時枝誠記における「対象の展開」論 2


「こころもとなし」の成立過程

 「心的過程としての言語本質観」においては、以上紹介した「仏の光」にからめて展開された「対象の展開」論に続いて、次のような論述が展開されます。

《……展開の形式が如何なるものであるかは、後に述べることとして、展開の実際に就いて例を以て猶示すこととする。
  やをらん几帳の綻びより見給へば、こころもとなき程の光影に御髪いとをかしげに花やかにそぎて(源氏物語澪標)


 右の例のこころもとなきは、具体的事物に即して考へれば、意味は「ぼんやりした」と云ふ程の意である。処がこの語の他の用例を見る時、

  この世の栄末の世に過ぎて、身にこころもとなき事は無きを(源氏若菜上)

右の如く、不満足な事に対してかくあれかしと願ふ意である。それならば、この二の意味は、この語の持つニ義であると考へるべきであるか。前の例は、その第一義によつて限定され、後の例は、その第二義によつて限定されて居ると考へるべきか。私はこれも表象の展開過程として考へたい。即ち具体的事物である灯は、第一過程に於いて「淡き光」として表象される。第二過程に於いて、この対象は、話者に対して或る感情を刺戟し、かかる感情の志向対象として表象される。「もう少し明るければ」といふ感情が、ここに音声をとつてこころもとなきと表出される。従つてこの語の意味は、話者の感情と同時に、その起縁となつた淡き光である。これらの意味は、並列した意味ではなく、過程的な展開の段階に於いて現れる処の意味である》(「心的過程としての言語本質観」。傍線は原文)

 ここで時枝は、一回一回の伝達過程についての説明ではなく、言語規範において語彙の意義が追加される際の過程について説明しています(「後に述べる」という「展開の形式」については、あとで触れます)。「こころもとなし」は、もともと「こころもとなき〜」というかたちで「ぼんやりした」という意義の用例があり、それが発展して、その後「じれったい」「待ち遠しい」という意義をもつ語として成立したという歴史的な経緯があります。ここで時枝は、前者の意義の成立から後者の意義の成立への歴史的な過程についての説明をしていますが、これは、それまでの一回一回の表現における展開過程の話とは別の次元の話です。実際の表現に即して考えるならば、前者の「こころもとなき」と後者の「こころもとなき」は、形式は同じでも、そもそもその表現の背後の対象が異なっていたので、認識も異なっていたと見るべきでしょう。

 ちなみに『原論』では、右の《私はこれも表象の展開過程として考へたい》以降の部分が次のように書き換えられています。

《…若し右の様に考へるならば、この両者の意味に関連を求めることは困難である。この語については、私はこれを次の様に説明しようと思ふ。具体的事物である灯は、客観的には「淡き光」として表象される。しかしながら、この段階に於いては、未だ「こころもとなし」といふ語は成立しない。この「淡き光」は語手に対して、「も少し明くあれば」といふ感情を誘発させ、ここに「こころもとなし」といふ語が成立する。従つてこの語は、素材である「淡き光」に対する意味的志向から生まれたといふことが出来る。これを把握された対象に即して見るならば、「不明瞭」とか「ぼんやり」とかいふ意味に解せられるが、この場合、素材的事物そのものは問題でなく、重要なのはそれを把握する仕方である。故に客観的に事物が異つても、意味的志向が同じならば、斉しく「こころもとなし」といふことがいひ得るのである》(時枝誠記『国語学原論』413〜414頁)

 こちらも一回一回の伝達過程の説明ではなく、言語規範の概念が歴史的に成立する過程について説明しています。違うのは、「表象の展開過程」としての説明ではなく、表現主体の「意味的志向」による語の成立過程として説明されています。対象が異なっても、「意味的志向」が同じであるならば、同じかたちの語が成立するというのですから、この「意味的志向」の意味するところは、「表象」なり「概念」なりに感性的なかたちが付与される働きをさしているように思われます。つまり、「意味的志向」の働きと言語規範の働きはきわめて似通っているといえるでしょう。

