三浦つとむの言語理論、その形成過程について 5
1936年(昭和11年)
三浦がはじめて言語理論に興味をもった1932年から4年後、1936年に彼は芸術理論の研究に手をつけます。芸術のなかで大きな位置を占める文学は言語による芸術であり、芸術について体系的な理論を構築しようとするならば、どうしても言語の本質を研究して、言語表現である文学と、絵画や音楽など他の表現との関係も明らかにしなければならないと、三浦は思いあたります。そこで、言語学者や哲学者、美学者たちが言語をどのように理解しているか、調べて見ることにします。
《 このときは、以前とちがってわたしの理解力もいくらか進歩していたので、いろいろな事物を相当深く研究することができた。その結果、現在の言語学も芸術学も、基礎的な理論を述べたものは殆んど全部ナンセンスであり、信をおきえないものであるということがわかった》(三浦つとむ「弁証法は言語の謎をとく」。太字は原文)
三浦によると、フィードラー (1) やシラー (2) の美学理論や、西田哲学系の理論などに見るべきものはなく、唯物論者を自認する者たちの理論も、ブハーリン (3) 流の考えかた(科学と芸術とを概念的認識と形象的認識として区別する)が浸透しており、芸術理論のみならず言語理論においても観念論的なまちがいが蔓延している状態でした。
《 ・・・このあやまった言語観は大体二つのコースをとっている。その一つはソヴェト映画作家の主張した「モンタジュ」論と称する理論のなかにふくまれている。個々の単語は符号であって現実的な内容をもたず、これをつなぎ合わせることによってはじめて芸術的な現実的な内容をもつと考え、映画もまたこの言語の組みたてと同様の性質をもつと論じて、芸術の基礎を「組み立て」( monter )に置くのである。(中略) モンタアジュ論の帰依者乃至布教者は、言語の意味が符号そのものの中に存在しあるいは発生すると考えているのであるが、これは燃焼の本質を燃えるものの中に存在する元素に求めた、かのフロギストン説を想起させる》
《 第二のコースは、科学と芸術とを概念的認識 対 形象的認識として区別するというブハーリンの見解からの必然的な発展である。この見解はカント主義からも出てくるのであるが、マルクスの史的唯物論の規定の誤った解釈からも同じ結果がうまれてくる。イデオロギー的諸形態は、ブハーリン主義者の考えるようにすべて観念それ自体において区別すべきものではなく、あるものは観念自体において(科学と非科学)、あるものは観念の表現において(芸術と非芸術)区別されるべきものである。しかしブハーリンのこの誤りはソヴェトの芸術理論を支配し、蔵原惟人「芸術論」、甘粕石介「芸術論」、北條元一「芸術認識論」等においてひきつがれひろく普及させられている》(同上、太字は原文)
1920年代のソ連で流行したモンタージュ論においては、フィルムをモンタージュ(組み立て)することと言語記号をモンタージュすることとが並列的に語られており、この考えかたは結局《言語の意味が符号そのものの中に存在しあるいは発生すると考えている》として、三浦はこれを化学におけるフロギストン説に比して批判しています。フロギストン説とは18世紀に支持されていた化学界の仮説で、可燃物質のなかにもともと含まれているフロギストンとよばれる可燃元素が燃焼の際にその物質から放出されるものと仮定されていたものです。ところが、のちにラボアジェという学者が燃焼とは物質がフロギストンを放出することではなく、酸素と結びつくことであるとして、定説を覆しました。三浦にとって、モンタージュ論的言語論は「意味」と「意義」の区別もできておらず、このフロギストン説と同じくあまりに平面的な、現実を説明できない理論と思われたのだと思います(4)。おそらく三浦のなかでは、話し手の認識した概念はどこへ行った、所与の記号だけで複雑怪奇な言語現象を説明できるはずがないであろう、と思っていたにちがいありません(5)。
