時枝誠記における「対象の展開」論 1
はじめに
最近、時枝誠記の初期文献を読み直していて気づいたことがいくつかあったので、それについて書いてみようと思います。時枝誠記は1937年に「心的過程としての言語本質観」という論文を発表しています(『文学』6月号、7月号)。
これは、一般には時枝が言語過程説を正面切って打ち出した最初の論文とされていますが、今回読み直してみて、いろいろと発見がありました。私はこの論文を途中までは普通に読み進んでいたのですが、最後の言語理論の核ともいうべき意味論(第4節
d 文の解釈に於ける語の意味の把握について)のところを読み進めるうちに、なにか尋常でない違和感を感じました。考えてみると、私は時枝誠記の理論を参照にする場合は、主著である『国語学原論』(以下、『原論』と表記します)や『日本文法
口語篇』をひもとく場合が多かったので、こうやって「原論」以前の論文を読み返すのは本当に久しぶりのことだったのです。
その違和感はなにかというと、この論文では、時枝の意味論で有名な「主体的意味作用」や「意味的志向」、「主体的把握」という用語が一切使われていないだけでなく(使われているのはせいぜい「志向的関係」や「志向関係(対象)」ぐらいです)、「内容的なものは意味ではない」というこれまた有名な時枝独特の意味論がまったく述べられておらず、逆に語の意味の理解のためには「表現過程に於ける対象の展開」の考察が重要である旨が述べられているのです。さらにこの「対象の展開」過程についての詳細な図式が提示されています(「仏の光」という表現の伝達過程について説明している部分。おそらく私は以前読んだ時はこの図式を読み流しています)。これは、よく見ると、三浦つとむの有名な「概念の二重化」を彷彿とさせるレベルの、高度な伝達過程図式となっています。鈴木一彦氏によると、この「心的過程としての言語本質観」の全文は、一部の修正とともにほとんどすべて『原論』に収録されているとのことでした(1)ので、私はすぐにこの部分に該当する『原論』の箇所(第二篇第四章
意味論「二」意味の理解と語源)を確認してみたところ、「対象の展開」論を論述した少なからぬ文章と、この図式が削除されていました。そして代わりに、表現主体による「主体的対象把握」や「意味作用」、「主体の把握の仕方」「意味的志向」という用語があふれていました。ほとんど同じ論文とは思えないほどの「修正」ぶりです。時枝が「心的過程としての言語本質観」を脱稿したのが1937年2月8日(2)、『原論』をほぼ書き終えたのが1940年10月(3)ですから、この3年8ヶ月の間にいったい何があったのでしょうか?
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(1)鈴木一彦「言語過程説の成立と文法」(松村明ほか編『講座 日本語の文法 第一巻』【明治書院、1967年】所収。177頁)
(2)鈴木一彦「時枝誠記伝」(明治書院企画編集部編『日本語学者列伝』【明治書院、1997年】所収。180頁)
(3)鈴木一彦「時枝誠記伝」(明治書院企画編集部編『日本語学者列伝』【明治書院、1997年】所収。187頁)。ただし、「言語の存在条件」(『文学』1941年1月号)の脱稿が1940年12月なので、『原論』の内容の確定は1941年前半頃かもしれません。
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「追記」について
右に述べた修正について述べる前に、触れておかなければならないことがあります。この論文には最後に「追記」と称して、それまで時枝が自身縷々述べてきた意味論の内容をこれから変えるであろう旨が予告されているのです。
