時枝誠記における「対象の展開」論 9

「言語の存在条件−−主体、場面、素材−−」

 時枝は「言語に於ける場面の制約について」(1938年1月11日脱稿)において、「主体、場面、素材」を表現の「三つの要素」として規定して、それらの相互の連関として言語表現行為について説明していたことはすでに見てきたとおりです。「言語の存在条件」(1940年12月2日脱稿)において時枝は、ついにこれらを言語の「構成要素」から除外して、言語の「存在条件」として規定し直します。

《言語を観察するのに、これを言語自体に限定して、これを構成する要素に分析することは、従来一般に試みられて来た方法であつて、言語を音声と概念との結合であるとするが如きはそれである。しかしながら、我々はかくの如き言語自体の分析をなす前に、更に重要なる観察を忘れてはならない。それは言語の存在条件が如何なるものであるかを知ることである。存在条件といふことが、いかなることであるかは、これを譬へていへば、家屋を観察する時、これを玄関とか、客間とか、居間とかに分析して、家屋の構造を明かにするのは、言語を音声と概念とに分つ処の方法に類する。しかしながら家屋の本質を明かにする為には、右の様な要素の分析と同時に、家屋を成立さす処の条件の存在を考慮に入れることが必要である。家屋が成立する為には、第一に地盤が必要である。地盤は家屋の構成要素とはいひ得ないが、地盤なくして家屋は存在することが出来ない。(中略)地盤なり、設計者なり、居住者なりは、皆家屋の構成要素とはいひ難いものであるにも拘はらず、家屋の本質はそれによつて成立し、その構造はそれによつて本質的な規定を受けてゐると考へなければならない。それらのものを、今家屋の存在条件と名付けるならば、物を観察するのに、その構成要素を明かにすると同時に、或はそれ以上に存在条件を考慮するといふことは重要なことである。然らば言語の存在条件とは如何なるものであるかといふに、第一主体(話手)、第二場面(聴手及びその他)、第三素材(事物)の三者を挙げることが出来ると思ふ。これは言葉を換えていふならば、言語は、誰か(主体)が、誰か(場面)に、何物(素材)かについて語ることによつて成立するものであることを意味する。この中の一を除いても言語は成立し得ないし、又言語はこの三者の制約の下に成立するといふ意味でこれを言語の存在条件といふことが出来るのである》(時枝誠記「言語の存在条件−−主体、場面、素材−−」)

 このように、ここにおいて、言語の成立を下支えしているところの「主体」「場面」「素材」が言語の「存在条件」として規定されました。「存在条件」とは、家屋の比喩で語られているように、あるものの構成要素ではないが、そのものの成立を支え、制約を与えているところの重要なものという意味です。このうち「主体」と「場面」については、「言語に於ける場面の制約について」とほぼ同じ内容となっています。「素材」の内容については、以前はぼかされたかたちでその具体的な内容が明らかにされていませんでしたが、この論文においては、時枝は次のように「素材」について具体的に論じています。

《素材は言語に於いて一般に音声形式に対応するものとして考へられてゐる事物、表象、概念であつて、意味の名称によつて普通には音声と共に言語の要素として考へられてゐる。しかしながら、言語を主体の表現行為であると見る立場に於いては、事物にしろ、表象にしろ、概念にしろ、それらは凡て主体によつて、ついて語られる客体であり、素材であるといふ点に於いて共通したものであり、言語の内部的な構成要素と見ることは出来ない》(同上。太字は引用者)

 このように、「素材」の内容が「事物、表象、概念」であることが明らかになりました。けれども、それらは「ついて語られる客体であり、素材であるといふ点に於いて共通」しており、「言語の内部的な構成要素」ではない、と言われても、いまひとつ理解しがたいところがあります。そもそも、「言語の内容」について諸説ある状況下において、さらに「言語の存在条件」を云々するということ自体、すでにある種の困難さを予想させます。ここではさらに、「素材」について語る、時枝の次のような比喩について検討してみることにします。

《…しかしながら、言語が成立する為には、それについて語られる処の素材が絶対に必要であつて、語られる素材の無い言語の無意味であることは、搬ばれる貨物や旅客の予想されない鉄道の様なものである。従つて素材も亦言語の存在条件といふことが出来る。右の様に素材を言語の内部から除外して、これを存在条件と見る見方は、従来の言語学説と著しく相違してゐる様に考へられるかも知れない。しかしこれは、言語を主体的な表現行為とする説の重要な結論である。これを譬へていへば、言語は、一方の岸より他方の岸へ、人を搬ぶ機能を有する橋の様なものである。渡る人があつて始めて橋の存在といふことがあり得るのであるが、さりとて橋を渡る人そのものは、橋の構成要素ではあり得ない。橋の構成要素は、欄干、橋桁、橋脚の様なものであつて、人は橋の存在条件である。しかし、橋は渡る人に制約され、又如何にこれを渡すかによつて構造が規定されるのである。言語と橋との相違は、橋は人をそのままに対岸に搬ぶことが出来るが、言語は、素材をそのままの形で搬んで、他人にこれを受渡す様なものではない》(同上)