また、三浦によるブハーリン主義の批判を見るかぎり、この時期(1936年)から三浦が表現を物質としてとらえていたことがよく分かります。つまり、このとき三浦はすでに、イデオロギー諸形態は、すべてが観念において区別できるものではなく、科学とか非科学ということに関しては観念自体において、芸術とか非芸術ということに関しては観念の表現において、区別すべきものと認識していたわけです(6)。このブハーリン主義について、三浦はさらに次のように述べています。
《 この見解にしたがうと、科学も芸術も同じく言語を用いて表現しているという事実を説明するために、やはり言語を一つの素材として、あるいは概念を伝達しあるいは形象を伝達する「絵具や画布や大理石のごとくひとつの媒材」として考える必要が起ってくる。かくして、言語がつねに概念を直接表現しているという事実及び言語の内容の持つ立体構造は否定されざるをえなくなり、認識の発展からくる言語発生の必然性はまったく解らなくなってしまうのである。更にまた、表現形式すなわち文章そのものについても科学と芸術とを区別しなければならなくなり、彼等は、論文そのものを科学とよんでいる。これは、観念である科学と、物である文字とを混同させたことによって、観念論へ一足ふみこんでいるのである》(同上、太字は原文)
三浦はすでにこの時期に認識と表現とを別の次元のものとしっかり認識しており、かつ言語表現には概念が表現されており、その背後に複雑な内容の立体構造が存在すると想定していることが分かります。また、「言語素材説」では、認識の発展から言語が発生する必然性を説明することができないとも述べています。まだ言語学の学者でもなんでもない青年が、そこいらの学者なんかより広い視野に立って言語本質論をきわめてやろうという意気込みが感じられて、感動的でさえあります。
また、この時期に三浦が調べた言語学者の見解も、混乱した内容のものだったようです。
《 ・・・言語学は、言語現象つまり符号や音声をしらべる学問であると称して、本質論は哲学の領分に属するものだとこれを切りはなし、本質論なしに言語を分析にかかる者もいた。ほかの表現形式を充分しらべて、その発展において言語を論ずる者はなく、言語をきりはなしてとりあげ、言語の持つ特殊性を絶対的なもの神秘的なものにしてしまっていた。ソシュール言語学の功績だといわれている「言」と「言語」の区別にしても、実は表現形式と表現内容との区別を歪めてとりあげたものであり、表現形式と表現内容との一般的な関係をしらべてその特殊性において論ずべき筋合のものである。ソシュールはどうしてこれをやれなかったかというと、彼が信奉していた認識論がカント主義であったためである。言語が直接に表現するのは概念であるが、カント主義はこの概念を現実の世界の反映としてではなしに、アプリオリにひきだしてくるのである。感覚的なかたちを表現する表現形式と、概念を表現する表現形式のあいだのちがいは、同一性のなかの差別として取扱われることなく、感覚と概念とが根本的にひきさかれる結果これまた全然別個の関係のないものとして取扱われるのである。しかし概念そのものに差別のある事実を肯定するからには、この差別が何に原因するかを説明しないわけにはゆかない。しかも概念の原型である現実それ自身の差別からこれを導いてくることは、カント主義の根本的立場が許さない。言語にあっては「自然的所与なるものはどこにも見当たらぬ」とするソシュールは、この差別を観念そのもののなかに求めざるを得なくなったこと言うまでもない》(同上、太字は原文)
言語学者でさえ、言語を表現の一種と位置づけて、まず表現一般を論じてから言語表現の特質を論じるというプロセスをとっている者がいないと三浦は嘆いています。《表現形式と表現内容との一般的な関係をしらべてその特殊性において論ずべき筋合のものである》という表現を私なりにいうと、「すべて表現とよばれるものにおいては、表現形式と表現内容とは不可分に統一されている。では、言語表現におけるこの統一のありかたの特殊性とは何か、という順序で論ずべきだ」となります。事実、三浦はのちに身振りと身振り言語のちがいを論じることから始めることになります。また、ソシュールは概念をカント主義的にアプリオリにひき出してきたので、内容と形式の一般的な関係をしらべる道が閉ざされてしまったと、三浦は述べています。