〈概念の二重化〉説 3
〇疑問3 小川文昭さんより
川島 正平 様
前回の私の投稿を緻密に検討してくださり、また投稿で触れなかったことについて問題提起してくださって、ありがとうございます。
川島さんから「概念が対象から直接抽出される過程、すなわち先の「個別的概念の成立過程(1)」は、具体的にどのような場合に該当するのでしょうか?(……)その場合は、私の把握した<概念の二重化>の図式が当てはまるのでしょうか?」と提起された問題は、前回の投稿時、後まわしにして触れなかったことでした。川島さんの問いかけをありがたく受けとめて、以下のように考えてみました。また、ご意見をうかがえるとうれしく思います。
●個別的概念の成立過程の例
言語に表現される概念が、規範の媒介によらずに対象から直接抽出される場合としては
(1)「あれ、なあに?」「これは誰ですか?」など、新しく言葉を学ぶ場合
(2)新語を作る場合(=命名の場合)
が考えられます。
(1)(2)とも、「個別即普遍」の概念が成立することがあるのが、このような、規範の概念の媒介なしに対象から直接に概念が抽出される場合の特殊性です。
●●「個別即普遍」
「個別即普遍」という論理は、牧野紀之『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版、http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6918/を参照)66~67ページと、イェスペルセン『言語―その本質・発達・起源―(上)』(三宅鴻訳、岩波文庫)218ページにある以下の記述によりました。
(牧野紀之より引用)
…、後にはある種(=普遍)に属する一つのもの(=個別)にすぎないと分るものでも、その種がそれとして知られていない段階で初めて現われる時には、個別としてはとらえられないということである。なぜならそれと比較して、それの個別的な性質つまり特殊性を知るための、同種の他のものがまだ知られていないからである。始めに現われる個別は普遍として、その種そのものとしてとらえられるということである。というより、そこではまだ個別と普遍は未分化なのである。(引用終り)
(イェスペルセンより引用)
しばしば、おそらくはきわめてしばしば、単語とは子どもにとって始めのうちは、固有名である。「森」とは森一般ではなく、食堂で子どもに指し示された特定の画のことである。(…中略…)ファーザーという単語は初めてこれを耳にしたとき、固有名である。つまりその子の父親の名前である。しかし程なく、この単語は広げられて、その子の父親となんらかの点で共通する他の個人にも適用されなければならなくなる。ある子どもはそれをすべての<男の人>(原文強調)に用いようし、ある子はおそらくあごひげをもつすべての男に用いようし(あごひげのない顔の画はぜんぶladyと呼ばれる)、また別の子はこの単語を父親、母親、祖父のみんなにあてはめるであろう。(引用終り)
●新語を作る場合
(2)の場合の概念は、なにかに命名する時の・対象の概念です。固有名は対象の個別性を普遍的に把握した表現なので「個別即普遍」ですが、動植物の新種、新物質などの命名にあたっては「個別―特殊―普遍」の認識が成立してから命名されることもあるでしょう。
「個別即普遍」の概念の場合、表現過程の図式は<対象>→<概念>→<概念/聴覚映像>→<表現>ではないかと思います。
●二種類の「個別的概念、普遍的概念」
川島さん引用の『言語過程説の展開』p.90~92では、類全体を対象としてとりあげた「普遍的概念あるいは一般的概念」について述べられています。この類全体を取りあげた普遍的概念が、言語規範の普遍的概念と同じものなのか違うものなのかは問題だと思いますが、三浦つとむはこれには直接触れていないようです。川島さんはこの区別を次のようにお考えです。
(引用開始)
ここで三浦のいう普遍的概念(あるいは一般的概念)は、おそらく言語規範の普遍的概念からそのままスライドされて、思惟や言語表現過程や言語理解過程に運用できるものとして成立した概念だと思われますが、たしかに私たちの現実の思惟や言語表現過程を反芻してみると、そのような普遍的概念の運用ということもたしかにありうることだと思われます。
(引用終り)
これは私もそのとおりだと思います。
