時枝誠記における「対象の展開」論 10

まとめ

 時枝誠記は、自らの言語学説・言語過程説に関する初めての体系的な論文である「心的過程としての言語本質観」(1937年2月8日脱稿)において、「対象の展開」論という−−三浦つとむの〈概念の二重化〉論にも比すべき−−優れた伝達過程論を展開していましたが、それから約4年後に発表した『国語学原論』において、伝達過程論における「対象の展開」論を撤回して、主体による「意味作用」論という機能主義的理論を主張するようになります。「心的過程としての言語本質観」における伝達過程論は、具体的事物や表象から概念への発展過程を「過程的区別」ととらえ、表現過程における概念の変化・移行という現象をも射程に収めたところの、優れた反映論的伝達過程論でした。時枝のこの「対象の展開」論は、三浦つとむのいう言語規範についての理解が欠けていることを除くと、三浦の〈概念の二重化〉論とほぼ同じ伝達過程論となっています。すなわちここで時枝は、言語規範についての認識論的な理解が欠けていることを除くと、言語理論における正しい反映論的アプローチに限りなく近づいていたといえるでしょう。けれども『原論』において時枝は、反映論的アプローチを捨て、機能主義的アプローチに切り替えてしまいました。その変化の過程は、以下のような段階をへて進行しました。


「言語に於ける場面の制約について」(1938年1月11日脱稿)

 山内得立著『現象学叙説』を参考にしつつ、言語における「場面」という概念を表現の内容に対して変容をもたらす動的なものとして把握する一方で、「素材」という概念を「捕捉された客体」や「ノエマ的核」として、すなわち変化しない静的な対象として規定する。ここではまだ、「素材」は表現の要素であり、「表象」や「概念」もまだ言語における内容的なものとしてとらえられている。


「場面と敬辞法との機能的関係について」(1938年1月30日脱稿)

 敬語論を通して、「素材」の内容として事物のみならず、さまざまな属性や実体がとりあげられ「素材」の客体的把握が強化される。「敬語」が「敬語ならざる語」の代わりに選択されるということ、すなわち概念の変化・移行は、主体による概念的把握によるという考え方が促進される。


「敬語法及び敬辞法の研究」(1938年9月8日脱稿)

 事物や観念や表象が主体による「意味的志向作用」によって概念規定されるがゆえに語が意味を持つとされる。語の内容としての「表象」や「概念」の存在が実質的に否定される。「作用」重視理論の第一歩。この論文から、意味論においても主体の側の「作用」を全面に押し出すようになった。


「言語の存在条件 −−主体、場面、素材−−」(1940年12月2日脱稿)

 「事物、表象、概念」が「素材」として規定され、「主体、場面、素材」が「言語の存在条件」として規定される。「言語の構成要素」から「表象」や「概念」が除外されたことで、《言語は宛も思想を導く水道管の様に考へられ、全く無内容な形式のみのものと理解され》、《言語において真に内部的なものとして重要なのは、素材でなく、素材の把握の仕方としての意味作用である》とされるに至る。ここにおいて、「対象の展開」論のような反映論は完全に否定され、意味論や伝達過程論における機能主義論が完成する。


時枝はなぜ、反映論から機能主義へ移行したのか?

 時枝が意味論および伝達過程論において、反映論から機能主義へ移行したのは、やはり「こと」重視の言語本質観を堅持する立場からするならば、言語によって表現される「表象」や「概念」に意味的なものを見出すことは、「言語を心的実体と見る立場」(『原論』403頁)であり、それはソシュール的な「もの」的、構成主義的言語論であると思われたからでしょう(三浦的な、物質的な表現において意味は「関係」として成立するという考えかたからするならば、たとえ「表象」や「概念」を意味的な実体としてとらえてもさして問題はないということはすでに述べたとおりです)。そこへ持ってきて、現象学が「概念」的なものや「表象」的なものに依存しない独特な「ノエマ・ノエシス」的意味論を展開していたので、それを参照にして、言語学的な機能主義理論を構築したというわけです。


特殊な表現の系列の問題

《…意味を言語の外形である音声に対応する内容として、表象的なものと考へるのは、言語構成観による意味の考方であつて、「言語(ラング)」に於ける語の意味が、「言(パロル)」に於いて限定されるといふ考方もそこから出て来るのであるが、それでは、具体的な言語に於ける忌詞、比喩或は皮肉な語の使用法といふ様なものを説明することが出来ない》(『原論』420頁)

 時枝が構築した機能主義的な意味論は、「忌詞、比喩或は皮肉な語の使用法」といった特殊な表現の系列にも対応するところのものであることは、たしかにそのとおりであると一応はいえると思います。ソシュール学派的な、概念と聴覚映像とが結合した記号の体系がパロールにおいて具体化されて意味は成立するのだという意味論は、たしかに理論としては稚拙な感じが否めませんが、けれども一方で、時枝的な、表現主体による「素材」に対する「意味作用」や「意味的把握」が意味であるという考え方も、そういった系列の表現を説明しうるものであるとは思いますが、あまりにも「作用」や「把握の仕方」に片寄り過ぎていて、表現過程における「概念の移行」や「概念の二重化」という問題構成を見えにくくしている部分があるのではないかと私は考えてしまいます。そうしてみると、「心的過程としての言語本質観」における時枝の「対象の展開」論は、特殊な表現の系列の問題にも対応しつつ、「概念の移行」や「概念の二重化」という問題も可視化しうる、きわめて優れた意味論であり、伝達過程論でもあったと思います(ただし、言語規範についての認識が欠けていたことは否めませんが)。


         〜〜〜

 ※「時枝誠記における『対象の展開』論」という論文は一応これで脱稿しますが、そこで見えてきた問題や付随すること、あるいはまたそれらについて考えたことなどが実はたくさんあります。それらについて、これから引き続き書いていこうと思います。意味論、伝達過程論に現象学の影響が見られたからといって、時枝の言語過程説がすべて現象学の影響を受けたものであるということにはなりません。その辺についても、これから詳しく見ていこうと思います。


(完)




(2020/10/17 脱稿  2025/10/1 gooブログより転載)

 

2025年10月01日