たしかに、(根本的には)概念を現実の世界の反映として理解しないと、その概念にまつわる「形式」の問題や、概念が発展して言語として表現される過程的構造も理解する道が閉ざされてしまうでしょう。以上の三浦の言葉から、私たちは、私が最初に措定した三浦言語理論の4つの鍵概念のうちのひとつ、「対象→認識→表現」という図式の萌芽的な認識を読みとることができます。「現実それ自身の差別から」概念を導きだすといい、なおかつ「言語が直接に表現するのは概念である」というのですから、概念が直接的に存在する場所は認識であることを考えても、この時点で「対象→認識→表現」という基本的な表現図式を想定することはできるでしょう。ちなみに、「感覚的なかたちを表現する表現形式と、概念を表現する表現形式のあいだのちがい」を「同一性のなかの差別として取扱う」ということの意味は、少し分かりにくいかもしれません。これは、弁証法でいう「対立物の直接的同一性」という論理構造です(7)。
こうしていろいろな学者の説を吟味したあと、三浦はこう述べます。
《 わたしは、こういう言語学や芸術学を相手にするのをやめて、自分で現実から理論をひき出してくることにした。その手びきとしては、感覚からはじまって概念に発展する認識の形式を内容との関連において正しくとりあげたレーニンの「哲学ノート」と、本質が現象する現実の立体構造を経済の分野において追跡したマルクスの「資本論」特に一般的交換手段の成立を分析する貨幣論の部分と、認識に於ける原型と像との矛盾をとりあつかったエンゲルスの「反デューリング論」とに援助をもとめた。これらのすばらしい分析にたすけられて、わたしは以前発見した言語におけるとらえかたの立体性という問題を発展させることができ、言語が発生する必然性を理解し、言語がその単純な形式のうしろに驚くべき複雑な構造をかくしもっている事実を知った。すでにアリストテレスは、数学を観念的なものとする見かたに反対して、もし数学が現実のなかにその根拠をもっていなかったらどうしてこれを適用できるのかと云っている。言語の場合も同じであって、数字はすなわち数言語(ホグベン)であり数式は数文章である一つの事実からおしてもわかるように、「自然的所与」をもたない言語などというものは存在しないのである。言語が扱う現実の世界の分析は弁証法の力をかりることなくしては不可能で、これまで唯物論言語学と称するものの浅薄と機械的傾向がこれを欠くところに原因したことを、わたしはつくづくと感じた》(同上、太字は原文)
こうして、三浦は唯物弁証法という高度な論理学に助けをもとめつつ、現実の世界から与えられる客観的な関係を分析し研究していくことにします(8)。このあと三浦は、物理学者の武谷三男が提唱した科学認識論、三段階論にも言及しつつ、1936年における言語研究の項を次のような言葉で締めくくっています。
《 言語は、現象において個別的なものがそれ自身一般的であることを人間が認識するとき発生の可能性があたえられたものというべく、以後現実の構成段階をその平面に進みあるいは立体にたどって、一般的な面での認識が発展してゆくことにより発展してゆくものである》(同上、太字は原文)
武谷理論とレーニンのノートの影響が色濃く出ている論述といえるでしょう。現実の世界は現象・実体・本質という立体的な構造をもっており、それぞれの段階は個別的なものと一般的なものとの統一であり、言語は、現象において個別的なものを人間が一般的に把握し認識するとき、発生の可能性が与えられた。そしてそこから発展して行った、と。ここにきて三浦の言語理解もだいぶ論理的にまとまってきている印象があります。
(1)コンラート・フィードラー。19世紀ドイツの美術史家。
(2)フリードリヒ・フォン・シラー。18世紀ドイツの詩人、劇作家。
(3)ニコライ・ブハーリン。20世紀前半に活動したソ連の革命運動家。プラウダ編集長。
(4)三浦が参照にしたエンゲルスによるフロギストン説への言及は、エンゲルスの「『反デューリング論』への旧序文」および『資本論』「第2巻」のエンゲルスの序文にあります。