《 以上の私の所説は、意味の論究としては、甚だ未熟であることを感ずる。只従来の所説に比して進め得たと考へることは、音声に対する内容として固定的に考へられて居つたものを、志向作用に対応する対象の展開に於いて考察したことであった。併し私が述べて来た意味は、やはり外形に対する内容としての表象にあったことは依然として従来の所説と等しい。併し乍ら言語を表現過程自体と考へるとき、その過程に於いて把握された表象は、それは何処迄も表象であつて、意味はこの場合表象と同義語であるかの質問も成立する。内容的なものを意味と呼ぶのは、猶言語構成観の旧套を脱し切れないのであると云ふ評を受けたとするならば、それは甘んじて受けなければならない。私は、本論に於いては、特に混雑を恐れてそれを避けたのであつた。対象が意識に於いて或る特定の対象として把握された時、それは対象と意識する者との間に特定の関係が成立したことを意味するのであつて、言語の「意味」を云ふ時、実は此の志向作用の一性質を云はなければならなかつたのである。学者は書籍を知識の蔵として把握し、商人は同一物を商品として把握する。これらの把握にこそ意味作用が認められるのであつて、書籍それ自体に意味があり得べきではない。かくの如き考方に於いては、意味と対象とは別物であつて、意味は意味作用と考へることによつて、意味の正しき認識を得る。対象それ自体に意味があると考へるのは、対象に対する意味作用を、対象の中に投影したものに他ならない。(中略)私は本論に於いては、専ら内容的に意味を把握することを説いたのであるが、それは、直に意味作用に置き換へらるべく、私は充分に注意を以て説いた積りである。言語過程観もそこにこそ真の効力が認めらるべきである》(時枝誠記「心的過程としての言語本質観
〈追記〉」)
これはかなり奇異な「追記」といえるでしょう。いましがた自分が主張してきた内容は書き換えられるべきであるということを当然のことのように述べているのです。おそらく、この論文は、雑誌『文学』編集部の要請によって書かれた前の論文、「文の解釈上より見た助詞助動詞」(1937年3月号)の流れから同じく『文学』に書かれた論文なので、厳密な締め切りが決められていた可能性があり、書き換える時間がなかったのかもしれません。また、内容の変更が必要とは言っても、「意味論」の部分だけなので致し方ないと思ったのかもしれません。ただ、意味論というのは言語理論の中核をなす部分だと思いますので、その部分に疑義が存在するというのも悩ましいことだとは思います。
それにしてもどういう経緯があって、伝達過程論を含む意味論という言語理論の中核部分にこのような「修正」が施されてしまったのでしょうか? 「追記」には、意味を内容的にとらえたことに対する否定的な考えと「意味作用」を重視すべきことが述べられています。おそらくこのような考えの延長線上に、『原論』の意味論が形成されたものと思われます。もちろん、時枝は1937年2月から1941年にかけていくつか論文を書いているので、それらが『原論』の内容に影響を及ぼしていることは当然のこととして、そこには、よくいわれているように、フッサールの現象学の影響もあるのでしょうか?小論で私は、これらのことを追究するとともに、あわせて秘められた時枝誠記の可能性についても探っていこうと思います。
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伝達過程論と三浦つとむの図式
私は以前、『言語過程説の研究』(リーベル出版、1999年。第二章)において、「言語表現の過程的構造図式」の比較を行なったことがあります(「言語表現の過程的構造」というと、中には意味が分かりづらい方もおられると思うので、ここから先、伝達過程論の図式とよぶことにします)。伝達過程論とは、1回1回の具体的な言語表現の伝達過程は、精神的な過程も含めてどのように行われるかということについての理論であり、私は前掲書において、ソシュール、橋本進吉、時枝誠記、三浦つとむという各理論家の説の比較をしてみました。その結果、ラング中心の理論では言語の個別性・特殊性の説明が困難であり、一方で時枝誠記のようにラング的なものを排除した理論では、言語の普遍性・社会性の説明が困難となっていることが分かりました。そのときは結局、三浦つとむのように言語規範(1)による表現の媒介という考え方を導入し、言語の個別性・特殊性と普遍性とを統一的に把握した図式がもっとも納得のいくものであるという結論に達しました。
