念の二重化〉説1~3』において、小川文昭氏との議論を通して「概念の二重化」論について詳しく論じています。興味のある方はそちらを参考にしてみてください。

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 私はこの論考の「2」において、三浦つとむの言語理論における4つの鍵概念を以下のように規定していました。

(a) 言語表現の特質は、概念とよばれる認識の種類としての表現というところにある。
(b) 超感性的な概念を感性的な音声や文字に表現することが可能であるのは、言語規範による表現の媒介によるものである。
(c) 表現はすべてその背後に「対象→認識→表現」という図式が存在する。
(d) 観念的な自己分裂の理論。

 以上見てきたように、三浦の言語研究は1932年に始まっていますが、(a)~(d)の鍵概念のすべてが、1954年に発表された「言語における矛盾の構造」までにその理論の土台となる考えかたができあがっていたと見ることができるでしょう。各概念にはそれに付随する考えかたや理論があるのでそれを合わせて覚えると理解しやすいのではないかと思います。「種類論」は「言語表現と非言語表現」論と、「言語規範による表現の媒介」論は「概念の二重化」論と合わせて検討し、「対象→認識→表現」という図式は表現論の基礎であると同時に、観念論的誤謬に陥らないための防波堤の役割をもかねていることや、観念的な自己分裂の理論は言語理解の際の認識構造や時の表現の構造などを理解するのにきわめて役に立つということなどを抱き合わせて覚えると、理解がヨリ一層進むのではないかと思います。


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(1)三浦が「超感性的」という言葉を用いたのはこの論文が初めてです。
(2)三浦つとむ『言語過程説の展開』(勁草書房、1983年8月)390頁。手話における表情豊かな表現の仕方もこの感性的な表現の系列に属します。コロナ禍において、一時期マスクをしながらの手話が行われていましたが、ある時期からマスクがフェイスシールドに取って代わられたのを見て、手話における感性的な表現の系列の重要性をあらためて認識させられました。
(3)かつてテキストサイトというブログの前身のようなPCサイトで、「侍魂」という個人運営の人気のサイトがありました(「ヒットマン事件簿」などが有名)。作者は、文字の色や大きさを自在に変えることにより、面白味やインパクトを醸し出し、内容のおもしろさも相まって若者から絶大の人気を誇っていました。また、言語の継時的特質を利用して、何もない背景黒の画面を継続的に現出させることにより、時間的なためをつくるなど、目的的な「零記号」的表現も使われており、言語における非言語表現のもつ可能性を感じさせるものだったといえるでしょう。
(4)三浦つとむ『スターリン批判の時代』(勁草書房、1983年4月)108頁。


(5)三浦つとむ『認識と言語の理論・第一部』(勁草書房、1967年7月)。第三章「規範の諸形態」。
(6)《 すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した・且つ相互に排除しあう・諸関連をふくんでいる。商品の発展は、これらの矛盾を止揚しはしないが、しかし、これらの矛盾がそれにおいて運動しうるところの、形態( Form )を創造する。かくの如きは、総じて、現実の諸矛盾がもって自らを解決する方法である。たとえば、ある物体が飛び去るということは、一の矛盾である。楕円は、この矛盾がもって自らを実現するとともに解決するところの、運動諸形態の一つである》(マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章第二節)
(7)ヘーゲルは『大論理学』において、次のように述べています。
《 媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない》
(8)三浦は後年、この「概念の二重化」について次のように述べています。
《 ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、 langue の一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二者の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである》(三浦つとむ『言語学と記号学』勁草書房、1977年7月。27~28頁。傍線は原文では傍点。太字は引用者)


 私は拙著『言語過程説の研究』第2章第4節において、言語表現過程における「概念の二重化」の図式を以下のように図示しています。「A」は超感性的な側面を、「B」は感性的な側面をあらわしています。

(川島正平『言語過程説の研究』85頁)






(2020/7/1 脱稿  2026/5/8 更新、再掲)

 

2026年05月08日