言語と記号の差異について 3
川島 正平 様
今回は、わたくしの「場の表現」論を取りあげてくださり、ありがとうございます。おかげでわたくしも、半年以上眠らせてきた問題を、あらためて考えなおすことができました。
「場の表現」の全貌はまだつかめませんが、考えていることをまとめてみました。また御意見をうかがえればありがたく思います。
川島さんから、「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」とはどのようなことかという問いかけをいただきました。
これは、具体的な問題としては、日記に「快晴」と書くのと「○」の記号を書くのとはどう違うのかということがはじまりです。実際には、どちらでも同じことなのですが、理論的には違いが説明できなければならないと思い、話はすぐに、言語と記号の区別の問題に飛躍しました。
「快晴」と「○」の違いは、言語と記号の違いであり、その違いとは、零記号の主体的表現(判断辞)の有無だけではなかろうか、だとすれば、主体的表現の有無が意味するところのものは何か、ということを考えた結果、先の「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」ところに違いがあるのであろうということになりました。具体的には、下に引用した時枝誠記の詞辭論の、わたくし流の解釈です。
そもそも、対象の普遍性を把握・表現する点では、言語と記号は同じです。
しかし、言語は「普遍性を把握している個別」である話し手の認識が、対象の普遍性を把握したものでありながら、それ自体は話し手個人の個別の概念であるものとして、そのまま表現されるということです。
この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透しているのですが、辭は、はじめから話し手の個別に属する表現として特殊です。
記号には、言語の辭に相当する表現がありません。しかし、記号表現も個別の表現であるわけで、言語の辭に相当する内容がどこかにあるはずです。
それは、記号表現自体に潜在的にあるのだと思います。記号表現の、それが特定の個人により作りだされたものであるという側面に、個別性は結びついているのだと思います。
「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」のではあるが、しかしだからといって、「記号では、認識の個別的側面が個別性として表現されない」のではないかと考えたのは、いきすぎでした。
記号表現における「認識の個別性」の表現は潜在的なものにとどまっていて、その記号表現が特定の個人が作り出した個別の形であるという側面は、「認識の個別性」が結びついている、しかし、具体的な内容としては「認識の個別性」の表現は、記号表現そのものには存在しない、こういうことではないかと思います。
そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います。
結論としては、言語と記号との区別は、記号規範においては、潜在的であるにすぎない・認識の個別性の表現が、言語規範においては、詞辭の表現構造として顕在的なものとなっているということではないかと思います。
次に、時枝誠記『國語學原論』から、辭は、話し手の認識の個別性の表現であるということに関連する部分をいくつか引用します。
《言語が、特定個物を、一般化して表現する過程であるといふことは、言語の本質的な性格である。こゝに於いて、一般的表現を以て如何にして特定個物を表現することが出来るかの表現法の問題と、一般的表現より、如何にして特定の個物を認知し得るかの理解上の問題が起つて来る》(88頁)
《言語は如何なる場合に於いても一般的、概念的表現しか爲すことが出来ない。たとへ特定の現場或は文脈に於いても、「今、子供が死にました」といふ様な切實な表現すらが、概念的一般的表現に過ぎない。聽手が話手の氣持に同情の念を起こすことが出来るのは、これらの一々の語が、特定の意味に限定されてゐる爲でなく、かゝる一般的概念的表現を通して、話手の具體的な感情を理解するからである。理解は、現場や文脈によるのであつて、これらの語自身が限定されてゐる爲ではない》(89頁)
《辭によつて表現される處のものは、主體的なものの直接的表現であるから、それは表現主體の主觀に属する判斷、情緒、欲求等に限られてゐる。即ち話手の意識に關することだけしか表現し得ないのである。例へば、「嬉し」といふ詞は、主觀的な情緒に關するものであるが、それが概念過程を經た表現であるが故に「彼は<嬉し>」といふ風に第三者のことに關しても表現することが出来る。處が推量辭の「む」は、「花咲か<む>」といふ風に、言語主體の推量は表現出来ても、第三者の推量は表し得ない。「彼行か<む>」といつても、推量してゐるものは「彼」ではなくして、言語主體である「我」なのである》(<*>は原文では傍線)(234~235頁)
《詞は「山」「川」「犬」「馬」「喜び」「悲しみ」等の様に、客觀的なるもの、主觀的なるものの一切を客體化して表現するのであるが、それのみを以てしては思想内容の一面しか表現し得ない。これに對して、辭は、これ亦主體的なものしか表現出来ないのであつて、具體的な思想は常に主客の合一した世界であるから、詞辭の結合によつて始めて具體的な思想を表現することが出来るのである》(238~239頁)