ところで、対象の類全体を把握した概念は、規範の概念から「スライド」されなければならないということは、逆にいえば、対象の普遍性の把握としての概念は、対象が類全体であったとしても、それがそのまま規範の概念になるわけではないということです。つまり、言語規範の規定する概念というのは、類全体を対象として、その普遍性を把握した場合の普遍的概念とも、区別されなければならないということです。
では「スライドされて」という「スライド」の構造はどういうものでしょうか。
●対象の概念と規範の概念とはどう違うか
規範に規定された概念を、私は、「対象超越的」(滝村隆一「マルクス主義の方法的解体―とりあえずの覚え書」『試行』72号、1993.12)な概念と考えます。そして「スライド」というのは、この対象超越的な概念が、対象から媒介された概念として、対象との関係(止揚関係)の中で把握しなおされることだと思います。
類全体をつかんだ概念であっても個別の対象をつかんだ概念であっても、対象を概念で把握するということは、対象についての認識を普遍的な認識の中に止揚することです。
こうして成立した概念は、対象の普遍性の把握ですが、概念そのものとしては、個人の頭にやどった個別の認識であり、個別性という性格を持っています。
一方、言語規範の概念は、対象からのこの止揚関係を捨象して、概念それ自体が、独立で存在するものであるかのように、一つの抽象物としてつかまれたものです。この概念は、表現のための表象以外には何も結びつくものがない・対象超越的な概念です。
ただ、この概念は超越的であるといっても、他者の頭にやどった同じ種類の規範の概念との間の同一性が保たれなければならないという拘束を受けます。そういう意味での普遍的な性質を持つことが社会的に求められる概念です。
●「運用概念」と「規範概念」の関係
言語規範による表現過程の媒介という論理は、三浦言語理論の要点です。川島さんによる「運用概念」と「規範概念」との区別は、三浦つとむの理論をよく説明するものだと思います。
この二種類の概念の関係は、根本的には「運用概念」が基礎的な存在であって、そこから「規範概念」が抽象され、それが「運用概念」から相対的に独立した「対象超越的」な認識として固定化され、以後、「規範概念」は「運用概念」の内容を拘束するようにはたらきます。
「規範概念」が独立した後も、「規範概念」は絶えず現実の言語行為での「運用概念」との相互浸透を通じて、対象の認識の止揚によって得られた「運用概念」の内容を受取りつづけます。
この相互浸透の過程には、「規範概念」が「運用概念」の運用のなかで検証されるということも含まれます。もし「規範概念」の内容に誤りがあれば、それが「運用概念」の誤りとなり、誤った「運用概念」による言語活動で目的どおりの結果が得られないということになります。そのことによって「規範概念」の誤りが知らされるというわけです。
こうして、各人は自分の「規範概念」を他者と共通なものに保つように絶えず気を配ることになります。
●言語規範とそのはたらき
このように、「規範概念」が「運用概念」を通じて検証され、それによって社会的な共通性が維持されるということも、言語規範が言語行為を拘束するはたらきの結果であって、そのはたらきが現われたものだと思います。
ただし、こう考えるためには、言語規範自体を、規範の普遍的概念からも表現のための表象からも独立した、第三の存在として考えることが必要です。
言語規範の本質は、対象超越的概念と、それを表現するための表象との関係であり、この本質=関係を、社会的な共同の意志という形で実現することによって、超感性的な認識を感性的に表現するという言語の矛盾は解決されるのだと考えることができます。
三浦つとむの言語規範観は、このように把握するのがいいと私は考えるのですが、三浦の言語規範観が本当にこういうものだったかについては、議論の余地があるでしょう。
三浦つとむに発見されたこの言語規範は、個々の言語行為を規定する普遍的存在であることから、あたかも定規の目盛りが不変固定であるように、不変固定的存在としての面があるはずですが、それと同時に、言語規範の概念自体が個々の言語行為を通じて生成し、変化・成長していくものでもあるという面があることも否定できません。それをつかもうというのが、前回と今回を通じての私の投稿の意図です。
