三浦つとむの言語理論、その形成過程について 15
まとめ
この論考の最後に、私の掲げた三浦言語理論における4つの鍵概念のそれぞれの形成過程について、個別に概観しておこうと思います。
~~~ ~~~
(a)「種類としての表現」論
1932年
《言語は、現象において個別的なものがそれ自身一般的であることを人間が認識するとき発生の可能性があたえられ》、そこから平面的・立体的に一般的な面の認識が発展していくものと予測する。
1940~1941年
言語(音声言語、文字言語、身ぶり言語)を声、絵画、身ぶりなどの「個別的表現形式」から転化した「一般的表現形式」であると規定する。
1948年
簡潔な、はじめての「種類としての表現」論を展開する。言語においては、《感覚的なものをもたぬ概念は同様感覚的なものを持たぬ種類において表現されている》とし、言語を個別的な表現形式と一般的な表現形式との統一体として規定する(『弁証法は言語の謎をとく』)。
1954年
図解とともに本格的な「種類論」を展開する。言語においては、表現の超感性的な側面に概念が表現されており、その表現形象がある一定の種類に属していることが維持されていれば、表現の媒材がどんなに変化しようが、また表現の感性的なかたちがどんなに変化しようが、表現の内容をゆがめたことにはならない。言語表現の本質は、この認識の種類としての表現というところにある。一方、言語表現における感性的な面における表現は非言語表現であり、言語表現との統一において把握すべきことを主張する(『言語における矛盾の構造』)。
~~~ ~~~
(b)「言語規範による表現の媒介」論
1954年 「言語における矛盾の構造」
ここではまだ「言語規範」という用語は使われていないが、個々の具体的な言語表現から抽象された社会的な約束に関する抽象的な認識が個々の具体的な表現を媒介することで、言語表現は成立していることがこの論文ではじめて示される。この社会的な約束すなわち言語規範による媒介運動についてヨリ具体的にいうと、言語表現においては、具体的な表現のための具体的な概念を、言語規範における感性的な形象と不可分の「普遍的概念」が媒介し(概念の二重化!)、これによって具体的な概念の表現形象を決定させ、表現へとつなげている。このように、「言語規範による表現の媒介」論は、必然的に「概念の二重化」論を含むことがここにおいて明らかにされる。
~~~ ~~~
(c)「対象→認識→表現」という基本図式
1932年
現実の世界の構造を基礎とした上で言語の構造を分析すべきことを予想する。また、言語は表現の一種であり、その表現のプロセスを研究すべきことも予想する。
1936年
すでに「対象→認識→表現」という図式を前提に、モンタージュ論やブハーリン主義の批判を行っていた。認識と表現との次元のちがいについても理解していた。
1948年
反映論を背景に、表現における「対象→認識→表現」という基本図式を定式化(『弁証法は言語の謎をとく』)。
「対象→認識→表現」という図式を前提に、具体的な表現論を展開する(「芸術学の変革」)。
1954年
言語表現行為の具体的な過程の図解(「対象→認識→表現」という図式を含む)をはじめて提示する。この図式が表現および言語表現の図式として本格的に定式化される。
~~~ ~~~
(d)観念的な自己分裂の理論
戦前にすでにポーの『モルグ街の殺人事件』のなかの記述から、現実的な自己から観念的な自己が分裂して創造的な精神活動を行いうることを知ってはいたが、これを理論的に深める作業までは進まなかった(「『二重霊魂』説の系譜」)。
1948年
言語の理解についての論理的な分析の文脈で、はじめて観念的な自己分裂の理論の萌芽的な記述がみられる(「弁証法は言語の謎をとく」)。
作者と鑑賞者との相互転化について語る場面において、この理論について語る(「芸術学の変革」)。
1951年
ガラスの鏡のたとえ。《ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めること》を想定し、そのことの論理構造を説明し、《現実的な自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである》と、マルクスや時枝やポーに学びつつ、認識および言語の理論に適用しうる理論的認識にまでこれを高めた(「なぜ表現論が確立しないか」)。
~~~ ~~~
【最後に】
イメージとしての言語と会話
かつて、小川文昭さんが「対象→認識→表現」という構造をもつ言語について、「だんご三兄弟」にたとえて語ったことがありました(1)。「対象」「認識」「表現」という三つのダンゴが一本の串に刺さっている状態を、側面から見たのが言語の過程的構造を実体的に眺めた場合であり、この串を縦にして上から眺めたのが、現実的な表現の理解の際の状態であると、小川さんは考えました。素晴らしい比喩だと思います。実際に私たちが理解の際に直面する言語は、この串を縦にして眺めたものであり、ちょっと見には「表現」しか見えないが、実際はその後ろに「対象」と「認識」が隠れている状態のものです。私たちは、言語規範の助けをかりて、また習慣の助けをかりて、この後ろに隠れている次男や三男の存在を発見し理解する作業を日々おこなっているわけです。
先日、EXILEのミュージック・ビデオを見ていて、ふと気づいたことがありました。あの有名な、「Choo Choo TRAIN」のはじめのロールダンスですが、あれは実際の表現としての会話の動きに似ているのではないか、と思ったのです。会話はたくさんの単語の連なりですから、だんご三兄弟がたくさん連なっていて、ひとつの単語が表現されるやいなや、いいかえると、ひとつの「表現」「認識」「対象」があらわれるやいなや、すぐにまた次の単語があらわれる、しかも会話は流れるようになされるものですから、あのロールダンスにおける躍動的な動きはまさに会話の流れをうまくあらわしているのではないか、と。ただしこの場合、固い串ではだめで、ぐにゃりと曲がるやわらかい素材の串にしなければなりませんが。また、ロールダンスなので、「表現」のうしろの「認識」が、「認識」のうしろの「対象」が、一瞬ですが少しのぞいている状態が現出するわけであり、音声言語における刹那性および継時性をうまく表しているものだと思います。ただし、この比喩は、ダンスを踊っているのがダンゴということになってしまうので、ダンゴに足を生やさせなければなりませんし、そもそも人をダンゴに変えている時点でEXILEファンにその失礼をお詫びしなければなりませんが、実際の会話というものをイメージするとっかかりとしては、それなりに面白いものなのではないかと思ったりもしています。
(1)小川文昭「三浦つとむに学んだこと」【 横須賀壽子 編『胸中にあり火の柱』(明石書店、2002年8月)所収 】
~~~ ~~~
※ コロナ休暇を機に書きはじめたこの論考も、ここで終わりです。これからも、つづけて、論文をいろいろ書いていこうと考えています。読者の皆さま、これからもどうぞよろしくお願いします。
(2020/7/7 脱稿 2026/5/10 更新、再掲)