時枝は辭を概念の表現とは考えませんでした。しかし、三浦つとむの、それを概念の表現と考える立場からいっても、上に引用した、時枝がいう辭の内容の特徴については、大きな異論はないのではないかと思います。
三浦つとむの考え方によれば、辭も、概念の・規範を媒介にした表現であって、「概念的一般的」な表現の一種になるはずです。
しかし、話し手の認識の個別性が「概念的一般的」にとらえかえされるとはいえ、それが「話し手の認識の個別性の表現」であることがはじめから決っているのが、辭の特徴です。
つまり、辭も、詞と同様に記号的な性質を持つものではあるが、辭は、話し手の認識の個別性のみの表現という条件をはじめからせおって規範化された表現であるということがいえます。
それから、川島さんによる「場の表現」の「広義」と「狭義」の区別を読み、言語がすべて広義の「場の表現」であるということは、重要な把握であると思いました。
たとえば、英語では、助けを求める「Help ! 」のような文に「主語」は要りません。言語表現がすべて広義の「場の表現」であることを、英語では、このような場合に利用することができるということができると思います。
また、「賛成!」と声をあげるだけで、その発言者が「賛成」なのだと想像できるのですから、日本語のように、話し手が、自分自身の動作について「主語」を表現しなくとも許されるというのは、それなりに合理的だということになります。
さらに、わたくしが考えたのは、滝村隆一の真似ですが、<表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>の区別です。
交通標識の「場の表現」のようなものは<表現―即―「場の表現」>ですが、わたくしが、文の中の語順は、語から見れば「場の表現」であるといったのは、<表現―内―「場の表現」>です。
また、数式や記号でも、分数のように、横線の上下に数字を書くのは<表現―内―「場の表現」>を含んだ表現であり、化学のベンゼン基の構造式も、六角形に記号を結びつけて書きますから、ここにも<表現―内―「場の表現」>があると思います。
〇筆者の応答(2002/3/26)
私の質問の意図
小川さん、久ぶりのご投稿、ありがとうございます。私の拙い問いかけに丁寧に答えてくださり、恐縮です。実は私自身、「言語と記号の差異について 2」で行なった小川さんに対する問いかけの仕方があまり適切でなかったのではないか、とあとで少々後悔しておりました。あの問いかけでは、私の意図するところを理解するのは難しいのではないかと自分でも感じたのです。ですから、私の問いかけの意図をまず最初に確認しておこうと思います。
《…「主体的表現によって、認識の個別的側面が個別性として表現される」とは、いったいどのようなことを言い表しているのでしょうか》(「言語と記号の差異について 2」)という私の問いかけは、そもそも言語表現においては、主体的表現だけでなく、表現全体に個別性が一般性とともに浸透している、という言語本質論上の認識が前提として私の中にあったからです。ですから、主体的表現のみが個別性を表現している、とも取れる小川さんの言葉に対して、少し違和感を感じたのです(もちろん、ああいった短いレジュメなので仕方ないと思いますが)。そこで、あの問いかけが出てきたというわけです。けれども、今回の小川さんのご投稿の中の《この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透している…》というくだりを読んで、小川さんも基本的には私と同じ認識を持っておられることがよく分りました。
言語における一般性と個別性
言語学の領域における時枝理論・三浦理論のおもな功績のひとつに、「言語の普遍性」を追究することに偏った構造言語学の過ちから脱して、言語の普遍性・個別性を統一して理解しようとしたという側面を挙げることができると思います。一般の人にも分りやすく言いますと、つまり、時枝理論・三浦理論には、構造言語学の陥った過ち、すなわち「言語に関わる領域においては、個別的なもの・個物にかかずらっていては、言語の普遍性に到達することができない。それでは、言語学はいつまでたっても科学となることはできない…」といった謬見を一撃のもとに打ち砕いて、新しい理論的なモデルを打ち出したという実績があります。それはどういうことかと言いますと、時枝理論・三浦理論は、具体的・個別的な表現行為そのものを論理的・過程的に分析しているのです。つまり彼らは、言語表現行為・言語理解行為を本質的に個別的な行為でしかありえない行為としてとらえ、そうしてその個別的な行為そのものの普遍性を分析・追究すべきことを主張して、これらの行為の背後に存在する過程的構造を理論的に取り上げたのです。その結果、――もちろん、理論の細部においては時枝と三浦はその見解を異にしていますが――、言語には表現主体の認識の一般性と個別性が統一して表現されていることを正しく喝破しえたのです。
言語と記号における主体的表現の特質