《 ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、langue の一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には、言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく、後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである》(三浦つとむ『言語学と記号学』【勁草書房、1977年】27〜28頁)(傍線は原文では傍点。太字は引用者)
このように三浦は、物質としての言語に表現される概念は、ラングすなわち言語規範のそれではなく、表現主体が表現の際にそのつど認識する個別的・特殊的な概念であり、言語規範の概念は、表現される概念の聴覚映像を決定する契機として役立つにすぎない、というのです。
三浦つとむの伝達過程論の図式を簡略化して示すと、
〈対象〉→〈概念〉→〈概念/聴覚映像〉→〈表現〉
となります。この図式について詳しく説明すると、まず最初に表現主体が対象を認識し、独自の概念を形成し、つぎに言語規範における感性的な概念すなわち感性的なかたちの決まっている概念(
= 〈概念/聴覚映像〉)が最初の独自の概念に二重化されて、この段階で独自の概念の感性的なかたちも決定し、そうしてそれが物質的な音声や文字などに模写されて表現が完成する、というものです(2)。三浦のこの伝達過程図式によると、同じ対象が異なる形式で表現されているというよくある事実を、合法則的に説明することができます。たとえば、目の前にある机という具体的事物を見て、音声言語で「ツクエ」と表現する場合と、「モノ」と表現する場合とを考えてみましょう。どちらの場合も、表現主体が〈対象〉を見て、そこからある〈概念〉を抽出するところまでは同じ過程です。ただし、次の言語規範の媒介の段階で、一方は「ツクエ」という〈概念/聴覚映像〉を選択し、他方は「モノ」という〈概念/聴覚映像〉を選択し、さらにそれぞれがそれぞれにふさわしい音声言語を物理的に表出し、表現が完了した、と説明することができます。
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(1)言語規範とは、「対象と語彙とのむすびつきに関する社会的な約束」であり、個々人が頭の中に蓄えている「観念的な辞書」のようなものです。学問的には、観念的に対象化された意志の一形態とされます。これが、ソシュールのいうラングの正体です。三浦つとむ『言語過程説の展開』(勁草書房、1983年)第一部第三章参照。
(2)この「対象」には、具体的な事物だけてなく、認識など観念的な存在も含まれます。
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時枝誠記のもうひとつの「対象の展開」図式
時枝誠記の伝達過程論における図式として有名なのは、『原論』(91頁)の図式でしょう(1)。この図式によると、まず最初に具体的事物あるいは表象が「第一次過程」において概念化され、「第二次過程」においてそれに「聴覚映像」が連合し、「第三次過程」において音声が、「第四次過程」において文字が表出されるに至る、というものです。この図式には三浦つとむのいう言語規範、ソシュールのいうラングに該当するものが含まれていないので、言語における社会的な性格をうまく説明できていません。時枝はそこで表現主体による「主体の概念作用」(2)という機能主義的な考えかたを導入し、これに解決を与えています。
これが、これまで理解されてきた時枝誠記の伝達過程論です。ところが「心的過程としての言語本質観」のなかでは、時枝は、実践的な解釈作業の際には、ラングにおける「意義」とパロールにおける「意味」とがどのように関係するかということの解答が求められるとして、次のような独自の「対象の展開」論を展開しています(ここで「言語」とは、ラングのことをさしています)。