私が述べた考えはまだ荒削りな仮説に過ぎません。誤りがすぐに見つかりそうな気がします。ご批判をいただけると幸です。
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○筆者の応答 3 (2001/4/6)
まずは小川さん、いつもご投稿ありがとうございます。今回も、私は小川さんからいろいろと学ばせていただきました。
(1)個別的概念の成立過程①=「個別即普遍」の概念の成立過程
前回、私は、「筆者の応答2」において、個別的概念の成立過程①、すなわち規範の普遍的概念の媒介によらないで、対象から直接に概念が抽出される過程は、具体的にはどのような場合に当てはまるのでしょうか、と小川さんにお尋ねしておりました。そして、これらの概念の成立過程は、私が拙著『言語過程説の研究』第2章において解説・主張した<概念の二重化>の図式が当てはまるかどうか、ということもお尋ねしておりました。
それに対して小川さんは、今回のご投稿で、それは、
(1)「あれ、なあに?」「これは誰ですか?」など、新しく言葉を学ぶ場合
(2)新語を作る場合(=命名の場合)
などが当てはまるとお答えになりました。
そして、さらにこれらの概念の成立過程は、「個別即普遍」の概念の成立過程である、と述べておられます。また、この「個別即普遍」の概念の成立過程は、私の<対象>→<概念>→<概念/聴覚映像>→<表現>という図式が当てはまるのではないか、と推測しておられます。
まずはこの「個別即普遍」という言葉ですが、小川さんが紹介されていた牧野紀之さんとイェスペルセンの引用文で、だいたいその意味をつかむことができました。
(牧野紀之より引用)
…、後にはある種(=普遍)に属する一つのもの(=個別)にすぎないと分るものでも、その種がそれとして知られていない段階で初めて現われる時には、個別としてはとらえられないということである。なぜなら、それと比較して、それの個別的な性質つまり特殊性を知るための、同種の他のものがまだ知られていないからである。始めに現われる個別は普遍として、その種そのものとしてとらえられるということである。というより、そこではまだ個別と普遍は未分化なのである。(引用終り)
(イェスペルセンより引用)
しばしば、おそらくはきわめてしばしば、単語とは子どもにとって始めのうちは、固有名である。「森」とは森一般ではなく、食堂で子どもに指し示された特定の画のことである。(…中略…)ファーザーという単語は初めてこれを耳にしたとき、固有名である。つまりその子の自分の父親の名前である。しかし程なく、この単語は広げられて、その子の父親となんらかの点で共通する他の個人にも適用されなければならなくなる。ある子どもはそれをすべての<男の人>(原文強調)に用いようし、ある子はおそらくあごひげをもつすべての男に用いようし(あごひげのない顔の画はぜんぶladyと呼ばれる)、また別の子はこの単語を父親、母親、祖父のみんなにあてはめるであろう。(引用終り)
牧野さんの引用文は、ようするに、ソシュールの用語でいうならばいわゆる「連合関係」(rapport associatif ;牧野さんご自身は、これを「連想関係」と言い換えておられます)のことを述べておられるのだと思います。つまり牧野さんがここで述べておられることは、ある対象がある種(A)に属する一つの特殊的なものであるということが分っている場合でも、それがその種(A)に属するものであるということを理解するために不可欠であるところの、その種と同列に扱われている(あるいは、その種と同一の範疇において扱われている)他の種(B、C、D、…)が知られていない場合、その対象はその種(A)に属する特殊性を伴ったものであるということが特定できない、ということです。この場合、この対象は、今、現に目の前に存在している個別的なものであるという認識とともに、その種(A)という存在が現実には同列に属するものとして扱われている他の種(B、C、D、…)をも包摂したある普遍的な存在として理解されることになります。