 このように時枝は、言語を人を運ぶ橋に見立てて、「素材」は言語によって伝達されるところのものであり、橋を渡る人のようなものであり、言語の「構成要素」ではないが、言語の「存在条件」であるといいます。「存在条件」とは、あるものを構成するものそのものではないが、それが形成されるにあたって欠くことのできない重要なもののことをいうので、渡る人が橋の存在条件であるということは理解できます。橋と人とは別々の物質的な実体であり、渡る人からの規定が橋を構築する際に大きな制約を及ぼすことは事実だからです。けれども、言語において、「素材」のなかの「表象」や「概念」は観念的な存在であり、これらが言語の構成要素ではない、存在条件である、と言われてもいまひとつピンときません。人は橋に含まれるものではないが、「表象」や「概念」は言語に影響を及ぼすものの、人の脳内に含まれるので「構成要素」といえるのではないか、という疑問は残るからです。


「表象」や「概念」も言語の外へ

《…素材が如何にして主体によつて把握され、変形されて聴手に伝へられるかは、言語研究の重要な課題であるばかりでなく、言語の実践の基礎となる事柄である。音声の対応物が事物そのものである時は、これを言語の要素であると考へることはないが、抽象的な概念或は単なる表象である場合には、屢々それが言語の内部的なものであると誤認され、これが言語の意味と呼ばれることがあるが、表象や概念が心的内容であるからとて、言語の内部的要素とは見ることが出来ないのであつて、それらは言語主体から見れば、やはり客体的なものであり、外のものと考へなくてはならない》(同上)

 時枝はさらにこのようにいいますが、言語を主体による表現行為そのもの、理解行為そのものと見る立場からするならば、主体に含まれる「表象」や「概念」はやはり言語を構成する要素ということになるのではないか、という疑問が残ります。この、「表象」や「概念」でさえも言語の構成要素ではないとする考えかたは、かなり大胆な考えかたですので、これを受け入れるためには、それなりに具体的・論理的な説明が必要でしょう。ところがこの論文において、そうした実証的・論理的な説明はありません。この論文発表(1941年1月)から11ヶ月後に発表された『原論』において、唯一、次のような具体的な説明があります。
《…構成的言語観に於いても、言語によつて表現せられる事物自体、たとへば、「サクラ」によつて理解せられる「桜」そのものは、言語の構成要素と考へられないのに対して、概念「桜」は、構成要素であるといはれることは正しいであらうか。概念は成程心的内容として言語主体の外に在るものでなく、その意味で言語の構成要素と考へられる可能性があるが、しかしながら、それは一方は物的なものであり、他方は心的なものであるといふ相違だけであつて、素材として、言語主体に対立してゐる関係から見れば、何等の相違をも見出すことは出来ないのである。宛も画家が実際の風景を見て描いた場合と、想像によつて描いた場合と、描かれた素材に即していへば、斉しく絵画の素材である。同様にして言語に於いても、具体的な一個の犬を指して

  犬が来た。

といふ場合に指された一個の犬と、単に抽象的に、

  犬は哺乳動物である。

といつた場合に、指された概念「犬」について、前者は言語の構成要素でないが、後者は構成要素であるといふことは出来ないのである。具体的な個物であつても、心理的な概念であつても、言語主体によつて、表現の素材として把握された以上、主体に対立したものと考へなくてはならない》(時枝誠記『国語学原論』53~54頁)

