三浦つとむの言語理論、その形成過程について 3
三浦つとむの言語研究の歴史と概観(〜1954年)
1932年(昭和7年)春 名称にあらわれた、対象のとらえかたの立体性に興味をもち、言語学の本を読むが役に立つ本は見つからず。けれども三浦は、現実の世界の立体的な構造・結びつきが基礎となり、言語の構造・結びつきがこれに従っていくのであろうと予測をたてる。
1936年(昭和11年) 芸術理論の研究に手をつけるが、そのためにはどうしても言語の本質を明らかにする必要があった。だが、言語学者や芸術理論家の著作に満足のいくものはなく、唯物論の理論家を頼りにしつつも、自力で現実から理論をひき出してくることにした。
1940年(昭和15年)秋 雑誌に小論文(おそらく「映画は言語に属さない」【『映画評論』22巻10号】)を発表し、言語を「一般的表現形式」と規定するとともに、絵画としての身ぶりから言語としての身ぶりへの転化を論じる。
1941年(昭和16年) 自作のプリントにて、声、絵画、身ぶりなどを「個別的表現形式」、言葉、文字、身ぶり言語などを「一般的表現形式」と規定する。
❉1941年から1945年の間に、製図用のトレース紙千枚にみずからの言語研究の全貌をノートしたが、敗戦1ヶ月前に空襲で焼かれてしまう。
1948年(昭和23年)5月 言語に関する初めての本格的な論文であり記念碑的な労作「弁証法は言語の謎をとく−−−言語学批判序説」(『思想の科学』5月号)を発表する。「対象→認識→表現」という図式や、「種類としての表現」説がすでに展開されている。また、「観念的な自己分裂の理論」の萌芽的な記述もみられる。
1948年(昭和23年)9月 「芸術学の変革 - 北条元一氏の芸術認識論批判 -」(『 綜合文化』)を発表する。「対象→認識→表現」という基本図式を前提として具体的な表現論を展開。また、追体験を考えるところから観念的な自己分裂の理論の萌芽的説明もみられる。
1948年(昭和23年)12月 「時枝言語学の功績」(『綜合文化』12月号)を発表する。時枝理論に関する初めての論評であり、自力で本質をとらえようとする学問態度や特殊の研究のうちに普遍があるとする弁証法的な考えかたを称賛する。時枝理論の支持については、すでに「弁証法は言語の謎をとく」においてなされている。
1950年(昭和25年)5月 『弁証法・いかに学ぶべきか』のなかで、時枝の言語理論に関し「言語そのものの内的な構造・過程」の研究について大きく評価するものの、「言語とその理解・鑑賞の面」ではその理解不足を指摘する(「時枝誠記『国語学原論』」)。
1950年(昭和25年)9月 「基礎理論把握の重要性−−−芸術論争・言語論争の教訓−−−」(『民科研究ニュース』1号)発表。スターリンの言語理論(1950年6月発表)についての初めての論評。その「言語材料」説を批判し、内容優位の言語理論の必要性を訴える。
1950年(昭和25年)10月 「スターリンの見解と私の見解とはどこがちがうか」(『民科研究ニュース』臨時特集1号)発表。言語の本質に関する5項目の見解を公表。
1951年(昭和26年)2月 「なぜ表現論が確立しないか」(『文学』2月号)発表。初めて「観念的な自己分裂の理論」の本格的な展開がみられる。
1951年(昭和26年) 「言語過程説の展開」(直筆ガリ版、非売品−−−その後の諸論文に分割して発表)を書く。時枝理論の分析・訂正、および上部構造について体系的にのべたもの。のちに散逸してしまう。
1954年(昭和29年)6月 「言語における矛盾の構造−−−マルクス主義における言語学−−−」(『思想』6月号)発表。上記「言語過程説の展開」から抜き書きしたものが大部分を占めると思われる。「種類としての表現」説、「言語規範による表現の媒介」説、「対象→認識→表現」説が展開されており、ここに至って三浦の言語本質論の骨格は定まったものと思われる。このあと、言語理論は『日本語はどういう言語か』(1956年)、『認識と言語の理論』(1967〜1972年)、『日本語の文法』(1975年)、『言語学と記号学』(1977年)などで主に展開され、芸術理論は『認識と芸術の理論』(1970年)で展開、発展されることになる。
以上が三浦つとむの言語研究の足跡を概観したもの(基本的な流れは「弁証法は言語の謎をとく」【『思想の科学』、1948年】に拠ります)ですが、次節から、時系列でもう少しくわしく見ていくことにします。
(2020/5/30 脱稿 2026/4/30 更新、再掲)