たとえば、今、まったく野球というものを見たこともなければ野球に関する知識もない小学生のKくんが、ある日、はじめてプロ野球のジャイアンツと横浜の試合をテレビで見たとします。いうまでもなく野球には、プロ野球もあれば、高校野球もあるし、リトル・リーグもあります。また、野球には、硬式野球だけでなく、軟式野球もあります。そういうことをまったく知らないKくんは、お父さんから「これが野球だよ」と教えられて、「これが野球か!」と新語を覚えたとします。この場合、Kくんは、目の前の個別的な野球を、プロ野球としての特殊性や、硬式野球としての特殊性を抜きにして、野球としての普遍性として捉えたことになります。これが、牧野さんのいう《…目の前の個別は普遍として、その種そのものとしてとらえられる》ということの意味であり、「個別即普遍」ということの意味でしょう。
また、イェスペルセンは、牧野さんと同じことを別の表現で示しています。すなわち、《単語とはしばしば子どもにとって始めのうちは、固有名である》と。上の野球の例は、少なくともものごころのついた小学生に、「これが野球だよ」と教えている例なので、目の前のジャイアンツと横浜の試合のみを「野球」だと思い込むことはないと思いますが、3歳の子どもに「これがママで、これがパパだよ」と教える場合は、まさにイェスペルセンのいうとおりでしょう。この子どもは、もう少し大きくなって、「あれが○○ちゃんのママで、これが××ちゃんのパパ」ということが分るまでは、「ママ」「パパ」という単語をそれぞれ自分の母親と父親の固有名として記憶していることでしょう。この場合の概念の成立過程も、小川さんのいう「個別即普遍」という論理が当てはまると考えられます。
小川さんは、(2)の新語を作る場合も、《動植物の新種、新物質などの命名》の場合を除いては、この「個別即普遍」という論理が当てはまると述べておられます。これも私はそのとおりだと思います。
新語を作る場合は、多くの場合、すでに複雑な言語規範を身につけた大人(多くの場合、学者や専門家)が、ある対象を、ある特殊な範疇において他の同種のものと区別するために命名することですから、この場合は、小川さんのおっしゃるとおり、《「個別―特殊―普遍」の認識が成立してから》の命名ということができるでしょう。たとえば、ペニシリンという抗生物質が発見され命名されたときは、これが抗生物質という範疇に属するある独自性を持ったものであるということはある程度分っていたはずです。ですから、この場合は、「個別―特殊―普遍」という認識のもとに命名された例のひとつということができるでしょう。
また、小川さんは、以上のような個別的概念の成立過程①、すなわち(1)新しく言葉を覚える場合と、(2)新語を作る場合(動植物などの命名の場合を除く)には、<対象>→<概念>→<概念/聴覚映像>→<表現>という言語表現の過程的構造に関する私の図式が当てはまるということを承認されました。私もそうではないかと考えております。
(2)個別的概念の成立過程②の過程的構造図式
問題は、個別的概念の成立過程②、すなわち概念が対象から媒介的に抽出される場合の過程的構造図式を果してどのように表現するか、ということがひとつあると思います。この場合、表現主体の対象への問いかけと対象からの反映という往復的運動過程が加わるので、過程的構造図式はより複雑になるものと思われます。とりあえず私は、次のような図式を考えてみました。
<対 象>
↓↑
<概 念>
↓↑
<概念/聴覚映像>
↓
<表 現>
<概念が対象から媒介的に抽出される場合の過程的構造図式>
小川さんのおっしゃる個別的概念の二面化的成立ということから考えると、上の図式は個別的な<概念>そのものが独立して存在しているように見えるので、適当でないように思われるかもしれませんが、私としては、上の図式の交差する矢印によって個別的概念の二重化即二面化という構造を表現したつもりですので、一応これでよいのではないか、と考えております。もっとも、認識内部の事象をこのようにいちいち図式化して表現する必要はないのかもしれないですが、私としては、同じ言語表現でもこういう過程内の相違が存在するのだということをひと目見てわかる図式というものもそれなりに有用ではないか、と考えております。逆に、目に見えない過程の問題であるからこそ、こういう図式はあってもよいのではないか、とも考えております。もっとも、このような図式をそのまま絶対化して理解することが危険であることはいうまでもありませんが。小川さんにもし、私と違うアイデアがあるようでしたら、どうぞお教えいただきたいと思います。
(3)二種類の普遍的概念について