さて、言語と記号はともに表現の一種ですから、両者ともに主体的表現と客体的表現とを併せ持っていることは自明でしょう。言語における主体的表現の特質は、小川さんのおっしゃるとおりだと思います。
《そもそも、対象の普遍性を把握・表現する点では、言語と記号は同じです。
しかし、言語は「普遍性を把握している個別」である話し手の認識が、対象の普遍性を把握したものでありながら、それ自体は話し手個人の個別の概念であるものとして、そのまま表現されるということです。
この、個別性の表現という内容は、言語表現の全面に浸透しているのですが、辭は、はじめから話し手の個別に属する表現として特殊です》
《 時枝は辭を概念の表現とは考えませんでした。しかし、三浦つとむの、それを概念の表現と考える立場からいっても、上に引用した、時枝がいう辭の内容の特徴については、大きな異論はないのではないかと思います。
三浦つとむの考え方によれば、辭も、概念の・規範を媒介にした表現であって、「概念的一般的」な表現の一種になるはずです。
しかし、話し手の認識の個別性が「概念的一般的」にとらえかえされるとはいえ、それが「話し手の認識の個別性の表現」であることがはじめから決っているのが、辭の特徴です。
つまり、辭も、詞と同様に記号的な性質を持つものではあるが、辭は、話し手の認識の個別性のみの表現という条件をはじめからせおって規範化された表現であるということがいえます》(太字――川島)
このような、辭、すなわち言語における主体的表現が個別性のみを表現するものであるという小川さんのご指摘は、私もそのとおりだと思います。言語における主体的表現は、表現主体の判斷・意志・感情など能動的な・個別的な認識を概念として表現したものです。
問題は、記号における主体的表現はどのように表現されるかということです。小川さんは、次のように述べておられます。
《 記号には、言語の辭に相当する表現がありません。しかし、記号表現も個別の表現であるわけで、言語の辭に相当する内容がどこかにあるはずです。
それは、記号表現自体に潜在的にあるのだと思います。記号表現の、それが特定の個人により作りだされたものであるという側面に、個別性は結びついているのだと思います。(中略)
記号表現における「認識の個別性」の表現は潜在的なものにとどまっていて、その記号表現が特定の個人が作り出した個別の形であるという側面は、「認識の個別性」が結びついている、しかし、具体的、具体的な内容としては「認識の個別性」の表現は、記号表現そのものには存在しない、こういうことではないかと思います。
そして、個別の対象を表現する記号における「場の表現」は、その潜在的なものが顕在化する形の一つではないかと思います》(太字――川島)
非常に分りやすい、明快なご説明で、ようやくこれで小川さんのお考えの全体像を把握することができました。私はもともと、記号表現は、――それがたとえ言語と同じように規範の媒介を受けた概念の表現であるにしろ――、絵画や彫刻や音楽などと同じように、主体的表現と客体的表現が未分離の・両者が融合した表現ではないか、と考えていたのですが、上の小川さんの解釈もだいたいそれと同じことを言い表しているのではないかと思います。ようするに、記号には、主体的表現も客体的表現とともに内在しているが、主体的表現そのものが表面化してはいない、と。さらに小川さんは、記号においては、「場の表現」が、主体的表現が顕在化する形である、と主張されておられます。これは、卓見だと思います。
記号は多くの場合、「場の表現」を伴っていますが、これによって受け手は、記号における主体的表現を顕在的なかたちで容易に追体験することが可能となっています。これはなぜなのかというと、やはり、記号は、言語(とくに実用的表現)と同じように、伝達の手段として、あるいはコミュニケーションの手段として、利用されることが多いので、概念のほかに、受け手に強く訴えかける面が現実的に必要とされているためでしょう。そして、小川さんのおっしゃるとおり、この記号における「場の表現」は、言語における辭に相当するものなのではないかと思います。
――小川さんは、以上のような解釈を、《下に引用した時枝誠記の詞辭論の、わたくし流の解釈です》と述べておられますが、少なくとも、記号における「場の表現」が言語における辭(主体的表現)に相当する役割を果しているのではないか、ということを指摘したのは、小川さんがはじめてだと思います。私も、非常に勉強になりました。
<表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>
<表現―即―「場の表現」>と<表現―内―「場の表現」>という区別も、小川さんの独創に属する・優れた見解だと思います。<表現―内―「場の表現」>には、ほかに、言語における記号表現の浸透の一形態である句読法も含めることができると思います。こうしてみると、実際、記号はすべて「場の表現」を伴っているということがいえるのではないかと思います。
――今回も、小川さんのご投稿から、いろいろと学ばせていただくことができました。今後とも、よろしくお願いいたします。
おたより、ありがとうございました。
(2002/3/26 脱稿)