《·····例へば、一個の具体的机を表現するために、「ツクエ」(机)なる語を使用したとする。その時、非限定的概念的「ツクエ」は、ここに特定の個物をさすことによつて限定されて、それは机一般ではなくして、特殊な机を意味することになると云ふのであるが、この理論は、次の様な場合に於いては如何に適用されるのであるか。今、一個の具体的な机を表現する場合に「モノ」(物)なる語によつて表したとする。その時「モノ」は、特定の机によつて限定される故に、意味内容として特定の机をその中に包含すると考へるべきであるか。又次の様に、「仏の功徳」と云ふべき場合に、「仏の光」と云つたとする。「光」とは此の場合「功徳」を指す故、「光」の意味内容に「功徳」なる意味を包摂すべきであるか。かく考へて来ると、抽象的な広義の概念は、その意味内容としてあらゆる事物を包摂しなければならなくなる。更に不合理に感ぜられることは、アイロニカルな云ひ方で、馬鹿を利口と云つた時、「利口」なる語は「馬鹿」を意味内容として持たなければならなくなる。この様な場合、これは臨時的意味であると云ふ説明を以て、その本格的意味と区別する方法もあり得るであらうが、「言語」が具体的事物によつてその意味が限定されると云ふ立場をとる限り、「言語」の使用は、その如何なる場合に於いても、臨時的でないことはない。甲が使用した場合の「ツクエ」は、決して同じ意味内容では乙によつて使用されない。此の矛盾は畢竟、我々の言語行為を以て、「言語」の具体的実現であると考へる処から来るのである。私は言語過程観を以て如上の問題を次の如く説明したいと思ふ。
「仏の功徳」を「仏の光」と表現した場合、「功徳」を、「光」の他の意味と同列に位する意味と考へるべきではない。「功徳」と「光」との意味内容は、その間に過程的区別が存すると認めなければならない。話者の表現対象となつた具体的事実は、「功徳」と云ふ事実或は表象である。この事実は、次の過程に於いて話者によつて光的性質のもの即ち讃歎の対象として、或は光それ自体として表象される。かくてこの表象は、「光」として概念され「ヒカリ」と云ふ聴覚映像或は音声に聯合する。この表象の展開過程は、音声より意味を逆推して行く場合に極めて大切なことである。言語過程図によつてこれを示せば、
上の「功徳」より「光的性質」へ更に「光」としての対象の把握に現れる対象の展開は、何によつて規定されるかと云へば、それは、具体的事物に対する話者の立場即ち対象に対する話者の志向的関係である。例へば、巡査の出現は、暴漢に襲はれようとした者にとつては、「救」と表象されるが故に、「救が現れた」と表現されるであらう。是に反して、暴漢にとつては、「邪魔」として表象されるが故に、「邪魔が入つた」と表現されるであらう。「救」「邪魔」と云ふ二の語が、この場合限定されて巡査を意味すると考へるならば、それは表現過程に於ける対象の展開を無視した意味の理解である。若し又この二語が、単に概念的な「救」「邪魔」を意味するだけであると考へるならば、これ又この二語の表現過程を完全に再建した理解過程であるとは云ひ得ない。語の意味の理解は、必ずその語の表現過程に沿うて、その起点である具体的事物或は表象に迄遡らなければならない。そしてこの過程に参与した各の表象が即ちこの語の意味内容となるべきものである。かくして語の意味の把握に於いては、音声に対応する内容的意味よりも、先づ表現対象である具体的事物が対象として如何に把握されつつ表現されるかの展開過程の考察が重要である》(時枝誠記「心的過程としての言語本質観」。傍線は原文では圏点)
ここでは、「対象の展開」という視点からの「意味」の考察が具体的に展開されています。時枝はこの「対象の展開」論において、実質的に三浦つとむの〈概念の二重化〉論に近い論旨を展開しています。まず表現の「起点」において「功徳」という対象が存在し、それをそのまま「功徳」として表象し、次の過程においてこれを「光的性質のもの」あるいは「讃歎の対象」として、あるいは「光そのもの」として表象し、概念する。そしてこの概念に「ヒカリ」という聴覚映像が「連合」し、それが音声として物質的に表現される、というのです。すなわち、時枝はここで、表現以前の認識における表現過程の話として、対象から表象が成立し、その表象から概念への発展を「過程的区別」としてとらえ、そこから最終的に感性的なかたちが決定するという伝達過程の構造について説明しているのです。これは、三浦の〈概念の二重化〉論にきわめて似ている、すぐれた伝達過程論だといえるでしょう。ここにみられる時枝の「対象の展開」図式は、言語規範についての認識論的な理解が欠けているということを除くと、ほぼ完璧なものといえると思います。
