言語と記号の差異について 2
〇言語と記号における「場の表現」について
小川さんの問題提起
以前、私は、言語と記号の差異に関する三浦つとむの見解を「言語と記号の差異について1」において紹介しました。それは、言語表現と記号表現はともに規範を媒介とする概念の表現である点で共通しているが、言語規範が「開かれた規範」であるのに対して、記号規範が「閉ざされた規範」である点が異なる、というものでした。
ところが去年の夏、ある研究会で小川文昭さんは、この問題に関連した次のような見解を発表されていました。ここに、その見解の一部を掲載します(小川さんからの承諾は得ています)。
《3.場の表現の意義
記号表現では、「場の表現」なしには、個別の対象を表現することができない。表現内容の個別性は「場の表現」としてしか現れない。
言語表現では、文の場合は、主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現されるから、「場の表現」が目立たない。「場の表現」がはっきりするのは語の場合で、語順による表現は、語の「場の表現」である》(小川文昭氏「場の表現の意義」第6回LACE研究会、2002.8)
ここには、言語と記号の差異に関するきわめて示唆に富んだ見解が示されているように思われます。たしかに、記号表現は、それだけをとってみると、記号規範に媒介された概念が表現されているだけであり、そこから全体的な「意味」を把握することは困難であるように思われます。「場の表現」を伴ってはじめて、われわれは個々の記号の個別性をも含めた全体的な「意味」を理解することが可能なのではないでしょうか。
たとえば、「車両進入禁止」という意味の交通標識(○の中に太い横線を1本引いただけのもの)がありますが、この記号の意味は運転免許を持っている人であるならば誰でも知っていることですが、ただ現実の記号表現では、それは必ずどこか特定の場所に設置されているものです。そして、そうでないならば、この記号表現はそれ自体意味をなさないということができるでしょう。いいかえれば、記号表現は、その表現がどこか特定の場所に置かれることによってはじめてその表現が完成する、ということができるのではないでしょうか。ちなみに、「場の表現」とは、三浦によると、次のような表現のことをさします。
《……ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている場合はすくなくない。たとえば、死骸を埋めた場所に死者の持ち物や石塊や木片の十字架を置いて墓標にするとか、幼児が事故のために死んだ場所に石の地蔵を置くとか、偉人の生誕の地に銅像を立てるとか、作家が好んで遊んだ名勝の地に歌碑や句碑を立てるとかいう行為は、それらの事物自体にどんな思想が表現されているかということと直接関係なしに、それらを他の場所ではなくその場所に置くということ自体が一つの認識を示すことであり、一つの表現になっている。これらを<場の表現>とよぶことにしよう》(三浦つとむ『言語学と記号学』p.9)(太字は原文では傍点)
もちろん、「場の表現」は、記号にだけ伴うものではありません。言語にも「場の表現」は伴う場合があります。たとえば、隊列を組むためにその基点となる人が手を挙げて「集合!」と叫ぶ際、その叫んだ人はただ単に「集合せよ」と要求しているのではなく、自分のいる場所を起点にして隊列を組め、ということも要求しています。文字言語でいうならば、トイレのドアに掛けてある「使用中」という札は、まさに目の前のその特定のトイレが「使用中」であることを示しています。これらはいずれも言語表現と「場の表現」との複合表現であるということができるでしょう。
ここでは、上のような小川さんの問題提起をもとに、言語と記号の差異について、「場の表現」という概念を中心に論考を進めてみようと思います。
広義の「場の表現」と狭義の「場の表現」
まずはじめに、「場の表現」の定義を明確にしておこうと思います。なぜなら、およそ表現とよばれるものは、見方によってはすべてある意味「場の表現」であるということができるからです。表現とは、表現主体が自らの認識を外部の物質的な実体に<像>として固定化したもののことをさします。ということは、表現はすべて、表現主体が或る時、或る場所で、或る物に対して為すものですから、それらはすべて広い意味で「場の表現」であるともいえるのです。たとえば、音声言語のほとんどすべては、言語規範に媒介された認識を表現していると同時に、その言語を表現しているの表現主体は今まさにそこでそうして物理的な音声を発しているところのその人ですよ、ということも表現しています。面と向って話しているのではない場合、たとえば放送で不特定多数の人間に対して音声言語を表現するときなどは、一見「場の表現」と縁がなさそうですが、これも実はよく考えてみると、その放送内容を表現しているのが放送の係りの人間であり、放送室や受付からその言語を表現している、ということを放送内容と同時に表現しています。これらは、広義の「場の表現」ということができるでしょう。