私は前回、「筆者の応答2」において、三浦つとむの言葉を引用して、対象を類全体として把握して成立し運用される普遍的概念は、規範の普遍的概念からスライドして成立したものであり、それは規範の普遍的概念が運用される概念に転化したものだということを書きました。小川さんは、この私の考えに賛成されて、さらにその《「スライド」の構造はどういうものでしょううか》と問題提起され、次のように述べておられます。
《●対象の概念と規範の概念とはどう違うか
規範に規定された概念を、私は、「対象超越的」(中略―川島)な概念と考えます。そして「スライド」というのは、この対象超越的な概念が、対象から媒介された概念として、対象との関係(止揚関係)の中で把握しなおされることだと思います。
類全体をつかんだ概念であっても個別の対象をつかんだ概念であっても、対象を概念で把握するということは、対象についての認識を普遍的な認識の中に止揚することです。
こうして成立した概念は、対象の普遍性の把握ですが、概念そのものとしては、個人の頭にやどった個別の認識であり、個別性という性格を持っています。
一方、言語規範の概念は、対象からのこの止揚関係を捨象して、概念それ自体が、独立で存在するものであるかのように、一つの抽象物としてつかまれたものです。この概念は、表現のための表象以外には何も結びつくものがない・対象超越的な概念です。
ただ、この概念は超越的であるといっても、他者の頭にやどった同じ種類の規範の概念との間の同一性が保たれなければならないという拘束を受けます。そういう意味での普遍的な性質を持つことが社会的に求められる概念です。》(太字――川島)
小川さんはこのように、私が「スライドする」とか「転化する」といったように、その相互関係の具体的な記述を避けていたところの、二種類の普遍的概念の関係について、実に明晰に適切な説明をしてくださいました。すなわち、《「スライド」というのは、この対象超越的な概念が、対象から媒介された概念として、対象との関係(止揚関係)の中で把握しなおされることだ》、ということです。私もそう考えます。規範の概念そのものは、あくまでも観念的に対象化された意志の一形態である言語規範に規定された存在として、ある特定の表象との結びつきが定められた概念として、頭の中に固定的に存在する概念です。この固定的な概念が思惟や表現において運用されるときは、必然にそれが表現主体の思惟活動において対象との止揚関係において再度把握しなおされる、という考え方は、きわめて妥当なものと思われます。もっとも、私たちは普段それを意識せずに行っているでしょうが。前回私が「運用概念」と「規範概念」とを明瞭に区別したことは、このような概念の質の相対的な区別に基いています。
また、小川さんは、規範の普遍的概念について、これを「対象超越的」な概念と呼んでおられますが、私は最近、この「対象超越的」という言葉が実際に使われている滝村隆一氏の論文(「マルクス主義の方法的解体」)を読む機会がありました。この論文の中でこの「対象超越的」という言葉は、個別科学の現実的な・具体的な実践とは異なる領域に属する、弁証法や論理学など、きわめて抽象的な・一般的な論理に対する形容として使われています。その意味でたしかに、規範の普遍的概念を「対象超越的」と形容することは、的を射た形容の仕方だといえるでしょう。
(4)「運用概念」と「規範概念」の関係について
前回私は、思惟や表現過程において実際に運用される普遍的概念および二種類の個別的概念と、言語規範の普遍的概念(小川さんのいう対象超越的な概念)とを区別して、それぞれ「運用概念」「規範概念」と呼んではどうか、と問題提起しました。今回、小川さんは、それについて、次のように述べておられます。
《 言語規範による表現過程の媒介という論理は、三浦言語理論の要点です。
川島さんによる「運用概念」と「規範概念」との区別は、三浦つとむの理論をよく説明するものだと思います。
この二種類の概念の関係は、根本的には「運用概念」が基礎的な存在であって、そこから「規範概念」が抽象され、それが「運用概念」から相対的に独立した「対象超越的」な認識として固定化され、以後、「規範概念」は「運用概念」の内容を拘束するようにはたらきます。
「規範概念」が独立した後も、「規範概念」は絶えず現実の言語行為での「運用概念」との相互浸透を通じて、対象の認識の止揚によって得られた「運用概念」の内容を受取りつづけます。