(5)モンタージュ論に対する三浦の本格的な論評は、「モンタアジュ論は逆立ち論であった」(【『認識と芸術の理論』勁草書房、1970年11月】所収)にあります。
(6)後年三浦は、イデオロギーと言語の関係に関するマルクスやエンゲルスからの影響について次のように語っています。
《「言語は実践的な意識、他の人間にとっても実存し、したがってまた私自身にとってもはじめて実存する現実的な意識(wirkliche Bewuβtsein)である。」「思想の直接的な現実性(unmittelbare Wirklichkeit)は言語である。」と、『ドイツ・イデオロギー』は記している。つまり言語は意識や思想それ自体ではなく、それらを私の実践によって運動する空気層のかたちに表現したものであり、その結果他の人間にとっても私自身にとっても、意識や思想から媒介されたその物質的な形態として存在するのだ、とマルクスやエンゲルスは主張するのである。ここで「現実的」「現実性」と記しているのは、人間の存在を彼らの現実的な生活過程(wirklicher Lebensprozeβ)だと述べているのと同じように、物質的という意味である》(三浦つとむ「認識論はどういう科学か」、『唯物弁証法の成立と歪曲』【勁草書房、1991年2月】所収)
(7)三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書、1968年9月)91〜93頁参照。
(8)なお、三浦は別のところで、戦前の青年期に影響をうけた書物について次のように述べています。
《 理論的な仕事としては、戦前の青年の頃に芸術理論や言語理論に関心を持って、当時ソヴエトから輸入され、もてはやされたモンタアジュ論やソシュール言語学について調べてみたのだが、これらがあまりにも幼稚に思われたので、自分で何とかもうすこしまともな理論を立ててみようと考えていた。
聞くところによると、弁証法という科学があって、これを武器として研究すると大きな成果があるという、では一つ弁証法を研究してやろう、−−これが哲学というものに関心を持つようになったきっかけだった。
それでエンゲルスの『反デューリング論』『フォイエルバッハ論』、ディーツゲンの『弁証法的唯物論』などを読み、また春秋社の世界大思想全集の中におさめられていたマルクスの『経済学批判序説』から非常に教えられるところがあった。
自分で理論的な仕事をするために哲学の力をかりようというのだから、文献のむづかしいか、やさしいかは第二のこと、役に立つか立たないかが一番大きな基準であって、役に立ちそうな文献なら、むづかしそうなものでも根気よく読むことにした。
この点で、レーニンの読みかたや評価についても、ほかの哲学者たちとはちがっているように思う。もっとも古くから読んだ、もっとも好きな本は『左翼小児病』で、太田黒から出た伏字のない訳本を大切にしていたが、海軍に徴用のとき持っていって、空襲を受けて焼かれてしまった。
『唯物論と経験批判論』は、はじめ特殊な本のように思えたので敬遠していたが、読んでみたら面白くて面白くて腹をかかえさせられた。ただ、私が不満だったのは、弁証法的唯物論の認識論が正しいことを力説しながら、マルクス、エンゲルスの解説にとどまっていて、認識論を前進させていない点だった。プレハーノフが認識を象形と考えたのはまちがいにちがいないが、では象形はどう理解したらいいかといえば、その説明はない。観念論者への反駁としてはこの本で充分であっても、理論的な仕事の協力者としては物足りないと思った。理論の水準はこれより高いが、『哲学ノート』でもやはり同じことを感じている。
ソヴエトの二十回大会でレーニン主義を高唱したからといって、ソレッと今度はレーニンの文献を個人崇拝的に教典主義的に扱うような哲学者が出てこなければいいが》(『日本読書新聞』1956年4月16日付掲載の「私の読書遍歴」と題する回顧的文章より。三浦つとむ『弁証法・いかに学ぶべきか』【季節社、1999年6月版】所収)
❉ なお、「弁証法は言語の謎をとく」における本文の強調は、原文では波線であったものを太字にして表示してあります。