先に紹介した三浦つとむの定義は、これら広義の「場の表現」とは異なります。それは、《…ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている場合》(三浦つとむ『言語学と記号学』、太字――川島)のことをさします。ですから、先に挙げた「集合!」の例やトイレの「使用中」の例はまさにこれに当てはまりますが、あとに挙げた広義の「場の表現」の例はこれに当てはまりません。この三浦のいう意味での「場の表現」、つまりある事物をある特定の場所に置くということそれ自体が「目的的な行為」となっており、その結果として表現された「場の表現」は、狭義の「場の表現」ということができると思います。ここでは、この狭義の「場の表現」について、考えてみようと思います。以下、特に断り書きのないかぎり、「場の表現」とは、このような狭義の「場の表現」をさすものとします。
言語と記号における「場の表現」
記号の多くは、先の交通標識の例のように、「場の表現」を伴っているといえます。酒や清涼飲料水の商標は瓶やペットボトルに貼りついており、その中の物がそれら特定の企業の商品であることを示しています。また、地図や図表の中で使われる諸記号も目的的な「場の表現」といえるでしょう。郵便局やお寺や神社を示す記号は決して図の中のどこでもよい場所に記されているのではなく、それらはある特定の図の中においてそれらが占めるべき場所に記されています。つまりそれらの記号は、現実の空間的配置の近似的な反映として地図の中のしかるべき場所に配置されているのです。
「場の表現」を伴っていない記号としては、数式における記号や化学の構造式における記号を挙げることができるでしょう。これらは、他の諸記号のように、その場所にあること自体がある特定の対象を指し示すことになっているわけではありません。ですから、これらは数少ない例外であるということができます。けれども、ほとんどの記号が「場の表現」を伴っているという事実に変りはありません。
言語においても、先の「集合!」やトイレの「使用中」の例のように「場の表現」を兼ね備えているものはたくさんあります。教室で教師が出席をとる際に、呼ばれた生徒が発する「はい」という表現は、主体的表現に属する<応答詞>の表現ですが、これも個々の生徒がそのときその場所で(教室内というある限られた場所で)表現することそれ自体が、「今日私は出席しています」というある特定の認識を表現することになっており、「場の表現」の性質を備えています。けれども、その他多くの言語表現は、そのときその場で表現することそれ自体が目的的な行為となっているというようなものではなく、先に説明したようなたんなる広義の「場の表現」であることが多いものと考えられます。その原因は、言語では、文法体系が高度に発達しており、個別の対象でも<代名詞>を使ったり、主体的表現と客体的表現を組み合せて表現することによって、比較的容易に表すことができるからだと思います。言語は、表現主体の思惟の働きをそのまま近似的に表現することが可能なので、個別の対象を表すのに対象そのものに密着して表現する必然性がないのです。ですから、言語においては、「場の表現」を伴うものより、むしろ「場の表現」を伴わない表現の方が多いのです。
もっとも、より巨視的な立場からいうならば、記号は、言語のように必ず継時的に読まなければならないわけではなく、ぱっと見てすぐに理解できるものが多いので、てっとり早くある特定の事物や事柄の性質が何であるかを受け手にひと目で理解させるためにきわめて便利な表現だから、その表現が個別の対象と密着したかたちで表現されることが比較的多いのだ、ということができましょう。
以上のことから言えることは、記号においては、ほとんどの場合「場の表現」が伴っているのに対して、言語においては、「場の表現」の伴わない表現が比較的多い、ということがいえるでしょう。小川さんの指摘されたように、これも、言語と記号の境界線を分つ重要な要素ということができます。
言語と記号における主体的表現・客体的表現
ここで私は、小川さんにひとつお聞きしたいことがあります。先に引用した小川さんの記述の中に、《言語表現では、文の場合は、主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現されるから、「場の表現」が目立たない》とありましたが、《主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される》とは、いったいどのようなことを言い表しているのでしょうか? 具体的な例を出して説明していただけないでしょうか?