この図式で、先ほどの、目の前にある机という具体的事物を「モノ」として表現する場合を考えてみます。まず、表現の「起点」において「机」という対象が存在し、それをそのまま「机」として表象します。ところが次の過程で、表現主体は「ツクエ」という聴覚映像が思い出せなかったか、あるいは意図的に「ツクエ」という聴覚映像を使うことをやめて、「モノ的なもの」あるいは「モノ」として表象し直し、概念します。そしてこの概念に「モノ」という聴覚映像が結合され音声として表現される、ということになります。三浦つとむのいう言語規範における〈概念/聴覚映像〉が継起的にとらえられている点が違うのと、言語規範についての理解を除くと、ほぼ同じ図式といってよいでしょう。
時枝はこの図式を比喩的表現における図式として説明していますが、これはあらゆる表現に該当する展開過程図式だと思います。たとえば、目の前にある机を普通に「机」として表現する場合を考えてみます。この場合も、まず表現の「起点」において「机」という対象が存在し、それをそのまま「机」と表象します。次に表象から概念へという「過程的区別」に基づいて、この表象は「机的なもの」あるいはたんに「机」と概念され、さらに「ツクエ」という聴覚映像が連結され、表現されるに至ります。こうした時枝の「対象の展開」論は、経験的に、認識における言語規範の働きを認めるものといえるでしょう。
ここで時枝は、《·····「功徳」より「光的性質」へ更に「光」としての対象の把握に現れる対象の展開は、何によつて規定されるかと云へば、それは、具体的事物に対する話者の立場即ち対象に対する話者の志向的関係である》といいますが、この辺の時枝の論述を総合すると、どうやらこの「対象に対する話者の志向的関係」とは、具体的事実としては、言語規範による表現の媒介運動のことを意味しているようです。
また、上の引用で重要なのは、この時点では時枝はまだ、表象や概念など言語における内容的なものの存在を認めていたことと、対象から表象、概念、表現へと流れる展開過程の考察を重要視していたことです。正しい反映論による理論的アプローチの可能性を感じさせる論述だと思います。
ところが、この論文が発表されて4年5ヶ月後に刊行された『原論』において、時枝のこの「対象の展開」論は、ほとんど原形をとどめないほど変形されてしまっています。次に、それについて具体的に見ていきましょう。
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(1)時枝誠記『国語学原論』(岩波書店、1941年版)91頁。
(2)同上。54~55頁。
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『国語学原論』における「修正」
「心的過程としての言語本質観」という論文の全体の内容がどのように『原論』において配置され、どのように変更されたかということは、このあと見ていくこととして、とりあえずまずは、私が先ほど引用した「仏の光」という表現にからめて展開された「対象の展開」論のくだりがどのようなかたちで「修正」されているか、ご覧ください(『原論』では、「言語」には「ラング」、「言」には「パロル」という振り仮名が振られています。それを考慮した上でお読みください)。
《·····山道を歩いて一本の枝を折つて、「いい杖が出来た」といつた時、ソシュール的見解に従ふならば、「杖」といふ「言語」が、「言」に於いて限定されて一本の木の枝を表すと考へられるのである。この場合の「言」に於ける意味は、具体的個物としての枝であるのか。しかしながら、この様に考へたのでは、「枝」を表すに何故に「杖」といふ「言語」が選ばれたのであるかを明かにすることが出来ない。「言語」に於ける意義が非限定的であつて、「言」に於ける意味が限定的であるといふことは、例へば
町へ行つて下さい。
といふ様な場合には、「町」は特定の町に限定されるが故に右の様なことがいひ得るのであるが、前例の様な場合に、「言語」に於ける「杖」が非限定的であり、枝を意味する「言」に於ける「杖」が限定的であるといふことは出来ない。「杖」と「枝」とは限定非限定の関係で結ばれてゐるものではない。若し「言語」が「言」に於いて限定されるのであるならば、「枝」を表出する為に、必しも「杖」といふ語が必要でなく、「靴」でもよし、「机」でもよい訳であつて、「いい靴が出来た」といふことによつて、それは「枝」の意味に限定されて来ると考へなければならない。この不合理は畢竟意味を主体的意味作用の意にとらず、内容的素材的のものを意味と考へたからである。