三浦がはじめて言語理論に興味をもった1932年から4年後、1936年に彼は芸術理論の研究に手をつけます。芸術のなかで大きな位置を占める文学は言語による芸術であり、芸術について体系的な理論を構築しようとするならば、どうしても言語の本質を研究して、言語表現である文学と、絵画や音楽など他の表現との関係も明らかにしなければならないと、三浦は思いあたります。そこで、言語学者や哲学者、美学者たちが言語をどのように理解しているか、調べて見ることにします。
《 このときは、以前とちがってわたしの理解力もいくらか進歩していたので、いろいろな事物を相当深く研究することができた。その結果、現在の言語学も芸術学も、基礎的な理論を述べたものは殆んど全部ナンセンスであり、信をおきえないものであるということがわかった》(三浦つとむ「弁証法は言語の謎をとく」。太字は原文)
三浦によると、フィードラー (1) やシラー (2) の美学理論や、西田哲学系の理論などに見るべきものはなく、唯物論者を自認する者たちの理論も、ブハーリン (3) 流の考えかた(科学と芸術とを概念的認識と形象的認識として区別する)が浸透しており、芸術理論のみならず言語理論においても観念論的なまちがいが蔓延している状態でした。
《 ・・・このあやまった言語観は大体二つのコースをとっている。その一つはソヴェト映画作家の主張した「モンタジュ」論と称する理論のなかにふくまれている。個々の単語は符号であって現実的な内容をもたず、これをつなぎ合わせることによってはじめて芸術的な現実的な内容をもつと考え、映画もまたこの言語の組みたてと同様の性質をもつと論じて、芸術の基礎を「組み立て」( monter )に置くのである。(中略) モンタアジュ論の帰依者乃至布教者は、言語の意味が符号そのものの中に存在しあるいは発生すると考えているのであるが、これは燃焼の本質を燃えるものの中に存在する元素に求めた、かのフロギストン説を想起させる》
《 第二のコースは、科学と芸術とを概念的認識 対 形象的認識として区別するというブハーリンの見解からの必然的な発展である。この見解はカント主義からも出てくるのであるが、マルクスの史的唯物論の規定の誤った解釈からも同じ結果がうまれてくる。イデオロギー的諸形態は、ブハーリン主義者の考えるようにすべて観念それ自体において区別すべきものではなく、あるものは観念自体において(科学と非科学)、あるものは観念の表現において(芸術と非芸術)区別されるべきものである。しかしブハーリンのこの誤りはソヴェトの芸術理論を支配し、蔵原惟人「芸術論」、甘粕石介「芸術論」、北條元一「芸術認識論」等においてひきつがれひろく普及させられている》(同上、太字は原文)
1920年代のソ連で流行したモンタージュ論においては、フィルムをモンタージュ(組み立て)することと言語記号をモンタージュすることとが並列的に語られており、この考えかたは結局《言語の意味が符号そのものの中に存在しあるいは発生すると考えている》として、三浦はこれを化学におけるフロギストン説に比して批判しています。フロギストン説とは18世紀に支持されていた化学界の仮説で、可燃物質のなかにもともと含まれているフロギストンとよばれる可燃元素が燃焼の際にその物質から放出されるものと仮定されていたものです。ところが、のちにラボアジェという学者が燃焼とは物質がフロギストンを放出することではなく、酸素と結びつくことであるとして、定説を覆しました。三浦にとって、モンタージュ論的言語論は「意味」と「意義」の区別もできておらず、このフロギストン説と同じくあまりに平面的な、現実を説明できない理論と思われたのだと思います(4)。おそらく三浦のなかでは、話し手の認識した概念はどこへ行った、所与の記号だけで複雑怪奇な言語現象を説明できるはずがないであろう、と思っていたにちがいありません(5)。