この相互浸透の過程には、「規範概念」が「運用概念」の運用のなかで検証されるということも含まれます。もし「規範概念」の内容に誤りがあれば、それが「運用概念」の誤りとなり、誤った「運用概念」による言語活動で目的どおりの結果が得られないということになります。そのことによって「規範概念」の誤りが知らされるというわけです。
こうして、各人は自分の「規範概念」を他者と共通なものに保つように絶えず気を配ることになります。》
《言語規範による表現過程の媒介という論理は、三浦言語理論の要点です》と小川さんは考えておられますが、私もそう考えています。この点も含めて、私は、拙著p.106において、三浦つとむの言語本質論上の功績を次の3点に大まかにまとめて書いています。
《(1)言語は、表現のための社会的な約束すなわち言語規範を必要とする。
(2)言語においては、客体的表現と主体的表現とを分離して表現することが可能である。
(3)言語においては、言語表現と非言語表現というかたちの二重性が存在する。》(『言語過程説の研究』p.106)
(1)の考え方は、ソシュールがすでにラングという言葉で説明している、という見方もあるかもしれませんが、言語表現過程において、言語規範が超感性的な概念を媒介することによって感性的な形式(=表象)が決定され、それが現実に言語として物質的に表現される、という言語規範による表現の媒介のあり方の具体的な説明をしたのは、三浦が初めてです。このような言語規範による表現の媒介ということを言語表現の本質的な特徴のひとつとして三浦が規定したことは、三浦にしてみれば、論理的に必然の結果でした。三浦はもともと、言語表現の特質を対象の類としての認識の表現すなわち超感性的な概念の表現という点にみていましたから、超感性的な認識を言語として物質的・感性的に表現するためには、必ずその過程において、超感性的な存在と感性的な存在とを媒介する過程が存在しなければならない、と考えたわけです。そして結局、この両者の間を媒介するのが、かくかくしかじかの概念にはかくかくしかじかの表象(音声や文字)を結びつける、という認識におけるダイナミックな社会的な運動すなわち言語規範の運動である、という結論に達したのです。それで、三浦は、《(言語表現においては――引用者)現実的な表現の背後に、表現のための規範が存在していて、表現主体の頭の中でこのような認識にはこのような音声や文字を使うべしという、観念的な語のありかたが規定されていた。(中略)言語は規範によってささえられ、規範の媒介によって具体的な意味を持つ表現が成立したのであって、この表現に対する規範の先行と媒介という点で絵画や彫刻などと本質的に異っている。(中略)言語の本質を論じるときは当然言語規範をとりあげねばならないのであって、言語表現の過程的構造に規範を正しく位置づけることを必要とするのである》(三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』)勁草書房。p.9。太字は原文)とまで述べていたのです。――話が少し横にそれてしまったようですが、私は、三浦つとむの言語学上の功績の三本柱を上のように考えています。異論のある方もあるかもしれませんが、その場合はその旨投稿していただければ幸です。
さて、次に、「運用概念」と「規範概念」についてですが、まずは、小川さんがこのような私の概念の区別の仕方を《三浦つとむの理論をよく説明するもの》と認めてくださったことに感謝したいと思います。この考え方は、まったく私独自に考え出したものなので、一人でも賛意を表明してくださる方がいることは嬉しいことです。
上の引用文において、小川さんは、「運用概念」と「規範概念」との関係について、実に的確な説明をしてくださっています。たしかに、両者の関係においては、「運用概念」が基礎的な存在であって、多くの場合、「規範概念」は、「運用概念」として何回も使われたのちに、表現主体の言語規範の働きによって「規範概念」として固定化され、頭の中に登録されることになります。そして一度「規範概念」として登録されると、以後、この概念(<概念/聴覚映像>)は思惟における「運用概念」の働きの手助けをする役割をすることになります。
