三浦つとむの言語理論、その形成過程について 10

1950年5月 『弁証法・いかに学ぶべきか』


「思惟」の位置づけ


 三浦つとむの言語理論を理解しようとするとき、きわめて重要なキーワードのひとつに「思惟」や「認識」の位置づけがあります。これらをその物質的基盤とともにつねに関係づけて考える習慣を身につける必要があります。三浦は、エンゲルスの『 フォイエルバッハ論』を引用しつつ、認識自体のもつ弁証法性について次のように語っています。

《 「われわれは……われわれの頭脳のなかの概念を、再び唯物論的に、現実の事物の模像として把握した。これによって弁証法は、運動の - 外部の世界の運動でもあり、人間の思惟の運動でもあるところの一つの運動の - 一般的法則に関する学にまで還元されたのである。この二つの系列の法則、それは性質的には同一であるが、しかし現われにおいては少なくも次の点でちがっている。すなわち、一方においてこの法則は人間の頭脳において意識的に使用され得るが、同時に他方においてこれは、自然において、のみならず今までのところ大部分、人類の歴史においても、意識されない仕方で、外的必然性の形をとって、見かけの上では偶然的なものごとの無際限の連鎖の真只中をつらぬいて行われている。」


 人間の思惟の運動、それ自体が弁証法的性質をもっているのです。これは外部の世界の運動の弁証法的性質と本質的に同一であるが、差別がある。根本的な点は、思惟は模像であるから、外部の世界からつくりだされたということ、これが唯物弁証法の立場です》(三浦つとむ『 弁証法・いかに学ぶべきか』【季節社、1999年6月】117頁。太字は三浦)

 外部の世界すなわち自然の模写として成立したのが思惟(あるいは認識、思考)ですが、その基盤となっているのはあくまで脳細胞です。この脳細胞から離れて思惟が存在すると考えてしまうと、音声や文字には「思惟」や「認識」がへばりついている、という観念論的誤謬に陥りがちです。いま引用した『 弁証法・いかに学ぶべきか』より1年5ヶ月前に刊行された『哲学入門』において、すでに三浦は次のように述べています。

《 精神とは物質の働きです。しかしそれは一定の構成をもつ物質においてあらわれるはたらきです。具体的にいえば脳髄のはたらきです。脳髄がなくなれば、その構成が失われれば、精神もなくなります。これはあらゆる物・すべての道具のはたらきと共通した点をもっています。物から別個にはたらきだけあるということはありません。道具がなくてははたらきはありません。しかし物とはたらきとはちがいます。同じ道具もちがったはたらきをします。そしてまた、たとえはたらきをしていなくても、道具を破壊しても、物がなくなったわけではありません。精神は物のはたらきで、脳髄においてこういうはたらきがあらわれますが、ただふつうの物ではそうなる可能性があるだけで、そこに現実に精神がふくまれているわけではないのです》(三浦つとむ『哲学入門』 真善美社、1948年12月。【『スターリン批判の時代』[勁草書房、1983年]より引用。225~226頁。太字は原文 )


 三浦つとむの言語理論の根底には、こうした徹底的な唯物論が存在します。ですので、三浦の言語理論を理解するまえに、こうした理論の前提となる言説にふれておくことは決して無意味なことではないと思います。三浦にとって「思惟」は「脳髄」を離れては存在しえないわけです。言語の内容を形成する実体である「思惟」は「脳髄」にある、一方で「思惟」が表現されたものとされる音声や文字は外部の世界に存在します。このギャップを認識することが重要です。そこから、では、「思惟」が音声や文字に表現されるその過程的構造を分析しなければならぬ、となるわけです。マルクスやエンゲルスも言語についてそこまでの分析をしているわけではないので、三浦はみずから弁証法という高度の論理学を駆使してみずから理論を構築していくことになるわけです。


 三浦はこの『弁証法・いかに学ぶべきか』の文献紹介のところで、時枝の『国語学原論』についてふたたびふれています。基本的には、「弁証法は言語の謎をとく」における時枝評と同じことを述べているのですが、そこに次のような記述があります。

《 しかしながら、著者のこの努力が、高度の論理学に正しく媒介されていなかったために、本質論的規定における混乱と誤謬とをのがれえなかったことも附言しておく必要がある。言語そのものの内的な構造・過程は、実証的研究のなかに前人未踏のきわめて美事な弁証法の展開となって結実したが、言語の理解・鑑賞の面においては、本質が偶然性を媒介として現象する論理構造を正しくとらえることができず、ここから逆に、言語における実体が「言語実体説」の否定とともに否定されてしまったのである》(『弁証法・いかに学ぶべきか』237頁。太字は原文)

 私はこの「本質が偶然性を媒介として現象する…」という部分を読んでぎょっとしてしまいました。なんとも難しい表現をサラッと言ってのけている印象です。ひととおり三浦理論・時枝理論を学んだ人であれば、これが概念が音声や文字という偶然的=感性的なものによってあらわされるその構造について述べているということが分かると思いますが、これから『原論』を読もうという人にはおそらくなんのことだかさっぱり分からないと思います。「言語における実体」も概念のことをさしているので、これから『原論』を読むひとはそのことを頭に入れておくといいと思います。


 また、ここで三浦は『原論』のことを《言語理論として世界の最高水準を行くものであり、弁証法的唯物論の立場からこの本を深く検討し改作することは唯物論言語学者の義務である》(同上238頁)とも述べています。三浦が時枝理論を部分的な欠陥にもかかわらず、世界レベルでみてもきわめて高度なレベルに到達しているものと把握していたことが分かります。






(2020/6/16 脱稿  2026/5/4 更新、再掲)

 

2026年05月04日