 ここに示された、具体的な「事物」は言語の構成要素ではない、それゆえ「概念」も構成要素ではない、という考えかたは、明らかに逆立ちした考えかたであるといえるでしょう。言語表現には、背後に「対象→認識→表現」という過程的構造が存在するのであり、概念は、元となる対象が「事物」だろうと、「概念」や「表象」だろうと、対象の抽象化、一般化、あるいは対象的「概念」の横すべりの過程をへて成立します。そして、そこから言語規範の媒介によって概念の感性的なかたちが決定され、物質的な音声や文字として表現にまで高められることになります。「事物」としての「桜」を表現した場合であろうと、「概念」としての「桜」を表現した場合であろうと、言語表現としてはいずれも概念化の過程をへざるをえないのであり、いずれも表現の背後には確固とした概念内容が存在します。対象としての「事物」も、「概念」や「表象」も、概念としての受容という過程を通っている、その意味において、「関係」としてのつながりでみるならば、言語の構成要素と言えるでしょう。また、基本的には、表現主体の意志の統御のもとで表現が行われているので、この概念内容を「主体と対立したもの」と考える必要はありません。もちろん、表現されたあとでは、「概念内容」は物質的な表現に結びつけられた「関係」として存在するので、表現主体と一応離れて存在しますが、「関係」自体は残っているといえます。画家が実物を見て描いた場合も、想像の物を見て描いた場合も、ともに、「対象→認識→表現」内の認識におけるとらえ返しの過程が存在します。その認識の過程を表現へとつなげているので、ここでも「素材」は表現の内容を形成しているといえるでしょう。


機能主義理論の完成

 すでに見てきたように、時枝は「言語の存在条件」という論文において、「素材」の内容として「事物」だけでなく、「表象」と「概念」を含め、それらを言語の外のもの(存在条件)として規定しました。こうして、「表象」や「概念」でさえも言語の外のものであると認識されるに至ると、言語の本質、言語の意味は、次のように把握されることになります。

《以上の様に考へて来ると、言語は宛も思想を導く水道管の様に考へられ、全く無内容な形式のみのものと理解されるであらうが、そこにこそ言語の本質があり、言語過程説の根拠があるのである。素材の意味を明かにする前に、素材を言語の外に置いた時、言語自体としては何が残るかを検討して見ようと思ふ。列車の例によつてこれを考へて見るに、乗客は、列車の構成要素でなく、列車の存在条件であることは既に述べた。しかしながら、列車が乗客を収容する設備は、列車の本質的機能の現れとして、列車の構成要素と考へなくてはならない。この場合乗客の座席といふものは、列車が乗客を収容する機能と見なければならないのである。言語に於いて、事物表象概念は、言語の内部に属するものではないが、事物を認識する主体的な作用或は概念し表象する主体的作用は、言語の表現過程の第一階梯と考へなくてはならない。所謂意味といふことは、主体が言語表現に於いて素材を把握する把握の仕方と考へるのが意味の正しい概念であると思ふのである。勿論意味する作用には、意味される概念や表象があり、一般に意味といふ時、かく概念されたもの、表象されたものを考へてゐる。しかしこの考方は以上の様に訂正されねばならないのである。列車に於ける座席は必ず乗客を予想する。それは列車によつて把握されたものではあるが、列車の把握作用そのものではない。座席は列車の乗客を把握する仕方の具体的表現である。言語の意味を考へる時、列車に於ける乗客をでなく、座席を考へなくてはならない。意味をこの様に考へる時、意味は言語に於ける真に内部的なものであり、言語は実ににこの意味作用を表現してゐることとなるのである。言語は素材をそのままの姿に於いてでなく、素材に対する意味作用を表現してゐるのである。素材はこの様な意味作用によつて把握される客体といふことが出来るのである》(「言語の存在条件」。太字は引用者)

 こうして、ここに、時枝の機能主義的意味論は完成をみることになります。列車の「構成要素」は座席であり、「存在条件」は乗客であるように、言語の「構成要素」は「意味作用」であり、「存在条件」は「素材(表象や概念を含む)」であると、ここに宣言されたのです。ここにおいて、「表象」や「概念」が言語の外のものとして規定されてしまったので、「心的過程としての言語本質観」におけるような伝達過程論、すなわち「対象の展開」論を展開することは事実上不可能となってしまいました。時枝が「表象」や「概念」を言語の内容から除外してしまったこの時点(1940年12月2日)において、唯物論的反映論は否定されてしまったといえるでしょう。そしてそれは同時に、主体による「意味作用」論という機能主義の導入を意味することでもありました。「心的過程としての言語本質観」を脱稿した1937年2月8日から機能主義理論の完成まで、実に3年10ヶ月という時間が経過しています(2)。

 ここでの列車の比喩も、よく考えてみるとあまり適切なものではないことが分かります。橋の比喩の場合と同じように、列車と乗客とはそれぞれ別の物質的な実体です。乗客は列車から降りることができますが、「表象」や「概念」は観念的な存在であり、いいかえれば表現主体の脳内において成立するものであり、そのままのかたちで外の世界に出ることはできません。「表象」や「概念」は脳細胞において〈像〉として成立しているので、物質的な音声や文字として同じく〈像〉として模写されることによって初めて近似的に外の世界に出ることができます(1)。「表象」や「概念」は、表現においても内容を形成する実体として関係づけられているので、いいかえれば表現において止揚されているので、これらの「表象」や「概念」は、言語の構成要素ということができるでしょう。

