〈概念の二重化〉説 1
私は、拙著『言語過程説の研究』第二章第四節において、三浦つとむの言語表現論を論じる際、三浦の言語表現論の核心部分のひとつとして、<概念の二重化>説という考え方を三浦の引用を交えつつ、紹介しました。この解釈は、私としては、三浦の諸著書を丁寧に読むと、誰もがこのような解釈に到達するのではないかと考えていたところのものなのですが、実際には、この問題について、三浦理論に関心を持っておられる方々の中の少なからぬ方々が私とは違う解釈を持っておられるようです。私は、この<概念の二重化>という考え方は、三浦の言語表現論のなかのきわめて重要な、きわめて独創的な考え方のひとつだと考えておりますので、ここではこの問題について詳しく論じてみようと思います。まずは、拙著にある私の叙述を以下に抜粋して掲載します。それから、実際に私がこれまで見聞したことのある疑問や反論を私なりの言葉で掲載して、さらにまたそれに対する私の応答を掲載してみようと思います。
〇私の解釈:<概念の二重化>説
※以下、拙著『言語過程説の研究』からの抜粋です。
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<概念の二重化>現象
三浦は、その遺稿の中で、自らの言語表現論が形成される経緯を次のように要約して述べている。
《…言語にしても、音声や文字はその具体的なかたちで表現しているのではなく、人工の種類としての側面で表現しているのだと推定できた私が、概念とよばれる認識が対象の種類という側面を反映している事実と結びつけて、種類としての認識が同じように種類として表現されるこの対応関係を反映論の正しいことの証明として扱ったのは、当然のことである。残った問題は、超感性的な概念を感性的な音声や文字で表現しなければ、耳や目に訴えることができないという、矛盾のありかたであったが、これはマルクスの『資本論』が調和する矛盾は矛盾を実現しかつ解決するための運動形態をつくり出すと指摘しているのに示唆されて、言語規範による表現の媒介がこの運動形態であると理解することができた。こうして言語の謎は解明されたのである。》(三浦つとむ『唯物弁証法の成立と歪曲』p.255)
ここで注目すべきことは、三浦が言語規範の媒介を受ける前の概念の存在を認めていること、およびそれを超感性的な存在として規定していることである。つまり三浦も、時枝と同じように、言語表現の過程的構造の中に、表象を伴わない概念の存在を認めていたのである。ただ、三浦が時枝と違うのは、この表象を伴わない概念が、言語規範の媒介を受けて感性的な性格を付与される過程をも取り込んでいるところである。三浦は、この過程のあり方を《概念の二重化》と呼んでいる。
ソシュールが、ラングにおける概念、すなわち《聴覚映像》と結びついてシーニュを構成する《概念》以外の概念の存在を認めない考えの持ち主であったということは、おそらく『講義』を読む者の誰もが承認するところであろう。ソシュールにとって、《概念》と《聴覚映像》とは一枚の紙の表裏に比せられるような統一体だったのであるが、これに対して、三浦は次のように反論している。
《…ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、langueの一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである。》(『言語学と記号学』p.27~28)(傍線は原文では傍点)(太字――引用者)
このように三浦は、言語に表現される概念は、ラングすなわち言語規範のそれではなく、表現主体が表現の際そのつど認識する個別的・特殊的な概念であり、言語規範の概念は、表現される概念の聴覚映像を決定する契機として役立つにすぎない、というのである。この考え方によると、橋本の理論において不可知論的に指摘されていた、言語表現の持つ個別性・特殊性をきわめて合理的に説明することができる。そして同時に、時枝の理論において機能主義的に解釈されていた、言語表現の持つ社会性・普遍性も合法則的に説明することができるのである。三浦のこの考え方を、前三者と同じように私なりに図式化すると、次のようになる。
<対 象>
↓
<概 念>
↓
<概念/聴覚映像>
↓
<表 現>
<三浦つとむの図式>
…三浦にとって、現実の具体的な言語とは、このように表現主体が<対象>から認識した超感性的な<概念>が、言語規範によって規定された<概念/聴覚映像>(つまり、ソシュールのいうシーニュ)との照応をへて、感性的であると同時に超感性的でもある物質的な形式として、<表現>にまで高められたもののことをいうのである。表現主体の認識した<概念>は、すべて実践的に抽象的であり、その点においてつねに感性的な表象とともにある<概念/聴覚映像>とは区別されるべき存在なのである。(『言語過程説の研究』p.82~86)(※p.85の図は省略しました)