私は、言語において認識の個別的な側面が比較的容易に理解できる理由は、言語が特定の事物や事象を<代名詞>を用いて表現できることが大きいと考えています。また、言語においては、受け手が個別の言語の背後に存在する――時枝誠記いうところの――「場面」(注1)を理解することによって、言語によって表現される抽象的な概念の個別性を正確に理解する道が開かれているとも考えます。たとえば、同じ部屋の中にいるAさんがBさんに「万年筆とってもらえます?」と言う場合、Bさんは同じ部屋の中にいるAさんが自分に対してそういうお願いをするのだから、必ず自分の近くにある特定の万年筆があるはずだ、とAさんの立場に立って推測をめぐらせるでしょうし、また多くの場合、表現主体であるAさんもBさんの近くにある特定の万年筆が存在することを確認してから表現することにもなるでしょう。このように、言語においては、<代名詞>の存在や、受け手が言語の「場面」を逆推することによって、対象の個別性を理解する道が大きく開かれている、ということができると思います。また、先に少し述べたように、言語においては、表現主体の思惟の働きを、対象・判断・意志・感情も含めてすべてを総合的に近似的な反映として表現することができる、ということも言語が個別性の表現に適していることの一因になっていると思います。
もっとも、受け手が言語の「場面」を理解できることの背景には、言語が主体的表現と客体的表現とを統一して表現することができるということがあるので、その意味で対象の個別性を理解する上で主体的表現が大きな役割を果している、ということはたしかに言えるでしょう。また、小川さんの問題提起から私がここで認識を新たにしたことは、記号それ自体では主体的表現をすることができず、それはつねに客体的表現しか表現することができない、ということです。先の交通標識の例でいうならば、この記号それ自体は、「車両進入禁止」という客体の反映としての認識しか表現することができず、表現主体の「意図」や「判断」も含まれた総合的な認識は表現することができません。小川さんのいうように、記号では、そうした総合的な認識の表現は、記号をある特定の場所に置くことによって、すなわちそれが「場の表現」と融合することによって、初めて可能になるのだと思います。たとえば、「車両進入禁止」という記号は、ある特定の物質的な媒材に付着して、どこかある特定の場所、すなわちある具体的な道の入り口に置かれることによって、初めて受け手は表現主体の全体的な認識、すなわち「ここから先は車両進入禁止ですよ」という認識を理解することができる、ということができるでしょう。
以上のことから、言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号それ自体としては客体的表現しか表現することができない、記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには「場の表現」と融合しなければならない、ということができるでしょう。これも、言語と記号を分つ重要な指標の一つであるといえましょう。
まとめ
以上のことをまとめると、次のようになります。
1.記号においては、数式や化学の構造式のような数少ない例外を除いて、ほとんどの場合「場の表現」を伴うが、言語においては、「場の表現」を伴わない場合が比較的多い。
2.言語は客体的表現と主体的表現とを統一して表現することができるが、記号はそれ自体としては客体的表現しか表現することができない、記号が表現主体の「意図」や「判断」をも含めて理解可能となるためには、「場の表現」と融合しなければならない。
これに、「言語と記号の差異について1」で私が紹介した三浦の見解である、
3.言語規範は「開かれた規範」であるのに対して、記号は「閉ざされた規範」である。
という説を加えると、ほぼ言語と記号の差異に関する説は言い尽したことになるのではないでしょうか。
――ちなみに、いうまでもないことですが、上の「1」「2」は、どちらも小川さんの見解を私なりに表現したものです。小論は、小川さんの問題提起に基いて、それを私なりに敷衍して論を展開したものです。よろしければ、小論に対する小川さんのご意見をうかがいたく思います。もちろん、その他一般の方でも、何かご意見・ご感想等ありましたら、投稿を歓迎いたします。
【注1】 時枝誠記は、主著『国語学原論』において、言語が現実に表現されるためには、必ず「主体」「場面」「素材」の三要素が存在しなければならない、と主張しています。その理由は、言語は、《誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)かについて語ることによつて成立するものである》(p.40)からです。時枝は「場面」について、次のように説明しています。
《……場面の意味は、例へば、「場面が変る」「不愉快な場面」「感激的場面」などと使用される様に、一方それは場所の概念と相通ずるものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的なものであるのに対して、場面は場所を充す処の内容をも含めるものである。この様にして、場面は又場所を満たす事物情景と相通ずるものであるが、場面は、同時に、これら事物情景に志向する主体の態度、気分、感情をも含むものである。(中略)……我々は、常に何等かの場面に於いて生きてゐるといふことが出来るのである。例へば、車馬の往来の劇しい道路を歩いてゐる時は、我々はこれらの客観的世界と、それに対する或る緊張と興奮との融合した世界即ちこの様な場面の中に我々は歩行して居るのである。従つて我々の言語的表現行為は、常に何等かの場面に於いて行為されるものと考へなくてはならない。言語に於ける最も具体的な場面は聴手であつて、我々は聴手に対して、常に何等かの主体的感情、例へば気安い感じ、煙たい感じ、軽蔑したい感じ等を以て相対し、それらの場面に於いて言語を行為するのである。しかしながら、場面は只単に聴手にのみその内容が限定せらるべきものではなくして、聴手をも含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるものを含むものである。例へば、我々が厳粛な席上で一人の友人と相対する時と、他の打寛いだ席上で相対する時とは、聴手は同じでも、言語的場面としては著しく相違してゐると考へなければならない。以上の様に、場面は必ず主体の存在を俟つて始めて成立するものであつて、主体を離れて言語の場面を考へることが出来ないと同時に、場面が言語にとつて、不可欠のものであることは、言語が常に我々の何等かの意識状態の下に表現せられるものであることによつても明かである》(時枝誠記『国語学原論』p.43~45)
三浦つとむが「場の表現」というときの「場」とは、その表現が行われるある特定の地点・場所をさしますが、時枝のいう「場面」は、このように、その表現が行われるある特定の場所の意味のほかに、その場所にいる人や事物や景色なども含み、またそれらに対する表現主体の抱く観念的なあり方をも含むものです。私たちは、このような表現主体の「場面」を追体験することによって、個々の表現の意図の全体像を理解するという作業を普段から無意識のうちに行っているといえるでしょう。
(2002/3/13 脱稿)