 ちなみに、「こころもとなし」と似たような例を現代語に求めるとするならば、たとえば「おいしい」という語があると思います。通常「おいしい」という語は、「あそこのカレーはおいしい」というように、食べ物の味が優れていることを形容する語として使われますが、最近では、「この商談はおいしい話だ」のように、ある対象が自分あるいはその他の人にとって好ましいものである場合に、そのことを形容する場合にも使われるようになりました。たとえばこの、「おいしい」という語の第一義から第二義が成立した過程について、三浦つとむの理論で説明すると、次のようになります。言語表現とは、表現主体が対象から認識した独自の概念を言語規範の媒介によって、すなわち〈概念〉を〈概念/聴覚映像〉に媒介させ、すなわち〈概念の二重化〉という過程をへることによって感性的なかたちを決定させ、それを音声や文字として物質的な形式に表現したものである。「おいしい」という語は、長いあいだ食べ物の味が良いことを形容する語として使われてきたが、ある時ある人が自分にとって好ましいことや都合のよいことを形容する場合にも使ったものと思われる。その後、その用法は次第に広まっていって、いろいろな人が何回も繰り返しそのような類いの言語表現を行ううちに、そのような語の使用法が言語規範において固定化されるようになった。こうして、「おいしい」の第二義も一般的に使われるようにようになった。と、このように説明できます。このような規範における語彙の内容的変化についての説明を、一回一回の具体的な言語表現における意味の説明と並列的に語ることは適切ではないと思います。とりあえず、「こころもとなし」について、前掲論文では表象の展開過程を重視した説明を行い、『原論』では表現主体の「意味的志向」を重視した説明を行っていることを確認しておきます。
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「恥かしき」について

 つづいて、「心的過程としての言語本質観」では、次のように論述が展開されます。

《…又次の様な例に於いて、

  斯く恥かしき参り給ふを、御心使ひして見え奉らせ給へ(源氏絵合)
  いと恥かしき御有様に、便なき事聞し召しつけられじと(源氏澪標)

これを単に形式に対応する内容として意味を把握するならば、恥かしき=立派な、端麗なと云ふ程の意味となり、又その様に解釈した註釈もあるが、次の例に於いては、

  いと恥かしき有様にて体面せむも、いとつつましく思したり(源氏蓬生)


恥かしきはみすぼらしいとでも解さなければならなくなる。右三例に於いても、対象の展開と考へるならば、端麗な人或は有様、みすぼらしい有様は、対象としては著しく異つたものであつても、話者の志向関係に於いて、共通した「恥かし」と云ふ感情に於いて把握されたものと考へることが出来るのである。かくの如くして、客観的には同一である対象も、話者の志向関係に於いて、「死」を「かくれる」と云ひ「なくなる」と云ひ、或は「くたばる」「のびる」と表象されるのである。「死」は又常に必ずしも生理的機能の停止として把握されない。寧ろ、それは、悲しいことであり、無常のことであり、未だ涅槃である》(同上。傍線は原文)

 ここでの議論も、「仏の光」の例のような一つの表現内における対象の展開過程についてのものではなく、同じ語彙ではあるものの、異なる表現間における展開過程についての議論となっています。時枝の「対象の展開」論でいうならば、最初のニ例における「恥かしき」の対象は、「立派な」とか「端麗な」などであり、こうした対象が起点においてまず表象されます。そして、次に「恥かし」的なものとして表象され、概念され、それから「ハズカシキ」という聴覚映像が連結され、それが言語として表現されます(ただし、この当時の表現主体にとっては、「立派な」に該当する概念と「恥かし」に該当する概念は意識上区別されていないものと思われます)。三浦理論でいうならば、「立派な」とか「端麗な」に該当する概念が形成され、次に言語規範において「恥かしき/ハズカシキ」という〈概念/聴覚映像〉が連結されて感性的なかたちが決定し、それが表現される、という説明になります。

 次の三例目は、まず起点において「みすぼらしい」対象が存在しそれを「みすぼらしい」と表象します。次に、「恥かし」的なものとして表象され、概念され、それから「ハズカシキ」という聴覚映像が連結され、それが表現として表出されます。これが本来の時枝の「対象の展開」論のはずですが、ここではなぜかこうした模写論的な説明が省略され、話者による「志向関係」的な把握を重要視した説明となっています。《(これらの三例は−−引用者)対象としては著しく異つたものであつても、話者の志向関係に於いて、共通した「恥かし」と云ふ感情に於いて把握されたものと考へることが出来る》といいますが、この話者による「志向関係」的な把握の過程は、具体的な事実としては、言語規範における〈概念/聴覚映像〉による独自の〈概念〉の媒介過程のことを意味しているものと思われます。現実の表現過程では、言語規範による〈概念の二重化〉の過程によって、最終的な感性的なかたちが決定するようになっていますが、時枝によると、話者による「志向関係」的把握が最終的な感性的なかたちを決定するようです。

 以上のように「恥かしき」についての論述は、これまでと違って主体による志向関係的把握を重視したものとなっているので、これらの部分は『原論』でも大きな修正は施されていません。ただ、《右三例に於いても、対象の展開と考へるならば》という部分は、『原論』では《右三例に於いても、意味を事物そのものとしてでなく、事物に対する主体的把握として理解するならば》と変更され、その少しあとの部分、《対象としては著しく異つたものであつても、話者の志向関係に於いて》という箇所は、《事物としては著しく異つたものであつても、話者のそれに対する意味的把握に於いて》と、主体による把握作用をヨリ重視した説明へと変更されています(1)。

