三浦つとむの言語理論、その形成過程について 6

1940年秋および1941年

 三浦つとむは、1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)にかけての研究については、次のように述べています。

《 わたしは昭和十五年秋雑誌に発表した小論文(1)で、言語を「一般的表現形式」と規定した。符号や数字をふくんだ広い意味での言語(2)は、一般的表現形式の総括的な名称と考えられ、コトバは一般的表現の一種類なのである。形式上いかに言語に似ていても、話し手書き手の一般的な認識の上に立たぬものは言語ではない。わたしがアラビア字をひきうつしたところで、それは符号のもつ形象をながめ、その感覚を忠実に模写したものであって、わたしの表現として見るとき、本質的にこれは絵画なのである。わたしはこの昭和十五年の論文で、絵画としての身ぶりから言語としての身ぶりへの転化を論じ、昭和十六年のプリントに於て個別的表現形式と一般的表現形式と一般的表現形式の統一及び交互転化をとりあげて、言語が一般的表現形式でありながら個別的表現形式の一面をも持つという矛盾した存在であり、これが内容の一般性及び個別性という矛盾とからみあい、さらに言語が芸術として個別的表現形式及び一般的表現形式の両面において独立し且つ不可分なものとして存在する実例を指摘した。独唱などはこの例であって、一般的表現形式としては作詞者の、個別的表現形式としては作曲者の芸術として歌手の芸術をとうしてあらわれるのである》(三浦つとむ「弁証法は言語の謎をとく」、太字は原文)(3)

 ここに私たちは、「言語表現の特質は、一般的な認識である概念の種類としての表現である」という三浦の「種類」論の萌芽的なかたちをみることができます。言語(身ぶり言語)が非言語(身ぶり)の転化として生まれるその発生の経緯について語ると同時に、三浦は言語の特質を「一般的表現形式」である点に見いだしています。ここから一歩ふみ出して、「感覚的(=個別的)なもの」と「感覚的なものを超越した(一般的な)もの」という視点がえられると、三浦の「種類論」に限りなく近づいてくるものと思われます。また、ここでの「昭和十六年のプリント」がどのようなものであるかについては何も分かっていませんが、9年後の1950年に三浦が言語の本質について次のように述べていることから、「個別的表現形式」と「一般的表現形式」がどのようなものであったか、大まかに知ることはできます。

《 4 . 個別的表現形式(声、絵画、身ぶり)から一般的表現形式(言葉、文字、身ぶり言語)への移行。−−ゼスチュア一色にぬりつぶす偏向と言語一色にぬりつぶす偏向(今村太平映画論における映画即言語説)》(「スターリンの見解と私の見解とはどこがちがうか」『民科研究ニュース』臨時特集1号、1950年10月。のち、『スターリン批判の時代』に収録される)(4)

 このように、「声、絵画、身ぶり」などが「個別的表現形式」であり、「言葉、文字、身ぶり言語」などが「一般的表現形式」であると、規定していた可能性が高いものと思われます。また、ここでもう一つ注目すべき点は、認識における個別的なものと一般的なものとが、表現においても、その個別的な形式と一般的な形式とにそれぞれ結びついていると言っている点です。これは、認識を脳髄のはたらきと見ると同時に、それから独立して物が存在するという正しい唯物論の立場に立たないかぎり、なかなか出てこない発想だといえるでしょう。この部分は、正しい意味での反映論の萌芽的な記述とみることができると思います。

(1)この「昭和十五年秋雑誌に発表した小論文」とは、三浦の著作目録を見るかぎり、「映画は言語に属さない」(『映画評論』22巻10号、昭和15年10月)であるものと思われます。後日確認して追記する予定です。

(2)ここでいう「符号」は、いまでいう「記号」に相当するのではないかと思われます。ゆえに、三浦はこの時期、「記号、数字を含んだ広い意味での言語」を「一般的表現形式」としてとらえていたものと思われます。

(3)この引用文の「プリントに於て個別的表現形式と一般的表現形式と一般的表現形式の統一及び交互転化をとりあげて」とある箇所は、もしかすると「一般的表現形式」がひとつ多い可能性がありますが、とりあえず原文のままにしてあります。

(4)これは、1950年9月30日に行われたスターリンの言語論に関するシンポジウムの要旨なので、箇条書きになっています。

1941年〜1945年

 その後、三浦はニコライ・マルやオグデンの論文に興味をもち、それらを吟味しつつ研究を続けようとしますが、戦争が勃発してしまいます。

《 ・・わたしは海軍工廠に徴用工員として働かねばならなかった。幸いにも時間的な余裕をえて、製図用のトレース紙一千枚にわたしの研究の全貌をノートしたが、終戦一ヶ月前空襲で焼かれてしまった》(三浦つとむ「弁証法は言語の謎をとく」)

 このノートが具体的にどのようなものであったかについては明らかになっていませんが、おそらく1940年から1941年にかけてのみずからの研究の成果に加筆したものと思われます。戦争中でも身の回りにあるものを使い、みずからの研究をつづける独学者の凄みを感じるエピソードですね。




(2020/6/4 脱稿  2026/5/3 更新、再掲)

 

2026年05月03日