「規範概念」は固定的な概念ではありますが、たえず表現主体の現実の言語行為において、「運用概念」との相互浸透を通じて、刻々と変化・発展せざるをえません。時には、現実からの要請によって、それまで関係していた「運用概念」に新たな別の「規範概念」が関係するという変化を被ることもあるでしょう。たとえば、ひと昔前まで「今風の」とか「かっこいい」という意味で使われていた「ナウい」という形容詞を使う人は、今ではほとんどいません。今ではこの「ナウい」という語の代わりに、「今っぽい」とか「イケてる」とかいう語が使われることが比較的多いようです(もっとも、これはまだ俗語的な場面においてしか使われていないようですが)。この場合、かつて「ナウい」という表象を伴った「規範概念」と相互浸透することによって表現されていたところの「運用概念」(表現される概念)に、現在では、「今っぽい」とか「イケてる」とかいう表象を伴った「規範概念」(表現に役立てられる概念)が言語規範の働きによって相互浸透して表現に役立てられている、ということができるでしょう。また、かつては「中年」とか「老年」とか「お年寄り」とかいった語で表現されざるをえなかった50歳から60歳くらいにかけての人たちのことを、現在では私たちは「熟年」と呼んでいます。これなどは、かつては存在しなかったところの「規範概念」が、現実の対象と「運用概念」との間の矛盾が原動力となって形成されたものと考えられます。このように、「規範概念」は、たしかに固定的なものではありますが、決して絶対的に固定し変化しないものではなく、絶えず現実の世界と主体との関係によって変化・発展しているということができます。
ここで、「運用概念」と「規範概念」との間の相違を理解しやすくするために、時枝誠記が自著の中で紹介していた言語表現の失敗例を、あらためて紹介しておくことにします。
《 ……私の長女(当時小学四年生)が、友人のことを批評して「あの子はオッチョコチョイだ」といふのを聞いたので、「オッチョコチョイ」といふ語をどういふ意味に使つてゐるのかと思つて、それとなく尋ねてみると、どうも「乱暴者」を意味してゐるやうに受取られた。私は、「オッチョコチョイ」の意味を説明しようかと思つたが、到底、私の手には負へないと思つたし、いづれは、自分自身で修正して行くことであらうと思つて、そのまヽにしてしまつた。》(時枝誠記『国語学原論 続篇』p.39~40)
この例では、表現主体(時枝誠記の長女)は、本来ならば「乱暴者」として表現されるべきところの「運用概念」を認識していたことになります。「運用概念」は、必ずしも表象が伴っているものとは限りませんから、たとえ外部に表現されたのが実際に「オッチョコチョイ」という物理的な形式だったとしても、表現主体が現実に認識した概念が、必ずしも、通常「オッチョコチョイ」という語で表現される概念と同じものだとはいえないわけです。時枝の推測が正しいとするならば、この表現主体の犯した過ちは、本来ならば「乱暴者」として表現されるべきところの「運用概念」に、「乱暴者」という適切な「規範概念」を結びつけることができなかった、というところにあります。もちろん、上のような記述だけでは、この表現主体が「乱暴者」という「規範概念」を言語規範において登録していたか、いなかったか、ということまではわかりません。私たちは、たとえ適切な「規範概念」を登録していても、表現する時に思い浮かばなかったり、またド忘れすることもあるからです。とりあえず、この表現主体は(あくまでも時枝の推測が正しかったとするならば)、自らが表現したい「運用概念」に適切な「規範概念」を結びつけて適切な表象を伴った言語表現をすることに失敗した、ということだけはたしかなことのようです。このような現実の言語表現の失敗を繰返すことによって、私たちは「規範概念」と「運用概念」との間の運動すなわち両者の相互浸透に社会性を持たせて行く作業を日々行っているわけです。
「運用概念」と「規範概念」という区別を用いることは、このように、今までの概念論ではあまり細かく説明することができなかったさまざまな表現過程上の事象をある程度明確に説明することができる、という利点があると私は考えています。
(5)言語規範と「運用概念」「規範概念」
《●言語規範とそのはたらき
このように、「規範概念」が「運用概念」を通じて検証され、それによって社会的な共通性が維持されるということも、言語規範が言語行為を拘束するはたらきの結果であって、そのはたらきが現われたものだと思います。