また、三浦によるブハーリン主義の批判を見るかぎり、この時期(1936年)から三浦が表現を物質としてとらえていたことがよく分かります。つまり、このとき三浦はすでに、イデオロギー諸形態は、すべてが観念において区別できるものではなく、科学とか非科学ということに関しては観念自体において、芸術とか非芸術ということに関しては観念の表現において、区別すべきものと認識していたわけです(6)。このブハーリン主義について、三浦はさらに次のように述べています。
《 この見解にしたがうと、科学も芸術も同じく言語を用いて表現しているという事実を説明するために、やはり言語を一つの素材として、あるいは概念を伝達しあるいは形象を伝達する「絵具や画布や大理石のごとくひとつの媒材」として考える必要が起ってくる。かくして、言語がつねに概念を直接表現しているという事実及び言語の内容の持つ立体構造は否定されざるをえなくなり、認識の発展からくる言語発生の必然性はまったく解らなくなってしまうのである。更にまた、表現形式すなわち文章そのものについても科学と芸術とを区別しなければならなくなり、彼等は、論文そのものを科学とよんでいる。これは、観念である科学と、物である文字とを混同させたことによって、観念論へ一足ふみこんでいるのである》(同上、太字は原文)
三浦はすでにこの時期に認識と表現とを別の次元のものとしっかり認識しており、かつ言語表現には概念が表現されており、その背後に複雑な内容の立体構造が存在すると想定していることが分かります。また、「言語素材説」では、認識の発展から言語が発生する必然性を説明することができないとも述べています。まだ言語学の学者でもなんでもない青年が、そこいらの学者なんかより広い視野に立って言語本質論をきわめてやろうという意気込みが感じられて、感動的でさえあります。
また、この時期に三浦が調べた言語学者の見解も、混乱した内容のものだったようです。
《 ・・・言語学は、言語現象つまり符号や音声をしらべる学問であると称して、本質論は哲学の領分に属するものだとこれを切りはなし、本質論なしに言語を分析にかかる者もいた。ほかの表現形式を充分しらべて、その発展において言語を論ずる者はなく、言語をきりはなしてとりあげ、言語の持つ特殊性を絶対的なもの神秘的なものにしてしまっていた。ソシュール言語学の功績だといわれている「言」と「言語」の区別にしても、実は表現形式と表現内容との区別を歪めてとりあげたものであり、表現形式と表現内容との一般的な関係をしらべてその特殊性において論ずべき筋合のものである。ソシュールはどうしてこれをやれなかったかというと、彼が信奉していた認識論がカント主義であったためである。言語が直接に表現するのは概念であるが、カント主義はこの概念を現実の世界の反映としてではなしに、アプリオリにひきだしてくるのである。感覚的なかたちを表現する表現形式と、概念を表現する表現形式のあいだのちがいは、同一性のなかの差別として取扱われることなく、感覚と概念とが根本的にひきさかれる結果これまた全然別個の関係のないものとして取扱われるのである。しかし概念そのものに差別のある事実を肯定するからには、この差別が何に原因するかを説明しないわけにはゆかない。しかも概念の原型である現実それ自身の差別からこれを導いてくることは、カント主義の根本的立場が許さない。言語にあっては「自然的所与なるものはどこにも見当たらぬ」とするソシュールは、この差別を観念そのもののなかに求めざるを得なくなったこと言うまでもない》(同上、太字は原文)
言語学者でさえ、言語を表現の一種と位置づけて、まず表現一般を論じてから言語表現の特質を論じるというプロセスをとっている者がいないと三浦は嘆いています。《表現形式と表現内容との一般的な関係をしらべてその特殊性において論ずべき筋合のものである》という表現を私なりにいうと、「すべて表現とよばれるものにおいては、表現形式と表現内容とは不可分に統一されている。では、言語表現におけるこの統一のありかたの特殊性とは何か、という順序で論ずべきだ」となります。事実、三浦はのちに身振りと身振り言語のちがいを論じることから始めることになります。また、ソシュールは概念をカント主義的にアプリオリにひき出してきたので、内容と形式の一般的な関係をしらべる道が閉ざされてしまったと、三浦は述べています。