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(1)ちなみに、《「死」は又常に必ずしも生理的機能の停止として把握されない、寧ろ、それは、悲しいことであり、無常のことであり、又涅槃である》という箇所は、『原論』では《「死」は又常に必ずしも生理的機能の停止としてのみは把握されない。寧ろ、それは悲しいことであり、無常のことであり、極楽への誕生である》と変更されています。「涅槃」を「極楽への誕生」としたことの意味は分かりませんが、ただ時枝の仏教観が現れているのかなど非常に興味をそそられる変更です。

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展開過程の図式

 つづいて、時枝は対象の展開過程の図式を提示します。

《かくの如く具体的事実の展開過程は、その各段階に於ける志向対象を a b とするならば、その形式は種々なる図式によつて示すことが出来るであらう。

  a ・・・・・・→ b・・・・・・→B(音声)

b が a のより広義なる概念の場合、b が a を機縁とする情緒的表象である場合、b が a の連想によつて生じた表象である場合、b が a の反対概念である場合等に分類することが出来る。音声 B の表す意味内容は、B より逆推して得た処の b a の表象である。

 忌詞は、「書」に於いて限定されると云ふ観点から云へば、その意味内容は具体的事実 a である。例へば、「アセ」(汗)の意味は「血」であり、「カミナガ」(髪長)の意味は「僧」である。これを過程観に立つて解するならば、話者に於いては、b 即ち「汗」の段階を経て、a 「血」を表現して居ることであり、聴者に於いては、b 「汗」の段階を遡つて、a 「血」を理解することであり、共に直接的に具体的事物を表現し理解することが避け得らるるのである。そこにこそ忌詞の本質を認めることが出来るのである。比喩の場合も同様であつて、その本質に於いて相違はないのであるが、前者は表現意識に即して忌詞と云ひ、後者は表現手段に即して比喩と云つた迄である。「血」を「アセ」と云ふのは忌詞であると同時に比喩である》(同上)

 これが、時枝が「こころもとなし」について述べる際にあとで述べるとしていた「展開の形式」です。a から b へと概念なり表象なりが展開し変化していくていくという考え方は、三浦つとむの概念の二重化を想起させるものであり、「仏の光」のところで見た図式のように、非常に優れた図式だといえるでしょう。これは、「心的過程としての言語本質観」での「仏の光」についての展開図式を簡略化して定式化したものともいえるでしょう。時枝の言語規範についての理解は度外視して、現実の表現過程に即していうと、この図式は、表現や理解における概念の二重化の過程を示した図式であるともいえるでしょう。

 以上の「展開の形式」についての論述は、もちろん『原論』において一部修正されています。どのように修正されているのかというと、やはり対象や表象の展開過程の図式であるという主張が姿を消し、主体による意味的把握の過程の図式であるとされています。たとえば、《かくの如く具体的事実の展開過程は、その各段階に於ける志向対象を a b とするならば、その形式は種々なる図式によつて示すことが出来るであらう》の部分は、『原論』では、「具体的事実の展開過程は」が「客観的事実の把握される過程は」と修正されています。つまり、「展開」は削除され、主体による「把握」過程が強調されています。「志向対象」は「意味的把握の対象」と変更されています。また、《音声 B の表す意味内容は、B より逆推して得た処の b a の表象である》の部分は、「意味内容」の「内容」が削除され、「表象」は「表象作用即ち、事物に対する主体的把握」と修正されています。さらに、忌詞の説明の箇所では、《そこにこそ忌詞の本質を認めることが出来るのである》の直前に、《意味は即ち、「血」や「僧」を、「汗」或は「髪長」と把握すること自体でなければならない》という短文が挿入されています。『原論』において、意味は主体による「把握」自体であるとされたわけです。

 『原論』における機能主義的変化をいろいろと見てきましたが、けれどもこの図式を残して提示しているところは褒められるべきことだと思います。なぜなら、時枝による機能主義的な考え方はとりあえず度外視して、この図式をたどることによって、概念や表象の移行という展開や、形式と内容の矛盾について理解する一助にはなるだろうと思われるからです。

 また、「心的過程としての言語本質観」における最後のまとめの言葉、《言語を表現自体であると考へる時、対象への志向関係に於いて、対象の把握に段階を生じ、意味の把握は、この展開過程を逆に再建するところに可能であること以上述べた如くである》(太字は引用者)は、『原論』では全文削除され、代わりに、日本の過去の語源研究に言及しつつ、「意味」を「事物に対する主体的な把握の仕方と考へる」論述が長文で展開されます。

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(続く)






(2020/8/26 脱稿  2025/9/24 gooブログより転載)

 

2025年09月24日