時枝誠記における「対象の展開」論 8
「言語に対する二の立場」
時枝は、1940年7月に発表した「言語に対するニの立場」の(註)において、次のような伝達過程論を展開しています。
《(註)ソシュールは、右の如き概念と聴覚映像との連合過程及びそれに随伴する生理的物理的過程を言語活動(ランガージュ)と考へた(小林英夫氏著「言語学原論」第三章第二節)
ここにソシュールは凡てを循行過程として理解したのである。然るにかかる循行過程に存する連合の作用から、直に概念と聴覚映像の連合したものが成立し、存在する如く考へたのは、甚だしい誤解であると云はなければならない。我々の考へ得る処のものは、主体的な循行過程以外の何ものでもない。若し言語に社会的な面を求めるならば、右の如き個人個人に存する循行過程そのものの中に求めなければならない。循行過程は社会生活によつて制約せられ、共通性を帯びて来る。言語が理解の媒材となり得るのはその為であつて、決して、概念と音声表象との連合したものが各人の脳中に存在するが為ではない》(時枝誠記「言語に対する二の立場−−主体的立場と観察者的立場−−」【『コトバ』1940年7月】1940年6月1日脱稿)
ここで「循行過程」というのは、言語表現行為や言語理解行為の精神的生理的物理的過程のことをさします。このように時枝は、この時点ではすでに、「概念」と「聴覚映像」とが連合する事実は認めるけれども、それらが連合したものが存在することは否定しています。「敬語法及び敬辞法の研究」と同じように、言語の内容としての概念や表象は存在しないというスタンスがうかがえます。ここまで来ると、『原論』における「意味作用」論・「概念作用」論まであと一歩という観があります。ちなみに、上の「主体的な循行過程」は、『原論』では「主体的な連合作用」に書き換えられ、「個人個人に存する循行過程」は「個人個人に存する循行過程或は連合作用」に書き換えられています。
また、注目すべきことは、時枝が言語における社会的な面が概念規定の行われる表現主体の脳内におけるこの「連合作用」過程に存在すると述べているところです。三浦つとむによる言語規範の媒介や〈概念の二重化〉もこの過程にて行われるものです。やはり時枝も三浦も見つめている対象は同じなのだなということがよく分かります。時枝は規範論を含む認識論の助けがなかったので現象学へと近づき独自の機能主義理論を構築し、三浦は唯物論的認識論の助けをえて、独自に認識論を構築し、この問題を処理したというわけです。
(続く)
(2020/9/30 脱稿 2025/10/1 gooブログより転載)