又例へば、一個の具体的な机を表現する為に、「ツクエ」(机)なる語を使用したとする。その時非限定的「ツクエ」は、「言」に於いて使用されることによつて、一個の特定の個物を意味する様に限定されたと考へる。処が今、同様に一個の具体的な机を表すために、「モノ」(物)といふ語を用ゐたとする。その時、「モノ」は「言」に於ける意味として一個の特定の「ツクエ」に限定されて来るのであるか。
又次の様に、「仏の功徳」といふべき場合に、「仏の光」といつたとする。「光」とはこの場合「功徳」を指す故、「光」の意味内容に「功徳」なる意味が含まれてゐると考へるべきであるか。かく考へて来ると、抽象的な広義の概念は、その意味内容としてあらゆる事物を包含しなければならなくなる。更に不合理に感ぜられることは、アイロニカルないひ方で、馬鹿を利口といつた時、「利口」なる語は「馬鹿」を意味内容として持たなければならなくなる。この様な場合、それは臨時的意味であるといふ説明を以て、その慣用的意味と区別する方法もあり得るであらうが、「言語」が具体的事物によつてその意味が限定されるといふ立場をとる限り、「言語」の使用は、その如何なる場合に於いても、臨時的でないことはない。甲が使用した場合の「ツクエ」は、決して同じ意味内容では乙によつて使用されない。この矛盾は畢竟、我々の言語行為を以て、「言語」の具体的実現であると考へる処から来るのである。私は言語過程観を以て如上の問題を次の如く説明したいと思ふ。
言語の表現素材としての事物は、それが与へられた直観の姿に於いては、言語主体にとつて、何等意味のないものである。換言すれば、主体とは何の関係も持つてゐないものである。これを「ツクエ」と表現する為には、先づ事物を「ツクエ」として把握することが必要である。一本の枝を「杖」として表現する為には、その枝が「杖」として把握されなければならないと同様である。「ツクエ」といふ語は、一個の事物に対する主体の把握の仕方即ち意味の表現であつて、事物そのものの表現とはいふことが出来ない。若し素材に即していふならば、「ツクエ」として志向された対象の表現であるといふことが出来る。「モノ」といふ語は、事物に対する「ツクエ」とは異つた把握の仕方の表現である。客観的に見るならば、「ツクエ」といふ語によつて表現された物も、「モノ」といふ語によつて表現された物も、同一物であるかも知れない。しかしながら、主体的立場に於いて見るならば、同一事物に対する異つた意味的志向が存すると見なければならないのである。その相違が即ち「ツクエ」といふ語になり、「モノ」といふ語になるのである。更に厳密にいふならば、「ツクエ」と表現した場合と、「モノ」と表現した場合とでは、意味的志向対象としては、相違してゐるといはなければならないのである。山道で折られた一本の木の枝は、それが折られた瞬間に於いて、もはや「木の枝」でなく「杖」と把握されたのである。「杖が出来た」といふ表現は、右の様な主体的意味作用の段階なくしては成立し得ない。「杖」といふ語が用ゐられた処に意味を見るべきである。意味といふことは、以上の様に、音声に対応する内容的なものをいふのでなく、主体の事物に対する態度をいふべきである。又例へば、巡査の出現は、暴漢に襲はれようとした者にとつては、「邪魔」として表象されるが故に、「邪魔が入つた」と表現されるであらう。「救」「邪魔」といふ二の語が、この場合限定されて「巡査」を意味すると考へるならば、それは表現過程に於ける主体的対象把握を無視した意味の理解である。若し又この二語が、単に概念的な「救」「邪魔」を意味するだけであると考へるならば、これ亦この二語の過程を完全に再建した理解であるとはいひ得ない。語の意味の理解の実践に於いては、必ずその語の表現過程に沿うて、その素材である具体的事物或は表象に迄到達しなければならない。しかも、この過程に発展する表象即ち「巡査」→「救」、「巡査」→「邪魔」がこれらの語の意味であるかといふのに、意味は寧ろかかる表象の発展を導く主体的な作用に求めなければならないと思ふのである。以上の様なことから、語学教授に採用されてゐる所謂直観法に対して批判を下すことが出来る。