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以上のように、私は、三浦つとむの言語表現論の中の核心的な部分、すなわち表現主体の認識した超感性的な概念がいかにしてその聴覚映像(表象)が結びつけられるかという問題構成において、それを解決するものとして、<概念の二重化>という考え方が存在すると考えています。
これに対して、次のような疑問が出てくることが予想されます。
〇疑問1
三浦つとむが概念に性質の異なる二種類が存在すると言っていることは本当か? 私にはそうは思えない。実際は、言語規範の概念なるものは、表現主体の認識した概念が、特定の表象と関係づけるために言語規範の媒介を受けるとき、その社会的な規定の面から見られたものなのではないのか? つまり、実際はひとつの概念が異なる二つの側面から見られたものが、「二種類の概念」として表現されているのではないか? 「概念の二重化」なるものは、本当は、「概念の二面化」として捉えるべきものなのではないか?
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〇筆者の応答1
三浦つとむが概念に異なる性質の二種類の概念が存在すると述べていたことは事実です。以下に、三浦つとむが、表現主体がそのときどきに独自に認識する概念と、言語規範における感性的な表象を伴った概念とを、別々に考えていたことを示す叙述を、引用します。
《……ソシュールは思想を「無定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者のでは音声言語で表現されている概念も、langueの一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである》(三浦つとむ『言語学と記号学』勁草書房、1977.p.27~28)(傍線は原文では傍点)(太字――引用者)
《……時枝氏は、「言語(ラング)」の正体を、「個物を通し帰納せられた普遍的概念に相当するもの」と見た。これは正しかったのだが、惜しいことに検討がここで挫折して、あとは個人の整序能力であると解釈されてしまっている。すでに「辞書は……言語的表現行為、或は言語的理解行為を成立せしめる媒介となるもの」と見たからには、ここから「言語(ラング)」の正体が媒介のための認識ではないか、具体的な表現のための具体的な概念とは別に「普遍的概念」が存在するのではないか、を疑うべきだったのである。この概念の二重化は、実に、超感性的な認識が感性的な形象によって表現されなければならないという矛盾を原動力として媒介されつくりあげられた、言語表現に特有の概念形態である》(三浦つとむ「言語における矛盾の構造」、『スターリン批判の時代』勁草書房、1983.p.109~110)(太字――引用者)
《……ところが、規範がとりあげる概念はその内容いかんと関係ない概念一般であるのに対して、個々の言語表現の場合の概念はすべてそれなりの内容を持ったそれぞれ別個の概念であるから、区別と連関においてとりあげねばならないにもかかわらず、聴覚ないし視覚の表象が結びついている点では規範のそれと共通しているために、これがまた<言語材料>であるかのように解釈されてしまう。そこで、たとえ規範の存在を認めたとしても、規範と表現される概念との媒介関係を正しく説明することができなくなる》(三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』【勁草書房、1972年】.p.13~14)
このように、三浦つとむは、表現主体が逐次的に認識する独自の概念と、言語規範における一般的な概念とを区別して考えていました。そして、言語表現の過程的構造においては、前者の概念が後者の概念と二重化することによって感性的な表象が決定され、そうして得られた感性的な表象がインクの線描や空気の振動に模写されて言語表現が遂行される、と考えていました。
もちろん、両者は一方が他方を媒介する関係にあるのですから、その過程において相互浸透の関係を持つことも事実でしょう。けれども、だからといって、両者を同一の概念の二面化と見ることはできないと思います。なぜなら、両者の間には、明らかに次元の相違があるからです。