ただし、こう考えるためには、言語規範自体を、規範の普遍的概念からも表現のための表象からも独立した、第三の存在として考えることが必要です。
言語規範の本質は、対象超越的概念と、それを表現するための表象との関係であり、この本質=関係を、社会的な共同の意志という形で実現することによって、超感性的な認識を感性的に表現するという言語の矛盾は解決されるのだと考えることができます。
三浦つとむの言語規範観は、このように把握するのがいいと私は考えるのですが、三浦の言語規範観が本当にこういうものだったかについては、議論の余地があるでしょう。
三浦つとむに発見されたこの言語規範は、個々の言語行為を規定する普遍的存在であることから、あたかも定規の目盛りが不変固定であるように、不変固定的存在としての面があるはずですが、それと同時に、言語規範の概念自体が個々の言語行為を通じて生成し、変化・成長していくものでもあるという面があることも否定できません。それをつかもうというのが、前回と今回を通じての私の投稿の意図です。(以下略)》
言語規範を、対象超越的概念すなわち規範の普遍的概念とも、表現のための表象とも異なる、第三の存在としてとらえるべきだという小川さんのご主張は、まさにそのとおりだと思います。言語規範自体は、これこれの概念にはこれこれの表象(音声表象や文字表象)を結びつけるべし、という観念的に対象化された意志の一形態であり、これは、普遍的概念とも表象とも相対的に独立して存在するところの、認識の特殊な運動形態のひとつです。
言語規範の本質を、対象超越的概念すなわち規範の普遍的概念と、これに結びつけられる表象との間の関係に見ることは、たしかに的を射た考え方だと私も思います。三浦つとむも、超感性的な認識を他の人にも理解可能な感性的形式として表現しなければならないという、言語表現がかかえているある意味やっかいな宿命(=矛盾)を説明するもっとも合理的な論理として、――社会的な共同の意志の観念的な対象化として成立したところの――言語規範による表現の媒介という過程的構造を結果的に導き出したものと思われます。
最後に、三浦つとむが言語規範の持つ相反する二つの性格、すなわちその固定性・拘束性と可変性・柔軟性とを対立物の統一としてきわめて明晰に叙述した文章を引用しておきます。
《 …ソシュールは一方でlangueの「恣意性」を指摘しながら、他方で「大衆はあるがままのlangueにしばられている」「自由ではなくて押しつけられている」といい、恣意性と強制を両立させている。これは矛盾であるから、矛盾は不合理なものと思いこんでいる学者たちが納得できないのであるが、言語規範の正しい理解を持てばこの問題は簡単に解決する。表現のための音声表象は、表象としての二面性を、音声の感性的認識の側面と音声の種類についての超感性的認識の側面とを持っているし、規範における概念は超感性的認識の側面に結合されている。従ってparoleにあっても、その音声は二面性を持っていて、言語表現は音声の人工的な種類という超感性的な側面においてなされている。音声の感性的な側面は、言語としては語の弁別にとって必要ではあっても、それ自体が言語表現ではないのである。それだからこそ、どんな音声表象でも規範に採用できるのであって、他の語と弁別できないような音声を避けるという規制を受けはするものの、人工的な種類という超感性的な側面を持ちさえすれば言語表現に使用可能なのであり、ここに恣意性の根拠が存在している。ところが、一度どんな音声を使用するかを規範として決定してしまうと、こんどはある特定の概念の表現には特定の音声を使うべしという、客観的な意志が成立しているから、規範のこの意志によって強制され押しつけられるのである。恣意的かそれとも強制的かと、あれかこれかの形而上学的発想で解釈しようとして、規範の成立に際しては恣意的であり且つ規範の成立後においては強制的であるという、あれもこれもと対立物を統一してとらえる弁証法的発想で理解しようとしないところに、学者たちがキリキリ舞いから逃れられない原因があった。》(三浦つとむ『言語学と記号学』p.21~22)(傍線は原文では傍点、太字は原文)
おたより、ありがとうございました。
(2001/3/28 脱稿 2025/9/19 gooブログより転載)