「ツクエ」といふ音声に対して一個の具体的な机を示すといふ方法は、語によつて表現される素材それ自身を教へることは出来ても、その語によつて表現されてゐる処の意味を示すことが出来ない。処が「ツクエ」といふ語の表現する処のものは、事物それ自体ではなくして、事物に対する意味であるから、意味を教授することなくして、語の完き教授といふことは出来ないのである。「ツクエ」といふ語を教へるのに、仮に、「書物を読む為のものである」とするのは、語の意味を教授するに幾分近い。この様にして教へられるならば、凡そ机としての意味あるものであるならば、有合せの板や箱を重ねたものも、時には、「ツクエ」として表現されることが可能となるのである。この様にして、一本の枝も「杖」と表現されることが出来る。語の意味が音声形式に対応する表象でなく、表象成立の基礎となる処の事物に対する主体的把握の仕方の表現であるといふことは、古語の解釈にとつても重要なことである》(時枝誠記『国語学原論』408~413頁。太字は引用者)
いきなり「山道を歩いて~内容的素材的のものを意味と考へたからである」まで長文がつけ加えられていますが、この部分は、ソシュールの翻訳者である小林英夫の考え方(ラングにおける記号の一般的な意味がパロールにおいて個別化されるという考え方)に対する批判が述べられたものです。「杖」という表現で実質的に「枝」を表現している例をあげて、これは一般的な意味が個別化されたとは言えない、こうした不合理は内容的なものを意味と考えるから生じるのであって、意味を「主体的意味作用」としてとらえるべきだ、と主張しています。ところが実は、この例も時枝の「対象の展開」論で説明することができます。まず、表現の「起点」において「枝」という対象を「枝」と表象し、次の過程において、この例でいえばおそらく枝が折られた瞬間、これを「杖的性質のもの」あるいは「杖そのもの」として表象し、概念する。そしてこの概念に「ツエ」という聴覚映像が結合し、表現される、と説明できるでしょう。三浦の理論でいうならば、まず対象を「枝」と認識し、概念化する。そして、言語規範において、「杖」という〈概念/聴覚映像〉と二重化させ、「ツエ」という感性的な形式で表現される、と説明できます。「主体的意味作用」という機能主義的な用語を使う必要はないといえるでしょう。
また、「心的過程としての言語本質観」において、「仏の光」を例として展開された「対象の展開」論のほとんどすべてが、その優れた過程図式とともに削除されてしまっています。代わりに、対象に対する表現主体の「意味的志向」が異なることが表現される語の相違となって出てくるという論述が展開されています。そして、《·····山道で折られた一本の木の枝は、それが折られた瞬間に於いて、もはや「木の枝」でなく「杖」と把握されたのである》とありますが、反映論の立場からするならば、先ほども指摘したように、枝が折られた瞬間に違う概念が成立したと見るべきでしょう。
そして前掲論文の引用箇所における結論部分である、対象の展開過程の考察が重要であるとした部分が削除され、代わりに「主体的把握の仕方」を重視した意味論が展開されています。
また、前掲論文から『原論』への意味論の内容の変化を象徴する部分として、私がもっとも注目した部分は、『原論』における《·····巡査の出現は、暴漢に襲はれようとした者にとつては、「救」として表象されるが故に、「救が現れた」と表現されるであらう。これに反して、暴漢にとつては、「邪魔」として表象されるが故に、「邪魔が入つた」と表現されるであらう。「救」「邪魔」といふ二の語が、この場合限定されて「巡査」を意味すると考へるならば、それは表現過程における主体的対象把握を無視した意味の理解である》(『原論』411~412頁)という箇所の「主体的対象把握」の部分です。これは、前掲論文では、「対象の展開」となっていた部分です。意味論において時枝が「対象の展開」を重視する姿勢から「主体的対象把握」を重視する姿勢へと「転向」してしまったことを、象徴する変化だと思います。
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(続く)
(2020/8/19 脱稿 2025/9/19 gooブログより転載)