表現主体が独自に逐次的に認識する概念は、多くの場合、現実の世界の反映として成立する生きた・具体的な認識であり、言語規範における概念は、規範と相対的に独立して存在してはいるが、規範から規定されているところの一般的・抽象的な認識です。三浦つとむは、言語規範と、言語規範における概念と、表現主体が独自に認識する概念と、この三者の関係について、次のように述べています。
《……現在のわれわれの頭の中では、言語表現のための規範とこれから相対的に独立してはいるが規範から規定されている感性的な手がかりのついた概念とが、表現および思惟に際して役立てられるように、いわば「心的実在体」として存在している。(中略)言語規範は社会的に成立するのであり、個人の頭の中にありながら観念的に対象化されて個人の「外部」から表現を規定するかたちをとるものであり、表現を媒介する認識にすぎないから表現と切りはなして研究できるし、ラテン語のような死語の規範をわがものにして学名に生かすこともできる。だが規範と「概念と結合した記号」とは別であり、さらに新しく対象を認識して表現するときにこの概念に新しく規範から媒介された感性的な手がかりが結合することも別であって、この三者の関係を正しく説明しなければならない。ソシュールは前二者をいっしょくたにし、また新カント主義的に最後の問題を切りすててしまったのである(4)》(三浦つとむ『言語過程説の展開』【勁草書房、1983年】.p.429~430)(太字――引用者)
ここで、三浦が《…新しく対象を認識して表現するときにこの概念に新しく規範から媒介された感性的な手がかりが結合すること…》というときの《概念》とは、表現主体が逐次的に認識する独自の概念のことであり、《感性的な手がかり》とは、言語規範における概念のことです。表現主体が逐次的に認識する独自の概念は、現実の世界が反映したところの生きた・具体的な概念であり、言語規範における概念は、すでに頭の中に観念的に存在する対象化された意志すなわち言語規範に規定された一般的・抽象的な概念であり、両者の間には明らかに次元の相違が存在します。そもそも、その出発点が違うのです。前者の出発点は現実の世界であり、後者の出発点は頭の中に登録されている「実在体」です。ですから、私はこの両者を一つの概念の二面化と見ることはできない、と考えます。
私は、表現主体が逐次的に認識する独自の概念を言語規範における概念と同一視することは、ソシュール=小林英夫的な概念ア・プリオリ説に陥る可能性があると思います。三浦は、上の引用文の終りの注(4)において、次のように述べています。
《現実の世界がつねにわれわれに新しい概念をもたらすという考えかたは、唯物論を排する不可知論者として認めるわけにはいかない。彼らとしては概念はア・プリオリに頭の中に発生するのだが、これはすでに「社会的事実」として記号とかたくむすびついてしまっているから、新しい概念に感性的な手がかりを新しく結合させなければならぬという問題も、概念と感性的な手がかりとがすでに結合しているという別の問題に解消させられてしまう》(『言語過程説の展開』p.432)
表現主体が逐次的に認識する独自の概念と、言語規範における概念とを同一視することは、前者を、後者のような、はじめから頭の中に登録されて存在するある意味ア・プリオリな概念と同一視することにつながるので、ひいてはそれが、現実の世界が私たちにもたらす新しい概念の存在を否定してしまうことになりかねないのです。
もちろん私も、言語規範における概念が、表現主体が逐次的に認識する生きた・具体的な概念を成立させる一つの契機となるということは、あると思います。けれども、やはりここでも、両者の間には、言語規範に規定された概念と、自らの意志によって自由に運用できる概念というように、次元の相違が存在するのですから、両者は明瞭に区別するべきだと私は考えます。
ただ、表現された言語においては、両者の媒介過程は止揚されてしまっているので、いいかえれば、両者は直接的同一性として現象しているので、以上述べたような私の見解(あるいは、私が把握した三浦つとむの見解)は、理解されにくいかもしれません。
私は、この二つの概念が言語表現の過程的構造において媒介関係を持つ構造を、拙著の85ページに図示していますので、拙著をお持ちの方はそちらをご覧いただければ、この問題に関する私の考え方がさらにわかりやすくなるのではないかと思います。
※上記の文章は、公開日時が不明になってしまいましたが、他の論文との前後関係からおそらく2001年の上半期頃だったと思われます。
(2002/3/26 更新 2025/9/19 gooブログより転載)