          〜〜〜

(1)拙著『言語過程説の研究』(【リーベル出版、1999年】98~104頁)において、私は三浦つとむの〈像〉の理論について概説しています。

(2)この3年10ヶ月という期間は、時枝にとってはいろいろな意味で濃密な時間だったと言えるでしょう。戦中朝鮮において、その最高学府の国語学者として責任ある立場にあった時枝にとって、対峙しなければならないことは実に多くありました。それらについてはまた稿を改めて考察してみようと思います。

          〜〜〜

「同類異化」としての「意味作用」論

 時枝はこの論文の最後のほうで、次のように述べています。

《言語に於いて真に内部的なものとして重要なのは、素材でなく、素材の把握の仕方としての意味作用であるといふことは、言語自体がこれを示すと同時に、又そのことが言語教育の眼目となるのである。嘗て音義学説は、言語の音声が、言語の素材の模写である様に考へて、その方面から語を音声に分析し、各音の持つ表象を検討した。しかしながら、言語は事物の模写でなく、言語主体の素材に対する意味作用の表現でなければならない。それは例へば、「あふぎ」(扇)といふ語と、「すゑひろ」(末広)といふ語とを比較して見ても明かである。このニ語は共に素材的には同一物をいつてゐるのであるが、「あふぎ」といふ時と、「すゑひろ」といふ時とは、素材に対する言語主体の意味的把握の仕方を異にし、一方は「あふぐもの」として把握し、他方は「末広がりなるもの」として把握したことを表現し、それによつて夫々同一素材を理解させようとするのである。言語の素材は千差万別で、一として同一なものがないのであるが、言語主体は、種々なる意味把握の仕方に於いて同類のものを規定するのである。概念とはかく規定された客体についていふのであるが、その根柢には、素材に対するかくの如き同類異化の作用である意味作用を認めなければならない。そして言語はかくの如き規定された概念をでなく、規定する仕方を表現してゐるのである。榊といふ本邦製作の文字について見ても、それは異つた素材のものを、「神事に用ゐる木」といふ把握の仕方で規定し、その規定をそのまま表現してゐるのである。言語に於ける意味の理解とは以上の如き把握の仕方を理解することであり、素材の理解は、右の様な意味の理解を通して始めて可能となるのである。言語が素材そのものの模写でなく、意味の表現であるといふことは、言語経済にとつては好都合なことであつて、さもなければ、言語は森羅万象の個々に応ずる表現を用意しなければならなかつたであらうと思ふのである》(同上。179~180頁)

 ある言語理論をてっとり早く評価しようとするとき、まず検討すべき箇所は、同じ対象を異なる語で表現している事実についての見解でしょう。三浦つとむが初めて言語学の理論書を手にしたのも、同じ事物を異なる名称で表現している事実の理論的な説明を確認しようとしたためでした(1)。時枝は上のように、「主体の意味作用」や「意味的把握」によってさまざまな「同類異化」的な表現が可能となると述べています。三浦つとむ的にいうならば、話し手による対象のとらえ方の違いによってそれぞれ異なる概念が成立し、それが言語規範の媒介によって、すなわち〈概念の二重化〉によって、それにふさわしい感性的なかたちが決定し、表現へと模写されることになるという説明になるでしょう。時枝の「対象の展開」論は、この三浦の理論に近いものであり、それによっても説明は可能だったはずなのですが、それだと「表象」や「概念」に意味を付与することになってしまうので、それは「言語構成観」的な考えかたであり、採用することはできないと思われたのだと思います。そこで山内得立の『現象学叙説』を参考にして、機能主義的意味論、機能主義的伝達過程論を構築したのだと思います。たしかに「意味作用」という概念は便利なものかもしれませんが、一方で、この言葉に頼りすぎると、概念の本質を見誤る可能性があります。概念は「素材そのものの模写」として成立するものではなく、対象の抽象化一般化において成立するのであり、その段階ですでにもろもろの個別的なものが捨象されているのであり、概念そのものが本質的に「言語経済にとって好都合」な存在なのです。このことと、「同類異化」や「異類同化」における「概念の移行」という現象とはまた別のことがらなのです。「意味作用」論は論旨が明快であり、一見整合性のとれたな理論のように見えますが、やはり言語理論としては、「対象の展開」論のほうが優れているといえるでしょう。

          〜〜〜

(1)三浦つとむ「弁証法は言語の謎をとく−−言語学批判序説−−」(『思想の科学』1948年5月)

          〜〜〜


(続く)




(2020/10/6 脱稿  2025/10/1 gooブログより転載)

 

2025年10月01日