たしかに、(根本的には)概念を現実の世界の反映として理解しないと、その概念にまつわる「形式」の問題や、概念が発展して言語として表現される過程的構造も理解する道が閉ざされてしまうでしょう。以上の三浦の言葉から、私たちは、私が最初に措定した三浦言語理論の4つの鍵概念のうちのひとつ、「対象→認識→表現」という図式の萌芽的な認識を読みとることができます。「現実それ自身の差別から」概念を導きだすといい、なおかつ「言語が直接に表現するのは概念である」というのですから、概念が直接的に存在する場所は認識であることを考えても、この時点で「対象→認識→表現」という基本的な表現図式を想定することはできるでしょう。ちなみに、「感覚的なかたちを表現する表現形式と、概念を表現する表現形式のあいだのちがい」を「同一性のなかの差別として取扱う」ということの意味は、少し分かりにくいかもしれません。これは、弁証法でいう「対立物の直接的同一性」という論理構造です(7)。
こうしていろいろな学者の説を吟味したあと、三浦はこう述べます。
《 わたしは、こういう言語学や芸術学を相手にするのをやめて、自分で現実から理論をひき出してくることにした。その手びきとしては、感覚からはじまって概念に発展する認識の形式を内容との関連において正しくとりあげたレーニンの「哲学ノート」と、本質が現象する現実の立体構造を経済の分野において追跡したマルクスの「資本論」特に一般的交換手段の成立を分析する貨幣論の部分と、認識に於ける原型と像との矛盾をとりあつかったエンゲルスの「反デューリング論」とに援助をもとめた。これらのすばらしい分析にたすけられて、わたしは以前発見した言語におけるとらえかたの立体性という問題を発展させることができ、言語が発生する必然性を理解し、言語がその単純な形式のうしろに驚くべき複雑な構造をかくしもっている事実を知った。すでにアリストテレスは、数学を観念的なものとする見かたに反対して、もし数学が現実のなかにその根拠をもっていなかったらどうしてこれを適用できるのかと云っている。言語の場合も同じであって、数字はすなわち数言語(ホグベン)であり数式は数文章である一つの事実からおしてもわかるように、「自然的所与」をもたない言語などというものは存在しないのである。言語が扱う現実の世界の分析は弁証法の力をかりることなくしては不可能で、これまで唯物論言語学と称するものの浅薄と機械的傾向がこれを欠くところに原因したことを、わたしはつくづくと感じた》(同上、太字は原文)
こうして、三浦は唯物弁証法という高度な論理学に助けをもとめつつ、現実の世界から与えられる客観的な関係を分析し研究していくことにします(8)。このあと三浦は、物理学者の武谷三男が提唱した科学認識論、三段階論にも言及しつつ、1936年における言語研究の項を次のような言葉で締めくくっています。
《 言語は、現象において個別的なものがそれ自身一般的であることを人間が認識するとき発生の可能性があたえられたものというべく、以後現実の構成段階をその平面に進みあるいは立体にたどって、一般的な面での認識が発展してゆくことにより発展してゆくものである》(同上、太字は原文)
武谷理論とレーニンのノートの影響が色濃く出ている論述といえるでしょう。現実の世界は現象・実体・本質という立体的な構造をもっており、それぞれの段階は個別的なものと一般的なものとの統一であり、言語は、現象において個別的なものを人間が一般的に把握し認識するとき、発生の可能性が与えられた。そしてそこから発展して行った、と。ここにきて三浦の言語理解もだいぶ論理的にまとまってきている印象があります。
(1)コンラート・フィードラー。19世紀ドイツの美術史家。
(2)フリードリヒ・フォン・シラー。18世紀ドイツの詩人、劇作家。
(3)ニコライ・ブハーリン。20世紀前半に活動したソ連の革命運動家。プラウダ編集長。
(4)三浦が参照にしたエンゲルスによるフロギストン説への言及は、エンゲルスの「『反デューリング論』への旧序文」および『資本論』「第2巻」のエンゲルスの序文にあります。
(5)モンタージュ論に対する三浦の本格的な論評は、「モンタアジュ論は逆立ち論であった」(【『認識と芸術の理論』勁草書房、1970年11月】所収)にあります。
(6)後年三浦は、イデオロギーと言語の関係に関するマルクスやエンゲルスからの影響について次のように語っています。
《「言語は実践的な意識、他の人間にとっても実存し、したがってまた私自身にとってもはじめて実存する現実的な意識(wirkliche Bewuβtsein)である。」「思想の直接的な現実性(unmittelbare Wirklichkeit)は言語である。」と、『ドイツ・イデオロギー』は記している。つまり言語は意識や思想それ自体ではなく、それらを私の実践によって運動する空気層のかたちに表現したものであり、その結果他の人間にとっても私自身にとっても、意識や思想から媒介されたその物質的な形態として存在するのだ、とマルクスやエンゲルスは主張するのである。ここで「現実的」「現実性」と記しているのは、人間の存在を彼らの現実的な生活過程(wirklicher Lebensprozeβ)だと述べているのと同じように、物質的という意味である》(三浦つとむ「認識論はどういう科学か」、『唯物弁証法の成立と歪曲』【勁草書房、1991年2月】所収)
(7)三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書、1968年9月)91〜93頁参照。
(8)なお、三浦は別のところで、戦前の青年期に影響をうけた書物について次のように述べています。
《 理論的な仕事としては、戦前の青年の頃に芸術理論や言語理論に関心を持って、当時ソヴエトから輸入され、もてはやされたモンタアジュ論やソシュール言語学について調べてみたのだが、これらがあまりにも幼稚に思われたので、自分で何とかもうすこしまともな理論を立ててみようと考えていた。
聞くところによると、弁証法という科学があって、これを武器として研究すると大きな成果があるという、では一つ弁証法を研究してやろう、−−これが哲学というものに関心を持つようになったきっかけだった。
それでエンゲルスの『反デューリング論』『フォイエルバッハ論』、ディーツゲンの『弁証法的唯物論』などを読み、また春秋社の世界大思想全集の中におさめられていたマルクスの『経済学批判序説』から非常に教えられるところがあった。
自分で理論的な仕事をするために哲学の力をかりようというのだから、文献のむづかしいか、やさしいかは第二のこと、役に立つか立たないかが一番大きな基準であって、役に立ちそうな文献なら、むづかしそうなものでも根気よく読むことにした。
この点で、レーニンの読みかたや評価についても、ほかの哲学者たちとはちがっているように思う。もっとも古くから読んだ、もっとも好きな本は『左翼小児病』で、太田黒から出た伏字のない訳本を大切にしていたが、海軍に徴用のとき持っていって、空襲を受けて焼かれてしまった。
『唯物論と経験批判論』は、はじめ特殊な本のように思えたので敬遠していたが、読んでみたら面白くて面白くて腹をかかえさせられた。ただ、私が不満だったのは、弁証法的唯物論の認識論が正しいことを力説しながら、マルクス、エンゲルスの解説にとどまっていて、認識論を前進させていない点だった。プレハーノフが認識を象形と考えたのはまちがいにちがいないが、では象形はどう理解したらいいかといえば、その説明はない。観念論者への反駁としてはこの本で充分であっても、理論的な仕事の協力者としては物足りないと思った。理論の水準はこれより高いが、『哲学ノート』でもやはり同じことを感じている。
ソヴエトの二十回大会でレーニン主義を高唱したからといって、ソレッと今度はレーニンの文献を個人崇拝的に教典主義的に扱うような哲学者が出てこなければいいが》(『日本読書新聞』1956年4月16日付掲載の「私の読書遍歴」と題する回顧的文章より。三浦つとむ『弁証法・いかに学ぶべきか』【季節社、1999年6月版】所収)
❉ なお、「弁証法は言語の謎をとく」における本文の強調は、原文では波線であったものを太字にして表示してあります。
(2020/6/2 脱稿 2026/5/3 更新、再掲)